1953(昭和28)年
元プロサッカー選手、サッカー指導者
愛称
ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。
幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)[8] と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。
フェネルバフチェ監督時代は、ファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Arthur)」と呼ばれていた。
家族
1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。なお、長男の妻は日系人である[9]。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。
ジーコレーベルとサンバ
ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。
退場処分
フェアプレーが信条であるが、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、物議を醸した(警告はキックの前にPAに進入したことに対してのみで、つば吐きは高田静夫主審が試合後に、重大な規律違反としてJリーグに報告している)。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている。
来歴
1971 ジーコ.
幼少期
ポルトガルからの移民でパン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父、ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの5男1女の末子として出生。遅く生まれた子供のため、父親は彼を「最後の一滴」と呼んだという。母親の意向で息子ジーコをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノ[10] を習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる。幼少期はナショナルキッドを見ていたと言う。家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにジーコの面倒を見る。あまり手のかからない子で上の兄らは父親に叱られてよく殴られていたがジーコは学業も習い事もそつ無くこなし、家庭内でも整理整頓、小遣いも管理するという几帳面な子供だった。母からはフチボーを固く禁じられていたが「勉強も手を抜かない」とお願いして了解を取り付けて兄らとフチボー三昧の日を送る内にエドゥがプロサッカー選手として成功。ジーコ13歳時には既に後のプレースタイルが確立していたとエドゥが回想しており、14歳時にはゼッカもエドゥも目を見張る程のセンスを持った少年へと成長した。
フラメンゴ
ジーコ 幼少期
1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。加入当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。兄二人の教えもありトレーニングメニューを次々と消化し、競り合いに負けない強靱な体格を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも)。その後、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い交際開始。4年後の1975年、結婚の目標だったアパートを購入しサンドラと結婚。
フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では、ジュニオール、ヌーネス、アジーリオ、バロニーニョ、レアンドロ、アンドラーデ、モーゼルらと共に得点を量産し、正確なパスでフラメンゴ黄金期を築いた。
ウディネーゼ
1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。
ブラジル代表
1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年、1982年、1986年の3大会に出場している
初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)や監督との確執もあって不本意な大会となった。
1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした。
ソクラテスの自陣ハーフウェイライン手前から始まる、40mをゆうに超える2人のワンツープレーと2本のスルーパスに、イギリスBBCのアナウンサー、ジョン・モトソンは「すごいぞ、ブラジルサッカーの哲学は!!」 (Thumbs up for Brazilian football philosophy!!) と評した。またモトソンはジェンティーレの激しいマークを、ボディコントロールとテクニックで外すジーコのターンに「おお、何てターンだ!」と評した。しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められ、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)、志半ばで大会を去った。しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金のカルテット」はこのチームが語源である。
1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。
短い引退
1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。
翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。
ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。ジーコ本人は日本からの打診に難渋していた所、ルイス・アントニオ高崎がプロ選手としての獲得という契約を出され、何ら具体的な連絡も無くビジネスの定石から逸脱した事後承諾のような状態に狼狽する。引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。
鹿島アントラーズ
鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めるなどジーコのストイックな姿勢に周囲は唖然とする。また、自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導するなど、周囲のお祭り騒ぎとは裏腹に本人は暗中模索で日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心しており、練習後に「僕は一体何をしてるんだ」と自問し嘆息し、また翌日には溌剌と練習に参加して終わったらまた頭を抱えて呻くという日々を繰り返していた。
1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは大都市のクラブに対し不利が予想されていた。ジーコはこの予想を覆し、チームが上位に食い込むには自分のプレーが活きて、且つ合致する選手がもう一人必要と考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。そして迎えた開幕初戦、対名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した。2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場が続いたが、アントラーズは1stステージ制覇。セカンドステージでは13試合6ゴールの成績を残し、チャンピオンシップでは準優勝の結果を残し日本のサッカー界を積極的に盛り上げた。その功績を称え、鹿島町(現、鹿嶋市)から表彰される。また鹿島アントラーズはジーコの下、初期黄金期を築きあげ、プロサッカークラブとして成功を収めた。
1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日サンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日ガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、最後の3試合となった6月8日浦和レッズ戦、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴール、現役ラストゲームとなった6月15日ジュビロ磐田戦と3試合連続ゴールを決めた。引退試合として古巣フラメンゴが訪日しアントラーズと試合を開催したが、出場はせず試合終了後、特別企画として現役ラストシュートをゴールに放ち、観客に披露した。現役を退きブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。
また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。
ジーコジャパン
この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年12月)
2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日に日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の意向でもあった。
ジーコはAFCアジアカップ2004に優勝。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2 - 2で引き分けた。またワールドカップ地区予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破しW杯直前のドイツとの親善試合を引き分けるなどの結果を残した反面、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。
日本代表監督での国際Aマッチ指揮試合(71試合)と勝利数(38勝)はいずれも歴代1位の記録であり、日本サッカー史において4年間通じて指揮を執りプレーオフも無くW杯地区予選突破を果たした最初の監督になった。成績等については下の諸項目を参照のこと。
2002年
10月16日、ジャマイカに臨み、これが初試合となった。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだが、結果は1-1の引き分け。
11月20日のアルゼンチン戦で実母マチウデ訃報の連絡を受ける。本人はサッカー日本代表指揮を全うすることを優先して帰国を渋るも周囲の説得で翻意して母国へ緊急帰国、「僕個人の予定で他の人の手を煩わせたくない」との理由でジーコ帰国前日に葬儀。数日後に執り行われたミサに合流。ジーコ監督不在時は臨時で替わった山本昌邦コーチが監督代行を務めた。
2003年
4月16日、ソウルワールドカップ競技場での韓国との日韓戦で試合終了間際FW永井雄一郎のゴールで勝利を挙げる。
6月8日、キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を全員入れ替えた。
6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003のグループリーグ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
8月20日のナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
2004年
2月7日、ジーコの慣れ親しんだ鹿島にて、親善試合マレーシア戦を行う。このドイツW杯予選を控えた日本代表の鹿島合宿中に市内のキャバクラに久保竜彦、奥大介、小笠原満男、山田卓也、都築龍太、茂庭照幸、大久保嘉人、山田暢久(但し山田暢久は入店せず)が無断外出して問題を起こし、スキャンダルとして取り上げられてしまい、ジーコは「信頼関係を失った」とコメント、(「裏切り行為と感じた」とも)代表チームへの一時招集を見送られることになった。
2月18日、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選(1次)初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。続くシンガポール戦も藤田俊哉の決勝点で勝利した。この内容を「苦戦」であるとした一部のサポーターが解任デモを行った。
4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
7月、中国で行われたAFCアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。
9月、インド コルカタでW杯大会アジア1次予選第4戦でインドに4-0で勝利、ハーフタイム中にスタジアムの照明が停電するトラブルがあった。この時、ベンチにいたジーコは、多数の現地記者・カメラマンからサイン攻めに合う光景をテレビカメラがとらえ、インドでも、現役時代の名声が轟いていることを証明した。
10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。
2005年
W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランでイランに敗れた試合以外は全勝。1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。
2006年
親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
5月15日、ドイツW杯23人のメンバーを発表。
ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンでアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外し、ドイツブンデスリーガで1得点の高原、日本Jリーグで1得点の玉田を招集したことに物議をかもした。特に久保は、2006年に行われたW杯メンバー発表前の代表戦すべてに先発出場した上での落選だったが、腰痛から復帰したばかりではあった。また、一番若い年齢の選手が駒野友一の24歳で、アテネ五輪代表メンバーからの選出は駒野・茂庭照幸の2名だけだった(茂庭の招集は田中誠の怪我による追加招集。茂庭はバカンスに入っていたハワイから緊急帰国、代表に合流した)。
6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で3失点を喫し1-3の逆転負け。続くクロアチア戦は0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転負け。2敗1分でグループリーグ最下位で敗退した。W杯後、日本代表監督を退任。最後の会見で日本が取り組むべき課題として「身長差、体格差を乗り越え怪我をしないためのフィジカルトレーニングの模索」「安定した判断力の涵養」を挙げた]。
2006年以降
2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。その後、2006年7月4日にトルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。
2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャにPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。
2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのCSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。
2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16で敗退した。ロシア国内では国内カップ戦で優勝したものの、リーグ戦は首位に勝点を大きく引き離され4位と低迷していた。CSKAモスクワはジーコが来る前の過去6シーズンで優勝3回、準優勝2回のロシアリーグの強豪であり、2009年9月10日にジーコは成績不振で解任された。ジーコが率いた2009シーズンの成績は巨額スポンサーと契約を結び、黄金時代が到来した2003年以降の中でワースト記録となっている(2014年現在)。
2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスの監督に就任した。チャンピオンズリーグではベスト16に進出するも、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されて解任された。オリンピアコスは96−97シーズンから2012−2013までの17シーズンで15回リーグ優勝を成し遂げ、ジーコが就任する前の5シーズンで5連覇しているギリシャでの国内最強クラブであった。リーグや国内カップ戦でのふがいない成績に慣れていないオリンピアコスのサポーターは暴動を起こし、爆弾がクラブに送り付けられる事態まで発生した。さらにジーコの指導法にも疑問の声があがり、所属選手から指示を無視されるなどのチーム崩壊が起こり就任してから僅か4か月の2010年1月19日に成績不振で解任となった。ジーコは成績不振による解任とサポーターの暴動に激しいショックを受けて「私はああいう状況で生きていくとは思わなかった。記者会見に行くにも、警備員10人に守られての状態だった。チームバスは1ダースもの警察車両が警護した。まるで、自分たちが逃亡者のような気分になったよ」「サッカーの監督をしていて、身の危険を感じるようなことが起きるとは思わなかった。あとどのくらい監督業をやるかわからない。40年間サッカー界に生きていて、こんなに失望したのは数回だけだ」とコメントした。ちなみにオリンピアコスはジーコ退任後の2010−2011シーズンからリーグ戦3連覇を達成して、ジーコ就任前の強さを取り戻している。
2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。
2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した。
2011年4月、同年3月に起こった東日本大震災の惨事を悼み日本でのチャリティーマッチとは別に南米でチャリティーマッチを行った。Jリーグで活躍したブラジル人を中心にアルシンド、ドゥンガ、ロマーリオなどが参加した。なお、三浦知良にも参加を要請したが、「Jリーグに専念したい」と言う理由で辞退している。
2011年6月、5年ぶりに来日し、6月4日にカシマスタジアムで行われた慈善試合に出場し、決勝ゴールを決めた。
2011年7月、リオデジャネイロで行われた2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の大陸別予選組み合わせ抽選会のくじ引きでアジアを担当した。
2011年8月、イラク代表監督就任の報道が出る。8月29日、正式にイラク代表監督に就任する。契約期間は、1年。元々イラクをW杯に出場させた経験を持つ、ジーコの兄エドゥに来たオファーだったが兄から譲られジーコがイラク代表監督に就任した。
2012年7月28日、ジーコ自身の公式HPで、ジーコは5か月間、スタッフは10か月間給料未払いであることや9月11日に予定されている2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選B組第4戦日本戦に出場予定のイラク代表選手7名の所属クラブが無く、練習が困難という状況に対してイラクサッカー協会が何ら手を打たないことを理由として、イラク代表監督辞任を示唆したが[18]、8月7日から弁護士を通じて、給与未払い問題については支払先の銀行口座を再確認するなどの条件のもと、2014年夏までの契約継続を確認した。契約の細部の見直しなどを終えてからイラクでの監督活動を再開した。しかし、11月27日イラク代表の監督を辞任した。
2013年8月、カタールのアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任された。ジーコは「結果がついてこなかった。残念だがサッカーとはこういうものだ」と自身のフェイスブックで語った。CSKAモスクワ、オリンピアコスに続きクラブチームの監督として3回連続で成績不振で解任となった。
2014年9月、インディアン・スーパーリーグのFCゴアの監督に就任。
2016年8月、日本サッカー殿堂顕彰が日本サッカー協会より発表された。
2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任すると発表され、8月にはコーチとして役員登録された。
主な監督成績
鹿島アントラーズ
1999年 ヤマザキナビスコカップ 準優勝
日本代表
2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退(通算1勝2敗)
2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退(通算1勝1敗1分)
2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
2005年 2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(通算11勝1敗 アジア予選B組1位通過)
2006年 2006 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ敗退(通算2敗1分)
通算成績 33勝12分15敗
フェネルバフチェ
トルコスーパーリーグ2006-07
トルコスーパーカップ2007
UEFAチャンピオンズリーグ2007-08 ベスト8
ブニョドコル
ウズベキスタンリーグ2008
ウズベキスタンカップ2008
CSKAモスクワ
ロシアカップ2009
ロシアスーパーカップ2008-09
監督として
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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年8月)
日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。オシムやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くから、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うという独特の短所があると指摘されており、ジーコはそれが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手(豊富な運動量でチームを支える選手)が福西しかいなかった」と批判したが、一方でW杯予選を勝ち抜いたことを「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ。それは単純に予選を突破したという意味でね」と一定の評価をしている。
ただし、住友金属・鹿島時代はセンチメートル単位のズレすら許さないほどの厳密なサッカーを指導していた(この時代、惨敗したチームを「一番年寄りの自分が一番走っているじゃないか! 何故もっと走らないんだ!」とロッカールームで怒鳴り散らす映像が残っている)。ジーコの通訳であった鈴木國弘によると「こちらの方が指導者としての本質であるのだろう」としている。しかしアマチュアからプロへの過渡期であった住友金属・鹿島時代と違い、代表監督時代には、「プロ」であり「代表である」選手を尊重し、彼ら自身の発想を生かしたサッカーを紡ぎだすことを望んでいたのだという。
日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では2位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。 また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。
守備戦術
DFはオフサイドトラップを多用せず、一人余るというやり方を徹底した。特にアジア予選等の結果重視の試合の際には、ハイラインによるプレスでボールを奪うより、概ねローラインによるバランス重視で守ることが多かった。
ボールポゼッションによりある程度ゲームの主導権を握ることを志向する
高いボールポゼッションを保ち、数多くのチャンスを作ること、そうすれば負ける確率は低くなる、という考えを持つ。
ローラインの守備方針と相俟って「遅攻」になりがちではあったが、むしろ「サッカーで一番美しいのはダイレクトプレー(ゴールに最短距離で進むプレー)」であり、「シンプルにゴールに向かえるのならばそれが一番理想的である」と語っている。しかし、サッカーではいつでもそれができるとは限らず、そのような場合でも速攻を意図すると「とにかく急いで焦るために、パスやシュートの正確性が失われる。それによって一つの大きなチャンスが台無しになってしまう」と語る。
よって「(相手の守備陣を整えてしまい)相手の守備が堅い場合は、キープをする。ボールを速く回しながら」「まっすぐに行ければいいけれど、相手がブロックして行けない。詰まっている。その場合は一遍に突き進んでいてはダメですよね。理想的なのはバスケットの形。優れたチームになると24秒ルールをめいっぱい使う。その間は、確実に相手を動かしながら自分たちでスペースを作っていく。そして最後の一本のパスを正確に出す」ことが重要である、と語っている(「サッカーマガジン1000号」のジーコ×岡田対談より)。これはポゼッションフットボール的思考の典型といえる(参考トータルフットボール)。
選手との相互信頼を重視する
このチームの1つのキーワードが「信頼」であった。2004年AFCアジアカップ(以下この節で「アジアカップ」と略)優勝後の「ジーコの正しさを証明したかった」という中村俊輔の言葉、あるいは「ジーコに恩返しをしたかった」という玉田圭司の言葉が、ジーコ政権下の日本代表のベースにある信頼関係をあらわしていた。また、代表というチーム特有の練習期間の少なさを考慮に入れ、戦術的な共通理解を深めるために(就任前のカンファレンスによるジーコ講演より)、ある程度コンディションの低下が見られても、戦術の軸となる選手は一貫して使い続けた。一方で欧州組で結果を残していた松井大輔をはじめアテネオリンピックに参加した年代の選手への評価は低く、結局彼らの中でドイツW杯のメンバーに入れたのは駒野友一と茂庭照幸のみである。ただし、招集した人数は意外と多く試合出場選手の総数は57人である。[2](トルシエは総数で64人 )。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にフル代表デビューしている。
日本とジーコ
初来日
1990年に住友金属に入団する前からトヨタカップで来日(1981年フラメンゴ)、MVP受賞など日本とは縁があった。現在は日本を「第二の故郷」とコメントするほどの親日家であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つ母国ブラジルでは、そのおかげで日本がリスペクトされるようになり、「ジーコによって日本の印象は変わった」と言われている。
2011年6月に来日した際、「長男の妻は日系人」であることを明かし[28]、自身の孫が日本人の血を引くことに「日本との関係がさらに深くなるのは嬉しいこと」と語っている。
日本語
夕刊紙やスポーツ記事などに「日本に何年もいるのに日本語を喋ろうとしない」「日本語を全く習得していない」と書かれることがある[30]。
しかし実際は、本人はサッカー教室などで簡単な日本語の指示や受け答えをしている他、日本での自宅周辺の商店街、秋葉原の電化製品店、鹿嶋のショッピングモールなどで、日本語を使って買い物を行う姿が市民にも目撃されている。
また、2006年開催のFIFAワールドカップの最終予選、対北朝鮮戦(無観客試合)において、日本語で「(相手DFの)ライン見て!ライン!」と指示したり、試合終了後、インタビュー直前に日本語でチームスタッフと談笑する模様が放送されている(その時、テレビ局スタッフから声をかけられ、「え?何?」と答えてもいる)。
日本サッカー協会・強化委員長の田嶋幸三によると「ジーコはほとんど日本語がわかるが、誤解を生むことを避けるため通訳を通している。政治の世界と同じ」、ブラジルのビジネス誌「イスト・エ」のインタビューでは本人曰く「聞くのは出来るが早口だと無理、読み書きも無理」とのこと。
ちなみに、中田英寿やミシェル・プラティニとはイタリア語で会話をしていた。
恩
日本代表監督の大役を引き受けた理由について「もちろん金もある。しかしそれ以上に私は日本へ恩返しがしたかった」と、「恩返し」を強調するコメントをたびたび報道陣に伝えている。この恩に関して、日本サッカー発展のためと入団した鹿島アントラーズ時代に(当時格安の給金で世田谷区から電車とバスで通勤していた)、地域住民からの密な親睦があったなどの諸説逸話がある。
また監督就任中は「日本サッカー協会に雇われている身」と常に日本サッカー協会と志を共にするスタンスを取っており、監督として本来強化のために重要であるスケジューリングについても、ほぼ協会の意向に従っていた。但し、アジアカップ終了直後に強豪であるアルゼンチンとの親善試合を組むという方針をとった協会に異議を唱えたり(アルゼンチン戦後の会見より)、ワールドカップでは試合時間が広告代理店や在京キー局の意向で決められてしまう(ヨーロッパの昼間は日本の夜であるため高視聴率が得られやすい)ことを批判するなど、協会の強化方針に疑問を呈していた。
愛車
1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した車を長期に渡り愛車にしている。ちなみに愛車は1981年型トヨタ・セリカで、1985年に製造中止され年月が経つ上、さらに当時ブラジルは外貨流出を防ぐために外国車(完成車)の輸入を禁止していたこともあって、現在南米における稼働車としては超がつく希少車。副賞の自動車が外交問題になりはしないかと大会関係者は心配したが、ジーコは「フィゲイレド大統領に電話するから」と言ってあっさり輸入許可を得て、この車を持ち帰った。
日本代表監督時は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもある。2006年からはフーガに変わった。なお、本人曰く例のセリカは2014年現在、今でも現役であるとのこと。
2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命される。
その他
この節は言葉を濁した曖昧な記述になっています。
Wikipedia:言葉を濁さないを参考に修正してください。(2011年12月)
ファミリーコンピュータソフト「キャプテン翼II スーパーストライカー」に「アルツール・アンチネス・コインブラ」という選手がゲームのラストボスとして登場する。
1994年、エレクトロニックアーツよりスーパーファミコンソフト「ジーコサッカー」が発売された。
1994年6月22日、当時の総理大臣羽田孜より、日本サッカー界への貢献を評価して内閣総理大臣顕彰が贈られた。2011年現在でも外国人個人として唯一の受賞者である。
通訳によると来日当初は周囲とのレベルの違い(当然他の選手はアマチュアであり、ジーコとは大きな落差があった)に、練習後車の中で「俺は何をやっているんだ…」と葛藤したかと思うと、翌日になると「さあ、頑張るぞ!」と張り切るという様子を繰り返していたという。
サッカーファン以外にも消費者金融「レイク」のコマーシャルに長年出演していたことで知られる。
タバコ嫌いで知られ、日本代表の監督時代に、隠れて喫煙したスタッフを発見すると、「私は何事もわかっているんだぞ!」と激しく説教をしたという。以来、そのスタッフは、喫煙後の口臭剤が欠かせなくなったという。
嫌いな日本食は、きつねうどん[31]。「新・食わず嫌い王決定戦」の企画コンセプトは、「この食べ物の、ここが嫌い」であるため、実際は他の日本食同様に、好物であると思われる。
1998年のブラジル映画「陽だまりのイレブン」(原題 Uma Aventura de Zico ズィッコの冒険)にジーコ本人役と、厳格なジーコと陽気なジーコに分裂した「ジーコピー」の3役で出演。なお、夫人と息子もカメオ出演している。
茨城県鹿嶋市にあるショッピングセンターチェリオ1階には「ジーコ広場」があり、ジーコのブロンズ像が置かれている。普段は休憩スペースとして使われているが、営業時間内に鹿島アントラーズの試合がスカパー!で放送される場合は、無料で放映している。2004年2月8日には直筆の特大サイン、アントラーズに在籍したブラジル人選手のサイン寄せ書きを壁面に配置し、「ジーコ・ミニ・ミュージアム」と呼称し、当時日本代表監督だったジーコ本人が除幕を行うイベントを行った。
1991年の天皇杯予選では、当時日本大学1年生の岡野雅行(後に浦和レッズ加入)と対戦している。当時、日本大学サッカー部は大学リーグ二部であり、翌年からプロチームとなる住友金属としてはずっと格下であったため、ジーコはベンチスタートであった。しかし岡野雅行が2得点、他の選手も得点し前半終了時点で3-0で負けている状況に、ジーコが慌ててウォーミングアップを開始。後半最初からジーコ投入となった。岡野雅行の感想によると、「ジーコがピッチに出た途端、全ての空気が変わった。まずレフェリーの態度が変わった。明らかに相手(住金)のファウルでこちら(日大)のボールのはずなのに、判定は相手ボールだという。さあ、ジーコさん、フリーキックどうぞって。」結局、後半のジーコの活躍により住友金属が勝利したとのこと。(結果は日大4-5住金(前半 日大3-0住金、後半 日大1-5住金))
ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と選手たちのジャンクフードを没収。当時、選手寮の玄関脇で飼っていた雌犬(名前はヒメ)にそれらを次々と食べさせていた。毎晩のようにジャンクフードを与えられていたヒメは丸々と太ってしまったが、その様子を見てジーコは「お前ら選手のおかげで、可愛かったヒメがこんなに太ってしまった」とまた選手たちを叱責した。
1951(昭和26)年 竹中平蔵
経済学者
1952(昭和27)年
大森一樹
映画監督、脚本家
ケント・デリカット
1955(昭和30)年
タレント
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