2014年02月07日
衆生
衆生 (しゅじょう,(sanskrit)sattva सत्त्व,(pali)satta सत्त, (sanskrit)bahujana बहुजन)は、生命あるものすべて。
概要[編集]
玄奘訳では有情(うじょう)と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記 )といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情(ひじょう)に対して、一切の生きとし生けるもののすべてを含めていわれる。この点で、多くのものが共に生存しているという意味で「bahujana」といわれ、衆人と訳される。
衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。その点、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏といわれる十界の中でも、一般的には前の六道にあるものをさす。
したがって、衆生は、そのまま人間のことではない。この意味で「わたくしは人間である」といういい方は、仏教では適当でなく、厳密には「わたくしは人間界の衆生である」というべきである。
仏教で人間は、サンスクリット語で「マヌシャ」(manuSya मनुष)といわれ、ヨーロッパでの「マン」(en:man)「メンシュ」(de:Mensch)と同じく「考えるもの」の意味である。
仏教では人間とは人間の境界のことで、単なる個人とは考えず、多くの人に接し、人びとと共にある世界のことで、主として思考を中心に生きているものの意味である。仏教の中に、われわれが自分の在り方を求める場合、衆生という表現の方が「人間」と呼ぶより本来的である。
サンスクリット語の「サットヴア」、パーリ語の「サッタ」は、「生きているもの、存在するもの」の意味である。ところが、これを「衆生」と訳した中国人の受け取り方に、人間の在り方への深い反省がみられると同時に、そこには仏教の思想がよく言いあらわされている。
衆生が、「バフジャナ」と言われるのは、多くのものと一緒に生存しているものを意味し、衆多之生(しゅうたのしょう)の意味である。輪廻転生といろいろな生をめぐる人間の姿の反省からいわれる場合で、「いろいろと多くの生死をもっているもの」の意味である。これを人間はお互いにみな各自別々の生活を営んでいるという点から「異生」(いしょう)と同じ意味とみることがある。
「異性」とはサンスクリット語のプリタグジャナ(pRthagjana पृΝग्जन)、チベット語のソソル・ケボ(so-sor-skyes-bo)で、しばしば凡夫(ぼんぶ)と同じ意味である。各自の担っている業(ごう、karman)、現に造りつつある業によって生きている。日々心で考え、話し、行動する。この人間の心と言葉と行為は、それぞれの人びとの生活の仕方を決定し、規定づける。これによって、幸福も不幸も、一切の生活は自己の責任において行なわれる。このように、自己の生活を自己の責任において考えてゆく生き方こそ、もっとも人間らしい生き方であるとするのが、衆生と呼んで自己を見つめた仏教徒の態度を示している。
漢訳仏典で、衆生を衆縁所生(しゅうえんしょしょう)と分析する。この場合は、一般にはいろいろの原因と条件が組み合わさって、いろいろな結果を生み出すのであるから、このわたくしの生存は、単一の原因だけでなく、多くの条件によるのだと、外からの条件を重くみる考え方と思われる。
この解釈の根源は、釈迦の正覚の内容といわれる縁起(えんぎ)そのものを意味し、縁生(えんしょう)ということである。すなわち、あらゆる存在は、自分自身に存在性をもつものではなく、他によって存在性をあたえられて存在するということである。すべての存在は、もともと空(くう)でありながら、そのままで縁起して有(う)である。
自らに即して言えば、わたくしは、独りぼっちでは生きられず、他と関係することにおいてのみ生きられるのである。歴史的には過去と未来を離れて現在のわたくしはありえないし、社会的には無限ともいうべき、多くの横とのつながりにおいて生きている。これが、衆縁所生と自己をうけとった衆生の意味である。
衆生を、衆多の妄想の生起せるものとうけとった人もある。それは、本来すべてのものは一体であるのに、それぞれ差別観をもって生きる人間の妄想顛倒を反省し、自分に対する痛烈な批判をあらわしたものである。因果の道理をしらず、責任を他に転嫁しようと腐心し、他によって生かされている自己を見失って、自己を絶対視する間違った人間の生き方への批判からあらわれた人間観を示している。
概要[編集]
玄奘訳では有情(うじょう)と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記 )といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情(ひじょう)に対して、一切の生きとし生けるもののすべてを含めていわれる。この点で、多くのものが共に生存しているという意味で「bahujana」といわれ、衆人と訳される。
衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。その点、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏といわれる十界の中でも、一般的には前の六道にあるものをさす。
したがって、衆生は、そのまま人間のことではない。この意味で「わたくしは人間である」といういい方は、仏教では適当でなく、厳密には「わたくしは人間界の衆生である」というべきである。
仏教で人間は、サンスクリット語で「マヌシャ」(manuSya मनुष)といわれ、ヨーロッパでの「マン」(en:man)「メンシュ」(de:Mensch)と同じく「考えるもの」の意味である。
仏教では人間とは人間の境界のことで、単なる個人とは考えず、多くの人に接し、人びとと共にある世界のことで、主として思考を中心に生きているものの意味である。仏教の中に、われわれが自分の在り方を求める場合、衆生という表現の方が「人間」と呼ぶより本来的である。
サンスクリット語の「サットヴア」、パーリ語の「サッタ」は、「生きているもの、存在するもの」の意味である。ところが、これを「衆生」と訳した中国人の受け取り方に、人間の在り方への深い反省がみられると同時に、そこには仏教の思想がよく言いあらわされている。
衆生が、「バフジャナ」と言われるのは、多くのものと一緒に生存しているものを意味し、衆多之生(しゅうたのしょう)の意味である。輪廻転生といろいろな生をめぐる人間の姿の反省からいわれる場合で、「いろいろと多くの生死をもっているもの」の意味である。これを人間はお互いにみな各自別々の生活を営んでいるという点から「異生」(いしょう)と同じ意味とみることがある。
「異性」とはサンスクリット語のプリタグジャナ(pRthagjana पृΝग्जन)、チベット語のソソル・ケボ(so-sor-skyes-bo)で、しばしば凡夫(ぼんぶ)と同じ意味である。各自の担っている業(ごう、karman)、現に造りつつある業によって生きている。日々心で考え、話し、行動する。この人間の心と言葉と行為は、それぞれの人びとの生活の仕方を決定し、規定づける。これによって、幸福も不幸も、一切の生活は自己の責任において行なわれる。このように、自己の生活を自己の責任において考えてゆく生き方こそ、もっとも人間らしい生き方であるとするのが、衆生と呼んで自己を見つめた仏教徒の態度を示している。
漢訳仏典で、衆生を衆縁所生(しゅうえんしょしょう)と分析する。この場合は、一般にはいろいろの原因と条件が組み合わさって、いろいろな結果を生み出すのであるから、このわたくしの生存は、単一の原因だけでなく、多くの条件によるのだと、外からの条件を重くみる考え方と思われる。
この解釈の根源は、釈迦の正覚の内容といわれる縁起(えんぎ)そのものを意味し、縁生(えんしょう)ということである。すなわち、あらゆる存在は、自分自身に存在性をもつものではなく、他によって存在性をあたえられて存在するということである。すべての存在は、もともと空(くう)でありながら、そのままで縁起して有(う)である。
自らに即して言えば、わたくしは、独りぼっちでは生きられず、他と関係することにおいてのみ生きられるのである。歴史的には過去と未来を離れて現在のわたくしはありえないし、社会的には無限ともいうべき、多くの横とのつながりにおいて生きている。これが、衆縁所生と自己をうけとった衆生の意味である。
衆生を、衆多の妄想の生起せるものとうけとった人もある。それは、本来すべてのものは一体であるのに、それぞれ差別観をもって生きる人間の妄想顛倒を反省し、自分に対する痛烈な批判をあらわしたものである。因果の道理をしらず、責任を他に転嫁しようと腐心し、他によって生かされている自己を見失って、自己を絶対視する間違った人間の生き方への批判からあらわれた人間観を示している。
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