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2021年12月22日
怨念による御霊信仰
神田明神の創建は武蔵国豊島郡芝崎村で、今の大手町あたりだったようです。
当時の寂びれた村に出雲の真神田臣といわれる一族が出雲の神である大己貴命を祀ったのがはじまりだそう。
鎌倉時代には将門の首塚の怨霊を鎮めるため、時宗の二祖である真教上人によって祀られた歴史があります。
上人はまたの名を他阿(たあ)といいます。
いっぺん食べたらやめられない一遍上人の後に教団を再結成させて鎌倉時代の時宗を確立させたと云われています。
他阿はそのあと弥陀仏と続く名前ですから西方の極楽浄土思想である阿弥陀信仰から来ています。
一遍上人と他阿はこれを遊行とし踊り念仏なるものを生み出しました。
それが民間のお盆の行事と習合することで盆踊りとなったようです。
この信仰は明治の廃仏毀釈まで盛んだったようで、室町鎌倉から長い時間をかけて醸成されていったと考えられます。
さらにその元を辿ると中国大陸の格義仏教に起源があるようです。
格義仏教とは純粋な仏教ではなく、中国の道教思想と習合された仏教で、日本に伝わった仏教です。
そのために日本のお坊さんは袈裟を着ているんです。
インドのお釈迦様を起源とする仏教では袈裟は無いのです。
ちょっと大袈裟に言う、なんてのもここから来ているんですね。
神田明神は17世紀の元和元年に江戸城拡張の際に鬼門の地ということで現在地に移されたのですが、この場合の「鬼門」という考え方がまさに道教思想と仏教の習合だったのです。
真教上人によって将門公がお祀りされたのは、当時、疫病や天変地異があり、祟りとして御霊を畏れたからということもあったようです。
そうした人々の不安の中で、供養して神田明神の御祭神として勧請されたという背景があるようです。
ですからこれは御霊信仰であるといえます。
例えば天神菅原道真公もそうした祟りを畏れて天神社に祀られた背景があります。
そして奇しくも神田明神と湯島天神は近い距離ですが、直線でスグのところにあります。
神田明神の御祭神は大己貴命、少彦名命、そして平将門命ですがこうした三神の組み合わせも、それらの神社と何故か共通している気がします。
湯島天神では天神社の奥に大己貴命と少彦名命に相当する天手力雄命と笹塚稲荷が祀られていますが、神田明神と同じようにはじめはニ神のセットでした。
それが後から将門公のように道真公が足されたのです。
二人共通するのは怨念によるものであり、御霊信仰は日本人に根深く入り込んでいる気がします。
歴史をみても崇徳天皇や早良親王など他にもあります。
こうした御霊信仰は格義仏教にはあまり見られませんので、日本独特のものなのでしょうか。
粗末にすれば祟るけど、畏れ敬うなら福の神になる思想は果たして西洋の外国人に理解できるでしょうか?
彼らの西洋思想の原点はデカルトにあるような「我思う故に我あり」であり、神仏と離れた所にあるのに対して、東洋思想は梵我一如であって、はじめから有神論的であるところがまさに神秘的であるといえます。
このような事からも日本が「神の国」であるといえる東洋の有神論的な思想の下に独自の神観念を醸成させていった事が感じられるのです。