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2016年05月05日

最後のゼロ戦乗り、

この、原田要さん亡くなったのか、それも今月3日99歳か・・・
今から20年ぐらい前かな、私が入院して時分に病院に元ゼロ戦乗りの人が
いた、ミッドウエー海戦で交戦が終わった後、帰るべき空母が沈んで、
海に不時着北の冷たい海を死を覚悟して泳いだという話を
聞いたことがある・・
今日の日本は子供の日だ、今の子供が私の年代になる頃、私は当然いないが、
日本はどうなっているのか・・・

最後の零戦乗り 5月5日

(1/2ページ)

旧日本海軍の誇る3隻の空母は、米軍爆撃機の空襲により、炎上沈没した。
唯一難を逃れた「飛龍」も、まもなく大爆発を起こす。
直前に飛び立った零戦に搭乗していたのが、原田要(かなめ)さんである。
大敗北に終わるミッドウェー海戦で、連合艦隊機動部隊を最後まで護衛した。その後海面に不時着し、4時間の漂流の末に救助される。

 ▼戦闘機パイロットとして日中戦争で初陣を飾り、真珠湾攻撃や
ガダルカナル島の戦いにも参加した。
撃墜した敵機は19機に及ぶ。半生記の『最後の零戦乗り』にある通り、
「海軍航空の誕生から終わりまでを見届けた」人物である。

 ▼もっとも戦後長く、「零戦乗り」の過去について口を閉ざしてきた。
空戦で敵機にとどめを刺す寸前、目の当たりにした相手の苦しそうな顔が
忘れられない。「人殺し」としての罪悪感にとらわれていたからだ。

 ▼郷里の長野市内で、幼稚園の園長として穏やかな日々を送っていた。
その気持ちに変化が起こる。きっかけは、
1991年に起きた湾岸戦争だった。「テレビゲームみたいだ」。
ニュース映像を見た若者が漏らした感想に衝撃を受ける。

(2/2ページ)

 ▼原田さんは、何度も生死の境をさまよった自らの悲惨な体験を伝える
決心をする。今月3日、
99歳の天寿を全うした原田さんは講演で、戦争の恐ろしさと平和の
大切さを訴え続けた。ただ、納得できないことが一つある。

 ▼昭和12年に日本軍が中国・南京を攻略した際、原田さんは
海軍航空隊の一員として現地にいた。
記憶にあるのは、露店が立ち、日本兵相手に商売を始めた住民の姿である。
「南京大虐殺は信用できない。もしあれば、中国人はわれわれに和やかに
接しただろうか」。 小紙連載「歴史戦」の取材に語っている。


【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】
「誠に和やかに尽きる…」 城内に露店建ち並ぶ「平和な進駐」


(1/4ページ)【「南京大虐殺文書」世界記憶遺産登録】

旧日本軍が昭和12年12月、中国・南京を攻略した後の一時期を、城内で
過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹の原田要(98)は、当時の
雰囲気をこう振り返る。

「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きる、という
印象でした」

10日から始まった総攻撃で、九五式艦上戦闘機の操縦桿(かん)を握り、
頑強だった南京城南東の光華門を攻める陸軍を援護した。
両翼に60キロ爆弾をつるして、何度も城を攻撃した。

 「城壁に爆弾を命中させるとともに、敵兵を機銃で撃ちまくりました」

陥落後に城内の飛行場に降り立った原田の印象に残るのは、日常生活を営む
住民らの姿だった。露店が立ち、住民らは日本兵を相手に商売を始めていた。原田も豚を1匹買った。

 「足をひとくくりに縛った子豚で、仲間と一緒に食べました」

南京城では「露店が何軒か出ていて、日本兵相手に商売をしていた」

(2/4ページ)【「南京大虐殺文書」世界記憶遺産登録】

城外にあった中国国民党の創始者、孫文が眠る墓「中山陵」に参詣もした。
「非常に平和な進駐」という記憶が、原田の脳裏に刻まれている。

攻略戦のさなか、城内に残った住民らは、欧米人らで作る国際委員会が
設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ、
平穏さを取り戻していった−。原田らの目には、そう映った。

そのころの様子について平成19年12月に東京で開かれた
「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」に
出席した元将兵らも同じような証言をしている。

「入城して2〜3日後、住民の姿をみかけるようになり、時計の修理のため
時計屋を訪れた」
(昭和12年12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清)

「露店が何軒か出ていて、日本兵相手に商売をしていた。
靴修理店、散髪屋などだった」
「露店で印鑑を作り、城内は極めて平穏だった」
(同月20日頃の城内の様子を語った元第9師団歩兵第36連隊の伍長、
近藤平太夫)

「住民が平和に商売をしている一方で…虐殺されているというようなことは
考えられません」

(3/4ページ)【「南京大虐殺文書」世界記憶遺産登録】

中国側が主張する「30万人大虐殺」が本当だとするならば、城内の至る
ところで凄惨(せいさん)な殺戮(さつりく)が行われていたはずだが、
元将兵らの証言内容はあまりにもかけ離れている。「集い」で近藤は
南京で作ったという印鑑を掲げながら強調した。

「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されて
いるというようなことは全く考えられません」

原田は零式艦上戦闘機(零戦)のパイロットとして、米ハワイの真珠湾攻撃やミッドウェー海戦にも参加した。その経験から
「戦争は、敵を倒さねば自分がやられてしまう極限状態なんです」と語る。

南京攻略後、住民に平穏な生活が戻る一方で、「便衣兵」の存在が
依然脅威だった。
「便衣兵」とは民間人に偽装した兵士を指し、本来非武装地帯である
安全区に武器を持って潜伏、隠れ戦闘員として日本兵らを襲ったとされる。

原田は「便衣兵はゲリラ。接近してきて日本軍がやられる恐れがあった」と
感じていた。
休暇で南京城の北を流れる長江(揚子江)の河畔に行ったとき、原田は
便衣兵を処刑する場面に出くわした。陸軍兵士らがトラックに乗せてきた
中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。

(4/4ページ)【「南京大虐殺文書」世界記憶遺産登録】

観念した様子の男もいれば、川の中に逃げ込んで撃たれたり、泣きながら
命ごいしたりする男もいた。

東京裁判は兵役年齢の男性約2万人を機関銃と銃剣で殺害した、と
認定したが、原田は首をかしげる。処刑の場面を目撃したのは、この
一度きりなのだ。

東京裁判に出廷した元将校の証言によると、城内で捕虜にした残存兵は
4千人に上り、半数を収容所に送り、残り半数を後に釈放した。
武器を持って潜んでいた便衣兵を軍法会議にかけて処刑することはあるには
あったが、国際法に従って対応していたという。

多くの戦闘を経験し、さまざまな感情を胸に刻んだ原田は今も講演で戦争の
恐ろしさを訴える。それでも戦後浮上した「南京大虐殺」には納得できない。

「何十万人もの大虐殺は信用できない。もし、
大虐殺があれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」

(敬称略)
タグ:日本
posted by 豊後国主 at 15:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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