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2021年12月21日
邪馬台国はどこにあったのか
邪馬台国はどこにあったのか
このルーツを探るのに私は桓武天皇がヒントになっている気がします
私の住む渋谷区にはその昔、薩摩や相模をルーツとする、蔦の葉を家紋とした高城氏や東郷氏といった氏族を代表する渋谷氏によって収められてきた歴史があります
渋谷氏の発祥は桓武平氏です
坂東八平氏の一支流、秩父別当である平武基といわれています
そもそも平氏には桓武平氏・仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏の四つの流れがあります
その中でも最も古く、また後世において反映したのが桓武平氏となります
平将門や清盛といった有名人を輩出した名家であり、宇多天皇より高望王(平高望)が朝臣の姓を賜ったのが始まりとも云われています
高望王の父は高見王で祖父が葛原親王、祖父が桓武天皇となる血統です
そして高望王の息子が国香で父と一緒に9世紀に坂東に下向してきたのです
平将門の乱があったのはそれから40年くらい経った935年です
桓武天皇は鳴くよ鶯で有名な平安京の遷都(794年)で知られますが、藤原京を捨てて遷都によって平安という時代を作った天皇です
もちろんその前には長岡京の遷都もありましたが、、平安貴族の心の故郷となった平安京を作ったことが平安時代を完成させたともいえます
その結果、京都という町ができあがったようです
桓武天皇はもともと山部王と呼ばれ白壁王の子でありました
白壁は王光仁天皇のことですが、天智系の血統です
高野新笠を夫人とし、二人の間にできたのが桓武天皇なのです
高野新笠の父は百済の渡来人である和乙継で母親が土師氏の系統、つまり祖は野見宿禰であり全国の天神社で有名な菅原道真の血統につながります
野見宿禰系統の天神菅原道真公の祖先は大国主命の身の回りを世話した「天穂日命」であり、後の出雲国造につながります
また、高野新笠の父である和乙継は百済武寧王の子孫とも云われています
ということは古事記における日本神話の天孫降臨において、国譲りした出雲の大国主命はどこから来たのでしょうか
出雲はモが出ルと読めますが、このモはクモのモです
コモやクモは古代朝鮮語と関係していると思われ、熊野も同じルーツであると考えられます
熊野神社といえばスサノオです
スサノオ神話での舞台が朝鮮半島であることは広く知られていますし、三重県の香良洲神社での稚日女命と深い関係を持っています
高天原で暴れるスサノオが稚日女命を機から落として女陰を傷つけて亡くなってしまったのを悲しんで天照大神が天の岩戸にお隠れになったことで有名です
天の岩戸神話は日本人なら誰でも知っているのではないでしょうか
稚日女命と恋仲であったとも云われるスサノオとカラスの羽に恋文を載せて届けようとして和歌山の地で力尽きた話は熊野神社との関わりを感じますし、和歌山の熊野といえば八咫烏ですから、カラスの言霊もしっくりくるのです
少し話が戻りますが、高野新笠の血を辿ると百済に行き着くのですが、一周回って日本神話になってしまうあたり、そもそも我が国の神話は朝鮮半島からもたらされたということ
もっと言えば我が国の天皇の祖先は初代天皇が神武天皇です
その神武天皇の兄に五瀬命がいますが、モロに朝鮮のお方です
こうした歴史背景について、もちろん皇室が知らないわけがありませんし、逆にあまり知られたくない事柄になっていることも考えれます
実際、宮内庁では頑なに墳墓の公開を拒んでいます
宮内庁が管理する八十基の墳墓を調査すればこうしたことが明白になるのですが…
ですから、皇室は自分たちの出自が国民に知られるのを怖れているのではないかと勘ぐってしまうのです
おそらく、彼らがやってきた3世紀頃に邪馬台国は滅ぼされてしまったのではないでしょうか
当時の平和な日本に鉄を手にした渡来の人々が押し寄せて来たのでしょう
それが九州という国で起こった悲劇であり、また同時に天孫降臨の舞台となったのも九州の地であったことを考えれば、邪馬台国は北九州にあったという説を私は支持したいと思います
さらに言えば邪馬台国を収めていた卑弥呼の後を継いだのは2代目「トヨ」です
トヨは豊であり、北九州の豊後や豊前といった言霊はトヨのクニがあったからではないでしょうか
2021年にニュースとして取り上げられたヤフーニュースの記事で北九州の大和町が取り上げられたことは記憶に新しいのですが、その際に発掘された遺品には鏡も出土しました
しかしそれらはすべて壊されていいたそうです
ニュースでは自分たちで鏡を壊す風習があったのでは?と報道していましたが、3世紀頃の鏡は墓に副葬され、死後の世界においてアムレットという今で言う御守の役目を果たしていたはずです
それを自分たちで壊すといったことは考えられません
だとすればそれは墓を暴かれて壊されたと考えるべきではないでしょうか
実際高句麗からの侵略者たちの風習で、征服した後で墓を荒らすといったような事が行われてきたことがあったようです
また3世紀の弥生時代のあたりから、出土される人骨に刃傷跡が見られるようになったそうです
そうして古墳時代というものが作られていき、やがて奈良〜白鳳文化を経て桓武天皇によって平安時代が作られていったというのが古代の日本史であったのではないでしょうか