2012年12月01日
遺跡の発掘(3)
発掘作業は続いています。
今年の11月は天候不順で時々、発掘作業が中断されることもあります。
現在は更に古い時代の平面を検出しているところです。
いずれ、現地説明会があるはずなので、その時に詳しい状況や、
出土した遺物もご紹介させて頂きます。
また、隣接地で行われた、前回の発堀調査をご紹介させていただきます。
この前の記事で中世をご紹介させていただきました。
今度は第2面目で、弥生時代の平面(当時の地平面)です。
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部分的な写真ですが、このように土器の破片が散乱していました。
土器の表面には装飾などの模様がなく、素焼きの状態です。
2000年前の人が使ったものですね。
それから、この面で1700年~1800年前の古墳時代の最初期の墓らしきものも発見されました。
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各時代の平面は一様にその時代のものではないらしく、
各時代に、穴を掘ったり、また、盛り土などを行っているはずで、
このように、若干、違う時代のものも発見されます。
墓に使われている石は、現在も旧堤防の外側にある河原石と同じものです。
ほんの、数十m先から運んできたのでしょうね。
そして、墓からは、素焼きの高杯と壺が出土しました。
人骨は残っていませんでした。
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このように、この調査区域に墓が存在したり、
また次の機会に紹介させていただきますが、石製品を製作した工房後があることから、
ここは、弥生時代においては、居住区ではなく、村の端にあたるのではないかと、
考えられるそうです。
いずれにしても、弥生時代では、人々は定住の傾向にあったから、
これらの遺物から、人々が生活の場所として使っていたことは明らかですね。
部分的な写真しか、ご紹介できなくて申し訳まりません。
私はというと、休憩時間に周囲の山や川を眺めながら、当時の村の様子を想像しています。
今年の11月は天候不順で時々、発掘作業が中断されることもあります。
現在は更に古い時代の平面を検出しているところです。
いずれ、現地説明会があるはずなので、その時に詳しい状況や、
出土した遺物もご紹介させて頂きます。
また、隣接地で行われた、前回の発堀調査をご紹介させていただきます。
この前の記事で中世をご紹介させていただきました。
今度は第2面目で、弥生時代の平面(当時の地平面)です。
部分的な写真ですが、このように土器の破片が散乱していました。
土器の表面には装飾などの模様がなく、素焼きの状態です。
2000年前の人が使ったものですね。
それから、この面で1700年~1800年前の古墳時代の最初期の墓らしきものも発見されました。
各時代の平面は一様にその時代のものではないらしく、
各時代に、穴を掘ったり、また、盛り土などを行っているはずで、
このように、若干、違う時代のものも発見されます。
墓に使われている石は、現在も旧堤防の外側にある河原石と同じものです。
ほんの、数十m先から運んできたのでしょうね。
そして、墓からは、素焼きの高杯と壺が出土しました。
人骨は残っていませんでした。
このように、この調査区域に墓が存在したり、
また次の機会に紹介させていただきますが、石製品を製作した工房後があることから、
ここは、弥生時代においては、居住区ではなく、村の端にあたるのではないかと、
考えられるそうです。
いずれにしても、弥生時代では、人々は定住の傾向にあったから、
これらの遺物から、人々が生活の場所として使っていたことは明らかですね。
部分的な写真しか、ご紹介できなくて申し訳まりません。
私はというと、休憩時間に周囲の山や川を眺めながら、当時の村の様子を想像しています。