2024年09月20日
パール・バックの“The child who never grew”(母よ嘆くなかれ)で発達障害と執筆脳について考える2
2 人間パール・バック
パール・バック(1892-1973)は、ウェスト・ヴァージニア州のヒルスボロで生まれ、生後4カ月で両親とともに中国の江蘇省の鎮江に渡った。そのため、英語と中国語は、堪能であった。その後、中国で過ごすも大学教育を受けるにあたり米国に帰国し、再び宣教師として中国に戻る。南京の大学で英文学を教えることになり、米国人宣教師のジョン・ロッシング・バックと結婚する。知的障害があるキャロルを授かる。1926年の南京事件の際は、長崎の雲仙に避難した。その様子は、「津波」に書かれている。その後、中国に戻り、本格的に作家として執筆活動に入った。
“The child who never grew”(1950)は、娘キャロルの回想であり、成長が止まってしまった我が子の病気の跡を辿るストーリーである。
出産ができなくなり、六人の孤児を養子として育て、ウェルカムハウスという養子仲介機関を設立した。その後、米国、アジアを問わず、子供の教育のためにパール・バック財団を設立し、平和活動の支援もした。
1960年にテレビ映画「津波」の撮影のために来日したこともある。
花村嘉英(2022)「パール・バックの“The child who never grew”(母よ嘆くなかれ)で発達障害と執筆脳について考える」より
パール・バック(1892-1973)は、ウェスト・ヴァージニア州のヒルスボロで生まれ、生後4カ月で両親とともに中国の江蘇省の鎮江に渡った。そのため、英語と中国語は、堪能であった。その後、中国で過ごすも大学教育を受けるにあたり米国に帰国し、再び宣教師として中国に戻る。南京の大学で英文学を教えることになり、米国人宣教師のジョン・ロッシング・バックと結婚する。知的障害があるキャロルを授かる。1926年の南京事件の際は、長崎の雲仙に避難した。その様子は、「津波」に書かれている。その後、中国に戻り、本格的に作家として執筆活動に入った。
“The child who never grew”(1950)は、娘キャロルの回想であり、成長が止まってしまった我が子の病気の跡を辿るストーリーである。
出産ができなくなり、六人の孤児を養子として育て、ウェルカムハウスという養子仲介機関を設立した。その後、米国、アジアを問わず、子供の教育のためにパール・バック財団を設立し、平和活動の支援もした。
1960年にテレビ映画「津波」の撮影のために来日したこともある。
花村嘉英(2022)「パール・バックの“The child who never grew”(母よ嘆くなかれ)で発達障害と執筆脳について考える」より
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