2014年02月06日
シリア
シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。 「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。
国名[編集]
正式名称は、アラビア語でالجمهوريّة العربيّة السّوريّة(翻字: al-Jumhūrīyah al-ʿArabīyah al-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ、通称 سوريا (Sūriyā スーリヤー)または سورية (Sūrīyah スーリーヤ)。
公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・レパブリック)。通称 Syria (シリア)。
日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア。
「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがある。[2]
歴史[編集]
紀元前10世紀の建築を原型とするアレッポ城
詳細は「シリアの歴史」を参照
アケメネス朝[編集]
詳細は「アケメネス朝」を参照
アケメネス朝ペルシアが古代オリエントを統一。
セレウコス朝[編集]
詳細は「セレウコス朝」を参照
紀元前305年 - マケドニアのセレウコス将軍が王号を名乗る。首都はアンティオキア(現在のトルコ領アンタキヤ)。
紀元前304年 - インド領からの撤退始まる。
紀元前301年 - シリア地方獲得。
紀元前274年 - ガリア人侵入を撃退。
紀元前274年〜紀元前168年 - コイレ・シリアをめぐるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトのシリア戦争
紀元前130年 - パルティア軍に敗北。全東方領土を喪失。
ローマ帝国[編集]
詳細は「シリア属州」を参照
紀元前64年 - ローマ軍首都制圧。シリア属州として併合され、セレウコス朝滅亡。
イスラム帝国[編集]
詳細は「ウマイヤ朝」を参照
661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。
セルジューク朝[編集]
詳細は「セルジューク朝」および「シリア・セルジューク朝」を参照
ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。
十字軍国家[編集]
1135年のシリア地方
詳細は「十字軍国家」を参照
1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国を初めとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。
アイユーブ朝[編集]
1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。
モンゴル帝国[編集]
詳細は「モンゴルのシリア侵攻(英語版)」を参照
モンゴル帝国、イルハン朝。
マムルーク朝エジプト[編集]
詳細は「マムルーク朝」を参照
オスマン帝国[編集]
詳細は「オスマン帝国」を参照
15世紀ごろ - オスマン帝国の支配下に置かれる(ダマスカス・エヤレト(英語版))。
アラブ反乱(1916年 - 1918年)
OETA[編集]
1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。
独立・シリア王国[編集]
1920年3月8日 - シリア・アラブ王国(英語版)が独立し、ファイサル1世が初代国王として即位
1920年7月24日 - フランス・シリア戦争(英語版)でフランスが占領
フランス委任統治領シリア[編集]
フランス委任統治領シリア
詳細は「フランス委任統治領シリア」を参照
1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる
1920年9月1日 - ダマスカス国(英語版)(ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を含む)、アレッポ国(英語版)(アレキサンドレッタ地区(英語版)を含む)、大レバノンに分離・分割
1920年9月2日 - アラウイ自治地区(英語版)を分離・分割
1921年5月1日 - ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を分離・分割
1921年10月20日 - アンカラ条約(英語版)によりアレキサンドレッタ地区(英語版)が成立
1936年9月 - フランス・シリア独立条約(英語版)交渉でフランスが批准を拒否。
1938年9月7日 - ハタイ共和国(英語版)(1938年 - 1939年、現トルコ共和国ハタイ県)
独立・シリア共和国[編集]
1946年 - シリア共和国(英語版)としてフランスより独立[3]
1958年 - エジプトと連合、「アラブ連合共和国」成立(首都:カイロ)
独立・シリア・アラブ共和国[編集]
1961年 - 連合を解消、シリア・アラブ共和国として再独立
1963年 - バアス党政権樹立
1964年、ハマー動乱 (1964年)(英語版)。
1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う
1970年 - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健派がクーデターで実権を握る
アサド政権[編集]
1971年 - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出
1976年 - レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。
1981年、ハマー虐殺 (1981年)(英語版)。
1982年、ハマー虐殺。
2000年 - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子のバッシャール・アル=アサドが大統領就任。
ダマスカスの春[編集]
実質、大統領による独裁政権であるが、バッシャール・アル=アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春(英語版)」と呼んだ。
しかし、改革に反対する守旧派や軍部の抵抗で改革は思うように進展せず、また2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1ヶ月足らずで武力で崩壊させられたことに危機感を覚え、以後、体制の引き締め政策を行い、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどで、いわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、時の強権的政権が次々と転覆したことに脅威を覚えたからだと見られている。
2005年 - レバノンより、シリア軍撤退
2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。
2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。
シリア内戦[編集]
詳細は「シリア騒乱」を参照
戦闘で破壊された車両(アレッポ、2012年)2011年 - シリア騒乱発生(1月26日)、継続中。
2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会(英語版)」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会(英語版)」(NCC)の二つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement)のニックネームを持つ「自由シリア軍」(FSA)という武装組織もつくられている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。
2011年から続く内戦と、それにまつわる殺害、人権侵害の発生以来、シリアは中東諸国・国際社会からの孤立を深めている。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチなどによると、シリアの人権状況は現在、世界最悪の水準である。国際NGOフリーダム・ハウスは、毎年発表する「世界の自由度」調査の結果を基にシリアは「自由ではない」と断じた。現在も継続する危機を受けて英国、カナダ、フランス、イタリア、ドイツ、チュニジア、リビア、米国、ベルギー、スペイン、湾岸諸国などの国々が、シリアとの外交関係を断絶した[4]。他方でロシア及びイランが、同国のレバノンにおける主要同盟勢力であるヒズボラとともに、アサド政権の最大支援国となり、反政府勢力との戦闘に必要な財政支援と武器を供給している。
国名[編集]
正式名称は、アラビア語でالجمهوريّة العربيّة السّوريّة(翻字: al-Jumhūrīyah al-ʿArabīyah al-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ、通称 سوريا (Sūriyā スーリヤー)または سورية (Sūrīyah スーリーヤ)。
公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・レパブリック)。通称 Syria (シリア)。
日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア。
「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがある。[2]
歴史[編集]
紀元前10世紀の建築を原型とするアレッポ城
詳細は「シリアの歴史」を参照
アケメネス朝[編集]
詳細は「アケメネス朝」を参照
アケメネス朝ペルシアが古代オリエントを統一。
セレウコス朝[編集]
詳細は「セレウコス朝」を参照
紀元前305年 - マケドニアのセレウコス将軍が王号を名乗る。首都はアンティオキア(現在のトルコ領アンタキヤ)。
紀元前304年 - インド領からの撤退始まる。
紀元前301年 - シリア地方獲得。
紀元前274年 - ガリア人侵入を撃退。
紀元前274年〜紀元前168年 - コイレ・シリアをめぐるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトのシリア戦争
紀元前130年 - パルティア軍に敗北。全東方領土を喪失。
ローマ帝国[編集]
詳細は「シリア属州」を参照
紀元前64年 - ローマ軍首都制圧。シリア属州として併合され、セレウコス朝滅亡。
イスラム帝国[編集]
詳細は「ウマイヤ朝」を参照
661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。
セルジューク朝[編集]
詳細は「セルジューク朝」および「シリア・セルジューク朝」を参照
ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。
十字軍国家[編集]
1135年のシリア地方
詳細は「十字軍国家」を参照
1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国を初めとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。
アイユーブ朝[編集]
1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。
モンゴル帝国[編集]
詳細は「モンゴルのシリア侵攻(英語版)」を参照
モンゴル帝国、イルハン朝。
マムルーク朝エジプト[編集]
詳細は「マムルーク朝」を参照
オスマン帝国[編集]
詳細は「オスマン帝国」を参照
15世紀ごろ - オスマン帝国の支配下に置かれる(ダマスカス・エヤレト(英語版))。
アラブ反乱(1916年 - 1918年)
OETA[編集]
1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。
独立・シリア王国[編集]
1920年3月8日 - シリア・アラブ王国(英語版)が独立し、ファイサル1世が初代国王として即位
1920年7月24日 - フランス・シリア戦争(英語版)でフランスが占領
フランス委任統治領シリア[編集]
フランス委任統治領シリア
詳細は「フランス委任統治領シリア」を参照
1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる
1920年9月1日 - ダマスカス国(英語版)(ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を含む)、アレッポ国(英語版)(アレキサンドレッタ地区(英語版)を含む)、大レバノンに分離・分割
1920年9月2日 - アラウイ自治地区(英語版)を分離・分割
1921年5月1日 - ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を分離・分割
1921年10月20日 - アンカラ条約(英語版)によりアレキサンドレッタ地区(英語版)が成立
1936年9月 - フランス・シリア独立条約(英語版)交渉でフランスが批准を拒否。
1938年9月7日 - ハタイ共和国(英語版)(1938年 - 1939年、現トルコ共和国ハタイ県)
独立・シリア共和国[編集]
1946年 - シリア共和国(英語版)としてフランスより独立[3]
1958年 - エジプトと連合、「アラブ連合共和国」成立(首都:カイロ)
独立・シリア・アラブ共和国[編集]
1961年 - 連合を解消、シリア・アラブ共和国として再独立
1963年 - バアス党政権樹立
1964年、ハマー動乱 (1964年)(英語版)。
1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う
1970年 - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健派がクーデターで実権を握る
アサド政権[編集]
1971年 - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出
1976年 - レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。
1981年、ハマー虐殺 (1981年)(英語版)。
1982年、ハマー虐殺。
2000年 - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子のバッシャール・アル=アサドが大統領就任。
ダマスカスの春[編集]
実質、大統領による独裁政権であるが、バッシャール・アル=アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春(英語版)」と呼んだ。
しかし、改革に反対する守旧派や軍部の抵抗で改革は思うように進展せず、また2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1ヶ月足らずで武力で崩壊させられたことに危機感を覚え、以後、体制の引き締め政策を行い、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどで、いわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、時の強権的政権が次々と転覆したことに脅威を覚えたからだと見られている。
2005年 - レバノンより、シリア軍撤退
2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。
2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。
シリア内戦[編集]
詳細は「シリア騒乱」を参照
戦闘で破壊された車両(アレッポ、2012年)2011年 - シリア騒乱発生(1月26日)、継続中。
2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会(英語版)」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会(英語版)」(NCC)の二つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement)のニックネームを持つ「自由シリア軍」(FSA)という武装組織もつくられている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。
2011年から続く内戦と、それにまつわる殺害、人権侵害の発生以来、シリアは中東諸国・国際社会からの孤立を深めている。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチなどによると、シリアの人権状況は現在、世界最悪の水準である。国際NGOフリーダム・ハウスは、毎年発表する「世界の自由度」調査の結果を基にシリアは「自由ではない」と断じた。現在も継続する危機を受けて英国、カナダ、フランス、イタリア、ドイツ、チュニジア、リビア、米国、ベルギー、スペイン、湾岸諸国などの国々が、シリアとの外交関係を断絶した[4]。他方でロシア及びイランが、同国のレバノンにおける主要同盟勢力であるヒズボラとともに、アサド政権の最大支援国となり、反政府勢力との戦闘に必要な財政支援と武器を供給している。
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