2018年05月02日
小学生の頃
子供の頃、どんな遊びをしていましたか?
皆さん、だれもが人に譲れないというか、誇りに思う幼少期、少年(少女)期を過ごしていると思います。
あの頃はこんな遊びをして、テレビではどんなことが流行っていて、どんな歌が流行っていたか。
私が小学生の頃、低学年では移動手段が自転車で、主に公園に行き遊ぶことが多かったと思います。
中学年、高学年になってくると移動範囲が広がり、電車を使用することが増えたと思います。
とはいえ、近くで遊ぶこともありグローブ、バットを持って家の前で3人で野球をすることがありました。
今思うと、家の前では危ないのではないかと思います。もしかしたら軟式テニスボールでやっていたかと思いますが、それではグローブは必要ありません。軟式ボールを使っていたと思います。
家の前でするのはキャッチボール程度で、バットを使うときは近くの公園に行っていたかも知れません。
でも私が一番好きだったのは缶蹴りでした。
日の暮れるのが恨めしかったですね。
高学年になると、土曜日には爆竹をするのが大好きでした。
当時は土曜日も午前中は授業があり、昼食を食べた後、友達と待ち合わせて近くの空き地で爆竹をして遊びました。爆竹で遊んでいると、必ず不発が出てきます。
不発の爆竹をその場でほぐし、中の火薬を集め火を点けて火傷を負ったこともあります。
左手の薬指に火傷を負い、水ぶくれから皮膚が剥け、爪がはがれ、治るまでかなりの時間を要しました。
無謀な、危険な遊びでも、そうやって危ないことを覚えていったんだと自己弁護します。
また中学年から高学年にかけて「歩く」というのも重要な遊びでした。
中学年の頃、最寄りの駅は亀戸駅。両国国技館のある両国駅の隣の隣です。
当時住んでいた団地から亀戸駅まで1.3km。子供の足で歩いて約20分。
歩くにはちょうど良い距離でした。
当時は、カルビーのポテトチップスが発売された頃。
女優の藤谷美和子さんが「100円で〜ポテトチップスは買えますが〜、ポテトチップスで100円は買えません。悪しからず。」というテレビCMが話題になりました。
そのポテトチップスを食べながら、歩いて亀戸駅まで歩くのが至福のときでした。
亀戸駅に着くと、そこから電車に乗り、隣の錦糸町駅まで行くのも楽しみでした。
錦糸町駅にはステーションデパート、駅ビルがあります。
そこで買い物をしたり、見るだけだったり、良い時間を過ごすことができたのです。
お、
さっきのはポテトチップスの食べ歩きですね。
いつもなら食べ歩きはいけないと、うるさいことを書いている私ですが、食べ歩きしていました。
すみません。
しかし100円のポテトチップスは当時、とても高く感じました。
子供の小遣いで買っていたのもあります。しかし、電車で隣の錦糸町駅まで小学生は10円です。
その10倍の値段というのは、かなり負担でした。
また、家から亀戸駅までとても広い直線道路がありました。
東京都電、荒川線の跡地だと聞いています。
そこにはかつて路面電車が走っていたのです。
その両脇には夜になると、おでんやラーメンを売っていたのでしょう。人が引く屋台がびっしりと並べられていました。屋台置き場。夜の出番を待っていたのです。
また、亀戸駅から東武亀戸線という私鉄が走っていました。
その当時はまだ古めかしい電車で、駅舎も古い建物。
近くには、焼けて柱だけになった家の残骸のようなものが。
考えられませんが、まるで戦時中の焼け跡がそのまま残っているようにも見える景色でした。
東京にもこんな景色があるのかと、不自然に感じたのと、貴重な景色に思えました。
まだあんな景色があったんだと、思い出せば、涙がこみ上げてきます。
もう一つ、忘れられない危ない遊びです。
きっと子供は危ないものに惹かれるんですね。
たぶん大人もそうなのでしょう。
亀戸駅から分岐して南へ走る、小名木川貨物線というのがあります。
今も線路は残っていますが、貨物線として使用されているのかはわかりません。
住んでいた団地から約5分歩いたところに、その貨物線が走っていました。
貨物線は土手のように盛られた上に、地上よりも高いところを走っていました。
線路が一組しかなく、すれ違うことのできない単線です。
その土手を登って線路まで上がることができたのです。
もちろん今はそんなことできません。その後鉄のネットで囲まれました。
ときどき友人と3人で上っていました。
歩いて亀戸駅まで行くのもそうです。大人も子供も「冒険」が好きなんだと思います。
初めは線路の上をうろうろ歩くだけでした。
でもやはり危険な遊びには違いありません。
列車が近づくと、かなり遠いところからレールを伝い、音が聞こえてきます。
レールに耳を当てると、ヒヤッと冷たいレールから、音がよく聞こえます。
耳を当てなくても聞こえるので、列車が近づいたサインとして気づくのです。
しかし子供ですから、何かに気を取られてうっかりするものです。
あるとき、ふと見るとすぐそこまで列車が近づいてきていました。
ディーゼル機関車と、けん引される黒い貨車たちです。
あわてて隠れる場所を探します。
土手の上を走っている線路なので、走って逃げる場所がないのです。
たまたま凹んでいる場所が近くにありました。
すかさずそこへ身を隠します。
手を伸ばせば届くのではないかというところを列車の床下機器たちが通過して行きます。
それでも懲りないのが子供です。
やがて、次の目標が生れてきました。
それは亀戸駅で合流する地点まで目指そうというものでした。
一度危険な目に遭っているので、常に身を隠す場所を確認しながら進みます。
しかし、もともとわかっていたのは、合流する亀戸駅の直前に川があることでした。
たぶん、20mもない川幅だったろうと思います。
しかし、もし途中で列車が来れば、隠れる場所がありません。
鉄橋にはレールとレールの間に敷かれた幅30cmくらいの鉄でできた網があるだけ。
列車と反対方向に網の上を走って逃げるしかありません。
川に落ちたとすれば、、
陸に上がるのは難しいでしょう。
あのあたりは海抜0メートル地帯です。
地面より水面が高いところにあります。
そのため川岸がないんです。
川面に接しているのは、“カミソリ堤防”と呼ばれたコンクリート製の堤防のみ。
高さも3〜5mあったんじゃないかと思います。
「さて、行こうか、どうしようか。」
友人たちと相談します。
でも、せっかくここまで来たんだ、渡ろうと。
結果は、いま生きているので成功でした。
以前、この話を先輩にしたところ、映画「スタンドバイミー」みたいと言っていました。
皆さん、だれもが人に譲れないというか、誇りに思う幼少期、少年(少女)期を過ごしていると思います。
あの頃はこんな遊びをして、テレビではどんなことが流行っていて、どんな歌が流行っていたか。
私が小学生の頃、低学年では移動手段が自転車で、主に公園に行き遊ぶことが多かったと思います。
中学年、高学年になってくると移動範囲が広がり、電車を使用することが増えたと思います。
とはいえ、近くで遊ぶこともありグローブ、バットを持って家の前で3人で野球をすることがありました。
今思うと、家の前では危ないのではないかと思います。もしかしたら軟式テニスボールでやっていたかと思いますが、それではグローブは必要ありません。軟式ボールを使っていたと思います。
家の前でするのはキャッチボール程度で、バットを使うときは近くの公園に行っていたかも知れません。
でも私が一番好きだったのは缶蹴りでした。
日の暮れるのが恨めしかったですね。
高学年になると、土曜日には爆竹をするのが大好きでした。
当時は土曜日も午前中は授業があり、昼食を食べた後、友達と待ち合わせて近くの空き地で爆竹をして遊びました。爆竹で遊んでいると、必ず不発が出てきます。
不発の爆竹をその場でほぐし、中の火薬を集め火を点けて火傷を負ったこともあります。
左手の薬指に火傷を負い、水ぶくれから皮膚が剥け、爪がはがれ、治るまでかなりの時間を要しました。
無謀な、危険な遊びでも、そうやって危ないことを覚えていったんだと自己弁護します。
また中学年から高学年にかけて「歩く」というのも重要な遊びでした。
中学年の頃、最寄りの駅は亀戸駅。両国国技館のある両国駅の隣の隣です。
当時住んでいた団地から亀戸駅まで1.3km。子供の足で歩いて約20分。
歩くにはちょうど良い距離でした。
当時は、カルビーのポテトチップスが発売された頃。
女優の藤谷美和子さんが「100円で〜ポテトチップスは買えますが〜、ポテトチップスで100円は買えません。悪しからず。」というテレビCMが話題になりました。
そのポテトチップスを食べながら、歩いて亀戸駅まで歩くのが至福のときでした。
亀戸駅に着くと、そこから電車に乗り、隣の錦糸町駅まで行くのも楽しみでした。
錦糸町駅にはステーションデパート、駅ビルがあります。
そこで買い物をしたり、見るだけだったり、良い時間を過ごすことができたのです。
お、
さっきのはポテトチップスの食べ歩きですね。
いつもなら食べ歩きはいけないと、うるさいことを書いている私ですが、食べ歩きしていました。
すみません。
しかし100円のポテトチップスは当時、とても高く感じました。
子供の小遣いで買っていたのもあります。しかし、電車で隣の錦糸町駅まで小学生は10円です。
その10倍の値段というのは、かなり負担でした。
また、家から亀戸駅までとても広い直線道路がありました。
東京都電、荒川線の跡地だと聞いています。
そこにはかつて路面電車が走っていたのです。
その両脇には夜になると、おでんやラーメンを売っていたのでしょう。人が引く屋台がびっしりと並べられていました。屋台置き場。夜の出番を待っていたのです。
また、亀戸駅から東武亀戸線という私鉄が走っていました。
その当時はまだ古めかしい電車で、駅舎も古い建物。
近くには、焼けて柱だけになった家の残骸のようなものが。
考えられませんが、まるで戦時中の焼け跡がそのまま残っているようにも見える景色でした。
東京にもこんな景色があるのかと、不自然に感じたのと、貴重な景色に思えました。
まだあんな景色があったんだと、思い出せば、涙がこみ上げてきます。
もう一つ、忘れられない危ない遊びです。
きっと子供は危ないものに惹かれるんですね。
たぶん大人もそうなのでしょう。
亀戸駅から分岐して南へ走る、小名木川貨物線というのがあります。
今も線路は残っていますが、貨物線として使用されているのかはわかりません。
住んでいた団地から約5分歩いたところに、その貨物線が走っていました。
貨物線は土手のように盛られた上に、地上よりも高いところを走っていました。
線路が一組しかなく、すれ違うことのできない単線です。
その土手を登って線路まで上がることができたのです。
もちろん今はそんなことできません。その後鉄のネットで囲まれました。
ときどき友人と3人で上っていました。
歩いて亀戸駅まで行くのもそうです。大人も子供も「冒険」が好きなんだと思います。
初めは線路の上をうろうろ歩くだけでした。
でもやはり危険な遊びには違いありません。
列車が近づくと、かなり遠いところからレールを伝い、音が聞こえてきます。
レールに耳を当てると、ヒヤッと冷たいレールから、音がよく聞こえます。
耳を当てなくても聞こえるので、列車が近づいたサインとして気づくのです。
しかし子供ですから、何かに気を取られてうっかりするものです。
あるとき、ふと見るとすぐそこまで列車が近づいてきていました。
ディーゼル機関車と、けん引される黒い貨車たちです。
あわてて隠れる場所を探します。
土手の上を走っている線路なので、走って逃げる場所がないのです。
たまたま凹んでいる場所が近くにありました。
すかさずそこへ身を隠します。
手を伸ばせば届くのではないかというところを列車の床下機器たちが通過して行きます。
それでも懲りないのが子供です。
やがて、次の目標が生れてきました。
それは亀戸駅で合流する地点まで目指そうというものでした。
一度危険な目に遭っているので、常に身を隠す場所を確認しながら進みます。
しかし、もともとわかっていたのは、合流する亀戸駅の直前に川があることでした。
たぶん、20mもない川幅だったろうと思います。
しかし、もし途中で列車が来れば、隠れる場所がありません。
鉄橋にはレールとレールの間に敷かれた幅30cmくらいの鉄でできた網があるだけ。
列車と反対方向に網の上を走って逃げるしかありません。
川に落ちたとすれば、、
陸に上がるのは難しいでしょう。
あのあたりは海抜0メートル地帯です。
地面より水面が高いところにあります。
そのため川岸がないんです。
川面に接しているのは、“カミソリ堤防”と呼ばれたコンクリート製の堤防のみ。
高さも3〜5mあったんじゃないかと思います。
「さて、行こうか、どうしようか。」
友人たちと相談します。
でも、せっかくここまで来たんだ、渡ろうと。
結果は、いま生きているので成功でした。
以前、この話を先輩にしたところ、映画「スタンドバイミー」みたいと言っていました。
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