2014年06月21日
露天風呂は、しばらく来ないうちに「たまて箱温泉」という名前に
露天風呂は、
しばらく来ないうちに「たまて箱温泉」という名前に
大自然のパノラマを独り占め最高のロケーションと温泉の贅沢がここに。
爽涼の風を浴びながらの露天風呂は、
日々の喧噪を忘れさせ、
心と身体を同時に癒してくれる。
露天風呂は、
開聞岳を望む和風露天風呂と竹山と海が絶景の洋風露天風呂があり、
どちらも絶景の露天風呂として好評です
前回訪れた時に感動したヘルシーランド露天風呂に向かうことにした。
前回はJR山川駅前からタクシーを利用したが、
今回は路線バスだったので
バス停
「ヘルシーランド入口」で下車して、
アップダウンのある700mを歩いて往復した。
そう遠い距離ではないが単調な景色が続くため、けっこう遠くに感じられた。
温泉施設や温水プールやグランドと食事処のあるヘルシーランドから少し離れた所にある
露天風呂は、
しばらく来ないうちに
「たまて箱温泉」という名前が付き、
HPには旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」の
口コミで選ぶ「行ってよかった日帰りスパ&温泉施設」で、
ヘルシーランド露天風呂が、
2014 日帰り温泉&スパ部門で全国1位 に選ばれたと載っていた。
今回は、
身体を洗うにも順番を待たなければならない程の混み具合で
撮影などは出来なかったが、
かつてタイガーウッズがこの山を見て
「スヌーピー山」と名付けたと言われる
コニーデ型火山
「竹山」のみを丸裸のまま撮影してきた。
温泉としては特色もないが、
東シナ海の大海原を臨みつつ、
スヌーピー山と開聞岳を臨む景色が美しく、
指宿方面に行く時には必ず立ち寄りたい観光スポットだ。
枕崎は、
鹿児島県薩摩半島南西部にある東シナ海に面する市であり、
JRグループ日本最南端の路線であるJR九州指宿枕崎線の終着駅ということで
枕崎駅は鉄道ファンにはかなり有名な駅である。
指宿駅発の鹿児島交通バスに
「市営温泉前」から乗車し、
「東大川」で乗り換えて
バス停前にあるコープで冷たいお茶を購入し、
再び
「東大川」から枕崎行で
「枕崎駅前」へ向った。
枕崎に到着する途中、
さつま白波で有名な白波酒造があったので撮影した。
枕崎駅前の駅前観光案内所で地図をもらって、
かつおまつりの会場になっている枕崎港に向かう。
昼過ぎだというのに駅前通りは閑散としていて、
人の姿は見られない。
駅通り青空美術館には
「風の芸術展」の立体作品があった。
なかなかおもしろい作品である。
大阪なら掻き入れ時となるはずのGW中というのに
家具屋は閉まっており、
商品が店頭に並んでおらず、
駐車スペースの奥に商品が置いてあり、
「大阪」から来ると、
なんだか商売っ気が感じられず、
異文化を感じてしまう。
枕崎市漁協近海魚市場の所まで来たら、
初めて人影があった。
昔のお姉さんたちだった。
他には誰も歩いていない。
しかしおまつり会場の枕崎お魚センターに近づくにつれて、
大勢の人々が集まっていた。
ここに来るまでほとんど誰も歩いていなかったので、
枕崎市民のほとんどが集まっているかのような気がした。
枕崎はカツオ節が有名ということで、
ゆるキャラ
「カツブシカツオくん」も来ていた。
会場では鰹節削り大会が世代別に行われていた。
そういえば子供の頃には我が家にも鰹節削り用のカンナのようなものがあり、
固い鰹節を削って食べていた。
でも最近は削ってある商品ばかりを買うようになり、
削り器は見なくなった。
大会ではかき氷器のようにクルクル回す手動式の削り器で競争していた。
会場内にはさまざまなお店が並んでおり、
妻は初めて見た
「鰹バーガー」と
「さつまあげ」を購入した。
また
「枕崎鰹船人めし」は2011鹿児島S−1グランプリで優勝したらしく、
枕崎市内の10店舗で食べられる。
行列に並ぶのが嫌いな大阪人だが、
今回だけは我慢をして並び1食購入した。
大阪の夜店だったら1個500円はするだろうというサザエのつぼ焼きが
5個で1000円だったのでつい購入した。
焼き上がるまでずいぶん待つことになったが、
待たせたからと1個おまけをしてくれた。
昼間から飲むのは少し気が引けたが、
生ビールを買って昼食にした。
「枕崎鰹船人めし」も
「サザエのつぼ焼き」も
「鰹バーガー」もメチャメチャ旨い!
これを食べただけでも枕崎まで来た甲斐があったと思う。
「さつまあげ」は今晩のおかずになった。
帰りはJRで帰ろうと、
枕崎駅に向かった。
枕崎駅は無人駅で、
かつてはここから伊集院駅まで鹿児島交通枕崎線が走っていた。
駅前には記念撮影用のだまし絵のように描かれた南九州の地図があり、
皆寝転んだりして撮影していた。
枕崎駅は、
JRグループの「本土最南端の始発・終着駅」だが、
最南端の駅ということではない。
JRの日本最南端の駅は、
西大山駅である。
枕崎へ訪れたのは2回目で、
前回は知覧の特攻平和会館の帰りにバスから乗り換えた。
かつて、
知覧から将来のある若者たちが特攻隊として
片道分の燃料だけを積んで、
南方の敵艦目がけて飛び立った。
そのほとんどが敵の攻撃を受けて、
敵艦に着くまでに海のもくずと散った。
飛び立つ前日、
両親に向けて書かれた遺書がたくさん展示してあり、
順々に読んでいるうちに胸が痛くなってきて、
とうとう最後までは読めなかった。
あのような戦争は二度と起こすべきじゃないと心に刻み、
それまでの意識が変わり、
せめてもの慰霊のため翌年靖国神社に参拝させて頂いた。
今でも、
このブログを書きながら胸が痛くなっている。
枕崎線(まくらざきせん)は、
かつて鹿児島県日置郡伊集院町
(現・日置市)の伊集院駅から同県枕崎市の枕崎駅までを結んでいた
鹿児島交通の鉄道路線である。
1984年(昭和59年)に廃止された。
南薩線(なんさつせん)と呼ばれ親しまれていた。
枕崎線からは、
支線として万世線および知覧線が分岐していた。
• 路線距離(営業キロ):伊集院 - 枕崎間 49.6km
• 軌間:1067mm
• 駅数:23駅(起終点駅含む。廃止時点)
• 複線区間:なし(全線単線)
• 電化区間:なし(全線非電化)
• 閉塞方式:タブレット閉塞式(末期の加世田 - 枕崎間はスタフ閉塞式)
1914年(大正3年)に南薩鉄道によって開業して以来、
薩摩半島の重要な交通機関として役割を果たしてきたが、
1960年代に入ると南薩鉄道は経営難に陥り、
1964年(昭和39年)9月に大隅半島でバスを営業していた
三州自動車に合併され鹿児島交通が成立した。
以降も鉄道部門は貨物輸送の廃止などの合理化を進めたが、
沿線人口の減少や自動車の普及に加えて、
沿線から鹿児島に向かう客も同社のバスに流れるようになった。
1970年代に入ると車両や設備の老朽化も著しくなり、
1982年(昭和57年)12月には会社も鉄道廃止の方針を打ち出した。
労働組合や地元は廃止に反対したものの、
1983年(昭和58年)6月の豪雨で大きな被害を受けたことが
最後のとどめを刺す形になった。
同年7月に日置 - 加世田間は運行を再開したものの、
伊集院 - 日置間と加世田 - 枕崎間は復旧しないまま
1984年(昭和59年)3月18日の廃止を迎えた。
加世田駅の跡にできた鹿児島交通加世田バスセンター内に、
石造りの元倉庫を利用した南薩鉄道記念館の建物がある。
2005年(平成17年)から2006年(平成18年)頃にかけて隣接する
商業施設の拡張工事のために休館していたが
2007年(平成19年)現在は再開されている。
ただし、
この休館に際して往時の車両を展示していた建物が解体され、
車両は隣接するバスの整備工場内に移動して保存されており、
近くから見ることはできない。
また、
DD12と2号機関車(現在は4号機関車に置き換え)は屋外に展示されている。
このほかにも、
伊集院 - 枕崎のバスに乗ると、
至るところで当時の遺構を車窓から見ることができる。
末期は、
1日10往復程度、
日中は2時間に1本が運転されていた。
すべて普通列車で、
一部は加世田駅折り返し。
1日3往復が、
伊集院駅から国鉄西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)へ直通運転していた。
その他、
朝ラッシュ時に加世田 - 薩摩湖間、
夜間に伊集院 - 日置間の区間運転列車が各1往復ずつ運転されていた。
1983年(昭和58年)の豪雨災害後は、
日置 - 加世田間折り返し運転となり、
廃止までその状態だった。
この際、
西鹿児島直通列車のうち、
国鉄線内の区間については、
しばらくの間鹿児島交通の車両により運転が継続された。
伊集院 - 日置の大田トンネルは漏水のためバス代行となっていたが、
国鉄線内に使用する車両の保守の際は、
この区間を回送扱いで運転していた。
末期の使用車両は以下のとおり。
キハ100形 - 国鉄キハ07形と同型の自社発注車。
のち、
一部がキユニに改造されている。
登場時は機械式だったが後に液体式に改造された。
制御はマスターコントローラーではなくアクセルペダルで行う方式で、
最後まで総括制御が不可能だったため、2連以上の時には運転手が
各車両に乗り込んでブザーを合図に操作していた。
側扉は手動で、
車内側にはステップを設けず、
停車時には車外に設置した空気作動のステップを出していた。
キハ300形 - 国鉄キハ10形とほぼ同じ自社発注車だが、
寸法がわずかに異なる。
登場は国鉄キハ10形より若干早く、
片運のキハ17形などを参考に作られた。
西鹿児島駅直通列車には、
当形式が限定的に使用された。
また、
国鉄に直通するため、
ATS-S型の機器が搭載されていた(鹿児島交通線内では不使用)。
いずれの形式も、
オレンジの地色に紺色の帯を巻いた塗色であり、
現在はキハ100形1両(キハ103)が南薩鉄道記念館近くの
バスの整備工場内に保存されている。
廃止前の車両(1981年8月頃)
南薩鉄道の会社発足50周年を記念して、
1961年(昭和36年)2月、会社の重役会にて途中から分岐して
西鹿児島駅に直接乗り入れる新線建設を含めた枕崎線の
高速化構想が打ち出された。
当時の新聞報道によると、
西鹿児島駅と日置駅または永吉駅を結ぶほぼ直線ルートの新線の建設と、
枕崎線のレール交換やカーブの補正、
橋梁の掛け替えなどにより、
西鹿児島駅と枕崎駅の間を最速で50分内外で結ぶ構想だった。
線路改修には2億9千万円、
新線建設には10億円が必要と試算され、
開発銀行融資を受けることが計画された。
鹿児島市街地は地下化することも考えられていた。
しかし、
融資面での条件が折り合わず、
構想は実現しなかった。
寂れていく、
故郷が、
懐かしくもあり、
またいってみたい。
ecar
しばらく来ないうちに「たまて箱温泉」という名前に
大自然のパノラマを独り占め最高のロケーションと温泉の贅沢がここに。
爽涼の風を浴びながらの露天風呂は、
日々の喧噪を忘れさせ、
心と身体を同時に癒してくれる。
露天風呂は、
開聞岳を望む和風露天風呂と竹山と海が絶景の洋風露天風呂があり、
どちらも絶景の露天風呂として好評です
前回訪れた時に感動したヘルシーランド露天風呂に向かうことにした。
前回はJR山川駅前からタクシーを利用したが、
今回は路線バスだったので
バス停
「ヘルシーランド入口」で下車して、
アップダウンのある700mを歩いて往復した。
そう遠い距離ではないが単調な景色が続くため、けっこう遠くに感じられた。
温泉施設や温水プールやグランドと食事処のあるヘルシーランドから少し離れた所にある
露天風呂は、
しばらく来ないうちに
「たまて箱温泉」という名前が付き、
HPには旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」の
口コミで選ぶ「行ってよかった日帰りスパ&温泉施設」で、
ヘルシーランド露天風呂が、
2014 日帰り温泉&スパ部門で全国1位 に選ばれたと載っていた。
今回は、
身体を洗うにも順番を待たなければならない程の混み具合で
撮影などは出来なかったが、
かつてタイガーウッズがこの山を見て
「スヌーピー山」と名付けたと言われる
コニーデ型火山
「竹山」のみを丸裸のまま撮影してきた。
温泉としては特色もないが、
東シナ海の大海原を臨みつつ、
スヌーピー山と開聞岳を臨む景色が美しく、
指宿方面に行く時には必ず立ち寄りたい観光スポットだ。
枕崎は、
鹿児島県薩摩半島南西部にある東シナ海に面する市であり、
JRグループ日本最南端の路線であるJR九州指宿枕崎線の終着駅ということで
枕崎駅は鉄道ファンにはかなり有名な駅である。
指宿駅発の鹿児島交通バスに
「市営温泉前」から乗車し、
「東大川」で乗り換えて
バス停前にあるコープで冷たいお茶を購入し、
再び
「東大川」から枕崎行で
「枕崎駅前」へ向った。
枕崎に到着する途中、
さつま白波で有名な白波酒造があったので撮影した。
枕崎駅前の駅前観光案内所で地図をもらって、
かつおまつりの会場になっている枕崎港に向かう。
昼過ぎだというのに駅前通りは閑散としていて、
人の姿は見られない。
駅通り青空美術館には
「風の芸術展」の立体作品があった。
なかなかおもしろい作品である。
大阪なら掻き入れ時となるはずのGW中というのに
家具屋は閉まっており、
商品が店頭に並んでおらず、
駐車スペースの奥に商品が置いてあり、
「大阪」から来ると、
なんだか商売っ気が感じられず、
異文化を感じてしまう。
枕崎市漁協近海魚市場の所まで来たら、
初めて人影があった。
昔のお姉さんたちだった。
他には誰も歩いていない。
しかしおまつり会場の枕崎お魚センターに近づくにつれて、
大勢の人々が集まっていた。
ここに来るまでほとんど誰も歩いていなかったので、
枕崎市民のほとんどが集まっているかのような気がした。
枕崎はカツオ節が有名ということで、
ゆるキャラ
「カツブシカツオくん」も来ていた。
会場では鰹節削り大会が世代別に行われていた。
そういえば子供の頃には我が家にも鰹節削り用のカンナのようなものがあり、
固い鰹節を削って食べていた。
でも最近は削ってある商品ばかりを買うようになり、
削り器は見なくなった。
大会ではかき氷器のようにクルクル回す手動式の削り器で競争していた。
会場内にはさまざまなお店が並んでおり、
妻は初めて見た
「鰹バーガー」と
「さつまあげ」を購入した。
また
「枕崎鰹船人めし」は2011鹿児島S−1グランプリで優勝したらしく、
枕崎市内の10店舗で食べられる。
行列に並ぶのが嫌いな大阪人だが、
今回だけは我慢をして並び1食購入した。
大阪の夜店だったら1個500円はするだろうというサザエのつぼ焼きが
5個で1000円だったのでつい購入した。
焼き上がるまでずいぶん待つことになったが、
待たせたからと1個おまけをしてくれた。
昼間から飲むのは少し気が引けたが、
生ビールを買って昼食にした。
「枕崎鰹船人めし」も
「サザエのつぼ焼き」も
「鰹バーガー」もメチャメチャ旨い!
これを食べただけでも枕崎まで来た甲斐があったと思う。
「さつまあげ」は今晩のおかずになった。
帰りはJRで帰ろうと、
枕崎駅に向かった。
枕崎駅は無人駅で、
かつてはここから伊集院駅まで鹿児島交通枕崎線が走っていた。
駅前には記念撮影用のだまし絵のように描かれた南九州の地図があり、
皆寝転んだりして撮影していた。
枕崎駅は、
JRグループの「本土最南端の始発・終着駅」だが、
最南端の駅ということではない。
JRの日本最南端の駅は、
西大山駅である。
枕崎へ訪れたのは2回目で、
前回は知覧の特攻平和会館の帰りにバスから乗り換えた。
かつて、
知覧から将来のある若者たちが特攻隊として
片道分の燃料だけを積んで、
南方の敵艦目がけて飛び立った。
そのほとんどが敵の攻撃を受けて、
敵艦に着くまでに海のもくずと散った。
飛び立つ前日、
両親に向けて書かれた遺書がたくさん展示してあり、
順々に読んでいるうちに胸が痛くなってきて、
とうとう最後までは読めなかった。
あのような戦争は二度と起こすべきじゃないと心に刻み、
それまでの意識が変わり、
せめてもの慰霊のため翌年靖国神社に参拝させて頂いた。
今でも、
このブログを書きながら胸が痛くなっている。
枕崎線(まくらざきせん)は、
かつて鹿児島県日置郡伊集院町
(現・日置市)の伊集院駅から同県枕崎市の枕崎駅までを結んでいた
鹿児島交通の鉄道路線である。
1984年(昭和59年)に廃止された。
南薩線(なんさつせん)と呼ばれ親しまれていた。
枕崎線からは、
支線として万世線および知覧線が分岐していた。
• 路線距離(営業キロ):伊集院 - 枕崎間 49.6km
• 軌間:1067mm
• 駅数:23駅(起終点駅含む。廃止時点)
• 複線区間:なし(全線単線)
• 電化区間:なし(全線非電化)
• 閉塞方式:タブレット閉塞式(末期の加世田 - 枕崎間はスタフ閉塞式)
1914年(大正3年)に南薩鉄道によって開業して以来、
薩摩半島の重要な交通機関として役割を果たしてきたが、
1960年代に入ると南薩鉄道は経営難に陥り、
1964年(昭和39年)9月に大隅半島でバスを営業していた
三州自動車に合併され鹿児島交通が成立した。
以降も鉄道部門は貨物輸送の廃止などの合理化を進めたが、
沿線人口の減少や自動車の普及に加えて、
沿線から鹿児島に向かう客も同社のバスに流れるようになった。
1970年代に入ると車両や設備の老朽化も著しくなり、
1982年(昭和57年)12月には会社も鉄道廃止の方針を打ち出した。
労働組合や地元は廃止に反対したものの、
1983年(昭和58年)6月の豪雨で大きな被害を受けたことが
最後のとどめを刺す形になった。
同年7月に日置 - 加世田間は運行を再開したものの、
伊集院 - 日置間と加世田 - 枕崎間は復旧しないまま
1984年(昭和59年)3月18日の廃止を迎えた。
加世田駅の跡にできた鹿児島交通加世田バスセンター内に、
石造りの元倉庫を利用した南薩鉄道記念館の建物がある。
2005年(平成17年)から2006年(平成18年)頃にかけて隣接する
商業施設の拡張工事のために休館していたが
2007年(平成19年)現在は再開されている。
ただし、
この休館に際して往時の車両を展示していた建物が解体され、
車両は隣接するバスの整備工場内に移動して保存されており、
近くから見ることはできない。
また、
DD12と2号機関車(現在は4号機関車に置き換え)は屋外に展示されている。
このほかにも、
伊集院 - 枕崎のバスに乗ると、
至るところで当時の遺構を車窓から見ることができる。
末期は、
1日10往復程度、
日中は2時間に1本が運転されていた。
すべて普通列車で、
一部は加世田駅折り返し。
1日3往復が、
伊集院駅から国鉄西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)へ直通運転していた。
その他、
朝ラッシュ時に加世田 - 薩摩湖間、
夜間に伊集院 - 日置間の区間運転列車が各1往復ずつ運転されていた。
1983年(昭和58年)の豪雨災害後は、
日置 - 加世田間折り返し運転となり、
廃止までその状態だった。
この際、
西鹿児島直通列車のうち、
国鉄線内の区間については、
しばらくの間鹿児島交通の車両により運転が継続された。
伊集院 - 日置の大田トンネルは漏水のためバス代行となっていたが、
国鉄線内に使用する車両の保守の際は、
この区間を回送扱いで運転していた。
末期の使用車両は以下のとおり。
キハ100形 - 国鉄キハ07形と同型の自社発注車。
のち、
一部がキユニに改造されている。
登場時は機械式だったが後に液体式に改造された。
制御はマスターコントローラーではなくアクセルペダルで行う方式で、
最後まで総括制御が不可能だったため、2連以上の時には運転手が
各車両に乗り込んでブザーを合図に操作していた。
側扉は手動で、
車内側にはステップを設けず、
停車時には車外に設置した空気作動のステップを出していた。
キハ300形 - 国鉄キハ10形とほぼ同じ自社発注車だが、
寸法がわずかに異なる。
登場は国鉄キハ10形より若干早く、
片運のキハ17形などを参考に作られた。
西鹿児島駅直通列車には、
当形式が限定的に使用された。
また、
国鉄に直通するため、
ATS-S型の機器が搭載されていた(鹿児島交通線内では不使用)。
いずれの形式も、
オレンジの地色に紺色の帯を巻いた塗色であり、
現在はキハ100形1両(キハ103)が南薩鉄道記念館近くの
バスの整備工場内に保存されている。
廃止前の車両(1981年8月頃)
南薩鉄道の会社発足50周年を記念して、
1961年(昭和36年)2月、会社の重役会にて途中から分岐して
西鹿児島駅に直接乗り入れる新線建設を含めた枕崎線の
高速化構想が打ち出された。
当時の新聞報道によると、
西鹿児島駅と日置駅または永吉駅を結ぶほぼ直線ルートの新線の建設と、
枕崎線のレール交換やカーブの補正、
橋梁の掛け替えなどにより、
西鹿児島駅と枕崎駅の間を最速で50分内外で結ぶ構想だった。
線路改修には2億9千万円、
新線建設には10億円が必要と試算され、
開発銀行融資を受けることが計画された。
鹿児島市街地は地下化することも考えられていた。
しかし、
融資面での条件が折り合わず、
構想は実現しなかった。
寂れていく、
故郷が、
懐かしくもあり、
またいってみたい。
ecar
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