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2024年11月01日

f1014大パニック


急に走り出す事を全く想定していなかったので、心の準備が出来ておりません。
いきなりバランスを崩し「どう成っているんだ! あー あ〜!」と見事に転倒。
瞬間、恐怖と驚きで頭の中は大パニック、「止めろ! 止めろー!」と絶叫してしまったのだ。
周りは何事が起きたのか、と一斉に注目、総立ちになりました。
昔の電車、急発進、オーバーランは日常茶飯事。
電車は何事もなく走り出しているのです。
四つん這いになり、起き上がる時、総立ちで見ている人々の視線の冷たさ。
田舎者! バカ! トンマ! いい加減にしろ! と言いたげな視線は、今でも忘れられません。
車内の今にも吹き出したい気持ち、我慢しながら見ている視線を一身に受け続ける事は、なんとも気まずいもので、恥ずかしさを通り越し、居たたまれない雰囲気。
追われるように次の駅で飛び降り、後続電車に乗り換えました。
また、右を向いても目、後ろを向いても目、だらけ。
東京の人の多さには、これまたびっくり、超たまげ〜
島の住人は、二百数十人程度で殆んどの人が顔見知り。
例え知らない人でも、道ですれ違う時は挨拶を交わしながら、すれ違います。
東京の人、一人一人に挨拶をしていたのでは前へ進めません。
挨拶は止めました。
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f1013 画像


発電車
(徳島の読者より我が県に電車が無い、沖縄にはモノレールが有るとの指摘。ひかるが上京時、沖縄本島にでもモノレールは無かった)

f1012 初! 自動ドア


昭和38年4月、一週間も船に揺られやっと東京晴海港着。
当時の沖縄は米国統治下、パスポート持参、勿論飛行機は飛んでおりません。
上京にはどうあがいても一週間必要でした。
沖縄は電車のない県ですが、島には車や耕運機すら無く自転車すら数台しかありませんでした。
当然お金持ちしか自転車は持てなかった。
電車という乗り物は初めての体験。
けたたましく責め立てるベルに、前の人に連られ急いで乗り込みました。
すると、あまりにもタイミング良く待っていたかのように、ゴロゴロとドアが背後で閉まったのです。
生まれて初めて見る自動ドア。
好奇心旺盛な少年は、ドアに目が付いているはずだ・・
ドアの目がどこに付いているのか、と探しておりました。
次の瞬間、電車は走り出したのです。
自然の息吹と共に伸び伸びと育った、少年の初めての電車。

f1011 生き別れ


今更、船から飛び降り戻る訳にはいかない・・
戻れない・・
親子の全てを断ち切った!
木の葉のような橋渡船の父に、最後の別れを一言。
「許してくれ! 息子は亡き者と諦めてくれ・・!」
心底絞り出す言葉は、声になりません。
千切れんばかりに手を振り、今後の無事をひたすら願うしかありませんでした。
船は全ての未練を断ち切り、一路北へ・・・
この船の進む先に、ロマンがある・・
そしてテレビがある・・
過酷な試練が、刻々と近付いているのも露知らず・・
ひかる少年は帆先へ立ち、目を大きく見開き、未来を見つめるだけでした。
(これから先、ひかるはテレビ界で縦横無尽に活躍、結果的に両親の死水は取れなかった)

f1010 夕陽の涙


年老いた両親と体の不自由な妹を島に残し、旅立つ息子は親不幸なのだろうか・
10歳の遊び盛りに、足の不自由な妹の遊び相手は誰がするのだろうか・・
何時迄も、何時までも元気に暮らして欲しい・・・
夕陽は周り一面を真っ赤に染め、西の海へ深々と物悲しく沈んでいきます。
なびく髪、風さえも赤く染められ、心に滲み渡る蛍の光。
大海原に落とす夕陽の涙は、今生の別れを惜しんでいるのだろうか・・
無常にも二度目の汽笛は空と海へ途切れ、鳴り渡るドラの音に一段と激しく身を揺するエンジン振動。
溢れる涙に視界はこぼれ落ちて行きます。
未練の糸なのだろうか、夕日に赤く染まった海面に尾を引く白い航跡。
橋渡船の父と本船の少年は、縋る甲斐なく引き離され、大きな人生の別れをするのでした。
この先、妹は兄の帰りを待ち切れなかった。
東京がどんなに厳しい戦場なのかつゆ知らず、松葉杖を突いて着の身着のまま兄を頼りに上京。
地を這う生活苦の中、独学にて国家試験縫製技能一級、更に特級を取得。
東京都の身障者教育に身を捧げる事に成る。

2024年10月30日

f1006 小児麻痺


ひかる11歳、妹が3歳の昭和29年夏。
父は漁へ出かけ、母は野良仕事。
やっと走りまわれるようになった、妹の遊び相手をしていると、元気がなくなり、そのうちグッタリ倒れてしまいました。
急いで母を呼び戻した頃には、泣き声一つ出す力さえなく、痙攣の合間に断続的にひきつけを起こす程の異常な高熱。
40度以上の高熱が続いているのだろうか。
火照った体は風呂上がり状で、体内はそれ以上の高温でしょう。
解熱剤なるもの、薬と呼べるものは何一つなく、助けを求めるにも近所には誰一人いません。
母は知恵熱やカゼ、普通の発熱でない事を咄嗟に感じ取っていたのでしょう。
取り乱し、「助けて欲しい!」と叫ぶその只事でない形相に、命に危険が迫っている事が感じられます。
次々と他界した、三人の子供達の事が脳裏をよぎっているのだろうか。
脈をとったまま、水!、水をくれ、との催促に冷たい井戸水を汲み続けました。
母は無我夢中で冷やし続け、その甲斐あったのか数時間続いた引き付けは、徐々に治まって行きましたが、あまりにも高熱が続いたせいなのか、後遺症が残り片方の足が完全にマイしてしまいました。
当時聞いた事も無かった小児マヒ、にかかったのです。
この嵐のような出来事が、これから先、一家に試練を背負わせる事となったのです。
島では見た事も聞いた事もない、初めての発病。
小児マヒに関する知識がなく、周りの子供達に伝染するのではないかと見られ、精神的には完全に隔離状態。
母は物の怪に取り憑かれたように祈祷師を回り、西の方角にある木が災いしている、と聞けば必死で切り押す。
父は直さなければ、手術をしなければ、金を作らなければ、と毎晩、財布を広げ、わずかばかりの、増えもしない金を数えるばかり。

f1005 3文字


情報の全くなかった島、電波など考えられなかった島で育った少年には、そんな望遠鏡が有るはずがない!
魔法使いにでも出来ないはずだ、と思えるのでした。
しかし、何度読み返しても5コマ漫画は同じ答えしか出してくれません。
以後、テレビの3文字は少年の脳裏に焼き付けられたのです。
どうしても映画が観たい・・
この映画が、家に居ながら観られる・・
だったらテレビを勉強してみたい・・
解明してみたい・・
何時の間にか、ひかるは5コマ漫画の世界へ夢を膨らませ、魔法の箱解明に人生を賭けてみたい、と行動を起こすのでした。
今考えると携帯やTVラジオもない電気もない南端孤島でどうやって白黒TV時代TV業界へ繋がるルートを検索できたのか不思議です。
二歳年長の先輩が蒲田の工学院へ入りカラーTV学科が出来たとの報に飛びついたのです。
当時4月10月入学、ひかるは5期生でしたから直後で、TBSフジテレビ資本折半企業第一期生入社出来たのです。
微かな情報、チャンス、藁をも縋る可能性に命を捨てる覚悟で臨む、上京時の地を這う生き様は無駄でなかった。結果昭和40年から40年間番組作り、元祖テレビマンが貫けました。

f1004 挑戦!TV界


昭和18年8月、八重山地区の黒島にひかる誕生。
出産設備や病院のない島、生まれた男の子を含め次々と3人が他界した後、3歳違いの長女に続く男子誕生で、両親の喜びはひとしお、八年後、母43歳で妹が誕生、妹は高齢出産の子、特別可愛がられ幸せな五人家族でした。
小さな島には電気はなく、勿論、水道もありません。
情報と呼べるものは、特にありません。
飲み水は雨水を瓶に溜め、大事に飲みます。
ボウフラが湧き、瓶の首をコント叩き、潜った瞬間すくって飲む、ボウフラとの協同生活。
ランプのホヤを拭くのは、大人の手が入らないので子供の仕事と言われ、何の抵抗もなく毎日拭かされ、何度かホヤを割り叱られて育ちました。
サンゴ礁で出来た島では、岩だらけの合間に点在する、猫の額程の畑を耕し、家庭菜園に毛が生えたような自給自足の生活。
小学校高学年の頃には、島の貧しい生活に見切りを付け、石垣島や沖縄本島へと引っ越す家が多くなり複式学級制へと移行していきます。
そんな中でも、子供達にとって一番の楽しみは、夏休みや冬休みに12キロ離れた石垣島へ渡り、映画を見る事でした。
しかしひかるの家は特に貧しく、石垣島へ渡る船賃や映画代等とても考えられず、その日暮しの状況。
子供同士で映画のシーンや仕草の真似をしながら遊ぶ時が一番悔しく、どうしても仲間に入っていけません。
一度で良いから、映画が観たい・・・
お願いだから、映画を観せて欲しい・・・
きっと来年は映画を観せて貰える、と懸命に畑仕事を手伝う。
待ちに待った夏休み、しかし夏休みは日一日と過ぎ、夢は空しく消えて行きます。
必ず正月には観せる、と父が約束。
なお一層小さな体で両親を手伝いましたが、それでも夢は叶えられませんでした。
約束を守って欲しい・・・と無理に言い出せません。
親が一番辛いのは、子供心にも分かっています。
中学2年生の時でした・・・
マンガ本の片隅に、5コマ漫画でコタツに入りながら映画が観られる。
「これがテレビだ」と書いてありました。
目を疑い、もう一度読み直しましたが、何度読んでも同じ答え。
家に居ながら映画が観られる?
本当にそのような事が出来るのだろうか?
映画館の無い島、焼玉式エンジンのポンポン船で行き来する、別の島で上映される映画がこの家で観られるはずがない・・

f1003 貴重な財産


台風情報を一番先に捉える、日本南端の石垣島気象台で知られています。
南の島々は空から見下ろすと全てサンゴ礁で縁どられ、そこへ打ち寄せるさざ波は白くリング状に取り巻く。
鮮やかなコバルトブルーから、濃いネイビーブルーへと変化。
まばゆい紺碧、膨大な絵の具を流し込んだのではないか、とさえ思われる風光明媚な大自然が豊富に残されています。
またこの地区は郷土芸能の宝庫とも言われ、マタハーリヌ、チンダラカヌシャマヨー、と歌われる、沖縄県を代表する安里屋ユンタ等、数多くの民謡や踊りを生み、方言や風習等、貴重な財産として引き継がれ、サンゴの種類や規模の大きさ等でも世界屈指の群棲地として注目の的となっています。
現在、テレビは全国の家庭に入り込み生活の一部となっている事は言うまでもありません。
信じがたい事ですが、この地区は5万人もの人口を有するにも関わらず平成5年末迄、NHK以外の民放テレビの電波が届きませんでした。
沖縄本島迄450キロ、中継局が作れずテレビの最後の未開地でした。
60年前、この地区の周囲12キロ、人口二百数十人という小さな太平洋に浮かぶ琵琶湖程の島から、ひかる少年がテレビにロマンを求め、風呂敷包とパスポートを携え旅立ちました。
さて、どんな人生になるのでしょうか・・・
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