ここに越してきてから、そっくりさんを拝見するようになりました。
買い物とか、外を歩いていると、ときどき会うんです。
むかし住んでいた田舎町の知人にそっくりだなあと思いながらいました。
しかし見れば見るほど、本人にしか見えなくなってきます。
「でもまさか、あの遠い田舎町に住んでいた人が、ここにいるわけがない。」
ある日、朝バスに乗るとき、ちょうどその人もバス停にいて、なんと私の前の座席に座りました。
私は
「すいません。」
と声をかけます。
「阿部さんではないですか?」
すると
「そうです。」
「〇〇に住んでいた?」
「そうです。」
世間て狭いですね。つくづく。
聞くと、定年退職してから札幌に住んでいるのだそうです。
マンションは毎朝、バス停までの道中、横をかすめる建物です。
しかも私の家から徒歩1分。きっと退職金で買ったのだと思います。
お互い、同じ町で何十年も暮らしたのです。
私は嬉しくなって話をするのですが、どうも乗り気でないように思えます。
こっちが聞いたことには答えますが、それ以上会話が膨らみません。
私はだんだん、話したくないのかな。迷惑なのかなと思うようになりました。
以来、バス停で一緒になり同じバスに乗ることは週に1・2度あるものの、どっちも挨拶することもないので、それっきりになっていました。
私はきっと、この人は過去の人間関係を封印して新たな土地でひっそりと暮らしたいのだろうと思いました。
また、私の通勤時間にちょうど外出するようで、バス停で会わなくても買い物なのか、それとも散歩なのか、毎朝といって良いくらい見かけます。
それが今朝、私がバス停まで歩いているとき、向かいの歩道から横断歩道上ですれ違うことになりました。
ちらっと見ると、会釈をしてきます。
私ももちろん返しましたが、ちょっと安心しました。
これからは気持ちよく挨拶できれば良いと思っています。
でも札幌ってのは人口190万人都市ですが、狭いですね。
このように昔からの知人はごく近所に住んでいますし、数年前、同僚と住んでいる家の話になり、聞けば私の従妹と同じ団地です。部屋を聞いたらなんと、同じ棟で従妹の家の下階でした。
同じく数年前、同僚と話していたら同僚の子供の話題になり、柔道をしているのだとか。
指導者を“木村先生”と呼んでいます。ちなみに先日記事にした木村さんではありません。
私のFacebook友達に中学の同級生がおり、柔道をしている写真がよく投稿されていたので、私は同僚に
「まさか、木村先生って?」
スマホでFacebookを開いて見せると、
「この人!」
さらには私の中学時代に同じ部活をしていた友が、床屋をしています。
その木村先生ことを話すと、なんと柔道をしている同僚の息子と床屋の娘が中学で同じクラスだったとか。
どこに知人の目があることか。
悪いことはできないですね。
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