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2014年10月23日

70年前、10月25日

6418人か!、もしも彼らが半分、いや三分の一でも生きていれば日本も大きく
変わっていたかも・・
この敷島隊が最初の特攻、生みの親は、大西瀧二郎海軍中将、日本にとって、
良かったのか、悪かったのか・・・
敗戦時特攻の責任をとって、大西中将は人知れず割腹自決
toku.jpg
23歳特攻隊員「日本はおしまい」「妻を守るために死ぬ」
無念と絶望、母は「戦争協力者」と貶められ 
(1/2ページ)

飛行服に身を包み、出撃前の打ち合わせをする特攻隊員ら=
昭和19(1944)年12月

旧日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初めての攻撃を実行してから、10月25日で
70年を迎える。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻による戦死者数は
6418人。彼らは何を思い、その後の日本人に何を託したのか−? 
元特攻隊員の言葉などから英霊の思いに迫る。

(編集委員 宮本雅史)

毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で、「神風特攻敷島隊並びに
愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれ、今年で40回を数える。

敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット飛行場で、
海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=を指揮官に
5人で編成。25日、レイテ沖海戦で敵空母群に突撃し、護衛空母セント・ローを
撃沈するなど戦果を挙げた。

当時の新聞は朝刊1面で
「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。

関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、
報道班員だった同盟通信の小野田政特派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを
回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。

「関は腹立たしげにこういった。

『報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』

『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むをえない。
 ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。
 どうだすばらしいだろう!』」

関大尉は当時、新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指し、その言葉からは
苦渋に満ちた決断が伝わる。
   ×   ×
特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのは
まぎれもない事実だが、美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの
想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。

ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、
遺族を取り巻く環境も一変した。

関大尉の母、サカエさんも、「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という
批判を浴びせられる。

訪れる人もなく、衣類を闇米に代え、草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の
小学校に住み込みで働き、昭和28年11月、還暦を前に亡くなる。

意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」とつぶやいて息を
引きとったという。

サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた
新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と
吐き捨てるように言ったという。

浮かび上がった「特攻の真意」 神立尚紀(ノンフィクション作家、写真家)
(1/3ページ)

人間が操縦する飛行機が、搭載した爆弾もろとも敵艦に体当たりする「特攻」。
この戦法が日本海軍で採用され、「神風特別攻撃隊」と命名されて出撃したのは、
第二次大戦末期、米軍大部隊によるフィリピン・レイテ島上陸を迎えた
昭和19年10月のこと。今年でちょうど70年になる。

このとき、戦おうにも飛行機が圧倒的に足りない状況で、航空艦隊司令長官として
マニラに着任したのが大西瀧治郎(たきじろう)中将である。
大西は、敵空母の飛行甲板を破壊、一時的に使用不能にすることを表向きの
理由として、250キロ爆弾を搭載した零戦による体当たり攻撃の実施を決断する。10月25日、特攻隊は初めて突入に成功、たった数機で空母撃沈などの戦果を
挙げた。
そして特攻作戦は恒常化し、終戦の日まで続けられ、数千の若者の命が
海と空に散った。

大西はその後、軍令部次長に転じたが、昭和20年7月、連合国による
ポツダム宣言が発せられたのちも最後まで講和に反対、徹底抗戦を叫び、
「あと二千万人の特攻隊を出せば必ず勝てる」と、非情極まりない主張をしたと
伝えられている。そして昭和天皇がポツダム宣言受諾の聖断をくだし、国民に
終戦を告げる玉音放送が流れた翌8月16日未明、
大西は渋谷南平台の官舎で自刃した。
特攻で死なせた部下たちを思い、なるべく苦しんで死ぬようにと、
介錯(かいしゃく)を断っての最期だった。
遺書には、抗戦論者とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に
後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
大西の表面的な言動と遺書の間には、けっして小さくないギャップが見てとれる。

私は、20年にわたり元零戦搭乗員をはじめとする旧海軍出身者にインタビューを
重ね、一次資料をあたった。すると、現象面を見るだけでは絶対に出てこない
大西の「真意」が浮かび上がってきた。拙著『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ
「特攻」を命じたのか』に詳述したが、要約すれば、特攻は
「アメリカに本土上陸を思いとどまらせ、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、
講和を結ぶための最後の手段である」というものだった。

「カミカゼ」は、そのインパクトの強さから、いまや国際語と化しているが、
海外では一般人を無差別に殺傷する自爆テロの代名詞に誤用され、わが国に
おいても特攻隊員たちの自己犠牲を「無駄死に」と評する声が小さくない。
もちろん、人それぞれに受け止め方が違っていいとは思う。だが、
現在の視点で歴史上の出来事を検証するには、常に当時の価値観を
俎上(そじょう)に載せてそれと比較するのでなければ、事実が真実から
遊離してしまう。

特攻隊員たちの死は無駄死にどころか、日本を敵の本土上陸から救い、多くの
国民に復興と平和をもたらした。−少なくとも
「特攻の真意」を正確に解釈すればそうなる。

「あの戦争」、そして「特攻」とはなんだったのか。まず否定ありきでは、
その真相は永遠に見えてこないだろう。

【プロフィル】神立尚紀

こうだち・なおき 昭和38年、大阪府生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒。
報道カメラマンを経て、戦争体験者の取材を開始、ノンフィクション作品を
執筆する。近著に
『祖父たちの零戦』
『零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争(NHK取材班と共著)』
(いずれも講談社)、
『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)など。
NPO法人「零戦の会」会長。平成25年、映画「永遠の0」戦時監修を担当。
posted by 豊後国主 at 14:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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