早速、翌日から職探し。
皿洗いや組み立て配線工、自転車での配達等経験しましたが、日給が5百円程度と安く、生計を維持するには無理がありました。
そこで日給8百円で、なんとか生活可能なトラックの助手の仕事を見つけ、会社の寮へ入れてもらいました。
毎日、鈴や亜鉛のインゴットを満載し配達周りの力仕事でしたが、運転手は荷物には何一つ手をつけず、栄養不足と睡眠不足の体には過酷な仕事でした。
過労の為なのだろうか。腰がふらつき、時々目まいが襲います。
作業中、荷物に指をはさみ、潰してしまいましたが病院へ行く金もなく、休めば食べていけません。
潰れた指を手袋で隠し、なにげない様子で翌日も働き続け、あまりの痛さに指が腐るのではないかと、心配でしたが何時の間にか治りました。
人は過酷などん底生活の中、己の体につけた傷跡や心に染み込んだ教訓は、生涯忘れられません。
今でも辛い時は、傷跡を見、あの時の痛かった事、情熱をぶつけて頑張っていた時の事を思い出しながら過ごしており、以後、どのような試練が襲いかかろうとも耐えていける、という自信がついたのは、大きな財産になりました。
都内は交通渋滞で、定刻に会社へ戻れません。
神田の会社から蒲田のテレビ専門学校迄、駅の改札やホームを一目散に走りまくります。
一分一分が大事で、ドロボウが逃げ、走りまくっているように見えた事でしょう。
夕食の時間がなく、15分間の休憩時間に食堂へ走ります。
食堂のおばさんが、私の駆け込みを知っていて、食事を用意してあり、それを胃袋に流し込み、寮へ帰ると12時、このリズムが続きました。
休みの日は、街頭テレビを見るのが唯一の楽しみ。
どんなに辛くても、魔法の箱の中味は必ず解明しようと自分に言い聞かせ、無事卒業。
何んとしても、テレビの仕事に就きたい。
一途な夢は、番組制作技術プロダクション(株)東通、後に八峯テレビ、現フジメディヤテクノロジー、に入社し実現しました。
面接試験時、身元保証人が本土にいない事を指摘され、保証人ではなく本人を信用して欲しいと要請。
採用は無理かと思いながらも寒い中、郵便受けの前で待ち続け採用通知を受けた時の喜びは、天にも昇る思いでした。
そして辛かった過去を振り返り、何時もはパンの耳をふやかして食べる食器代わりのコップ酒、一人でしみじみ飲み乾しました。
別れの杯を交わした、父の顔がはっきり浮かんできます。
後戻りは出来ない!
前へ進むしかない!