2015年03月13日
姑という生き物について考える2
1の続きです。
個人レベルではいい人なのに、何故、嫁と姑という関係になると嫁にとって嫌なことをしてくるのか。
その疑問について考えてみます。
ひとつは、接し方の気持ちの違いではないかと考えます。
嫁にとって姑は、ご近所付き合いに匹敵するもしくはそれ以上の緊張があり、最高レベルに近い「よそ行き」モードで応対します。
一言で言うと、「気を遣っている」のです。
理由は、嫁は姑から「評価」される立場だからです。
一方、姑の嫁への対応は「よそ行き」モードではないはずです。
ご近所付き合いよりも、気を抜いていることと思います。
姑は嫁を「評価」する立場だからです。
何故評価する立場かと言うと、
人生の先輩
女性として先輩
主婦の先輩
育児の先輩
夫を生んだ人(偉い?)
家庭を仕切る先輩
ということが挙げられるからです。
加えて「義理の娘」という曖昧な家族を思わせる肩書もあるため、「娘」だから教えたい、指導したいという気持ちが生まれ、それでいて「娘」であるから他人としての遠慮や配慮は欠けてしまう、という結果になってしまうのではないでしょうか。
この、最高レベルで気を遣う嫁と、自分は指導する立場で家族だし気は遣わないと考えている姑との大きなギャップが、両者が相容れない一因ではないかと考えます。
また、職場やご近所と違って、家庭は閉鎖的です。
された人の気持ちを考えない行動を取っても、その中で完結してしまい、周りに居るのは自分の夫や息子などの自分の味方ばかりなので、他人の目など全く気にならないので姑は平気なのです。
男性の鈍さも上手く利用しています。
1で述べた例は、おそらく嫁の家族の前ではやらないのだろうと考えています。
嫁には適用されない、「ご近所付き合い」モードが発動するからだと思います。
嫁家族の前でもする場合は、毒系に属するので、今回の考察には含めていません。
もうひとつの理由として、
「かつて私が太陽であった場所」に若い他人の娘が居る事への違和感からくる行動
なのではないかと思います。
お母さんは家庭の太陽という言葉からそう書いてみました。
母親は家庭をまわしていく要であるという意味です。
姑からしても、遠慮なく指導したい一方で嫁は「他人」なんです。
息子が新しい家庭を持ち、子供も生まれ・・・と、家族の形ができてくると、それを眺めながら、
大変ながらも輝いていた自分中心の世界を、思い出すのではないでしょうか。
かつて自分が中心となって仕切り、家族の世話を一手に引き受け、自分の存在価値を常に感じていられた時間。
その場所に、息子は同じなのに私(姑)はおらず、他人の若い女が居る。
やっぱり、寂しいと思います。
他人の女が若くて、人生これから?で、いつも家族から必要とされていて。
息子から一番必要とされていたのは自分だったのに。
と。
これは想像です。
若干、子離れできていない姑の例になると思います。
でも、自分はまだ息子の親で、指導するべきことはあるし、まだまだ世話を焼きたい!という気持ちは、少なからずどの方も持っているのかな?とは思います。
そのことから、無意識にしろ意識的にしろ私もまだ太陽(家庭の中においての要)やりたいという気持ちから、嫁の求めない事までしてしまうのではないかと考えます。
長くなったので続きます。
こんなこと考察してどうするの・・・と自分でも思いますが、文章にすると心の整理がつく感じがします。
読んでくださった方、ありがとうございます。
次回で締める予定です。
ポジティブに締めたいと思います(^ ^)
個人レベルではいい人なのに、何故、嫁と姑という関係になると嫁にとって嫌なことをしてくるのか。
その疑問について考えてみます。
ひとつは、接し方の気持ちの違いではないかと考えます。
嫁にとって姑は、ご近所付き合いに匹敵するもしくはそれ以上の緊張があり、最高レベルに近い「よそ行き」モードで応対します。
一言で言うと、「気を遣っている」のです。
理由は、嫁は姑から「評価」される立場だからです。
一方、姑の嫁への対応は「よそ行き」モードではないはずです。
ご近所付き合いよりも、気を抜いていることと思います。
姑は嫁を「評価」する立場だからです。
何故評価する立場かと言うと、
人生の先輩
女性として先輩
主婦の先輩
育児の先輩
夫を生んだ人(偉い?)
家庭を仕切る先輩
ということが挙げられるからです。
加えて「義理の娘」という曖昧な家族を思わせる肩書もあるため、「娘」だから教えたい、指導したいという気持ちが生まれ、それでいて「娘」であるから他人としての遠慮や配慮は欠けてしまう、という結果になってしまうのではないでしょうか。
この、最高レベルで気を遣う嫁と、自分は指導する立場で家族だし気は遣わないと考えている姑との大きなギャップが、両者が相容れない一因ではないかと考えます。
また、職場やご近所と違って、家庭は閉鎖的です。
された人の気持ちを考えない行動を取っても、その中で完結してしまい、周りに居るのは自分の夫や息子などの自分の味方ばかりなので、他人の目など全く気にならないので姑は平気なのです。
男性の鈍さも上手く利用しています。
1で述べた例は、おそらく嫁の家族の前ではやらないのだろうと考えています。
嫁には適用されない、「ご近所付き合い」モードが発動するからだと思います。
嫁家族の前でもする場合は、毒系に属するので、今回の考察には含めていません。
もうひとつの理由として、
「かつて私が太陽であった場所」に若い他人の娘が居る事への違和感からくる行動
なのではないかと思います。
お母さんは家庭の太陽という言葉からそう書いてみました。
母親は家庭をまわしていく要であるという意味です。
姑からしても、遠慮なく指導したい一方で嫁は「他人」なんです。
息子が新しい家庭を持ち、子供も生まれ・・・と、家族の形ができてくると、それを眺めながら、
大変ながらも輝いていた自分中心の世界を、思い出すのではないでしょうか。
かつて自分が中心となって仕切り、家族の世話を一手に引き受け、自分の存在価値を常に感じていられた時間。
その場所に、息子は同じなのに私(姑)はおらず、他人の若い女が居る。
やっぱり、寂しいと思います。
他人の女が若くて、人生これから?で、いつも家族から必要とされていて。
息子から一番必要とされていたのは自分だったのに。
と。
これは想像です。
若干、子離れできていない姑の例になると思います。
でも、自分はまだ息子の親で、指導するべきことはあるし、まだまだ世話を焼きたい!という気持ちは、少なからずどの方も持っているのかな?とは思います。
そのことから、無意識にしろ意識的にしろ私もまだ太陽(家庭の中においての要)やりたいという気持ちから、嫁の求めない事までしてしまうのではないかと考えます。
長くなったので続きます。
こんなこと考察してどうするの・・・と自分でも思いますが、文章にすると心の整理がつく感じがします。
読んでくださった方、ありがとうございます。
次回で締める予定です。
ポジティブに締めたいと思います(^ ^)
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