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2016年01月21日

源義経が天才だと評判をあげた「一ノ谷の戦い!」



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第11回目は「源義経が天才だと評判をあげた「一ノ谷の戦い!」」です。


元記事ははここ






一ノ谷の戦い

平安時代の末期の1184年3月20日に摂津国福原および須磨(神戸市辺り)で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。一ノ谷合戦を考えるための文献史料としては、九条兼実の日記『玉葉』、同時代の日記形式で記述した歴史書『吾妻鏡』、それによく知られている『平家物語』がある。

源義経の奇襲によって源氏が勝ったと言われている。平氏方の陣の背後、鵯越ひよどりごえの急勾配の坂を一気に馬で駆け降り平家を討ったと言われている。義経の戦上手を伝える「鵯越の逆落さかおとし」の名場面として有名である。

背景

源義仲と源頼朝の対立

木曾義仲が京都に入り、戦いに敗れた平家は西海に逃れて屋島に拠を移していました。しかし全てに荒っぽい義仲を後白河法王は嫌い、義仲が法王の命を受けて西海に平家と戦いに行った隙に義仲打倒の命を源頼朝に出してしまいます。いったんは京都に戻って後白河法王を幽閉し、征夷大将軍に就任する義仲ですが、源範頼・義経の連合軍に破れ、義仲は戦死、巴御前は北陸へと落ちていきます。(1184.1.20 宇治川の合戦)

この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。

三種の神器

日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)を指す。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。この神器の内、鏡と剣の形代および勾玉を所持することが皇室の正統たる帝の証であるとして、皇位継承と同時に継承される。

八咫鏡(やたのかがみ)

記紀神話で、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

草那芸之大刀(くさなぎのつるぎ)


草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那芸之大刀と記される。記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。

合戦の経過

源氏の内輪もめを好機とみた平家は京都を奪回すべく、現在の神戸の生田神社のかいわい、一ノ谷に陣を構えます。平家が安徳天皇を擁していることに苦慮した後白河法王は和平の道を探り、2月8日までは攻撃しないから話し合おうと平家に伝えたのですが、範頼・義経の軍はそれを無視して戦争を始めてしまいました。

1184年2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。
最初範頼の軍が東から、義経の軍が西から攻めて挟み撃ちにする予定だったのですが、熊谷直実たちが無茶な先陣争いから戦闘の発端を開いてしまい、まだ義経たちが六甲の山の中を進軍している内に、眼下では死闘が繰り広げられる結果になります。

ここで義経はその崖を駆け下りて戦闘に参加することを思い立ちます。そこで道案内をしていた地元の猟師に「この崖を降りれないか?」と尋ねますと、猟師はびっくりして「無理ですよ。時々鹿が駆け下りているのは見ますけど人馬には不可能です」と答えます。 すると義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿に降りれて馬に降りれない筈がない」といい、手近な馬を2頭崖から突き落としてみました。 1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。すると義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と号令、義経は30騎ほどの先頭に立って崖を降りて行きます。 すると、殿に続けと、その他の者も大勢続いて降りていきました。途中からは佐原義連が崖を降りる先頭を務めました。これを「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」といいます。

断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。こうして思いも掛けない方角から敵軍が来たのに驚いた平氏は混乱して総崩れになり、昼頃には一ノ谷の合戦は決着が付いてしまいました。 この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。

戦後

範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われているが『平家物語』や『吾妻鏡』など文献によって多少異なっている。

後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。

合戦に大勝した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器奪還には失敗しており、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦いはまだ続くことになる。



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2016年01月18日

「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第10回目は「「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇!」です。

元記事ははここ






第16代仁徳天皇


「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇


日本の天皇は古代から今日まで続いています。世界中でも驚かれ、そしてそれは誇れることです。

日本の天皇は、初代の神武天皇以来2600年間、国民を「おおみたから」と呼んでいます。

国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。
仁徳天皇は、その姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。

このように天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で結ばれた状態を理想としてきました。それは他の国々には見られない日本独自の伝統です。そして皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきました。
ちなみに仁徳天皇は日本武尊の曾孫です。


皇位継承


父親の応神天皇が崩御され、最も有力とされていた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と仁徳天皇は、互いに皇位を譲り合い、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が亡くなった為、仁徳天皇が即位することになる(「日本書紀」では皇子は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したとのこと)。実に応神天皇が亡くなられてから、三年後のことである。

民の竈(かまど)の話

民の竈は賑いにけり

仁徳天皇が即位したのは313年と言われています(諸説有)。
宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや。大阪市中央区)。

屋根も葺(ふ)き直さず、色も塗らず、垂木や柱に飾り気のない質素な建築だったという。
仁徳天皇はこう考えていた。「民は耕作や機織りで忙しい。民を余分な宮殿造りに徴集しなければ、自然に富裕するというものだ」。

即位して4年目に、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられた。
そして、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と向こう三年の租税を免じた。

三年がたって、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申された。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されましたといいます。

ここまでは、よく知られた話ですが、実は、この話には、さらに後日談があります。
このお話を聞いた諸侯が、「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、申し出たというのです。

それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。そして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。

その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。

「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。」

民は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、誰に促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って皇宮の修理にあたった。ですから、いくばくも経たずに、皇宮は、きれいに治ったのです。
だから仁徳天皇は「聖のミカド」と呼ばれるようになった。
仁徳天皇がお亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作った。

そう日本書紀に書かれているのです。正式名称は「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(にんとくてんのうもずみみはらなかのりょう)」という。

日本初の大規模土木事業

なんと仁徳天皇は大規模な土木事業を行っています。
  ・難波の堀江の開削
  ・茨田堤(まんだのつつみ)の築造
  ・山背の栗隈県(くるくまのあがた)での灌漑用水の設置
  ・和珥池(わにのいけ)・横野堤(よこののつつみ)の築造
  ・感玖大溝(こむくのおおみぞ)の灌漑用水の掘削と広大な新田の開発

上記の5つの事業を行ったことが日本書紀に記載されています。
こうした大規模な土木工事とういうものが、誰のために誰がするものなのかといえば、まさに地域に住む民衆のためであり、民衆が働き、民衆が互いに協力し、民衆の真のリーダーがこれを推進する。公共工事としての土木事業は、水害から多くの人々の命と暮らし、そして田畑の作物を守ります。それは要するに、みんなの暮らしが安全で豊かになる、それをみんなで行う、ということです。

世界最大の陵墓「仁徳天皇陵」

世界三大墳墓

仁徳天皇陵はクフ王のピラミッドと秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられます。その大きさは全長486メートルと世界最大の大きさを誇ります。


お墓が出来るまで


民衆は仁徳天皇がお亡くなりになると、その遺徳を讃え、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作ったとあります。

大規模な古墳が平野部に集中していることから、古墳が出来たとされるのに、1つの説があります。それは、地元の土木工事の結果である。
堤防や、新田開発、灌漑用水の掘削などの大規模土木工事は、大量の土砂の掘削を伴なう。その土砂は、どこかに積み上げなければなりません。土砂の積み上げと、工事を遂行し、みんなをまとめてくれた大将の遺徳を讃え、みんなで感謝する。その一石二鳥が、古墳という盛土の墓所となったのではないか。そんな説です。
逆にいえば、古墳のあった場所は、古代において、その古墳で使用された土砂をはるかにしのぐ、大規模な土木工事が行われたところである、といえないかという仮説です。

大仙陵古墳という名前について

仁徳天皇のお墓でない可能性があるとの指摘があり、最近の教科書では「大仙陵古墳」となっているみたいです。
大きい山のような形状から「おおやま」つまり「大仙」となったみたいですが、「山」ではなく日本ではあまりなじみのない「仙」をわざわざ使い、「占領」をイメージさせるような意図が見え隠れします。

しかし、1684年の「堺境」と言う書物では、江戸時代の初期にはすでに当古墳が「仁徳天皇陵」と記載されているということと、日本人のルーツにも関わる大事な問題なので、このサイトでは仁徳天皇陵という名前で統一します。

発掘調査

1872年に堺県令税所(さいしょ)篤等による発掘が行われている。石棺の周辺から、甲冑・鉄刀、硝子坏・太刀金具が出土しました。この時の図などの記録の大半は関東大震災により焼失したためほとんど残っていない。



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2015年12月06日

稀代の策略家・毛利元就はどうやって中国地方を制覇したのか!?



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第7回目は「稀代の策略家・毛利元就はどうやって中国地方を制覇したのか!」です。

元記事ははここ






毛利元就

室町時代後期から戦国時代にかけて、活躍した戦国大名。

安芸(広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと評されるに至る。

用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

出生

1497年、安芸の国人領主・毛利弘元の次男として鈴尾城(安芸高田市)で誕生したと言われる。

兄・毛利興元が家督を継ぎ、1506年に父・弘元が死去すると、そのまま多治比猿掛城に住んでいたが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。
その哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。

1511年に元服し、分家を立て、多治比(丹比)元就を名乗るようになる。多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。

1516年に兄・興元が亡くなり、その子・幸松丸が跡を継ぐも幼少のため、元就が後見人として家中を主導した。

西国の桶狭間

毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に動揺した毛利家に、佐東銀山城主・武田元繁が侵攻。

武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として出陣します。
元就にとって初陣でしたが、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死します。

武田元繁はその報に怒り、毛利軍と激突します。
戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。
この戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、毛利氏の勢力拡大の分岐点になった。

また、この勝利によって「毛利元就」の名が世に知られるようになる。

その後、鏡山城の戦いでも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。

甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就が27歳で家督を継ぐことになった。

元就の家督継承に不満を持った坂氏などの有力家臣団の一部が元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。

事件はこれで治まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。
元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。

驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。

勢力拡大

1529年に外戚で強大な権力を持っていた高橋氏一族を討伐。

高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。

1535年には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。
宍戸氏と誼を結ぶことで周防国守護の山内氏とも繋がりができた。

その他、天野氏や、熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。

1533年、周防国守護の大内家を通じて朝廷に4,000疋を献上し、毛利の先祖同様の従五位下右馬頭に叙任されることに成功している。
当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。

1537年には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。

1539年には、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。当主の武田信実が逃亡しています。

しかし、翌年、尼子氏が3万の軍勢を率いて、毛利家の本拠地・吉田郡山城を攻撃。

元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となっていきます。

同年、再度武田軍の銀山城を攻めこれを攻略します。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある。

この戦いで安芸武田氏は滅亡します。

1542年に大内義隆を総大将とした尼子氏に対する第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし、大敗。

大内氏、尼子氏がこの戦いで安芸国内における影響力が低下し、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場の脱却を目指すようになる。








毛利水軍

1544年、強力な水軍を持つ竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を養子に出し、水軍の取り込みにかかった。

竹原小早川氏に対しては、尼子派の山名氏に攻められた際に、大内軍と共に毛利軍も援軍に駆けつけている。
その戦いの最中、徳寿丸は元服して小早川隆景を名乗るようになった。

毛利元就隠居

。1546年、元就が隠居を表明して毛利隆元が毛利家当主となるが実権は元就が握ったままだった。

1547年には、妻の実家である吉川家に元春を送りこむ。
当時吉川家当主であった吉川興経は、家中の統制ができなくなっていた。

そこで吉川家の養子になった元春に家督を継がす為に、吉川家の家臣団は現当主を隠居させ、元春を当主に据えた。

小早川隆景を送りこんだ小早川家も小早川現当主を出家に追い込み、隆景を当主に据えることに成功し、小早川氏の水軍を手に入れた。

これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

厳島の戦い

1551年、周防・長門などの大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される。

元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。
隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。

元就はこれを背景として、徐々に勢力を拡大して行く。
安芸頭崎城を陥落させ、平賀家を傘下に治めると、尼子晴久の安芸への侵入を撃退した。

この毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。
元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。

そこに石見の吉見氏が陶隆房に反旗を翻した。
陶隆房は元就に援軍の依頼を出したが、陶が安芸の国人衆達にも出陣の催促を出していた。これは、毛利に安芸の権限を与えるという約束に反しており、息子・隆元が陶隆房に不信感を持っていたこともあり、陶隆房との対決を決意した。

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。

正面から戦えば勝算は無い。
そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

1554年、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。

晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。
元就はこれを撃破したが、今度は陶晴賢自身が大軍を率いて厳島で対峙した。

厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。

大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。

1556年に石見銀山を尼子晴久に取られるも、1557年に、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。

これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

1558年、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃し、落城させるも続く山吹城を攻めあぐね、撤退中に奇襲を受け尼子晴久にまたもや大敗している。

尼子氏・大友氏との戦い

1560年に尼子家の当主・尼子晴久が死去すると、1562年に出雲侵攻を開始する。

跡を継いだ尼子義久は毛利軍を迎え撃つも、元就は白鹿城を攻略し、難攻不落の名城・月山富田城を包囲して兵糧攻めにもちこむことに成功する。

それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。

この段階に至って元就は、粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。

1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。

こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。

稀代の謀将の最期

1560年代の前半より元就は度々体調を崩していた。1571年に、つぃに吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。

三本の矢

死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。

元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。
息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたという話である。

家臣・周辺国人への気遣い

元就は、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。

その際、家来が酒が欲しいと言えば「普段から酒ほど気晴らしになることはない」と差し出し、下戸だと言えば「酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」といって餅を振る舞っていた。



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2015年12月03日

実は下剋上ではなかった!?家柄が良かった北条早雲!



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第6回目は「実は下剋上ではなかった!?家柄が良かった北条早雲!」です。

元記事ははここ






北条早雲

戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。

出自

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とされてきたが、最近の研究では備中荏原荘(現岡山県井原市)で荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であったことがほぼ確定している。
早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。

早雲はその父と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
後北条氏の重臣である大道寺氏や内藤氏も備中から出ている。

駿河下向

早雲が下向した原因は駿河・今川氏にある。
今川氏は足利一族であり、足利尊氏に属して戦功をあげ、駿河・遠江の守護職になった家柄であるから、一貫して足利の忠実な部将の一人であった。

その当主の今川義忠が討死し、義忠の室・北川の生んだ竜王丸(氏親)はわずか6歳。竜王丸が幼少のためお家騒動がもち上がり、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して二派にわかれて争い、家臣団も分裂。そのために竜王丸は母・北川と駿府をのがれて身をかくした。

このお家騒動に調停役として竜王丸の母・北川の縁者として早雲が浮上したのである。

そして、早雲みずから竜王丸の後見人になるとともに、反目し合っている家老たちを説得し、妥協案を出して紛争をみごとに解決したという。

その後、京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

1487年、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。

龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた。
このとき早雲は、6人の部下を連れている。荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛の6人だが、伊勢にいたとき知り合った友人で、早雲の志を聞いて、ともに下って来た者たちという。この6人が心を合わせて早雲を助け、北条氏の基礎を築いて行くことになる。







伊豆討入り

伊豆を支配していたを支配していた足利政知が没すると長男の茶々丸が異母兄弟の潤童子とその母・円満院を殺害して、強引に跡を継いだ。

同じく異母兄弟であった足利義澄が将軍に就任すると、母・円満院と兄弟の潤童子の敵を討つため、茶々丸の近隣に城を持つ早雲に敵討ちを命じた。

これを受けて早雲は、伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
このとき伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らは早雲にいち早く参じたとされる。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている。

早雲は伊豆国の統治を始め、高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。
また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち早雲に従った。

そして、それまでの重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定されたと言われる。

伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、1494年頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。
早雲と今川氏親は連携して領国を拡大していく。

小田原城奪取

早雲は相模の大森藤頼にたびたび進物を送るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子(獣を追い出す役割の人)を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。
早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。

数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたと言われている。

今川氏の武将としての活動も続き、1501年から1504年には三河にまで進んでいる。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出す。
早雲と今川氏親は、徐々に相模に勢力を拡大していった。

1509年以降は、早雲は今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。

江戸城にいた上杉顕定(扇谷上杉家)が大軍を率いて越後に出陣すると、この隙を突いて早雲は江戸城に迫った。
江戸城の当主上杉朝良は上野に出陣していたが、兵を返して早雲に反撃。

1510年まで、早雲と武蔵、相模で戦った。
早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷上杉家との和睦で切り抜けた。

大軍を率いて越後に出陣していた上杉顕定は、長尾為景の逆襲を受けて敗死している。

その後、早雲は、扇谷上杉家に属し相模で大きな力を持っている三浦義同と戦った。

三浦氏の岡崎城を攻略し、三浦義同を住吉城に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は三崎城に逃げ込んだ。

早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。
扇谷上杉軍が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破。

さらに三浦氏を攻略するため、鎌倉に玉縄城を築いた。

1516年、扇谷上杉軍が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、三浦義同の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に三浦義同は討ち死にする。

名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。

その後、早雲は房総半島に渡り、1517年まで転戦している。

1518年、家督を嫡男・北条氏綱に譲り、翌年に死去した。

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

エピソード1

『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。

エピソード2

伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。



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2015年11月24日

かつて北陸に君臨した高志国。王と呼ばれた阿彦や「大国主」に求婚された姫とは!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第4回目は「かつて北陸に君臨した高志国。王と呼ばれた阿彦や「大国主」に求婚された姫とは!?」です。

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高志国

古代に北陸に存在した国のことである。
「古事記」には、高志国と書かれているが、『出雲国風土記』には古志国とあり、日本書紀は越国と書かれている。

その後、越後、越中、能登、越前に分かれることになる。

当時、鳥取県や島根県辺りに存在した古代出雲国が大軍を率いて高志国に攻め入ったが、高志国はこれを恐れて国を出雲に明け渡したとされる。

その後、大和朝廷が大彦命(第8代・孝元天皇の子)などを派遣して高志国を古代出雲国から奪い取ったと言われている。

しかし、大和政権は出雲系の神々の信仰を尊重して残したため、現在も越中の古い神社は出雲の神々を祭神としている。

三種の神器の一つ「天叢雲剣」

「草薙の剣」

「天叢雲剣」は、「草薙の剣」のことである。
出雲国の「スサノオノミコト」が高志国に存在した「ヤマタノオロチ」の尾を切り裂いた時に出てきた宝剣と言われる。

当時、出雲と高志国(越国)は交戦状態にあり、『出雲国風土記』には、「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と高志国の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。
福井県には九頭竜川など名称や地名が残っている為、信ぴょう性は高い。

また、三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉」の翡翠も高志国で取れたものであるという説もある。

阿彦

古代越国を支配していた最大勢力を誇る豪族。「高志の国王」を名乗っていた。

阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である「布勢比古」なる人物の子供か孫だと伝えられています。

大和朝廷の大彦命によって、越国が平定され、大和朝廷の手刀摺彦に統治を任せますが、越国の他の豪族は重く用いられますが阿彦は重く用いられませんでした。
これに阿彦は激怒して、抵抗を続けます。

阿彦の一族は、以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、特に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、大陸的な専政君主政治を採用していました。
阿彦は、ツングース人である鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)という2人の人物を重く用いて、それらの政治を行っていました。

阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共にその長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行きます。

阿彦の乱

手刀摺彦等に抵抗を続ける阿彦のもとに、王権に不満を抱く豪族や内通する者が集まってきます。

そして、大和朝廷側の手刀摺彦等に攻めかかります。阿彦はこの奇襲攻撃により、手刀摺彦の「中央城」や「辰城」、「辻城」などの領域を除いた東部平野を手中に収め、西部平野への侵攻を企て、砺波郡枯山に堅固な堡を築き、近辺の山野を支配します。

手刀摺彦の副将である甲良彦舅は、阿彦の築いた枯山の堡を攻め、犬攻めや落石攻めなどによって敵将を討ち取ったりしますが、堡を破ることに失敗します。

この枯山の堡は、砺波市 の鬼ヶ城(別名:浅野谷城、安川城)ではないかと言われています。

阿彦征伐

この反乱を受けて、大和朝廷から大若子命が阿彦征伐に乗り出します。
この戦いは長引き3年近く続きます。

長く戦争が続いたことを、大若子命は憂っていると姉倉姫(この時代よりはるか昔の高志出身の女神)の神託があったと言われています。

その神託に従って、宮社を造営し祈願を行ない、討伐軍を再編成し、枯山の堡を攻めます。
そして、ようやく阿彦を討ち取ることに成功します。

大若子命は、姉倉姫の神徳を末長く顕彰するため社殿を造営するとともに、大竹野の北方神通川沿いの地(富山市八幡)に大己貴命(大国主ノ神)を祀る越中一宮を造営したと言われています。

阿彦の名残

我孫子、吾孫子、阿孫子、亜孫子、安彦、阿比古、吾彦、我子などは「阿彦」の当て字と言われています。
千葉県の我孫子市のほかにも大阪市住吉区我孫子、同泉大津市我孫子、奈良県橿原市我孫子、福岡県直方市我孫子、埼玉県羽生市我孫子など様々な地名にも使われています。







ヌナカワヒメ

ヌナカワヒメへの求婚

大国主は日本の国土を開拓して、農業・医療・商業を普及した神であるとされており、天照大御神に国を譲って、出雲大社に祭られた神として有名です。

その大国主は、高志国にヌナカワヒメという賢く美しい女性がいるという噂を聞きつけます。

正妻のスセリヒメがいるにも関わらず、ヌナカワヒメを嫁にしたいと考えた大国主は沢山の家来を引き連れて、高志国を訪れます。

しかし、大国主が何度ヌナカワヒメの舘を訪ねても、ヌナカワヒメは門を開いてくれません。

大国主は八千矛神(ヤチホコノカミ)という別名を持っていたのですが、その大国主がヌナカワヒメに次のような歌で想いを伝えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれる私は広い日本のあちらこちらに妻を探し、遠い越の国まで訪ねてきました。この地に賢い美しい女性がいると聞いて、足しげく通い、求婚してきました。

太刀の緒も解かないまま、はおった上着も脱がないまま、乙女の寝ている舘の板戸をひたすらゆすぶって私は立ちすくんでいる。

すると緑深い山ではぬえが鳴き雉が鳴き鶏が鳴き、朝となりました。いまいましくも鳴く鳥です。いっそわが使いに命じてこれらの鳥を打ち殺してしまいたい。」

すると、舘の中からヌナカワヒメがやはり歌で答えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれるあなた、私はか弱い女ですから入り江にいる水鳥のようにお互いに想いあえる殿方を強く求めております。

今でこそ私はこのようにあなたを無下に扱っていますけど、後にはあなたになびくこともあるでしょう。
だからお使いの方、その鳥を打ち殺したりなさらないで。緑深い山の陰に日が隠れて、真暗な夜になってから会いにいらしてください。

その時あなたは朝日のような笑みを満面にたたえ真白き私の腕を抱いて、若々しい胸を抱いてぎゅっと抱きしめて私の玉のように美しい腕で腕枕をして、のびのびと足をのばしておくつろぎになってください。

だから、どうか今夜は、そんなむやみに恋心を燃やしてくださいますな。ヤチホコノカミとよばれるあなた」

ヌナカワヒメの歌を受けて、オオクニヌシノミコトはその夜は我慢して次の夜にヌナカワヒメを訪ねていき、ご結婚なさいました。

その後、正妻・スメリヒメのヤキモチへと続いて行きます。

ちなみに御穂須須美命(ミホススミ)がヌナカワヒメと大国主の子供と言われています。

「越(こし)」、「高志」、「古志」にちなんだ名前

「コシヒカリ」(お米)、「越乃寒梅」(日本酒)、「古志神社」(富山県下新川郡朝日町)、「古志郡」(新潟県中越地方)などである。また、福井市には「高志」の地区名と名称が残っており多用されている。

出雲国古志郷(現・出雲市古志町・下古志町)

出雲国にあった古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったというものだそうです。

戦国時代の備後古志氏は広島県福山市の新庄と呼ばれた地域を支配した領主であるが、出雲古志氏の子孫で、古志吉信(毛利家)、古志重信(尼子家)などの武将を輩出している。

毛利氏に従ったが、関ヶ原の合戦で毛利が負けた際、削封されて萩に移ったが、それに従わなかった為に武士としての歴史を終えた。

子孫は、千葉県に住んでおり、古文書(古志家文書)を保管していました(1999年に出雲市に寄贈)。

それによると歴代の当主は、京極氏や尼子氏などの領主権力や杵築大社(出雲大社)などと密接な関係を結び、出雲国の歴史に重要な役割を果たしています。




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2015年11月21日

琉球王国を作ったのは源為朝の息子だった!琉球処分とは!?その真実に迫る!




日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第3回目は「琉球王国を作ったのは源為朝の息子だった!琉球処分とは!?その真実に迫る!」です。

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琉球王国

1429年から1879年の450年もの間、沖縄本島を中心に存在した誇り高き王国。勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万人に満たない小さな王国でした。

琉球には元々「山南」「中山」「山北」と3つの国があったが、「中山」が「山南」「山北」を滅ぼして統一。琉球王の正式な称号は「琉球国中山王」。

1609年に島津藩の侵攻を受けて以降は、島津藩の支配下に入った。しかし、対外的には独立した王国として存在し、独自の文化を築き上げた。

琉球王国の始祖

真偽は不明だが、琉球王国の正史では12世紀に源為朝が沖縄県の地に逃れ、その子供が琉球王家の始祖・舜天になったとされる。源為朝の上陸の碑も建てられている。

源為朝は日本で初めて切腹をしたことで有名だが、その為朝が保元の乱で伊豆に流刑となったが、その途上船が嵐に逢い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。

そして、地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。
そして、その尊敦が中山王となったと言われる。

為朝自身は妻子を連れて大島へ戻ろうとして出航したが、まもなく台風が起こった。
舟人たちの迷信で「女が乗っているので、竜神の怒りを買ったのだ」と言い出す。やむなく為朝は妻子を浦添という処に残し、単身大島に戻っていったと伝わっている。

薩摩による琉球侵攻

琉球王国は16世紀の秀吉の明への遠征時にも、日本軍に食料を提供し、兵站の一部を賄っています。

そして1609年に、薩摩藩が3000名の兵を率いて琉球王国の奄美大島に進軍。
さらに沖縄本島に上陸し、首里城にまで進軍した。

琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。
尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城。島津軍が首里城について、5日間の出来事だった。

それ以降、琉球王国は島津藩の属国となったが、支那にも朝貢を続け、両属という体制をとりながらも対外的には独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。








末期の琉球王国

東シナ海の中継貿易の中心の1つとして東南アジアなどとも貿易をして栄えていたが、16世紀に支那が支那人とアジア諸国(日本以外)との交易を認め出したことで大打撃を受ける。

大航海時代にヨーロッパ諸国が東シナ海に進出すると、さらに市場を失った。
その上、日本が戦国時代に東南アジアに進出し、日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の貿易は衰退した。

その後、日本が鎖国政策を行うと、薩摩藩が属国である琉球を使って貿易をした為に、命脈を保った。

しかし、19世紀には日本の開港5港や香港に貿易の中心が移り、琉球の貿易はほぼ失われた。

琉球の民衆は土地の所有が認められておらず、農業生産性も低く、税金が極めて高かった為に、貧しい生活を強いられていた。

台湾問題と琉球処分

琉球は元々「中国の属国」「日本の属国」と云う2つの国への二重属国という複雑な状況にありました。中国への属国は「形式的なもの」、日本への属国は「直接、日本が支配」との体制です。

そこに台湾事件が起きます。
台湾事件とは、台湾に漂流した琉球国人を台湾人が虐殺した事件です。
日本側は「琉球は日本属国であるから、台湾に軍事的制裁を与える姿勢」を示しましたが、中国側は「琉球は自国では無いので問題視しない見解」を示し、国際法的にも中国は琉球を放棄しています。

日本はこの問題を巧みに使い、琉球処分を行います。
これにより琉球国は、対外的にも日本国の一部になりました。

琉球国自身は王朝役人の中には中国寄りの人も何人かいましたが、琉球王国の腐敗政治による苛烈な税に苦しめられていた民衆は、琉球王国を支持せず、琉球処分を自然と受け入れています。(反乱などなく、むしろ支持されていたみたいです。)

支那は琉球処分について抗議はあったが、外交交渉の過程で、支那への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。

なぜ併合でなく「処分」なのか

琉球処分は、琉球王国の日本国への併合という意味で使われることが多いが(このサイトもその様な使い方をしている所もある)、実質的には江戸時代初期の薩摩藩の琉球征伐の際に琉球王国は併合されています。

しかし日本は鎖国政策を行った為、支那との交易を望む薩摩藩は支那へ朝貢をしている琉球王国の立場を利用して交易を続けました。
王国をつぶさず、属国である琉球王国の支那への朝貢を許していたのもその為です。

つまり、琉球の民などは島津藩主の命令に従い、島津藩の領民と同じ立場でした。

琉球処分は、琉球王国の併合ではなく、江戸時代初期に既に併合していた琉球王国に残していた王族の身分的特権階級を最終的になくしたという政策です。

明治時代の武士の特権階級をなくした「秩禄処分」と同じようなニュアンスです。

なので、強制的な琉球王国の日本への併合と言うのは左寄りの人達の自虐史観の一貫である。

誇り高き琉球人

1515年にポルトガル人のトメ・ピレスは当時の琉球人の気質について書いている。

それによると「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。」と記してある。

琉球王国の文化

琉球舞踊

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

琉球神道

古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があった。




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2015年11月20日

邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第2回目は「邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!」です。

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邪馬台国論争

3世紀頃、日本にあったとされる邪馬台国が、どこにあったかと言う論争で、九州説、畿内説、出雲説、関東節、北陸説、東北説、沖縄説なんていうのもあったみたいである。

有力なのは九州説と畿内説で、奈良県の桜井市の纏向古墳が発見されてからは(その前から畿内説が有力だった)、畿内説でほぼ確定したかの様に言われるが、九州説を唱える学者はまだ在野などには多い。このサイトも九州説を支持しています。

邪馬台国の記述

2~3世紀に日本列島に存在したとされる国。支那(中国)の「三国志」と呼ばれる物語に出てくる日本の王国である。

三国の内、一番の大国であった「魏」という国の歴史書・「魏書」の日本のことが載っている部分、いわゆる「倭人伝」の部分に邪馬台国の記述がある。(本稿では魏志倭人伝とする)

これは、三国を統一した司馬一族がどれくらい凄かったかを現す為に、「倭国という遠い国からも貢物を持って来た」という風に出てくるものである為、必要以上に遠い国である様に書かれている。(書かれている距離をすべて足すと、日本より遠い国になってしまう。)

また、支那は支那以外の国を貶めて書く為、邪馬台国の「邪」やその国の女王・卑弥呼の「卑」など、実際の名前とは違う名前を当てはめている為、日本のどの国のどの部分を指しているか分かりにくくなっている。

その為、邪馬台国が日本の歴史のどの国で、卑弥呼は日本の歴史の誰を指しているのか議論が絶えない。

歴史教科書の嘘

日本に漢字や仏教などが伝わったのは6世紀頃で、朝鮮半島経由で伝わったと学校などでは教えられています。
これは、左よりの人達の自虐史観の一つです。

韓国の国定教科書などでも、6世紀の韓国の三国時代(百済、高句麗、新羅)に「すべての文化は韓国が日本教えてあげた」という風に書かれています。仏教、漢字、儒教、美術、音楽、歴史、医学、農業、紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方など全てです。

しかし、九州で「漢委奴国王」の金印が見つかっています。これは西暦57年の物、つまり1世紀の物です。
印鑑が必要ということは文字を使って書類を書いていたということです。また、1世紀には直接大陸と国交があったことが後漢書などにも記載があります。
また、片部遺跡から出土した墨書土器に文字が墨書されています。

ちなみに朝鮮半島には「銅印」しか送っていません。

日本に文明を教えてあげたと言われる百済の成立は西暦346年で、日本の属国でした。世継ぎの皇子を日本に人質に出したりしていました。
このことは、日本書紀だけでなく、朝鮮の史書である三国史記にも繰り返し記述されています。

そして、魏志倭人伝に書かれている魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇でした。

ちなみに倭国、倭人の「倭」という文字も蔑称ではあるが、「にんべん」を使っていて、人として扱ってもらっていますw
朝鮮半島などは酷くて、「?族(わいぞく)」です。「?」というのは、汚穢(おわい)の「?」で、大小便や糞尿のことを言います。普通は「のぎへん」ですが、わざわざ「さんずい」を使っています。
支那は、周辺民族の名に、ろくな漢字を充てていませんが、いろいろある周辺民族の呼称のなかで、これほど汚い文字を与えられた民族は、他に例がありません。

これらのことは、当時から日本の文明は朝鮮半島より遥かに栄えていたことを示しています。

邪馬台国とは

魏志倭人伝では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしています。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きたと書かれています(倭国大乱の時期は2世紀後半)。
そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まっり、弟が彼女を補佐し国を治めていたそうです。

女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得たが、狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壱与」または「台与」が女王になることで収まったと書かれています。





邪馬台国が九州にあったと言う説

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。また、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとしている。

邪馬台国九州説

このサイトでは、邪馬台国九州説を支持します。

魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書いてあります。

ここから分かることは、支那の言う倭国と日本は別の国であるということです。

さらに旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があります。
その「倭国伝」の冒頭に「倭国とは古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。」と書いてあります。朝鮮半島の新羅から東南に海を渡った先にあるのが「倭国」ということです。

そして、「日本国は、倭国の別種だ。その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にある。そして東にあるから「日本」と名づけた」と書いてあります。

その上、「日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だ」とあります。

つまり、西と南は海だけど、東の方には大きな山(富士山?)があり、その向こうは毛人(アイヌ?)が住んでいると言っています。

決定的な文章として、隋書に書いてる「倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている」との文です。
普通に山ではなく、「有阿蘇山」と山の名前が入っています。

つまり、倭国は九州にあったということです。
そして近畿内には、日本と言う国があったということになります。

余談ですが、「新唐書」には、「その「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀・・・」とあります。
そうです、記紀に書いてある「神武東征」のことです。

古事記や日本書紀が、神話でなく、実際の歴史書だったことが良く分かる文章です。
学校で学ぶようになることを願っています。


当時の日本人

学校では、毛皮を着て狩りなどをして暮らしていたと言う風に習い、漫画の日本の歴史なんかでも石の斧を持って、鹿などを追い回している絵を使っています。

しかし、支那の歴史書や古墳などから分かる日本は随分と違います。

旧唐書によれば、「甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う」とあります。
また、「布の衣装を着ている」「綿の帽子」との記述もあり、古墳(鳥浜貝塚など)などからも布が見つかっています。

日本人は朝鮮半島から漢字が伝わったと言われる随分前から漢字を使っており、庶民まで知っていたということです。

また、布を編む道具なども発達していたということが分かります。

他には「婦人は鮮やかな色のスカート」を履き、「銀で出来た花の形のかんざし」をさしていたそうです。

また、「争い事が起こると訴えを起こす」との文もあり、裁判制度もしっかりしていたことが伺えます。

そして、隋書には「倭国は大国だ。新羅、百済は倭国に珍しい物が多いと敬仰して常に通使が往来している」とあります。あの自分たち以外を認めない支那が倭国を「大国」と書き、新羅、百済が倭国に朝貢していたと書いてあります。

そして一番感動したのは「魏書」にある「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬を しない、盗みがなく、訴訟も少ない」という文です。

今も昔も日本人は、盗みなどしない国民性だったということが分かります。







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2015年11月19日

北方領土問題とは!戦後行われた占守島の戦いに勝たなければ北海道はソ連に占領されていた!?



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第一回目は「北方領土問題とは!戦後行われた占守島の戦いに勝たなければ北海道はソ連に占領されていた!?」です。

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日本の領土で、北海道の東北部にある歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島(色丹島および歯舞諸島は北海道の一部)の4島が有名ですが、樺太の南半分と千島列島はカムチャッカ半島の手前にある占守島までの千島列島の全部を指します。

少なくとも2010年までは、札幌国税局根室税務署の課税台帳には、日本の領土としての記述がありました。

しかし、民主党政権時代、国民に何も知らせることなく南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除されました。

このサイトでは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を北方領土、北方4島と書きます。

南樺太などの領土について

後述しますが、日本はサンフランシスコ講和条約で、樺太や北千島(北方4島以外)のすべての権利を放棄しました。

日本は、それらの領土の処分権を連合国に委ねましたが、連合国は北方領土の処分先を決めていません。

ロシアが実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にはロシアは入っていません。
なので、連合国が領土の処分先を決めるまでは、日本の領土のままと考えるのが普通です。

ちなみに軍事占領しただけでは、その土地は占領した国のものにはなりません。
例えば、イラクのフセイン政権を倒したアメリカはイラクを軍事占領しましたが、イラクはアメリカのものではありません。

条約などがあって初めて、その国のものになります。
日本とロシアの間にも、連合国とロシアの間にも南樺太などの領土に関する取り決めは一切ありません。

北方領土の歴史

日本が千島列島を領土としたのは大変古く、1635年に北海道の松前藩が樺太調査を行っており、その後の1644年の『正保御国絵図』には、松前藩が支配している蝦夷地として樺太や千島列島が載っている。

1700年には、北海道の松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ています。

その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、1855年、日本とロシアとの間で、「日露和親条約」が締結されました。

この条約によって、南千島(北方4島)を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。
要するに、北方4島は日本のものと確定したということです。

ところが日露和親条約で、「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、1856年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。

そこで、1875年に榎本武揚が特命全権大使としてロシアに赴き、「日本は樺太を放棄する」「代わりに千島列島を全部日本領とする」という「樺太千島交換条約」(サンクトペテルブルグ条約)をロシアとの間で締結します。

その後、1904年に日露戦争が勃発し、日本が勝利。日本とロシアとの間で、樺太の南半分を譲り受ける条約(ポーツマス条約)を結んでいます。

国際的には

2005年にEUが議会で「日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議」を採択しています。また、 アメリカも北方4島における日本の主権を認めています。

ロシアの不法占拠

日本が降伏する4日前の8月11日にソ連軍が日本領の南樺太に侵攻してきます。これは1946年4月まで残っていた日ソ中立条約を破るものでした。

8月14日に日本はポツダム宣言受諾を通告します。

しかし、その後も8月25日に南樺太を占領。
9月3日から5日にかけて、降伏して武器を捨てている北方4島を武力で占領します。

占守島では、8月18日から23日にかけて、侵攻して来たソ連軍と戦車などを解体して武装解除途中の日本軍と交戦します。戦車などを組み立て直し、日本軍が勝利します。

この勝利がなければ、北海道までソ連軍が占拠するつもりだったらしく、戦後は朝鮮半島の様に日本が二つに分けられていた可能性は高い。






占守島の戦い

日本を守った英雄達

前述していますが、この戦いで日本軍が勝利しなければ、北海道までソ連軍が来て、日本の北海道は未だにロシア領だった可能性は高い。

しかし、この島を守っていた池田隊長始め、第91師団は日本を守った英雄として称えられるどころか、左よりの人達によってこの戦いを「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。残念でなりません。

ソ連軍がこの島に攻撃を仕掛けてきた8月18日は、日本が連合国に降伏して武装解除の準備をしていた時でした。
戦車部隊でも、車載銃砲や無線機の取り外しに始まり、爆砕や車両を海に沈めるなどの準備を進めていました。

そんな状態で疲れて寝静まっていた午前1時に突如攻撃が始まります。

戦争は終わったと思っていた第91師団は初め誰が攻撃して来たか分からなかったそうです。
しかし、放置すると皆殺しになってしまうと判断した第91師団は女性400人を北海道に逃がし、自分たちは戦いを選択します。

第91師団には、満州から転進した精鋭部隊の「士魂戦車隊」(戦車第11連隊)がいました。
率いるのは「戦車隊の神様」と呼ばれた池田末男少将(当時は大佐)です。

ソ連に攻められる前の晩は若い将校に「15日以降、俺は廃人になった。お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

攻めてきたソ連軍は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人という、まさに海を覆わんばかりの大部隊です。
対する日本軍は武装解除途中の日本兵8,500人です。

当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたそうです。

精鋭の戦車連隊は武装を分解中ですぐには出撃出来ない状態です。
それでも総員総出で武装を取り付け出撃しています。

池田隊長は自分の隊士たちに「玉砕して白虎隊になるか、一旦自重して後日再起をかける赤穂浪士になるか」と聞いたそうです。全員一致して、白虎隊になることを選択したと言われます。

ソ連軍との肉弾戦はおよそ40分にわたるものだったそうです。
普通、近代戦において銃撃戦というのは1〜2分程度で、5分も続けば長かったと言われる。
それが、40分です。いかに凄まじい戦いであったか分かります。

その戦いで池田隊長始め、96人が戦死しています。
池田隊長の最後は、対戦車銃を受け炎上しても、さらにしばらく前進して敵に向かっていたそうです。

戦いは4日続き、日本軍の勝利に終わります。
日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名でした。
ソ連軍は占守島を1日で落とす予定でした。4日伸びたことで、アメリカ軍が北海道に入り、結果的に北海道がソ連軍の手に落ちるのを防ぐことに成功しています。

当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
「占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である。」

大功ある第91師団は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されました。
島民25,000人とともに強制連行され、何故かシベリアに着いたのは5000人です。
(途中理由なく殺されたと言われる)

そして、シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約1割がお亡くなりになりました。

日本を守った英雄達に対するあまりにも酷い現実と共に、北方4島は未だにロシアに不法占拠されたままである。







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