四国から本州に架ける橋として有名ですね。
本州に渡る手段としては、船を利用するしかなかったのです。
しかし、天候に左右され思うようにはゆかないことも多々あった。
瀬戸内海は、濃霧が発生することも多く、台風の時期は、数日間は、欠航が続くことも
あります。四国の人々は、本州と結ぶ橋が欲しいという願いがずっとあった。
杉田さんは、その頃今のJR(国鉄)に勤務し、鉄橋建設にの現場にいた時、
橋のなかった国鉄連絡船が大型貨物船と衝突した大きな事故を目の前にした。
168名の命が犠牲となったことで、本州と四国を結ぶ橋があったら大切な命を
無くすこともなかった、この悲劇が杉田さんを突き動かす事になった。
ある一人の人物が立ち上がったのでした。
その人は、この橋に人生をかけたんのではないかと言うくらい凄まじいばかりの生き様に
驚愕しました。
岡山県と香川県を結ぶとてつもない長さの橋。
何と9kmを超える橋の建設に全身全霊以上の凄まじさの建設をした
杉田 秀夫さんなのです。
50年も前の、話です。
世界でも成し遂げていない橋の建設をしたのです。
当時世界中で橋脚と橋脚の間が最長でも500m。
瀬戸大橋は、1100m。
この橋に列車も通る計画をしたのであった。
着工になるまでのプロセスは、険しく壮絶な闘いだったのであった。
橋脚を創るために海中の岩盤を爆発させ、崩すことになる。
それには、海の生物に影響を及ぼすことにもなる。
瀬戸内海は、漁場でもあるため、生態系に影響する事になりかねないために
島民の漁師の方々に正直に説明をし、理解して頂くまで諦めることなく
話し合ったその年月は、3年もかかったのであった。
そこからがまた家族の方々の大きな支えに救われた。
そんな過酷の中でも家族サービスにも助力していた。
奥様は、ご主人様の事を必死に支えていたが、体調を崩され入院をされた。
橋脚の工事に多忙を極めていたが、奥様と病院に一緒に泊まり看病をしながら
仕事に向かっていたのでした。
工事は、日本の景気の低迷(オイルショック)などで延期になっていたが、尚をも諦めず、
自分が出来る事をその時間を利用しようと、いつ工事が出来るようになってもいいようにそのことを
前向きに考え、決して弱音を吐くこともくなく、故郷に橋を架ける事に全身全霊で臨んでいた。
漸く景気が少しづつ回復。ついに5年後にに橋の建設が決定した。
入院をしていた奥様に知らせると「瀬戸大橋からの夕陽が見てみたい」と。
10年かけて造った瀬戸大橋からの夕陽は、真っ赤な今まで見たことのない絶景であった。
完成1年後、奥様の写真と一緒に奥様と誓った事を全うできた杉田さんは感慨深いものだったことでしょう。
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