2014年02月07日
輪廻
輪廻(りんね、サンスクリット:संसार saṃsāra)は、ヴェーダ、仏典などに見られる用語で、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、また、そう考える思想のこと。漢字の輪廻は生命が無限に転生を繰り返すさまを、輪を描いて元に戻る車輪の軌跡に喩えたことから来ている。なお、「輪廻」をリンネと読むのは国語学上の 連声れんじょうという現象である(リン+エ=リンネ)。
目次 [非表示]
1 インドの諸宗教における輪廻 1.1 ヒンドゥー教における輪廻
1.2 仏教における輪廻 1.2.1 仏教における輪廻思想の発展
1.2.2 仏教内における輪廻思想の否定
1.3 ジャイナ教における輪廻
2 その他の地域における輪廻 2.1 古代エジプト
2.2 古代ギリシア・西洋
3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 輪廻転生をモチーフにした芸術作品
7 外部リンク
インドの諸宗教における輪廻[編集]
輪廻はインドにおいてサンサーラ(saṃsāra)と呼ばれる。サンサーラとは、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。
ヒンドゥー教における輪廻[編集]
ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献[1]ないし最初期のウパニシャッド文献[2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。
五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[3]。
これが、バラモン教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ、karman)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。
行為が行われた後、なんらかの結果(para)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。
これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。
仏教における輪廻[編集]
仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)[4]。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない[4]。
仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり[5]、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[5]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。[6]このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。[7]この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[8][6]、意識が断絶することはない。[9][5]また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。[6]それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。
仏教における輪廻思想の発展[編集]
成立がもっとも早い、最古層のグループとして分類される経典に、ダンマパダ、およびスッタニパータがあり、これらの経典にも輪廻思想が登場する。 ダンマパダにおいては単純に、善趣(良き境遇)と悪趣(悪しき境遇)として説かれている。スッタニパータでは悪趣として具体的に、地獄が説かれ、そこでは獄卒によって様々な責め苦に遭わされるという。
部派仏教の時代になると、世親(ヴァスバンドゥ)の『倶舎論』に、天・人・畜生・餓鬼・地獄の五趣(五道)輪廻の説が見られ、命あるものは、この五趣を輪廻するものとされた。
後にこの五趣に、闘争にあけくれる境遇として阿修羅が加わり、これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。
後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展した。自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚・声聞・菩薩・如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。
仏教内における輪廻思想の否定[編集]
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。[10]
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[11]。 このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。
ジャイナ教における輪廻[編集]
詳細は「サンサーラ (ジャイナ教)」を参照
ジャイナ教において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。モクシャ(解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。
その他の地域における輪廻[編集]
古代エジプト[編集]
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古代ギリシア・西洋[編集]
古代ギリシアなどにはオルペウス教やピタゴラス教団、プラトンなど一部で輪廻の発想はあったが、その後に来るキリスト教文化圏の、人間を他の動物から峻別する伝統にとっては異端である。ただ、欧米のキリスト教文化圏でも、Reincarnation(リンカネーション、もしくはリインカネーション)という霊魂の生まれ変わりないしは転生の概念は存在する。例えば神秘学の範疇においては、輪廻はその教義展開の題材となっていることが多く、信奉者も多い。また、怪奇小説や映画の題材になることもある。なお、神秘学の歴史は比較的新しいもので、これといった起源は特定しにくい。つまり、西洋においては、時間は直線のように進むが、輪廻の字義通り輪のように循環するという発想は伝統的教義には見られないのである。なお、10世紀半ばにフランス南部とイタリア北部で行われた反聖職者運動であるカタリ派はグノーシス主義の二元論などの影響を受けており、この世は悪であり、悪人が現世に転生する、という教義を持っていた。
脚注[編集]
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1.^ ブラーフマナは、ヴェーダのシュルティ(天啓文書)のひとつで、ヴェーダの祭式を解説するいくつかの注釈書。紀元前900年頃から紀元前500年頃にかけて成立したされ、この時代をブラーフマナ時代という。
2.^ 紀元前800年頃以降にサンスクリットで書かれた哲学書で「奥義書」と称される。
3.^ 『南アジアを知る事典』(1992)
4.^ a b 石飛道子『仏教と輪廻(下)ブッダは輪廻を説かなかったか』 http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation2.html
5.^ a b c V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』 http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-2.html
6.^ a b c V.F Gunaratna 『仏教から見る死(下)』 http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-3.html
7.^ A.スマナサーラ, 藤本晃(共著)『アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析』サンガ、p.83
8.^ アビダルマ教学では、二つのエネルギーの因果関係が距離の影響を受けるとは考えない。(V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』)
9.^ 仏教は完全な意識(路心 citta-vīthi)と無意識(有分心 bhavanga-citta)を区別し、どちらも意識(viññāna)と見做す。(V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』)
10.^ 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』岩波書店、望月海慧『ブッダは輪廻思想を認めたのか』日本佛教学會年報第六十六号、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版など
11.^ アンベードカル『ブッダとそのダンマ』光文社、田中公明『性と死の密教』春秋社、山際素男『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』光文社
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1 インドの諸宗教における輪廻 1.1 ヒンドゥー教における輪廻
1.2 仏教における輪廻 1.2.1 仏教における輪廻思想の発展
1.2.2 仏教内における輪廻思想の否定
1.3 ジャイナ教における輪廻
2 その他の地域における輪廻 2.1 古代エジプト
2.2 古代ギリシア・西洋
3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 輪廻転生をモチーフにした芸術作品
7 外部リンク
インドの諸宗教における輪廻[編集]
輪廻はインドにおいてサンサーラ(saṃsāra)と呼ばれる。サンサーラとは、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。
ヒンドゥー教における輪廻[編集]
ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献[1]ないし最初期のウパニシャッド文献[2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。
五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[3]。
これが、バラモン教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ、karman)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。
行為が行われた後、なんらかの結果(para)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。
これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。
仏教における輪廻[編集]
仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)[4]。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない[4]。
仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり[5]、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[5]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。[6]このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。[7]この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[8][6]、意識が断絶することはない。[9][5]また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。[6]それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。
仏教における輪廻思想の発展[編集]
成立がもっとも早い、最古層のグループとして分類される経典に、ダンマパダ、およびスッタニパータがあり、これらの経典にも輪廻思想が登場する。 ダンマパダにおいては単純に、善趣(良き境遇)と悪趣(悪しき境遇)として説かれている。スッタニパータでは悪趣として具体的に、地獄が説かれ、そこでは獄卒によって様々な責め苦に遭わされるという。
部派仏教の時代になると、世親(ヴァスバンドゥ)の『倶舎論』に、天・人・畜生・餓鬼・地獄の五趣(五道)輪廻の説が見られ、命あるものは、この五趣を輪廻するものとされた。
後にこの五趣に、闘争にあけくれる境遇として阿修羅が加わり、これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。
後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展した。自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚・声聞・菩薩・如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。
仏教内における輪廻思想の否定[編集]
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。[10]
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[11]。 このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。
ジャイナ教における輪廻[編集]
詳細は「サンサーラ (ジャイナ教)」を参照
ジャイナ教において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。モクシャ(解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。
その他の地域における輪廻[編集]
古代エジプト[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
古代ギリシア・西洋[編集]
古代ギリシアなどにはオルペウス教やピタゴラス教団、プラトンなど一部で輪廻の発想はあったが、その後に来るキリスト教文化圏の、人間を他の動物から峻別する伝統にとっては異端である。ただ、欧米のキリスト教文化圏でも、Reincarnation(リンカネーション、もしくはリインカネーション)という霊魂の生まれ変わりないしは転生の概念は存在する。例えば神秘学の範疇においては、輪廻はその教義展開の題材となっていることが多く、信奉者も多い。また、怪奇小説や映画の題材になることもある。なお、神秘学の歴史は比較的新しいもので、これといった起源は特定しにくい。つまり、西洋においては、時間は直線のように進むが、輪廻の字義通り輪のように循環するという発想は伝統的教義には見られないのである。なお、10世紀半ばにフランス南部とイタリア北部で行われた反聖職者運動であるカタリ派はグノーシス主義の二元論などの影響を受けており、この世は悪であり、悪人が現世に転生する、という教義を持っていた。
脚注[編集]
[ヘルプ]
1.^ ブラーフマナは、ヴェーダのシュルティ(天啓文書)のひとつで、ヴェーダの祭式を解説するいくつかの注釈書。紀元前900年頃から紀元前500年頃にかけて成立したされ、この時代をブラーフマナ時代という。
2.^ 紀元前800年頃以降にサンスクリットで書かれた哲学書で「奥義書」と称される。
3.^ 『南アジアを知る事典』(1992)
4.^ a b 石飛道子『仏教と輪廻(下)ブッダは輪廻を説かなかったか』 http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation2.html
5.^ a b c V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』 http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-2.html
6.^ a b c V.F Gunaratna 『仏教から見る死(下)』 http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-3.html
7.^ A.スマナサーラ, 藤本晃(共著)『アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析』サンガ、p.83
8.^ アビダルマ教学では、二つのエネルギーの因果関係が距離の影響を受けるとは考えない。(V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』)
9.^ 仏教は完全な意識(路心 citta-vīthi)と無意識(有分心 bhavanga-citta)を区別し、どちらも意識(viññāna)と見做す。(V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』)
10.^ 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』岩波書店、望月海慧『ブッダは輪廻思想を認めたのか』日本佛教学會年報第六十六号、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版など
11.^ アンベードカル『ブッダとそのダンマ』光文社、田中公明『性と死の密教』春秋社、山際素男『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』光文社
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