2017年11月10日
レクイエム
私にはとても仲の良い一つ年下の従弟がいました。
父方の叔母、その息子で、叔父は父と趣味が合ったものだから、毎週週末には父に連れられ、一泊で遊びに行っていました。今から約40年前のことです。
当時まだ小学生だったので、住所も憶えていませんでしたが、つい先日、その団地の名前がふわっと思い出されたのです。
団地名を頼りにGoogleマップを開くと、、、
当時のまま、建物はまだあるのです。
片道1時間半かけて通った道は、もし私に車の運転ができたなら、私でも行けるくらい記憶していました。
ピーマンが食べられるようになったのも、従弟の家に行ったお陰です。
ある晩、ピーマンを炒めたものが一皿まるまる出されました。自分の家なら食べなかったものを、他人様の家で残すことはできません。
いやいや食べているうちに、おいしさがわかるようになりました。
プロレスが当時は大ブームで、土曜日のゴールデンタイムに放映されていました。
当時はまだ、ドリフターズの「8時だよ!全員集合!」が土曜夜の看板番組でしたので、たぶんプロレスは9時からの放送だったと思います。もちろん、従弟と一緒に見ていました。
正月にも行きました。
正月といえば昔はテレビの正月特番が目玉だったので、それも一緒に見ていたものです。
「新春スターかくし芸大会」だったでしょうか。
ハナ肇さんが毎度、銅像役で出ていたあの頃です。
またあるとき、皮をむいたみかんをまるまる口にほうばり、笑わせ合い、二段ベッドの上に逃げようとした従弟の口から、漏れたみかんの果汁が私の頭にたらたらとこぼれてきました。
小さい頃は父の仕事の関係で、引越し、転校ばかりしていた私にとって幼馴染という存在はありません。
従弟は唯一、幼馴染に近い存在だったのです。
外遊びが好きだった従弟は、正月には「ゲイラカイト」という凧揚げを団地の上階からしていました。私も従弟に連れられて自転車であちこち行ったものです。
従弟は自分の自転車に乗ったとして、私が乗ったあれは誰の自転車だったのでしょう。
当時の〇〇市は、自転車で少し走るとすぐに堆肥の匂いがしてくる田舎でした。
ある日、トンネルをくぐっていく模型屋があるから、行ってみようと連れられて行ったところ。
「トンネル模型」という、鉄道模型ファンなら誰しもが知っている店。
鉄道模型の雑誌には必ず、広告が載っていた店です。
従弟にとっては近所の店でしたが、私にとっては目から鱗の店でした。
悲しいことに今、ネットで検索しても見つかりません。
当時はJリーグなんてありません。テレビで身近なスポーツといえば何しろ野球でした。
従弟と私はバットとグローブ、軟式ボール。またはプラバットと軟式テニスのボールを持って、野球ごっこをしていました。
日が暮れるまで、または父が「そろそろ帰るぞ〜」というまで。
奥はプラバットと軟庭ボールで野球ごっこをした駐車場、手前のゴミステーションは従弟、あるいは私がバットを持って立ち、打ち損じたときはゴミステーションの壁にバウンドして、ボールが返ってくるようにして遊んだ場所です。当時は、ガードレールはなかったと思います。
思い出の多い団地、そして町です。
https://www.google.co.jp/maps/@35.504249,139.4224839,3a,75y,72.49h,74.86t/data=!3m6!1e1!3m4!1s_8KuqyhcWbNDBe9Hj2JE_A!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja&authuser=0
父方の叔母、その息子で、叔父は父と趣味が合ったものだから、毎週週末には父に連れられ、一泊で遊びに行っていました。今から約40年前のことです。
当時まだ小学生だったので、住所も憶えていませんでしたが、つい先日、その団地の名前がふわっと思い出されたのです。
団地名を頼りにGoogleマップを開くと、、、
当時のまま、建物はまだあるのです。
片道1時間半かけて通った道は、もし私に車の運転ができたなら、私でも行けるくらい記憶していました。
ピーマンが食べられるようになったのも、従弟の家に行ったお陰です。
ある晩、ピーマンを炒めたものが一皿まるまる出されました。自分の家なら食べなかったものを、他人様の家で残すことはできません。
いやいや食べているうちに、おいしさがわかるようになりました。
プロレスが当時は大ブームで、土曜日のゴールデンタイムに放映されていました。
当時はまだ、ドリフターズの「8時だよ!全員集合!」が土曜夜の看板番組でしたので、たぶんプロレスは9時からの放送だったと思います。もちろん、従弟と一緒に見ていました。
正月にも行きました。
正月といえば昔はテレビの正月特番が目玉だったので、それも一緒に見ていたものです。
「新春スターかくし芸大会」だったでしょうか。
ハナ肇さんが毎度、銅像役で出ていたあの頃です。
またあるとき、皮をむいたみかんをまるまる口にほうばり、笑わせ合い、二段ベッドの上に逃げようとした従弟の口から、漏れたみかんの果汁が私の頭にたらたらとこぼれてきました。
小さい頃は父の仕事の関係で、引越し、転校ばかりしていた私にとって幼馴染という存在はありません。
従弟は唯一、幼馴染に近い存在だったのです。
外遊びが好きだった従弟は、正月には「ゲイラカイト」という凧揚げを団地の上階からしていました。私も従弟に連れられて自転車であちこち行ったものです。
従弟は自分の自転車に乗ったとして、私が乗ったあれは誰の自転車だったのでしょう。
当時の〇〇市は、自転車で少し走るとすぐに堆肥の匂いがしてくる田舎でした。
ある日、トンネルをくぐっていく模型屋があるから、行ってみようと連れられて行ったところ。
「トンネル模型」という、鉄道模型ファンなら誰しもが知っている店。
鉄道模型の雑誌には必ず、広告が載っていた店です。
従弟にとっては近所の店でしたが、私にとっては目から鱗の店でした。
悲しいことに今、ネットで検索しても見つかりません。
当時はJリーグなんてありません。テレビで身近なスポーツといえば何しろ野球でした。
従弟と私はバットとグローブ、軟式ボール。またはプラバットと軟式テニスのボールを持って、野球ごっこをしていました。
日が暮れるまで、または父が「そろそろ帰るぞ〜」というまで。
奥はプラバットと軟庭ボールで野球ごっこをした駐車場、手前のゴミステーションは従弟、あるいは私がバットを持って立ち、打ち損じたときはゴミステーションの壁にバウンドして、ボールが返ってくるようにして遊んだ場所です。当時は、ガードレールはなかったと思います。
思い出の多い団地、そして町です。
https://www.google.co.jp/maps/@35.504249,139.4224839,3a,75y,72.49h,74.86t/data=!3m6!1e1!3m4!1s_8KuqyhcWbNDBe9Hj2JE_A!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja&authuser=0
タグ:従弟
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