新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2019年01月01日
第二章:僕がトルコに残った訳
どうもメルハバ!
今回は僕がトルコに渡った後、何でトルコに残ろうと思ったかを書きます。
ただ、第一章を読んでいない方は、先にそちらを見てから読むことをお勧めします。
↓↓
https://fanblogs.jp/emirturkiye/archive/3/0
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイハン先生に誘われ、日本語クラスに顔を出すことになった僕は、先生が迎えに来てくれたので早速クラスがある場所に向かいました。
クラスはアヴァノス地区にあるヒルトンダブルツリーホテルの一室を使っているようで、なんと僕が滞在しているホテルから徒歩でも10分くらいの場所でした。偶然過ぎる(笑)
で、クラスに到着すると。。。
おおー!!!!!
と大歓声😀
そのクラスの人たちはなんと全員プロのガイドで、これから増える見込みの日本人旅行者に向けて日本語を勉強しているとのことでした。来たからには役に立とうと、慣れないながらも精いっぱい頑張った結果皆に気に入られ、それから僕の滞在プログラムは面白いものになっていきました。
全員ガイドなので、授業がない日は僕をカッパドキアの穴場観光名所や、ローカルレストランに連れてってもらうなど、ノープランが一転毎日アクティビティーづくしになりました!
そんな中、後に僕のトルコ滞在を決定付ける人物と出会います。
授業がない日、買い物をしているとき突然
「日本人ですか?」
と一人の青年が日本語で話しかけてきました。
彼の名はブルハン、後に僕の親友になる人物です。
「私は日本が好きで日本語を勉強しています。もしよかったら、今ホテルで働いているので是非来てください。何かご馳走します」
そう言って勤務先のホテルの住所を教え、その日は去っていった。後日ホテルに行くと本当にホテルのレストランに招待してくれて、料理をご馳走してくれた。その後僕らは意気投合し、今度は自分の家に招待したいと言うので、これも承諾。彼の実家は、カッパドキアから30分ほど離れたカイセリという町のようで、また授業がない日に行くことになりました。
さて、いつものようにガイドの人たちと授業を進めていくにつれ、彼らの滞在しているパンションに入り浸るようになりました。そこはアヴァノス地区にあるパンションで、名前は「Tokmak konuk evi(トクマクコヌックエヴィ)」。アヴァノス中心を流れる川のほとりにあるモスクから、町の中心の噴水を越えてまっすぐ坂を上るとすぐ左側に位置しており、ホテルの横にすぐまた別なモスクがあるので分かりやすい。朝はとなりのモスクから、大音量のエザンが聞こえます(笑)
パンションのサイトは下記です。ああ懐かしい^^
http://www.tokmakkonukevi.com/
授業の後はいつもこのパンションの庭やテラスでみんなと喋ったり、ビールとナッツ片手に数時間だべって過ごしていたのは、今ではいい思い出です。ぶっちゃけこのブログ書いてる今、さっき載せたパンションのサイトを見たら、あの日の思い出が蘇ってノスタルジーに浸っています(笑)
彼らのおかげでベリーダンス、セマー、ギョレメ野外博物館、ウルギュップのハマム、絶品カッパドキア料理レストランなど、全てタダで入れて料理も奢ってもらうなど、至れり尽くせりの毎日でした。
そんな楽しい時間を過ごしていましたが、次第に帰国の日が迫ってきてます。
ある日、この間自宅に招待してくれたブルハンの所に行きました。彼は早速家族に僕を紹介すると、家族も美味しい家庭料理を作って待っててくれたようで、直ぐにおもてなししてくれました。その当時僕はトルコ語が分かりませんでしたが、雰囲気から彼がいかに日本人を招待できたことが嬉しいかが分かりました。
美味しい料理をご馳走になった後、彼はカイセリ市内を少し案内してくれました。
カイセリはとても商売上手な人を輩出する街で、名産物はトルコ風サラミソーセージの「スジュック」と、「パストゥルマ」というスパイスで味付けした干し肉が有名です。そんな街を案内してくれた彼は最後に街で一番大きいモスクに連れて行ってくれました。
そこで彼はなんと僕と僕の家族のためにイスラム式に祈りを捧げてくれました。
先日起こった東日本大震災のことを知っていた彼は、僕が来た理由も知っていたので家族が幸せになるようアッラーに祈ってくれたのです。
僕はそれを見て感動し、涙がでました。
彼に感謝すると同時に、こんないい人がいる国で何かしたいという気持ちが芽生えました。その日から、日本に帰ったらトルコ語を勉強してトルコに戻ってこようという決意を固め、滞在先のホテルに戻りました。
そして帰国まで残すところ5日となったところで、クラスの全員でバーベキューをして盛り上がっていたところ先生とガイドの人達からある提案を受けます。
「あと一か月ほど滞在して、私たちの授業を手伝ってほしい」
なんでも帰りのチケットは自分たちが旅行会社に言って何とかするからと言い、僕もブルハンの件でもっとトルコにいたいと思っていたから、それならばと思いもう一か月残ると約束をしました。
そして旅行プログラム終了残り3日、日本から来た僕らの団体は帰国の準備に向けてイスタンブールへ移動します。この時、クラスのガイド友達も二人ほど同伴して旅行会社に交渉に来てくれましたが、、、結果はなんとチケットの変更はできないということが分かり一同愕然。。。なんでも今回僕らが来るのに手配したチケットは、特別なチケットだそうで一切変更できないということでした。これを聞いて友人はショックを受けてましたが、一番ショックを受けたのは僕でした。仕方がないのでお互い意気消沈しながら別れを告げ、明日の帰国のため僕はイスタンブールのホテルに向かわざるを得なくなりました。
ホテル到着後、しばらく考え事をしていました。本当にこれでいいんだろうか。。。と。
残るって約束をしたのに、このまま帰ったらカッコ悪いんじゃないか。。。
こんなモヤモヤした気持ちで帰る訳にはいかないよな。
と、そう思った僕は、旅行会社に意を決意してこう言いました。
「帰りのチケットを破棄して新しいチケットを購入するんで、明日帰国しません」
これには旅行会社も驚きを隠せない様子でした。そりゃそうだわな^^;
代わりにすぐ自腹で新しいチケットを買いなおし、アイハン先生に伝えたところ
「すぐにカッパドキア行きのチケットを手配します。それくらいはこちらで何とかします」
そう言ってすぐチケットを手配してくれて、僕は本来なら日本に帰国する日、カッパドキアに戻っていました。そこには事前に連絡を受けていたクラスの友人が迎えに来てくれていて、再会のハグを交わし、直ぐにアヴァノスのホテルに直行。本日も授業があるとのことでクラスに戻った時、クラスの一同からは拍手と歓声が沸き起こります。全員と再会のハグを交わし、かくして僕はもう一か月トルコはカッパドキアに残ることになりました。
追加の一か月滞在中、プログラム中に滞在していたホテルにはもう居れないので、みんなの好意でみんなが宿泊しているトクマクパンションに移ることになりました。これで四六時中みんなと一緒に生活することになったので、更に打ち解けることができ、彼らはカッパドキアの名所を余すことなく案内してくれました。
カイマクル地下都市、ローズバレー、パシャバー、ウチヒサールカヤホテルでのディナーへの招待や、なんと気球にまで乗せてくれました!
そんな充実した時間を過ごしていましたが、今度は授業プログラムの終了が近づいてきました。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきますが、さすがに今回は僕も帰国するつもりだったのでそういう気持ちに切り替えていたところ、、、また面白いことが起きます。
ある日、いつも通り授業を行っていた時、彼らが所属している会社の社長が、イスタンブールから労いのあいさつの為に来たのです。社長は日本語が話せたので僕もあいさつし、ここに来たいきさつを話した後、アイハン先生と社長が何やら話し込み始めました。
で、二人が話し終わった後、社長から思わぬ一言が出ます。
「近い内に会社の日本人スタッフが一人辞めるので、貴方さえよければウチで働きませんか?」
一瞬頭が真っ白になりました。なんとなんと仕事のオファーをもらったのです!
「少し考えてみてください。返事はアイハン先生に言ってもらえれば大丈夫です。良い返事を期待してますよ」
これにはちょっと鳥肌が立ちました。トルコに住みたいと思っていた矢先に突然のオファーをもらい、驚きましたが嬉しいと同時に不安になりました。
なんせ仕事先は現地の旅行会社で、僕は旅行会社での仕事経験はないし、当時はトルコ語はもちろん英語も話せない状態でした。加えて日本にいた時も、大都市に住んだことない、福島の田舎でしか生活したことない僕が、いきなり1500万人規模の大都市イスタンブールで果たしてやっていけるのだろうかと、考えれば考えるほど不安が募ります。
なのでいてもたってもいられず、僕はブルハンに相談することにしました。
彼はまず、僕がトルコに残るチャンスを手に入れたことに喜ぶと、続けざまにこう言いました。
「絶対に残るべきです。貴方はトルコが好きだし、きっとそれ見たアッラーが貴方にチャンスをくれたんだと思います」
そして彼は、トルコ語で一つ諺を教えてくれました。
「Allah bir kapıyı kaparsa bir kapıyı açar」
「アッラーは一つの扉が閉まった時、別な扉を開けてくれる」
ブルハン曰く、震災で日本側の扉が閉まってしまったから、別な扉として今、トルコの扉をアッラーが開けてくれているんだそう。
「あとは貴方が決めることです。アッラーの加護がありますように」
その夜、僕はまた考えていました。
日本に戻った場合と、トルコに残った場合の未来を想像してみたところ、日本に戻った場合はいつも通りの日常に戻る姿が容易に想像できました。でも、トルコに残った場合の未来は全く想像できませんが、難しい道になることだけは感じていました。が、ここで僕が身上としている言葉を思い出します。それは
「最も困難な道こそ進むべき道」
これは「孤高の人」というある登山漫画に出てくるセリフで、主人公が人生と山登りの難しい局面に直面した時に発した言葉です。
この言葉のおかげで最後の踏ん切りがつき、次の日僕は、アイハン先生にイスタンブールで働きたい旨を伝えました。先生はニコリと笑い、
「あなたならそう決断すると思いましたよ。なんせ私達との約束を守ってクラスに戻ってきてくれましたからね。イスタンブールでの生活は大変かもしれませんが、きっといい経験になります。貴方にアッラーの加護がありますように」
先生は僕の返事を社長に伝え、かくして僕は正式にイスタンブールの会社で働くことになりました。
一度身の回りの整理をするため日本に一時帰国し、親にもこのことを告げたところ初めは驚いていましたが、「こんなチャンスは滅多にないから、頑張ってこい」と最後は納得してくれました。そして身の回りを整理した後、こうして2011年7月14日、僕は再びイスタンブールに戻ってきたのでした。
今回はここまでです。今思うと相当無茶したな〜と思いますが、今ではすべていい思い出です。
第三章に続きます。こうご期待ッ!それではホシュチャカルン!
お名前.com
今回は僕がトルコに渡った後、何でトルコに残ろうと思ったかを書きます。
ただ、第一章を読んでいない方は、先にそちらを見てから読むことをお勧めします。
↓↓
https://fanblogs.jp/emirturkiye/archive/3/0
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイハン先生に誘われ、日本語クラスに顔を出すことになった僕は、先生が迎えに来てくれたので早速クラスがある場所に向かいました。
クラスはアヴァノス地区にあるヒルトンダブルツリーホテルの一室を使っているようで、なんと僕が滞在しているホテルから徒歩でも10分くらいの場所でした。偶然過ぎる(笑)
で、クラスに到着すると。。。
おおー!!!!!
と大歓声😀
そのクラスの人たちはなんと全員プロのガイドで、これから増える見込みの日本人旅行者に向けて日本語を勉強しているとのことでした。来たからには役に立とうと、慣れないながらも精いっぱい頑張った結果皆に気に入られ、それから僕の滞在プログラムは面白いものになっていきました。
全員ガイドなので、授業がない日は僕をカッパドキアの穴場観光名所や、ローカルレストランに連れてってもらうなど、ノープランが一転毎日アクティビティーづくしになりました!
そんな中、後に僕のトルコ滞在を決定付ける人物と出会います。
授業がない日、買い物をしているとき突然
「日本人ですか?」
と一人の青年が日本語で話しかけてきました。
彼の名はブルハン、後に僕の親友になる人物です。
「私は日本が好きで日本語を勉強しています。もしよかったら、今ホテルで働いているので是非来てください。何かご馳走します」
そう言って勤務先のホテルの住所を教え、その日は去っていった。後日ホテルに行くと本当にホテルのレストランに招待してくれて、料理をご馳走してくれた。その後僕らは意気投合し、今度は自分の家に招待したいと言うので、これも承諾。彼の実家は、カッパドキアから30分ほど離れたカイセリという町のようで、また授業がない日に行くことになりました。
さて、いつものようにガイドの人たちと授業を進めていくにつれ、彼らの滞在しているパンションに入り浸るようになりました。そこはアヴァノス地区にあるパンションで、名前は「Tokmak konuk evi(トクマクコヌックエヴィ)」。アヴァノス中心を流れる川のほとりにあるモスクから、町の中心の噴水を越えてまっすぐ坂を上るとすぐ左側に位置しており、ホテルの横にすぐまた別なモスクがあるので分かりやすい。朝はとなりのモスクから、大音量のエザンが聞こえます(笑)
パンションのサイトは下記です。ああ懐かしい^^
http://www.tokmakkonukevi.com/
授業の後はいつもこのパンションの庭やテラスでみんなと喋ったり、ビールとナッツ片手に数時間だべって過ごしていたのは、今ではいい思い出です。ぶっちゃけこのブログ書いてる今、さっき載せたパンションのサイトを見たら、あの日の思い出が蘇ってノスタルジーに浸っています(笑)
彼らのおかげでベリーダンス、セマー、ギョレメ野外博物館、ウルギュップのハマム、絶品カッパドキア料理レストランなど、全てタダで入れて料理も奢ってもらうなど、至れり尽くせりの毎日でした。
そんな楽しい時間を過ごしていましたが、次第に帰国の日が迫ってきてます。
ある日、この間自宅に招待してくれたブルハンの所に行きました。彼は早速家族に僕を紹介すると、家族も美味しい家庭料理を作って待っててくれたようで、直ぐにおもてなししてくれました。その当時僕はトルコ語が分かりませんでしたが、雰囲気から彼がいかに日本人を招待できたことが嬉しいかが分かりました。
美味しい料理をご馳走になった後、彼はカイセリ市内を少し案内してくれました。
カイセリはとても商売上手な人を輩出する街で、名産物はトルコ風サラミソーセージの「スジュック」と、「パストゥルマ」というスパイスで味付けした干し肉が有名です。そんな街を案内してくれた彼は最後に街で一番大きいモスクに連れて行ってくれました。
そこで彼はなんと僕と僕の家族のためにイスラム式に祈りを捧げてくれました。
先日起こった東日本大震災のことを知っていた彼は、僕が来た理由も知っていたので家族が幸せになるようアッラーに祈ってくれたのです。
僕はそれを見て感動し、涙がでました。
彼に感謝すると同時に、こんないい人がいる国で何かしたいという気持ちが芽生えました。その日から、日本に帰ったらトルコ語を勉強してトルコに戻ってこようという決意を固め、滞在先のホテルに戻りました。
そして帰国まで残すところ5日となったところで、クラスの全員でバーベキューをして盛り上がっていたところ先生とガイドの人達からある提案を受けます。
「あと一か月ほど滞在して、私たちの授業を手伝ってほしい」
なんでも帰りのチケットは自分たちが旅行会社に言って何とかするからと言い、僕もブルハンの件でもっとトルコにいたいと思っていたから、それならばと思いもう一か月残ると約束をしました。
そして旅行プログラム終了残り3日、日本から来た僕らの団体は帰国の準備に向けてイスタンブールへ移動します。この時、クラスのガイド友達も二人ほど同伴して旅行会社に交渉に来てくれましたが、、、結果はなんとチケットの変更はできないということが分かり一同愕然。。。なんでも今回僕らが来るのに手配したチケットは、特別なチケットだそうで一切変更できないということでした。これを聞いて友人はショックを受けてましたが、一番ショックを受けたのは僕でした。仕方がないのでお互い意気消沈しながら別れを告げ、明日の帰国のため僕はイスタンブールのホテルに向かわざるを得なくなりました。
ホテル到着後、しばらく考え事をしていました。本当にこれでいいんだろうか。。。と。
残るって約束をしたのに、このまま帰ったらカッコ悪いんじゃないか。。。
こんなモヤモヤした気持ちで帰る訳にはいかないよな。
と、そう思った僕は、旅行会社に意を決意してこう言いました。
「帰りのチケットを破棄して新しいチケットを購入するんで、明日帰国しません」
これには旅行会社も驚きを隠せない様子でした。そりゃそうだわな^^;
代わりにすぐ自腹で新しいチケットを買いなおし、アイハン先生に伝えたところ
「すぐにカッパドキア行きのチケットを手配します。それくらいはこちらで何とかします」
そう言ってすぐチケットを手配してくれて、僕は本来なら日本に帰国する日、カッパドキアに戻っていました。そこには事前に連絡を受けていたクラスの友人が迎えに来てくれていて、再会のハグを交わし、直ぐにアヴァノスのホテルに直行。本日も授業があるとのことでクラスに戻った時、クラスの一同からは拍手と歓声が沸き起こります。全員と再会のハグを交わし、かくして僕はもう一か月トルコはカッパドキアに残ることになりました。
追加の一か月滞在中、プログラム中に滞在していたホテルにはもう居れないので、みんなの好意でみんなが宿泊しているトクマクパンションに移ることになりました。これで四六時中みんなと一緒に生活することになったので、更に打ち解けることができ、彼らはカッパドキアの名所を余すことなく案内してくれました。
カイマクル地下都市、ローズバレー、パシャバー、ウチヒサールカヤホテルでのディナーへの招待や、なんと気球にまで乗せてくれました!
そんな充実した時間を過ごしていましたが、今度は授業プログラムの終了が近づいてきました。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきますが、さすがに今回は僕も帰国するつもりだったのでそういう気持ちに切り替えていたところ、、、また面白いことが起きます。
ある日、いつも通り授業を行っていた時、彼らが所属している会社の社長が、イスタンブールから労いのあいさつの為に来たのです。社長は日本語が話せたので僕もあいさつし、ここに来たいきさつを話した後、アイハン先生と社長が何やら話し込み始めました。
で、二人が話し終わった後、社長から思わぬ一言が出ます。
「近い内に会社の日本人スタッフが一人辞めるので、貴方さえよければウチで働きませんか?」
一瞬頭が真っ白になりました。なんとなんと仕事のオファーをもらったのです!
「少し考えてみてください。返事はアイハン先生に言ってもらえれば大丈夫です。良い返事を期待してますよ」
これにはちょっと鳥肌が立ちました。トルコに住みたいと思っていた矢先に突然のオファーをもらい、驚きましたが嬉しいと同時に不安になりました。
なんせ仕事先は現地の旅行会社で、僕は旅行会社での仕事経験はないし、当時はトルコ語はもちろん英語も話せない状態でした。加えて日本にいた時も、大都市に住んだことない、福島の田舎でしか生活したことない僕が、いきなり1500万人規模の大都市イスタンブールで果たしてやっていけるのだろうかと、考えれば考えるほど不安が募ります。
なのでいてもたってもいられず、僕はブルハンに相談することにしました。
彼はまず、僕がトルコに残るチャンスを手に入れたことに喜ぶと、続けざまにこう言いました。
「絶対に残るべきです。貴方はトルコが好きだし、きっとそれ見たアッラーが貴方にチャンスをくれたんだと思います」
そして彼は、トルコ語で一つ諺を教えてくれました。
「Allah bir kapıyı kaparsa bir kapıyı açar」
「アッラーは一つの扉が閉まった時、別な扉を開けてくれる」
ブルハン曰く、震災で日本側の扉が閉まってしまったから、別な扉として今、トルコの扉をアッラーが開けてくれているんだそう。
「あとは貴方が決めることです。アッラーの加護がありますように」
その夜、僕はまた考えていました。
日本に戻った場合と、トルコに残った場合の未来を想像してみたところ、日本に戻った場合はいつも通りの日常に戻る姿が容易に想像できました。でも、トルコに残った場合の未来は全く想像できませんが、難しい道になることだけは感じていました。が、ここで僕が身上としている言葉を思い出します。それは
「最も困難な道こそ進むべき道」
これは「孤高の人」というある登山漫画に出てくるセリフで、主人公が人生と山登りの難しい局面に直面した時に発した言葉です。
この言葉のおかげで最後の踏ん切りがつき、次の日僕は、アイハン先生にイスタンブールで働きたい旨を伝えました。先生はニコリと笑い、
「あなたならそう決断すると思いましたよ。なんせ私達との約束を守ってクラスに戻ってきてくれましたからね。イスタンブールでの生活は大変かもしれませんが、きっといい経験になります。貴方にアッラーの加護がありますように」
先生は僕の返事を社長に伝え、かくして僕は正式にイスタンブールの会社で働くことになりました。
一度身の回りの整理をするため日本に一時帰国し、親にもこのことを告げたところ初めは驚いていましたが、「こんなチャンスは滅多にないから、頑張ってこい」と最後は納得してくれました。そして身の回りを整理した後、こうして2011年7月14日、僕は再びイスタンブールに戻ってきたのでした。
今回はここまでです。今思うと相当無茶したな〜と思いますが、今ではすべていい思い出です。
第三章に続きます。こうご期待ッ!それではホシュチャカルン!
北川景子 悠久の都 トルコ イスタンブール 〜2人の皇后 愛の軌跡を辿る〜 [ 北川景子 ] 価格:3,397円 |
お名前.com