諸葛亮(しょかつ りょう:字は孔明)とは?
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。
『三国志演義』中の諸葛亮
小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである。
『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている。」と述べている。
諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。
『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に十万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。
赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。
■非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた)。
■戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った(裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したもの)。
■曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。
赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮!?」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!?)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』本伝にはない。
北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも『演義』の創作である。
『演義』では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その事が原因となって馬岱を1兵卒に落とした。その後の最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去する。諸葛亮の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であったと描いている。後に現地の人間は「死諸葛嚇走活仲達」(死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす)と言ったという(この台詞は裴注に引く『漢晋春秋』に見えるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)。
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