2015年11月20日
邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!
日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!
第2回目は「邪馬台国はどこにあったのか!?その謎に迫る!」です。
元記事ははここ
邪馬台国論争
3世紀頃、日本にあったとされる邪馬台国が、どこにあったかと言う論争で、九州説、畿内説、出雲説、関東節、北陸説、東北説、沖縄説なんていうのもあったみたいである。
有力なのは九州説と畿内説で、奈良県の桜井市の纏向古墳が発見されてからは(その前から畿内説が有力だった)、畿内説でほぼ確定したかの様に言われるが、九州説を唱える学者はまだ在野などには多い。このサイトも九州説を支持しています。
邪馬台国の記述
2~3世紀に日本列島に存在したとされる国。支那(中国)の「三国志」と呼ばれる物語に出てくる日本の王国である。
三国の内、一番の大国であった「魏」という国の歴史書・「魏書」の日本のことが載っている部分、いわゆる「倭人伝」の部分に邪馬台国の記述がある。(本稿では魏志倭人伝とする)
これは、三国を統一した司馬一族がどれくらい凄かったかを現す為に、「倭国という遠い国からも貢物を持って来た」という風に出てくるものである為、必要以上に遠い国である様に書かれている。(書かれている距離をすべて足すと、日本より遠い国になってしまう。)
また、支那は支那以外の国を貶めて書く為、邪馬台国の「邪」やその国の女王・卑弥呼の「卑」など、実際の名前とは違う名前を当てはめている為、日本のどの国のどの部分を指しているか分かりにくくなっている。
その為、邪馬台国が日本の歴史のどの国で、卑弥呼は日本の歴史の誰を指しているのか議論が絶えない。
歴史教科書の嘘
日本に漢字や仏教などが伝わったのは6世紀頃で、朝鮮半島経由で伝わったと学校などでは教えられています。
これは、左よりの人達の自虐史観の一つです。
韓国の国定教科書などでも、6世紀の韓国の三国時代(百済、高句麗、新羅)に「すべての文化は韓国が日本教えてあげた」という風に書かれています。仏教、漢字、儒教、美術、音楽、歴史、医学、農業、紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方など全てです。
しかし、九州で「漢委奴国王」の金印が見つかっています。これは西暦57年の物、つまり1世紀の物です。
印鑑が必要ということは文字を使って書類を書いていたということです。また、1世紀には直接大陸と国交があったことが後漢書などにも記載があります。
また、片部遺跡から出土した墨書土器に文字が墨書されています。
ちなみに朝鮮半島には「銅印」しか送っていません。
日本に文明を教えてあげたと言われる百済の成立は西暦346年で、日本の属国でした。世継ぎの皇子を日本に人質に出したりしていました。
このことは、日本書紀だけでなく、朝鮮の史書である三国史記にも繰り返し記述されています。
そして、魏志倭人伝に書かれている魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇でした。
ちなみに倭国、倭人の「倭」という文字も蔑称ではあるが、「にんべん」を使っていて、人として扱ってもらっていますw
朝鮮半島などは酷くて、「?族(わいぞく)」です。「?」というのは、汚穢(おわい)の「?」で、大小便や糞尿のことを言います。普通は「のぎへん」ですが、わざわざ「さんずい」を使っています。
支那は、周辺民族の名に、ろくな漢字を充てていませんが、いろいろある周辺民族の呼称のなかで、これほど汚い文字を与えられた民族は、他に例がありません。
これらのことは、当時から日本の文明は朝鮮半島より遥かに栄えていたことを示しています。
邪馬台国とは
魏志倭人伝では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしています。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きたと書かれています(倭国大乱の時期は2世紀後半)。
そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まっり、弟が彼女を補佐し国を治めていたそうです。
女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得たが、狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壱与」または「台与」が女王になることで収まったと書かれています。
邪馬台国が九州にあったと言う説
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。また、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとしている。
邪馬台国九州説
このサイトでは、邪馬台国九州説を支持します。
魏志倭人伝よりも少し後の時代に書かれた支那の旧唐書(くとうじょ)という歴史書に、「日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書いてあります。
ここから分かることは、支那の言う倭国と日本は別の国であるということです。
さらに旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があります。
その「倭国伝」の冒頭に「倭国とは古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。」と書いてあります。朝鮮半島の新羅から東南に海を渡った先にあるのが「倭国」ということです。
そして、「日本国は、倭国の別種だ。その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にある。そして東にあるから「日本」と名づけた」と書いてあります。
その上、「日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だ」とあります。
つまり、西と南は海だけど、東の方には大きな山(富士山?)があり、その向こうは毛人(アイヌ?)が住んでいると言っています。
決定的な文章として、隋書に書いてる「倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている」との文です。
普通に山ではなく、「有阿蘇山」と山の名前が入っています。
つまり、倭国は九州にあったということです。
そして近畿内には、日本と言う国があったということになります。
余談ですが、「新唐書」には、「その「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀・・・」とあります。
そうです、記紀に書いてある「神武東征」のことです。
古事記や日本書紀が、神話でなく、実際の歴史書だったことが良く分かる文章です。
学校で学ぶようになることを願っています。
当時の日本人
学校では、毛皮を着て狩りなどをして暮らしていたと言う風に習い、漫画の日本の歴史なんかでも石の斧を持って、鹿などを追い回している絵を使っています。
しかし、支那の歴史書や古墳などから分かる日本は随分と違います。
旧唐書によれば、「甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う」とあります。
また、「布の衣装を着ている」「綿の帽子」との記述もあり、古墳(鳥浜貝塚など)などからも布が見つかっています。
日本人は朝鮮半島から漢字が伝わったと言われる随分前から漢字を使っており、庶民まで知っていたということです。
また、布を編む道具なども発達していたということが分かります。
他には「婦人は鮮やかな色のスカート」を履き、「銀で出来た花の形のかんざし」をさしていたそうです。
また、「争い事が起こると訴えを起こす」との文もあり、裁判制度もしっかりしていたことが伺えます。
そして、隋書には「倭国は大国だ。新羅、百済は倭国に珍しい物が多いと敬仰して常に通使が往来している」とあります。あの自分たち以外を認めない支那が倭国を「大国」と書き、新羅、百済が倭国に朝貢していたと書いてあります。
そして一番感動したのは「魏書」にある「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬を しない、盗みがなく、訴訟も少ない」という文です。
今も昔も日本人は、盗みなどしない国民性だったということが分かります。
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