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2019年01月05日
第3章:イスタンブールの洗礼
どうもメルハバ!
今回は第二章の続きで、いよいよイスタンブールでの生活が始まります。初めての方は、先に第一章から読むことをお勧めします。
↓↓
https://fanblogs.jp/emirturkiye/archive/3/0
福島の田舎で育ちで、英語もトルコ語も話せない男がトルコ最大の都市で一体どんな洗礼を受けたか?
それではどうぞ!
。。。。。。。。。。。。。。。。。。
日本で身の回りの整理を終え、家族にも事情を伝えしばらく会えないことを説明し、僕は再びイスタンブールに戻ってきました。カッパドキアにて会社の社長に働く旨を伝えていたので、日本からの片道切符を手配してもらっていましたが、実は出国前成田空港のカウンターにて早速これから起きる困難の兆しが見え始めるエピソードがあります。
チケットカウンターにて搭乗手続きをしようとした際「片道しかチケットがない状態で、行先の国の在留許可証がない場合は誓約書を書いていただきます」と言われ、初め何でこんなこと言われてるのか分かりませんでした。「帰国のチケットがない場合は、入国の際に拒否される場合があります。お客様は滞在許可証等をお持ちですか?
はい????
そう、僕はこの時まだ滞在許可証というものを知らなかったのである。
「持ってませんが、向こうで働くことになっているので会社が手配してくれることになっています」
と、強がりを言いましたが、内心物凄くビビっていました。
会社からは何も言われていないので、現地に行ったら最初に解決しないとまずいことになる・・・と焦りました。とりあえず誓約書を書いて出国し、そして夕方にイスタンブールに到着し、とりあえずヨーロッパサイドのレベントという地区に向かいます。
理由は事前にカッパドキアで知り合ったガイド友達の好意で、イスタンブールに住んでいる別な友達が迎えに来てくれる段取りになっていたので、指定の場所らしきところに来た時点で連絡を入れました。
しかし、何回メッセージを送っても、一向に返事がありません。
「まぁ見たらそのうち心配して来てくれるだろう」
等と考えていましたが、それは甘い考えだったと後で気づかされます。待てども待てどもそれらしき人が誰も来ません。そこはレベント地区の地下鉄4レベント駅の目の前で、そこはヨーロッパサイド一のオフィス街のようなところです。到着してから数時間は駅から出てくる人たちがごまんといますが、さすがに11時を過ぎると少なくなります。何百人と人の行き来を見て、その場で待っている自分のことを考えた時、まるで忠犬ハチ公にでもなった気分でした。最終的に僕はその場でおそらく5時間は待ったと思いますが、結局誰も来ませんでした。ここでようやく気付きます。どうやら僕はすっぽかされたようです。
言葉も分からない、誰も助けがいない、そんな状況で物凄く不安でしたが、もうどうしようもないと思った僕は近くの地下鉄駅で野宿することにしました。すでに時計は夜の12時を回っており、シャッターは閉まっていましたが、持ってきたスーツケースを椅子代わりにして壁に寄りかかり、待ってる間に買ったゴマ付きリングパン「スィミット」をかじり飢えをしのぎます。このスィミットは、それだけで食べるのは僕はあんまり好きではありませんでしたが、その時はご馳走のように美味しかったのは忘れられません。
イスタンブール生活一日目、僕は見事にトルコの洗礼を受けたのです。
「なんて幸先の悪いスタートなんだろう、先が思いやられるなぁ・・・」と考えながらウトウトし始めます。しかし、野宿しようと思ったものの、勝手がわからない外国の地で野宿するということを考えれば考えるほど怖くて寝れません。しかし、そこでなんと救いの手が現れます。壁に寄り添って寝ようとしていましたが、怖くて一向に寝れない僕に、駅の前で客を待っていた流しのタクシーのおっちゃんが声をかけてきたのです。
何を言ってるのか理解出来ませんでしたが、しきりに「ホテル&’#’$#%&ホテル&%$」とホテルと言ってるのだけは分かったので多分連れてってくれるんだろうと思いましたが、同時にタクシーの運転手は信用するなと言われていたので躊躇しました。
しかし、このまま外で野宿するのは怖いし、これで騙されたならもうそれまでだと腹をくくり乗せてもらうことにしました。移動中、分からないながらも話をしようとして、自分が日本人だと言ったらなんだかおっちゃんは少しテンションあげて喋っていました。
数分後、地下鉄駅からそんなに離れていない場所のホテルに到着しました。ホテルといっても2つ星くらいの小さなホテルですが、その時の僕にとっては立派なホテルでした。
到着後タクシーのおっちゃんは降りて中までついてきてくれて、なんと僕の代わりにレセプションに話をつけてくれたのです。疑った自分がちょっと恥ずかしくなりました。僕はおっちゃんに感謝し、ちょっと多めにタクシー代を払い、僕はようやく暖かいベッドに横たわることができました。
一日で天国と地獄を味わった気分でした。こんなスリルは福島で経験したことないし(普通あるわけないけど)、初日からこれではこの先どうなるんだろうと不安になりますが、とにかく明日会社に行かないと始まらないと思い、もう寝ることにしました。
かくしてトルコのイスタンブールでの一日目は、予想だにしないハプニングとおっちゃんの優しさに触れ、まるでこれから起きる山あり谷ありのイスタンブールライフを体現しているかのようでした。
今回はここまでです。こんなことあったな〜と今では笑い話ですが、なかなかできない貴重な体験をしたと思います(笑)
まだまだイスタンブールでの生活は始まったばかりです。これからどういう展開になるのか、続きはまた次回にご期待ください。
それではホシュチャカルン!
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今回は第二章の続きで、いよいよイスタンブールでの生活が始まります。初めての方は、先に第一章から読むことをお勧めします。
↓↓
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福島の田舎で育ちで、英語もトルコ語も話せない男がトルコ最大の都市で一体どんな洗礼を受けたか?
それではどうぞ!
。。。。。。。。。。。。。。。。。。
日本で身の回りの整理を終え、家族にも事情を伝えしばらく会えないことを説明し、僕は再びイスタンブールに戻ってきました。カッパドキアにて会社の社長に働く旨を伝えていたので、日本からの片道切符を手配してもらっていましたが、実は出国前成田空港のカウンターにて早速これから起きる困難の兆しが見え始めるエピソードがあります。
チケットカウンターにて搭乗手続きをしようとした際「片道しかチケットがない状態で、行先の国の在留許可証がない場合は誓約書を書いていただきます」と言われ、初め何でこんなこと言われてるのか分かりませんでした。「帰国のチケットがない場合は、入国の際に拒否される場合があります。お客様は滞在許可証等をお持ちですか?
はい????
そう、僕はこの時まだ滞在許可証というものを知らなかったのである。
「持ってませんが、向こうで働くことになっているので会社が手配してくれることになっています」
と、強がりを言いましたが、内心物凄くビビっていました。
会社からは何も言われていないので、現地に行ったら最初に解決しないとまずいことになる・・・と焦りました。とりあえず誓約書を書いて出国し、そして夕方にイスタンブールに到着し、とりあえずヨーロッパサイドのレベントという地区に向かいます。
理由は事前にカッパドキアで知り合ったガイド友達の好意で、イスタンブールに住んでいる別な友達が迎えに来てくれる段取りになっていたので、指定の場所らしきところに来た時点で連絡を入れました。
しかし、何回メッセージを送っても、一向に返事がありません。
「まぁ見たらそのうち心配して来てくれるだろう」
等と考えていましたが、それは甘い考えだったと後で気づかされます。待てども待てどもそれらしき人が誰も来ません。そこはレベント地区の地下鉄4レベント駅の目の前で、そこはヨーロッパサイド一のオフィス街のようなところです。到着してから数時間は駅から出てくる人たちがごまんといますが、さすがに11時を過ぎると少なくなります。何百人と人の行き来を見て、その場で待っている自分のことを考えた時、まるで忠犬ハチ公にでもなった気分でした。最終的に僕はその場でおそらく5時間は待ったと思いますが、結局誰も来ませんでした。ここでようやく気付きます。どうやら僕はすっぽかされたようです。
言葉も分からない、誰も助けがいない、そんな状況で物凄く不安でしたが、もうどうしようもないと思った僕は近くの地下鉄駅で野宿することにしました。すでに時計は夜の12時を回っており、シャッターは閉まっていましたが、持ってきたスーツケースを椅子代わりにして壁に寄りかかり、待ってる間に買ったゴマ付きリングパン「スィミット」をかじり飢えをしのぎます。このスィミットは、それだけで食べるのは僕はあんまり好きではありませんでしたが、その時はご馳走のように美味しかったのは忘れられません。
イスタンブール生活一日目、僕は見事にトルコの洗礼を受けたのです。
「なんて幸先の悪いスタートなんだろう、先が思いやられるなぁ・・・」と考えながらウトウトし始めます。しかし、野宿しようと思ったものの、勝手がわからない外国の地で野宿するということを考えれば考えるほど怖くて寝れません。しかし、そこでなんと救いの手が現れます。壁に寄り添って寝ようとしていましたが、怖くて一向に寝れない僕に、駅の前で客を待っていた流しのタクシーのおっちゃんが声をかけてきたのです。
何を言ってるのか理解出来ませんでしたが、しきりに「ホテル&’#’$#%&ホテル&%$」とホテルと言ってるのだけは分かったので多分連れてってくれるんだろうと思いましたが、同時にタクシーの運転手は信用するなと言われていたので躊躇しました。
しかし、このまま外で野宿するのは怖いし、これで騙されたならもうそれまでだと腹をくくり乗せてもらうことにしました。移動中、分からないながらも話をしようとして、自分が日本人だと言ったらなんだかおっちゃんは少しテンションあげて喋っていました。
数分後、地下鉄駅からそんなに離れていない場所のホテルに到着しました。ホテルといっても2つ星くらいの小さなホテルですが、その時の僕にとっては立派なホテルでした。
到着後タクシーのおっちゃんは降りて中までついてきてくれて、なんと僕の代わりにレセプションに話をつけてくれたのです。疑った自分がちょっと恥ずかしくなりました。僕はおっちゃんに感謝し、ちょっと多めにタクシー代を払い、僕はようやく暖かいベッドに横たわることができました。
一日で天国と地獄を味わった気分でした。こんなスリルは福島で経験したことないし(普通あるわけないけど)、初日からこれではこの先どうなるんだろうと不安になりますが、とにかく明日会社に行かないと始まらないと思い、もう寝ることにしました。
かくしてトルコのイスタンブールでの一日目は、予想だにしないハプニングとおっちゃんの優しさに触れ、まるでこれから起きる山あり谷ありのイスタンブールライフを体現しているかのようでした。
今回はここまでです。こんなことあったな〜と今では笑い話ですが、なかなかできない貴重な体験をしたと思います(笑)
まだまだイスタンブールでの生活は始まったばかりです。これからどういう展開になるのか、続きはまた次回にご期待ください。
それではホシュチャカルン!
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2019年01月04日
トルコ一有名な男
どうもメルハバ!
皆さんはトルコで一番有名なのは誰か知っていますか?
僕の中での有名の定義は、今ならやはりSNS のフォロワー数の多さでしょう。
それで考えると、もう一人しかいません。
それは。。。。。。。
「Nusret(ヌスレット)」です。フルネームは「Nusret Gökçe(ヌスレット・ギョクチェ)」通称トルコ肉屋界のゴッドファーザー。
2019年1月現在のインスタグラムフォロワー数は、約18.5M (1850万人)で、日本で一番フォロワー数が多いであろう渡辺直美さんの約2倍です!
そしてツイッターのフォロワー数は35.8K(358万人)です。
特にインスタグラムのフォロワー数は、有名なスポーツ選手でだいたい1M〜5M(100万~500万)なので、それを考えると物凄い数です。
その雪を降らせるような華麗な塩振りポーズから、「塩兄貴」とか「塩の恋人」なんて呼ばれてる超有名人で、ここ数年で一躍時の人となりました。
彼のステーキハウスはトルコ国内だけでなく、今ではドバイやアメリカに数店舗、国外にも多数の店舗を構えており、連日彼に会うためお客さんが押し寄せお店は満員。彼も世界中を飛び回っているセレブです。しかし、若いころは貧乏な家庭に育ち苦労したようで、彼自身は小学校までしか出ていません。その後13歳で家計を助けるため、イスタンブールにある肉屋で働き始めます。そして16歳まで働きながら修行し、その後2009年に渡米。さらにそこで修業し、トルコに戻り最初の自分の店を持ったときは店の前に出て、男泣きしたんだそう。
ちなみに名前のNusretの最後がEtで、これはトルコ語で肉という意味なので、産まれた時から肉屋になることは運命だったのかもしれません(笑)
彼は塩振りポーズも有名ですが、彼自身がインスタグラムに投稿している調理動画ももうエンターテイメント性抜群です。
実際に「nusr_et」で検索して見ていただけると分かりますが、その鍛え上げられた肉体と長年培った包丁スキルを駆使しての肉さばきは圧巻の一言。そして肉を叩きつけ、飛ばし、豪快にオーブンに放り投げ、出来上がった肉にお決まりのポーズで塩を振るまでが彼のシグネイチャームーブ、一連の動作として有名です。マフィアな雰囲気と豪快な調理、そしてファンサービスも人気で、最後は目の前に運んできた肉をノールックで切り、有名人に塩を振らせるのがウケているよう。
でも何でこんなに有名になったのかは、僕が知っている限り有名なバスケットボール選手が、あの塩振りポーズを真似したからだと思います。
僕はアメリカのプロバスケットボールNBAをよく見ます。
で、ゴールデンステートウォリアーズと言うチームに、ステフィン・カリーというスーパースターがいます。
その彼が、2年ほど前に敵チームを軽く蹴散らした表現として、ツイッターでこの塩降りポーズの写真を使ったところ一気に爆発したんです。
以後このポーズを見に(やりに)彼のお店には有名人が後を絶ちません。その来店した面々を一部紹介します。
リオネル・メッシ
ディエゴ・マラドーナ
ポール・ポグバ
デビッド・ベッカム
レオナルド・ディカプリオ
DJキャレード
等々スポーツ選手だけでなく、著名な俳優やエンターテイナーも数多く来店してます。
過去にレアルマドリードの優勝式?にも参加して、ロナウドやウィリアン、モドリッチとのツーショットもあります。
まあ僕も最初は「なにやってんだこの人」と思いましたが、今では調理動画のファンです。
こんな有名な人が日本で無名だなんて、僕は信じられません。ネットでは一部で人気のようですが、まだまだ有名とは言い難いと思います。でも近い内に、日本にも進出して一躍有名になるんじゃないかと思います。。。
皆さんも是非フォローして、この肉屋が織り成すエンターテイメントを堪能してください。一度ハマったら最後、中毒性抜群です(笑)
それではホシュチャカルン!
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皆さんはトルコで一番有名なのは誰か知っていますか?
僕の中での有名の定義は、今ならやはりSNS のフォロワー数の多さでしょう。
それで考えると、もう一人しかいません。
それは。。。。。。。
「Nusret(ヌスレット)」です。フルネームは「Nusret Gökçe(ヌスレット・ギョクチェ)」通称トルコ肉屋界のゴッドファーザー。
2019年1月現在のインスタグラムフォロワー数は、約18.5M (1850万人)で、日本で一番フォロワー数が多いであろう渡辺直美さんの約2倍です!
そしてツイッターのフォロワー数は35.8K(358万人)です。
特にインスタグラムのフォロワー数は、有名なスポーツ選手でだいたい1M〜5M(100万~500万)なので、それを考えると物凄い数です。
その雪を降らせるような華麗な塩振りポーズから、「塩兄貴」とか「塩の恋人」なんて呼ばれてる超有名人で、ここ数年で一躍時の人となりました。
彼のステーキハウスはトルコ国内だけでなく、今ではドバイやアメリカに数店舗、国外にも多数の店舗を構えており、連日彼に会うためお客さんが押し寄せお店は満員。彼も世界中を飛び回っているセレブです。しかし、若いころは貧乏な家庭に育ち苦労したようで、彼自身は小学校までしか出ていません。その後13歳で家計を助けるため、イスタンブールにある肉屋で働き始めます。そして16歳まで働きながら修行し、その後2009年に渡米。さらにそこで修業し、トルコに戻り最初の自分の店を持ったときは店の前に出て、男泣きしたんだそう。
ちなみに名前のNusretの最後がEtで、これはトルコ語で肉という意味なので、産まれた時から肉屋になることは運命だったのかもしれません(笑)
彼は塩振りポーズも有名ですが、彼自身がインスタグラムに投稿している調理動画ももうエンターテイメント性抜群です。
実際に「nusr_et」で検索して見ていただけると分かりますが、その鍛え上げられた肉体と長年培った包丁スキルを駆使しての肉さばきは圧巻の一言。そして肉を叩きつけ、飛ばし、豪快にオーブンに放り投げ、出来上がった肉にお決まりのポーズで塩を振るまでが彼のシグネイチャームーブ、一連の動作として有名です。マフィアな雰囲気と豪快な調理、そしてファンサービスも人気で、最後は目の前に運んできた肉をノールックで切り、有名人に塩を振らせるのがウケているよう。
でも何でこんなに有名になったのかは、僕が知っている限り有名なバスケットボール選手が、あの塩振りポーズを真似したからだと思います。
僕はアメリカのプロバスケットボールNBAをよく見ます。
で、ゴールデンステートウォリアーズと言うチームに、ステフィン・カリーというスーパースターがいます。
その彼が、2年ほど前に敵チームを軽く蹴散らした表現として、ツイッターでこの塩降りポーズの写真を使ったところ一気に爆発したんです。
以後このポーズを見に(やりに)彼のお店には有名人が後を絶ちません。その来店した面々を一部紹介します。
リオネル・メッシ
ディエゴ・マラドーナ
ポール・ポグバ
デビッド・ベッカム
レオナルド・ディカプリオ
DJキャレード
等々スポーツ選手だけでなく、著名な俳優やエンターテイナーも数多く来店してます。
過去にレアルマドリードの優勝式?にも参加して、ロナウドやウィリアン、モドリッチとのツーショットもあります。
まあ僕も最初は「なにやってんだこの人」と思いましたが、今では調理動画のファンです。
こんな有名な人が日本で無名だなんて、僕は信じられません。ネットでは一部で人気のようですが、まだまだ有名とは言い難いと思います。でも近い内に、日本にも進出して一躍有名になるんじゃないかと思います。。。
皆さんも是非フォローして、この肉屋が織り成すエンターテイメントを堪能してください。一度ハマったら最後、中毒性抜群です(笑)
それではホシュチャカルン!
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2019年01月02日
トルコ語についてちょっと解説
どうもメルハバ!
突然ですがみなさん、トルコ語ってご存知ですか?
普通に日本で生活していたら、まず耳にすることはほぼないですよね。
僕が思うに、日本人にとっての外国語の使用頻度はこうです。
@英語
A中国語、韓国語
Bドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語
Cその他の言語
なんじゃないかと思います。
トルコ語はこのCに当てはまる言語じゃないでしょうか?日本人にとってはマイナーな言語でしょう。
だがしかし!ちょっと待って下さい。
実はトルコ語は日本人にとって簡単な言語なんです。
僕はトルコ語が喋れます。自分で言うのもなんですが、ペラペラです。
その要因にはもちろん、実際に現地に住んでいたからというのはあります。でも、それだけではないんです。
僕はトルコ語の教授でも何でもないですが、ちょっと専門的なこと言うと、トルコ語は「ウラルアルタイ語族」に属します。そしてなんとこのウラルアルタイ語族の中には、日本語も含まれています!
このウラルアルタイ語族は他に、韓国語とモンゴル語なんかも含まれます。韓国語を勉強された方はお分かりだと思いますが、語順とか似てますよね?
つまり何が言いたいかと言うと、トルコ語も日本語と文法が似てるんです!
英語のように逆ではなく、日本語と語順が同じです。
しかも文字は基本のアルファベットに6つのトルコ語特有の文字があるだけ。しかも読み方はほぼローマ字読みです。
発音はちょっとクセがありますが、超カタカナ発音でも問題なく通じます。
こだわる人は、以下のポイントを気を付ければ更にトルコ人っぽくなります。
@子音のみの発音に気を付ける
Aトルコ語特有の母音「Ö、Ü、I」をきちんと発音する。
Bもちろんカタカナ発音をしない
僕的には、トルコ語は日本人がいちばん取っ付きやすい言語だと思っています。
だからぶっちゃけ、単語+簡単な動詞の変化さえ覚えてしまえばある程度通じます。
これについては、別な機会にトルコ語講座的なブログを用意します。
この語順が同じということは、僕がトルコに興味を持ったキッカケの一つです。
あんなに遠く離れた国の言語が、自分の母語と同じグループだなんて、なんだか魅力を感じませんか?
トルコ人の祖先はモンゴル辺りからシルクロードを通って西洋に入りました。だから昔の名残か、ジェンギズハンやティムールなんてモンゴル人っぽい名前もあります。
トルコ在住中、こんなニュースを見ました。それはトルコ人の祖先と言われる「Göktürk(ギョクテュルク)」と呼ばれる人達が、モンゴルの奥地で見つかったというニュースです。
見た目は遊牧生活をしているモンゴル人そのもので、目も細く、まんまアジア人ですが、話している言語は訛りはあるものの僕でも分かるトルコ語を話してました。
実際トルコ国内には、国籍はバリバリトルコですが、目が若干細い人とかもたまにいます。
それがきっとルーツだから、僕らと同じ言語に属してるんでしょうね
ちなみに実は、僕らは既に一つトルコ語を普段から使っています。
トルコ語で「いい(良い)」は「İyi(いい)」と言います。
意味も発音も全く同じです。
ですので皆さんも、「何か外国語を勉強したい」と思ったら、トルコ語を選んでみてはいかがですか?そしてもし、トルコに興味があり、トルコの文化を知りたいと思ったらトルコ語はマストです。どの言語を覚えるときもそうですが、言語は「好きな国の文化に参加するためのチケット」だと思っています。
このブログがトルコ語に興味を持つキッカケになったら嬉しいです
それではホシュチャカルン!さようなら
お名前.com
突然ですがみなさん、トルコ語ってご存知ですか?
普通に日本で生活していたら、まず耳にすることはほぼないですよね。
僕が思うに、日本人にとっての外国語の使用頻度はこうです。
@英語
A中国語、韓国語
Bドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語
Cその他の言語
なんじゃないかと思います。
トルコ語はこのCに当てはまる言語じゃないでしょうか?日本人にとってはマイナーな言語でしょう。
だがしかし!ちょっと待って下さい。
実はトルコ語は日本人にとって簡単な言語なんです。
僕はトルコ語が喋れます。自分で言うのもなんですが、ペラペラです。
その要因にはもちろん、実際に現地に住んでいたからというのはあります。でも、それだけではないんです。
僕はトルコ語の教授でも何でもないですが、ちょっと専門的なこと言うと、トルコ語は「ウラルアルタイ語族」に属します。そしてなんとこのウラルアルタイ語族の中には、日本語も含まれています!
このウラルアルタイ語族は他に、韓国語とモンゴル語なんかも含まれます。韓国語を勉強された方はお分かりだと思いますが、語順とか似てますよね?
つまり何が言いたいかと言うと、トルコ語も日本語と文法が似てるんです!
英語のように逆ではなく、日本語と語順が同じです。
しかも文字は基本のアルファベットに6つのトルコ語特有の文字があるだけ。しかも読み方はほぼローマ字読みです。
発音はちょっとクセがありますが、超カタカナ発音でも問題なく通じます。
こだわる人は、以下のポイントを気を付ければ更にトルコ人っぽくなります。
@子音のみの発音に気を付ける
Aトルコ語特有の母音「Ö、Ü、I」をきちんと発音する。
Bもちろんカタカナ発音をしない
僕的には、トルコ語は日本人がいちばん取っ付きやすい言語だと思っています。
だからぶっちゃけ、単語+簡単な動詞の変化さえ覚えてしまえばある程度通じます。
これについては、別な機会にトルコ語講座的なブログを用意します。
この語順が同じということは、僕がトルコに興味を持ったキッカケの一つです。
あんなに遠く離れた国の言語が、自分の母語と同じグループだなんて、なんだか魅力を感じませんか?
トルコ人の祖先はモンゴル辺りからシルクロードを通って西洋に入りました。だから昔の名残か、ジェンギズハンやティムールなんてモンゴル人っぽい名前もあります。
トルコ在住中、こんなニュースを見ました。それはトルコ人の祖先と言われる「Göktürk(ギョクテュルク)」と呼ばれる人達が、モンゴルの奥地で見つかったというニュースです。
見た目は遊牧生活をしているモンゴル人そのもので、目も細く、まんまアジア人ですが、話している言語は訛りはあるものの僕でも分かるトルコ語を話してました。
実際トルコ国内には、国籍はバリバリトルコですが、目が若干細い人とかもたまにいます。
それがきっとルーツだから、僕らと同じ言語に属してるんでしょうね
ちなみに実は、僕らは既に一つトルコ語を普段から使っています。
トルコ語で「いい(良い)」は「İyi(いい)」と言います。
意味も発音も全く同じです。
ですので皆さんも、「何か外国語を勉強したい」と思ったら、トルコ語を選んでみてはいかがですか?そしてもし、トルコに興味があり、トルコの文化を知りたいと思ったらトルコ語はマストです。どの言語を覚えるときもそうですが、言語は「好きな国の文化に参加するためのチケット」だと思っています。
このブログがトルコ語に興味を持つキッカケになったら嬉しいです
それではホシュチャカルン!さようなら
価格:2,592円 |
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2019年01月01日
第二章:僕がトルコに残った訳
どうもメルハバ!
今回は僕がトルコに渡った後、何でトルコに残ろうと思ったかを書きます。
ただ、第一章を読んでいない方は、先にそちらを見てから読むことをお勧めします。
↓↓
https://fanblogs.jp/emirturkiye/archive/3/0
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイハン先生に誘われ、日本語クラスに顔を出すことになった僕は、先生が迎えに来てくれたので早速クラスがある場所に向かいました。
クラスはアヴァノス地区にあるヒルトンダブルツリーホテルの一室を使っているようで、なんと僕が滞在しているホテルから徒歩でも10分くらいの場所でした。偶然過ぎる(笑)
で、クラスに到着すると。。。
おおー!!!!!
と大歓声😀
そのクラスの人たちはなんと全員プロのガイドで、これから増える見込みの日本人旅行者に向けて日本語を勉強しているとのことでした。来たからには役に立とうと、慣れないながらも精いっぱい頑張った結果皆に気に入られ、それから僕の滞在プログラムは面白いものになっていきました。
全員ガイドなので、授業がない日は僕をカッパドキアの穴場観光名所や、ローカルレストランに連れてってもらうなど、ノープランが一転毎日アクティビティーづくしになりました!
そんな中、後に僕のトルコ滞在を決定付ける人物と出会います。
授業がない日、買い物をしているとき突然
「日本人ですか?」
と一人の青年が日本語で話しかけてきました。
彼の名はブルハン、後に僕の親友になる人物です。
「私は日本が好きで日本語を勉強しています。もしよかったら、今ホテルで働いているので是非来てください。何かご馳走します」
そう言って勤務先のホテルの住所を教え、その日は去っていった。後日ホテルに行くと本当にホテルのレストランに招待してくれて、料理をご馳走してくれた。その後僕らは意気投合し、今度は自分の家に招待したいと言うので、これも承諾。彼の実家は、カッパドキアから30分ほど離れたカイセリという町のようで、また授業がない日に行くことになりました。
さて、いつものようにガイドの人たちと授業を進めていくにつれ、彼らの滞在しているパンションに入り浸るようになりました。そこはアヴァノス地区にあるパンションで、名前は「Tokmak konuk evi(トクマクコヌックエヴィ)」。アヴァノス中心を流れる川のほとりにあるモスクから、町の中心の噴水を越えてまっすぐ坂を上るとすぐ左側に位置しており、ホテルの横にすぐまた別なモスクがあるので分かりやすい。朝はとなりのモスクから、大音量のエザンが聞こえます(笑)
パンションのサイトは下記です。ああ懐かしい^^
http://www.tokmakkonukevi.com/
授業の後はいつもこのパンションの庭やテラスでみんなと喋ったり、ビールとナッツ片手に数時間だべって過ごしていたのは、今ではいい思い出です。ぶっちゃけこのブログ書いてる今、さっき載せたパンションのサイトを見たら、あの日の思い出が蘇ってノスタルジーに浸っています(笑)
彼らのおかげでベリーダンス、セマー、ギョレメ野外博物館、ウルギュップのハマム、絶品カッパドキア料理レストランなど、全てタダで入れて料理も奢ってもらうなど、至れり尽くせりの毎日でした。
そんな楽しい時間を過ごしていましたが、次第に帰国の日が迫ってきてます。
ある日、この間自宅に招待してくれたブルハンの所に行きました。彼は早速家族に僕を紹介すると、家族も美味しい家庭料理を作って待っててくれたようで、直ぐにおもてなししてくれました。その当時僕はトルコ語が分かりませんでしたが、雰囲気から彼がいかに日本人を招待できたことが嬉しいかが分かりました。
美味しい料理をご馳走になった後、彼はカイセリ市内を少し案内してくれました。
カイセリはとても商売上手な人を輩出する街で、名産物はトルコ風サラミソーセージの「スジュック」と、「パストゥルマ」というスパイスで味付けした干し肉が有名です。そんな街を案内してくれた彼は最後に街で一番大きいモスクに連れて行ってくれました。
そこで彼はなんと僕と僕の家族のためにイスラム式に祈りを捧げてくれました。
先日起こった東日本大震災のことを知っていた彼は、僕が来た理由も知っていたので家族が幸せになるようアッラーに祈ってくれたのです。
僕はそれを見て感動し、涙がでました。
彼に感謝すると同時に、こんないい人がいる国で何かしたいという気持ちが芽生えました。その日から、日本に帰ったらトルコ語を勉強してトルコに戻ってこようという決意を固め、滞在先のホテルに戻りました。
そして帰国まで残すところ5日となったところで、クラスの全員でバーベキューをして盛り上がっていたところ先生とガイドの人達からある提案を受けます。
「あと一か月ほど滞在して、私たちの授業を手伝ってほしい」
なんでも帰りのチケットは自分たちが旅行会社に言って何とかするからと言い、僕もブルハンの件でもっとトルコにいたいと思っていたから、それならばと思いもう一か月残ると約束をしました。
そして旅行プログラム終了残り3日、日本から来た僕らの団体は帰国の準備に向けてイスタンブールへ移動します。この時、クラスのガイド友達も二人ほど同伴して旅行会社に交渉に来てくれましたが、、、結果はなんとチケットの変更はできないということが分かり一同愕然。。。なんでも今回僕らが来るのに手配したチケットは、特別なチケットだそうで一切変更できないということでした。これを聞いて友人はショックを受けてましたが、一番ショックを受けたのは僕でした。仕方がないのでお互い意気消沈しながら別れを告げ、明日の帰国のため僕はイスタンブールのホテルに向かわざるを得なくなりました。
ホテル到着後、しばらく考え事をしていました。本当にこれでいいんだろうか。。。と。
残るって約束をしたのに、このまま帰ったらカッコ悪いんじゃないか。。。
こんなモヤモヤした気持ちで帰る訳にはいかないよな。
と、そう思った僕は、旅行会社に意を決意してこう言いました。
「帰りのチケットを破棄して新しいチケットを購入するんで、明日帰国しません」
これには旅行会社も驚きを隠せない様子でした。そりゃそうだわな^^;
代わりにすぐ自腹で新しいチケットを買いなおし、アイハン先生に伝えたところ
「すぐにカッパドキア行きのチケットを手配します。それくらいはこちらで何とかします」
そう言ってすぐチケットを手配してくれて、僕は本来なら日本に帰国する日、カッパドキアに戻っていました。そこには事前に連絡を受けていたクラスの友人が迎えに来てくれていて、再会のハグを交わし、直ぐにアヴァノスのホテルに直行。本日も授業があるとのことでクラスに戻った時、クラスの一同からは拍手と歓声が沸き起こります。全員と再会のハグを交わし、かくして僕はもう一か月トルコはカッパドキアに残ることになりました。
追加の一か月滞在中、プログラム中に滞在していたホテルにはもう居れないので、みんなの好意でみんなが宿泊しているトクマクパンションに移ることになりました。これで四六時中みんなと一緒に生活することになったので、更に打ち解けることができ、彼らはカッパドキアの名所を余すことなく案内してくれました。
カイマクル地下都市、ローズバレー、パシャバー、ウチヒサールカヤホテルでのディナーへの招待や、なんと気球にまで乗せてくれました!
そんな充実した時間を過ごしていましたが、今度は授業プログラムの終了が近づいてきました。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきますが、さすがに今回は僕も帰国するつもりだったのでそういう気持ちに切り替えていたところ、、、また面白いことが起きます。
ある日、いつも通り授業を行っていた時、彼らが所属している会社の社長が、イスタンブールから労いのあいさつの為に来たのです。社長は日本語が話せたので僕もあいさつし、ここに来たいきさつを話した後、アイハン先生と社長が何やら話し込み始めました。
で、二人が話し終わった後、社長から思わぬ一言が出ます。
「近い内に会社の日本人スタッフが一人辞めるので、貴方さえよければウチで働きませんか?」
一瞬頭が真っ白になりました。なんとなんと仕事のオファーをもらったのです!
「少し考えてみてください。返事はアイハン先生に言ってもらえれば大丈夫です。良い返事を期待してますよ」
これにはちょっと鳥肌が立ちました。トルコに住みたいと思っていた矢先に突然のオファーをもらい、驚きましたが嬉しいと同時に不安になりました。
なんせ仕事先は現地の旅行会社で、僕は旅行会社での仕事経験はないし、当時はトルコ語はもちろん英語も話せない状態でした。加えて日本にいた時も、大都市に住んだことない、福島の田舎でしか生活したことない僕が、いきなり1500万人規模の大都市イスタンブールで果たしてやっていけるのだろうかと、考えれば考えるほど不安が募ります。
なのでいてもたってもいられず、僕はブルハンに相談することにしました。
彼はまず、僕がトルコに残るチャンスを手に入れたことに喜ぶと、続けざまにこう言いました。
「絶対に残るべきです。貴方はトルコが好きだし、きっとそれ見たアッラーが貴方にチャンスをくれたんだと思います」
そして彼は、トルコ語で一つ諺を教えてくれました。
「Allah bir kapıyı kaparsa bir kapıyı açar」
「アッラーは一つの扉が閉まった時、別な扉を開けてくれる」
ブルハン曰く、震災で日本側の扉が閉まってしまったから、別な扉として今、トルコの扉をアッラーが開けてくれているんだそう。
「あとは貴方が決めることです。アッラーの加護がありますように」
その夜、僕はまた考えていました。
日本に戻った場合と、トルコに残った場合の未来を想像してみたところ、日本に戻った場合はいつも通りの日常に戻る姿が容易に想像できました。でも、トルコに残った場合の未来は全く想像できませんが、難しい道になることだけは感じていました。が、ここで僕が身上としている言葉を思い出します。それは
「最も困難な道こそ進むべき道」
これは「孤高の人」というある登山漫画に出てくるセリフで、主人公が人生と山登りの難しい局面に直面した時に発した言葉です。
この言葉のおかげで最後の踏ん切りがつき、次の日僕は、アイハン先生にイスタンブールで働きたい旨を伝えました。先生はニコリと笑い、
「あなたならそう決断すると思いましたよ。なんせ私達との約束を守ってクラスに戻ってきてくれましたからね。イスタンブールでの生活は大変かもしれませんが、きっといい経験になります。貴方にアッラーの加護がありますように」
先生は僕の返事を社長に伝え、かくして僕は正式にイスタンブールの会社で働くことになりました。
一度身の回りの整理をするため日本に一時帰国し、親にもこのことを告げたところ初めは驚いていましたが、「こんなチャンスは滅多にないから、頑張ってこい」と最後は納得してくれました。そして身の回りを整理した後、こうして2011年7月14日、僕は再びイスタンブールに戻ってきたのでした。
今回はここまでです。今思うと相当無茶したな〜と思いますが、今ではすべていい思い出です。
第三章に続きます。こうご期待ッ!それではホシュチャカルン!
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今回は僕がトルコに渡った後、何でトルコに残ろうと思ったかを書きます。
ただ、第一章を読んでいない方は、先にそちらを見てから読むことをお勧めします。
↓↓
https://fanblogs.jp/emirturkiye/archive/3/0
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイハン先生に誘われ、日本語クラスに顔を出すことになった僕は、先生が迎えに来てくれたので早速クラスがある場所に向かいました。
クラスはアヴァノス地区にあるヒルトンダブルツリーホテルの一室を使っているようで、なんと僕が滞在しているホテルから徒歩でも10分くらいの場所でした。偶然過ぎる(笑)
で、クラスに到着すると。。。
おおー!!!!!
と大歓声😀
そのクラスの人たちはなんと全員プロのガイドで、これから増える見込みの日本人旅行者に向けて日本語を勉強しているとのことでした。来たからには役に立とうと、慣れないながらも精いっぱい頑張った結果皆に気に入られ、それから僕の滞在プログラムは面白いものになっていきました。
全員ガイドなので、授業がない日は僕をカッパドキアの穴場観光名所や、ローカルレストランに連れてってもらうなど、ノープランが一転毎日アクティビティーづくしになりました!
そんな中、後に僕のトルコ滞在を決定付ける人物と出会います。
授業がない日、買い物をしているとき突然
「日本人ですか?」
と一人の青年が日本語で話しかけてきました。
彼の名はブルハン、後に僕の親友になる人物です。
「私は日本が好きで日本語を勉強しています。もしよかったら、今ホテルで働いているので是非来てください。何かご馳走します」
そう言って勤務先のホテルの住所を教え、その日は去っていった。後日ホテルに行くと本当にホテルのレストランに招待してくれて、料理をご馳走してくれた。その後僕らは意気投合し、今度は自分の家に招待したいと言うので、これも承諾。彼の実家は、カッパドキアから30分ほど離れたカイセリという町のようで、また授業がない日に行くことになりました。
さて、いつものようにガイドの人たちと授業を進めていくにつれ、彼らの滞在しているパンションに入り浸るようになりました。そこはアヴァノス地区にあるパンションで、名前は「Tokmak konuk evi(トクマクコヌックエヴィ)」。アヴァノス中心を流れる川のほとりにあるモスクから、町の中心の噴水を越えてまっすぐ坂を上るとすぐ左側に位置しており、ホテルの横にすぐまた別なモスクがあるので分かりやすい。朝はとなりのモスクから、大音量のエザンが聞こえます(笑)
パンションのサイトは下記です。ああ懐かしい^^
http://www.tokmakkonukevi.com/
授業の後はいつもこのパンションの庭やテラスでみんなと喋ったり、ビールとナッツ片手に数時間だべって過ごしていたのは、今ではいい思い出です。ぶっちゃけこのブログ書いてる今、さっき載せたパンションのサイトを見たら、あの日の思い出が蘇ってノスタルジーに浸っています(笑)
彼らのおかげでベリーダンス、セマー、ギョレメ野外博物館、ウルギュップのハマム、絶品カッパドキア料理レストランなど、全てタダで入れて料理も奢ってもらうなど、至れり尽くせりの毎日でした。
そんな楽しい時間を過ごしていましたが、次第に帰国の日が迫ってきてます。
ある日、この間自宅に招待してくれたブルハンの所に行きました。彼は早速家族に僕を紹介すると、家族も美味しい家庭料理を作って待っててくれたようで、直ぐにおもてなししてくれました。その当時僕はトルコ語が分かりませんでしたが、雰囲気から彼がいかに日本人を招待できたことが嬉しいかが分かりました。
美味しい料理をご馳走になった後、彼はカイセリ市内を少し案内してくれました。
カイセリはとても商売上手な人を輩出する街で、名産物はトルコ風サラミソーセージの「スジュック」と、「パストゥルマ」というスパイスで味付けした干し肉が有名です。そんな街を案内してくれた彼は最後に街で一番大きいモスクに連れて行ってくれました。
そこで彼はなんと僕と僕の家族のためにイスラム式に祈りを捧げてくれました。
先日起こった東日本大震災のことを知っていた彼は、僕が来た理由も知っていたので家族が幸せになるようアッラーに祈ってくれたのです。
僕はそれを見て感動し、涙がでました。
彼に感謝すると同時に、こんないい人がいる国で何かしたいという気持ちが芽生えました。その日から、日本に帰ったらトルコ語を勉強してトルコに戻ってこようという決意を固め、滞在先のホテルに戻りました。
そして帰国まで残すところ5日となったところで、クラスの全員でバーベキューをして盛り上がっていたところ先生とガイドの人達からある提案を受けます。
「あと一か月ほど滞在して、私たちの授業を手伝ってほしい」
なんでも帰りのチケットは自分たちが旅行会社に言って何とかするからと言い、僕もブルハンの件でもっとトルコにいたいと思っていたから、それならばと思いもう一か月残ると約束をしました。
そして旅行プログラム終了残り3日、日本から来た僕らの団体は帰国の準備に向けてイスタンブールへ移動します。この時、クラスのガイド友達も二人ほど同伴して旅行会社に交渉に来てくれましたが、、、結果はなんとチケットの変更はできないということが分かり一同愕然。。。なんでも今回僕らが来るのに手配したチケットは、特別なチケットだそうで一切変更できないということでした。これを聞いて友人はショックを受けてましたが、一番ショックを受けたのは僕でした。仕方がないのでお互い意気消沈しながら別れを告げ、明日の帰国のため僕はイスタンブールのホテルに向かわざるを得なくなりました。
ホテル到着後、しばらく考え事をしていました。本当にこれでいいんだろうか。。。と。
残るって約束をしたのに、このまま帰ったらカッコ悪いんじゃないか。。。
こんなモヤモヤした気持ちで帰る訳にはいかないよな。
と、そう思った僕は、旅行会社に意を決意してこう言いました。
「帰りのチケットを破棄して新しいチケットを購入するんで、明日帰国しません」
これには旅行会社も驚きを隠せない様子でした。そりゃそうだわな^^;
代わりにすぐ自腹で新しいチケットを買いなおし、アイハン先生に伝えたところ
「すぐにカッパドキア行きのチケットを手配します。それくらいはこちらで何とかします」
そう言ってすぐチケットを手配してくれて、僕は本来なら日本に帰国する日、カッパドキアに戻っていました。そこには事前に連絡を受けていたクラスの友人が迎えに来てくれていて、再会のハグを交わし、直ぐにアヴァノスのホテルに直行。本日も授業があるとのことでクラスに戻った時、クラスの一同からは拍手と歓声が沸き起こります。全員と再会のハグを交わし、かくして僕はもう一か月トルコはカッパドキアに残ることになりました。
追加の一か月滞在中、プログラム中に滞在していたホテルにはもう居れないので、みんなの好意でみんなが宿泊しているトクマクパンションに移ることになりました。これで四六時中みんなと一緒に生活することになったので、更に打ち解けることができ、彼らはカッパドキアの名所を余すことなく案内してくれました。
カイマクル地下都市、ローズバレー、パシャバー、ウチヒサールカヤホテルでのディナーへの招待や、なんと気球にまで乗せてくれました!
そんな充実した時間を過ごしていましたが、今度は授業プログラムの終了が近づいてきました。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきますが、さすがに今回は僕も帰国するつもりだったのでそういう気持ちに切り替えていたところ、、、また面白いことが起きます。
ある日、いつも通り授業を行っていた時、彼らが所属している会社の社長が、イスタンブールから労いのあいさつの為に来たのです。社長は日本語が話せたので僕もあいさつし、ここに来たいきさつを話した後、アイハン先生と社長が何やら話し込み始めました。
で、二人が話し終わった後、社長から思わぬ一言が出ます。
「近い内に会社の日本人スタッフが一人辞めるので、貴方さえよければウチで働きませんか?」
一瞬頭が真っ白になりました。なんとなんと仕事のオファーをもらったのです!
「少し考えてみてください。返事はアイハン先生に言ってもらえれば大丈夫です。良い返事を期待してますよ」
これにはちょっと鳥肌が立ちました。トルコに住みたいと思っていた矢先に突然のオファーをもらい、驚きましたが嬉しいと同時に不安になりました。
なんせ仕事先は現地の旅行会社で、僕は旅行会社での仕事経験はないし、当時はトルコ語はもちろん英語も話せない状態でした。加えて日本にいた時も、大都市に住んだことない、福島の田舎でしか生活したことない僕が、いきなり1500万人規模の大都市イスタンブールで果たしてやっていけるのだろうかと、考えれば考えるほど不安が募ります。
なのでいてもたってもいられず、僕はブルハンに相談することにしました。
彼はまず、僕がトルコに残るチャンスを手に入れたことに喜ぶと、続けざまにこう言いました。
「絶対に残るべきです。貴方はトルコが好きだし、きっとそれ見たアッラーが貴方にチャンスをくれたんだと思います」
そして彼は、トルコ語で一つ諺を教えてくれました。
「Allah bir kapıyı kaparsa bir kapıyı açar」
「アッラーは一つの扉が閉まった時、別な扉を開けてくれる」
ブルハン曰く、震災で日本側の扉が閉まってしまったから、別な扉として今、トルコの扉をアッラーが開けてくれているんだそう。
「あとは貴方が決めることです。アッラーの加護がありますように」
その夜、僕はまた考えていました。
日本に戻った場合と、トルコに残った場合の未来を想像してみたところ、日本に戻った場合はいつも通りの日常に戻る姿が容易に想像できました。でも、トルコに残った場合の未来は全く想像できませんが、難しい道になることだけは感じていました。が、ここで僕が身上としている言葉を思い出します。それは
「最も困難な道こそ進むべき道」
これは「孤高の人」というある登山漫画に出てくるセリフで、主人公が人生と山登りの難しい局面に直面した時に発した言葉です。
この言葉のおかげで最後の踏ん切りがつき、次の日僕は、アイハン先生にイスタンブールで働きたい旨を伝えました。先生はニコリと笑い、
「あなたならそう決断すると思いましたよ。なんせ私達との約束を守ってクラスに戻ってきてくれましたからね。イスタンブールでの生活は大変かもしれませんが、きっといい経験になります。貴方にアッラーの加護がありますように」
先生は僕の返事を社長に伝え、かくして僕は正式にイスタンブールの会社で働くことになりました。
一度身の回りの整理をするため日本に一時帰国し、親にもこのことを告げたところ初めは驚いていましたが、「こんなチャンスは滅多にないから、頑張ってこい」と最後は納得してくれました。そして身の回りを整理した後、こうして2011年7月14日、僕は再びイスタンブールに戻ってきたのでした。
今回はここまでです。今思うと相当無茶したな〜と思いますが、今ではすべていい思い出です。
第三章に続きます。こうご期待ッ!それではホシュチャカルン!
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