2018年02月03日
もっとも重要なひとつ?
テレビで特によく聞く言葉なんですが、「世界でもっとも偉大な発明家のひとり」とか、日本語として成り立っていない言葉が気になります。
いったいいつ頃からこんな表現が始まったのでしょうか。よく憶えていませんが、そんなに昔ではないと思います。十数年くらい前からでしょうか。
けど「もっとも」と言った時点で一人じゃないですか。
英語でいうと「Best」なんですから。
ただ、そういわれてみると昔からある「ベスト10」というのもおかしな言葉です。
もしかしたらベスト10というのは日本だけの表現かと思い、いま思いついた言葉でググってみると、
「best places to travel 」
という語句を含んだ海外のサイトが、苦労することなく見つかりました。
「旅するのにもっとも素晴らしい場所たち」ということでしょうか。
私見としてテレビは信ぴょう性を問われるというイメージがあります。
「公共の電波」を使う責任みたいなもの。
20年以上前、オカルトなビデオを借りたときです。
かなり有名なVTRで、野外のロケで旧日本軍の軍服をきた半透明の兵士が数名、映ってしまったというもの。
撮影し、放映するか協議になったとき「信ぴょう性」という言葉が遣われていました。
オカルトと一緒にして話すのは違うのかも知れません。
ですが、もし公共の電波で「世界で最も偉大な発明家」と断言しようものなら、それは放送局の私見かと思います。やはり「信ぴょう性」ということにつながるのかと思います。
私としては「もっとも」という、言葉を使わなければ良いと思います。それだけで十分。
使うから面倒になっていると思うのです。
使わなければ、「世界で偉大な発明家のひとり」となります。
しかしこれでは少し変ですね。
なら、
「世界の偉大な発明家」これで良いと思います。
けど、これでは盛り上げが足りないかも知れないですね。
なるほど!
ならばたとえ間違った日本語になろうとも、「世界でもっとも偉大な発明家のひとり」とした方が聞く側にも説得力を与えるのかも知れません。
テレビって日常と違うところがありますね。
演歌歌手とかが着ている派手な衣装を日常も着ていたら明らかに不自然です。
カメラ、レンズを通してテレビで見るから、それなりに見えるというのも数々あるシーンだと思います。
同時に、テレビは「脚色」も得意ですね。
若い頃、わかりやすく言うと「町おこしの若者たち」をしていたことがあり、ミニ独立国ブームの頃でした。
ある日、その私たちのミニ独立国を取材したいと、ローカルのテレビ局が来たときです。
スケジュールの関係か、それとも意図的だったのか、私たちは夜に海水浴場へ集められました。
また、もともとの企画か思い付きだったのか、夜の浜辺で焚火をしようとなりました。
焚火をしただけでは画になりません。そしてテレビ局からの依頼で、
「焚火の上を一人ひとり跳び越えていこう!」
というのです。
私は跳ばなかったと思いますが、あっという間に収録が終わってしまいました。
それではほとんど尺が足りなかったと思います。
挙句にテレビ局は誰かがフォークギターを弾いて、歌を歌おうと言い出す始末。
♪ 君の〜ゆく〜 道は 〜
♪ 果てし〜なく〜 遠い〜
♪ なのに〜 な〜 ぜ〜
と。
結局これもボツになりました。
ちょっと待って下さい!と、
町おこしはやってますけど、私たちは焚火をした集団ではないし、みんなで歌を合唱したこともありません。
きっとプロデューサーの頭には、若者たちというだけで焚火を飛ぶとか、合唱するという決めつけたイメージで、テレビの映像に私たちをはめ込もうとした。
もしテレビ局の要望どおり焚火の上をみんなで跳んで、輪になって「若者たち」を歌ったら、それはそれで画になったかも知れません。演歌歌手の衣装が映えるように。
でも、私たちはまったくそういう集まりではなかった。
単に意気投合した明るい集団ではないし、「イエーイ!」なんてノリもないし。
もっと切羽詰まって何とかしなければという現実派集団でしたから。
以来、私はマスコミってあくまで映像を作りたいだけなんだという意識を持ちました。
いったいいつ頃からこんな表現が始まったのでしょうか。よく憶えていませんが、そんなに昔ではないと思います。十数年くらい前からでしょうか。
けど「もっとも」と言った時点で一人じゃないですか。
英語でいうと「Best」なんですから。
ただ、そういわれてみると昔からある「ベスト10」というのもおかしな言葉です。
もしかしたらベスト10というのは日本だけの表現かと思い、いま思いついた言葉でググってみると、
「best places to travel 」
という語句を含んだ海外のサイトが、苦労することなく見つかりました。
「旅するのにもっとも素晴らしい場所たち」ということでしょうか。
私見としてテレビは信ぴょう性を問われるというイメージがあります。
「公共の電波」を使う責任みたいなもの。
20年以上前、オカルトなビデオを借りたときです。
かなり有名なVTRで、野外のロケで旧日本軍の軍服をきた半透明の兵士が数名、映ってしまったというもの。
撮影し、放映するか協議になったとき「信ぴょう性」という言葉が遣われていました。
オカルトと一緒にして話すのは違うのかも知れません。
ですが、もし公共の電波で「世界で最も偉大な発明家」と断言しようものなら、それは放送局の私見かと思います。やはり「信ぴょう性」ということにつながるのかと思います。
私としては「もっとも」という、言葉を使わなければ良いと思います。それだけで十分。
使うから面倒になっていると思うのです。
使わなければ、「世界で偉大な発明家のひとり」となります。
しかしこれでは少し変ですね。
なら、
「世界の偉大な発明家」これで良いと思います。
けど、これでは盛り上げが足りないかも知れないですね。
なるほど!
ならばたとえ間違った日本語になろうとも、「世界でもっとも偉大な発明家のひとり」とした方が聞く側にも説得力を与えるのかも知れません。
テレビって日常と違うところがありますね。
演歌歌手とかが着ている派手な衣装を日常も着ていたら明らかに不自然です。
カメラ、レンズを通してテレビで見るから、それなりに見えるというのも数々あるシーンだと思います。
同時に、テレビは「脚色」も得意ですね。
若い頃、わかりやすく言うと「町おこしの若者たち」をしていたことがあり、ミニ独立国ブームの頃でした。
ある日、その私たちのミニ独立国を取材したいと、ローカルのテレビ局が来たときです。
スケジュールの関係か、それとも意図的だったのか、私たちは夜に海水浴場へ集められました。
また、もともとの企画か思い付きだったのか、夜の浜辺で焚火をしようとなりました。
焚火をしただけでは画になりません。そしてテレビ局からの依頼で、
「焚火の上を一人ひとり跳び越えていこう!」
というのです。
私は跳ばなかったと思いますが、あっという間に収録が終わってしまいました。
それではほとんど尺が足りなかったと思います。
挙句にテレビ局は誰かがフォークギターを弾いて、歌を歌おうと言い出す始末。
♪ 君の〜ゆく〜 道は 〜
♪ 果てし〜なく〜 遠い〜
♪ なのに〜 な〜 ぜ〜
と。
結局これもボツになりました。
ちょっと待って下さい!と、
町おこしはやってますけど、私たちは焚火をした集団ではないし、みんなで歌を合唱したこともありません。
きっとプロデューサーの頭には、若者たちというだけで焚火を飛ぶとか、合唱するという決めつけたイメージで、テレビの映像に私たちをはめ込もうとした。
もしテレビ局の要望どおり焚火の上をみんなで跳んで、輪になって「若者たち」を歌ったら、それはそれで画になったかも知れません。演歌歌手の衣装が映えるように。
でも、私たちはまったくそういう集まりではなかった。
単に意気投合した明るい集団ではないし、「イエーイ!」なんてノリもないし。
もっと切羽詰まって何とかしなければという現実派集団でしたから。
以来、私はマスコミってあくまで映像を作りたいだけなんだという意識を持ちました。
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