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2021年04月20日
4月20日 今日のクラシック音楽
武満 徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩―
【今日の出来事】
1879年4月20日 ラロ:ノルウェー狂詩曲 初演
1880年4月20日 ボロディン:交響詩『中央アジアの草原にて』初演
1943年4月20日 ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮者)誕生
1995年4月20日 武満 徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩― 初演
2001年4月20日 ジュゼッペ・シノーポリ(指揮者・作曲家)没
1910年4月20日 ラヴェル:ピアノ四手連弾組曲『マ・メール・ロワ』初演
系図 ―若い人たちのための音楽詩―(Family Tree - Musical Verses for Young People - )は、武満徹が作曲した、少女の語り手とオーケストラのための作品である。『若い人たちのための音楽詩』は副題である。
1992年に、ニューヨーク・フィルハーモニックの創立150周年を記念として委嘱された作品である。1995年の4月20日に、レナード・スラットキンの指揮とニューヨーク・フィルハーモニック、サラ・ヒックスの語りによって初演が行われた(この時は英語版による)。世界初演の直後に、日本では、女優の遠野凪子の語り、岩城宏之の指揮、NHK交響楽団によって放送初演の形式で行われた。日本語版による舞台初演は、同年の9月7日に松本文化会館で、女優の遠野凪子の語り、小澤征爾の指揮、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏で行われた。
1996年2月20日、武満徹が死去し、同年2月25日NHK教育テレビで放送された追悼番組では、「映像詩 系図」の制作風景と、完成した「映像詩 系図」(朗読:遠野凪子)が放映された。
詩人の谷川俊太郎の詩集『はだか』の中にある詩を、武満が6篇を選出してテキストにし、彼によって再構成されたものが作品に用いられている。詩の英訳はウィリアム・I・エリオットと川村和夫が行った。詩集の原文では主人公は少年であり一人称は「ぼく」となっているが、本作では少女に変更され、一人称は「わたし」となっている。
曲の最後に現れるアコーディオンの旋律は、以前に書いたが使われなかった曲(映画監督ジム・ジャームッシュが1991年に制作した映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』のために書いた曲)を再利用したものである。後日談として、使用される予定だったが結局使用されなかったアコーディオンの奏する部分の音楽を、後日武満は(残念に思ったのか)自宅の食卓において、BGMとして流したという話がある。(Wikipediaより抜粋)
【今日の出来事】
1879年4月20日 ラロ:ノルウェー狂詩曲 初演
1880年4月20日 ボロディン:交響詩『中央アジアの草原にて』初演
1943年4月20日 ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮者)誕生
1995年4月20日 武満 徹:系図 ―若い人たちのための音楽詩― 初演
2001年4月20日 ジュゼッペ・シノーポリ(指揮者・作曲家)没
1910年4月20日 ラヴェル:ピアノ四手連弾組曲『マ・メール・ロワ』初演
系図 ―若い人たちのための音楽詩―(Family Tree - Musical Verses for Young People - )は、武満徹が作曲した、少女の語り手とオーケストラのための作品である。『若い人たちのための音楽詩』は副題である。
1992年に、ニューヨーク・フィルハーモニックの創立150周年を記念として委嘱された作品である。1995年の4月20日に、レナード・スラットキンの指揮とニューヨーク・フィルハーモニック、サラ・ヒックスの語りによって初演が行われた(この時は英語版による)。世界初演の直後に、日本では、女優の遠野凪子の語り、岩城宏之の指揮、NHK交響楽団によって放送初演の形式で行われた。日本語版による舞台初演は、同年の9月7日に松本文化会館で、女優の遠野凪子の語り、小澤征爾の指揮、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏で行われた。
1996年2月20日、武満徹が死去し、同年2月25日NHK教育テレビで放送された追悼番組では、「映像詩 系図」の制作風景と、完成した「映像詩 系図」(朗読:遠野凪子)が放映された。
詩人の谷川俊太郎の詩集『はだか』の中にある詩を、武満が6篇を選出してテキストにし、彼によって再構成されたものが作品に用いられている。詩の英訳はウィリアム・I・エリオットと川村和夫が行った。詩集の原文では主人公は少年であり一人称は「ぼく」となっているが、本作では少女に変更され、一人称は「わたし」となっている。
曲の最後に現れるアコーディオンの旋律は、以前に書いたが使われなかった曲(映画監督ジム・ジャームッシュが1991年に制作した映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』のために書いた曲)を再利用したものである。後日談として、使用される予定だったが結局使用されなかったアコーディオンの奏する部分の音楽を、後日武満は(残念に思ったのか)自宅の食卓において、BGMとして流したという話がある。(Wikipediaより抜粋)