2020年06月07日
特急電車
特急列車も今では電車というイメージがあります。もちろん、歴史がありました。
子供の頃、読んだ本に書いてありました。
電車のデザインには三つあり、通勤型電車、特急型電車、超特急型電車です。
通勤電車はたくさんの人を乗せる必要があり、デザインよりも車内スペースを広くとること。超特急電車は速いスピードで走る必要があり、空気抵抗を減らすため流線型である必要がある。特急電車はどちらでもよく、デザイン優先で人気を得る必要があると。
ここでは私鉄を除き、JRとその前身である日本国有鉄道(鉄道省)の有した車両について取り上げます。
特急列車の前には「最急行」という種別があり、新橋から神戸を運行した列車が運賃以外の料金を徴収したことで特急列車の元祖とされています。1906年(明治39年)のことです。
特別急行は1912年(明治45年)、中国、欧州などへの国際連絡運輸の一翼を担う「大陸連絡列車」として、新橋〜下関間で運転。下関から関釜連絡船に接続する列車でした。ところが太平洋戦争の激化により、1944年(昭和19年)4月、「富士」を最後に全て廃止され、日本の特急列車は一旦消滅しました。
終戦直後、石炭・車両・整備の状況が戦時中以上に悪化したこともあり、特急列車どころか普通の列車すらまともに運転できない状態となり、1947年(昭和22年)の1月から4月に掛けては急行列車まで全廃されました。
その後、それらの状況がやっと好転してきた1949年(昭和24年)9月、東京〜大阪間に「へいわ」が運転開始され同区間を9時間で結び、速度こそ戦前の水準に及ばないが、特急列車の復活です。
当時は蒸気機関車が客車を牽引するものでした。しかし一度にたくさんの人を運ぶには列車を長編成化させる必要があります。蒸気機関車による牽引では効率的とはいえません。
また、電車特急の運用は路線の電化と大きな関係があります。1956年(昭和31年)に東海道本線が全線電化完成しましたが、それ以外の区間においてはまだ非電化区間が多くありました。そのため電車と同様に客車に動力を持てる気動車にも特急としての期待がかかっていました。
1960年(昭和35年)、東北本線(常磐線)上野〜青森間に投入された気動車が、キハ81系です。
同じころ、電車特急では1958年(昭和33年)東京〜大阪間を6時間30分で運転するクハ151系がありました。
キハ81系もクハ151系(181、481系)も静粛性から電動発電機 と空気圧縮機を客室から遠ざけるため車両先端をボンネットにして格納する必要がありました。が、同時にボンネット型の先頭車両を中間にも編成すると、そこで隔てられ食堂車まで歩いて行けないという弊害がありました。
1961年(昭和36年)気動車特急キハ82系。これは見覚えがあるのではないですか。
さらに貫通構造で高速運転に備えて運転士の視界を確保するための高運転台を備えた車両が登場します。
1967年(昭和42年)クハネ581系、寝台特急
1972年(昭和47年)クハ481系200番台
私はこれら二つの貫通型車両が大好きで、特急型電車がデザインを重視し人気を得ることで利用者数を増やすのが目的だとしたら、この車両は充分だったでしょう。現に撮り鉄を増やしたのはこれらの車両たちであったと思っています。
現在では車両を製造する技術も上がったためか、近未来的なデザインの特急電車が多くあります。これは自動車にも言えると思います。しかし、私には近未来的なデザインはグロテスクに見えてしまい、どうしても馴染むことができません。古い時代にしがみつくこともどうかと思いますが。
※参考:Wikipedia
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いつもありがとうございます。
まだですね。
ときどき派遣会社から新しい仕事の紹介は来るのですが、どれも帯に短しです。^^;
受信の法人向け特別定額給付金は良いよという話は眉唾で、個人向けより悪いようですね。私は賭けで失業手当を選択しています。
元同僚が給付金を選択してしまったため、もうしばらくは会社都合にできないから心配です。
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まだしばらく新センターで働くご予定はいかがですか? 本当にコロナの影響で楽しそうな案件が見当たら無いですが、、、