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2014年02月06日

性的奴隷

性的奴隷(せいてきどれい)は、英語の sex slave の訳であり、現代欧米においては広汎に使われる表現である。

具体的関係の中でより従属的立場の者が、より支配的立場の者により意思に反して継続的に性的行為を強要される状況(その多くは退去(移動)の自由・性的自由を一部あるいは全て奪われる)でのその人・関係・状況・状態を指して、性的奴隷と呼ばれる[1]。人を性的奴隷状態におくことは、奴隷化することの一形態であり、本人の自己決定権や性的活動などに関する決定権の制限を特徴とする[2]。(広汎な用法は21世紀初頭までは日本で一般的に受け止められていず、○○奴隷とは扇情的比喩用法であった。慰安婦問題によって外国の表現が移入されてきている段階である)。

性的奴隷は、古代から19世紀までの階級的奴隷制の一形態・一側面にも存在したが、近代においては20世紀前半の国際連盟において、娼婦の多くが前借り借金で縛られている不自由さや人身売買の状況を問題視する視点から、強制労働などとともに「奴隷」の表現が当てられた。

性的奴隷制度、性的奴隷状態を意味するセクシャル・スレイヴァリー(英:sexual slavery[3])と形容される場合もある。

現代においては俗語的用法も多く、広汎に被害者が継続的な性的行為を強要される場合を指しても用いられる。


概要[編集]

これらの人々は、階級的意味はなくても奴隷的といえる自由を奪われた状況下で性的な行為を強要されている。人身売買や不当搾取といった人道上にて問題視される人権蹂躙が絡み、これを成す事や看過する事は多くの社会で忌み嫌われている。一方、貧困や社会情勢の問題により、まだ社会的地位の弱い児童などがこれらの犠牲者となるケースも見られ、国際的にも問題視されている。

特に暴力によって拘束するケースも多く、これらでは日常的に暴行される事により精神的に疲弊し、逃げる気力を喪失している場合もあり、心的外傷(PTSD)と呼ばれる心理的なダメージが生じた場合、治療も長期に渡るケースが多い。

法律上としては、20世紀初めから、前借りによる拘束労働を、人身売買・奴隷制類似のものとする国際世論が存在し、1926年、全12条からなる奴隷条約(Slavery Convention)が国際連盟において締結された。これにより奴隷状態の最初の包括的な定義が明記された[4]。1956年の奴隷条約を補足するため国際連合が採択した奴隷制度廃止補足条約では当事者の女子が拒否することができない婚姻、負債奴隷制及び農奴制を含む奴隷制度に類似する制度と慣習の完全な廃止を規定している[5]。これは日本の前借りによるいわゆる身売りを対象に含むものである。

現代における性的奴隷[編集]

性風俗産業[編集]

セックス産業(性風俗産業)に従事する者のうち、十分な報酬を与えられず、また勤務外でも身体の拘束を伴うなどの奴隷的環境で働かされる者をさす言葉。世界各国でも多くの場合、人身売買などにより外国や国内の未発達地域から連れて来られ、法律上の根拠が無い債務を背負わされて身体を売るのが普通である。一般には拘束期間が明ければ解放されるが、性的に魅力的であり高収益をもたらす者、または逆に所属する性産業に十分な利益をもたらさなかった者は、拘束期間を延長されることがある。

戦争[編集]

イラク戦争で米軍女性軍人が男性捕虜に性的暴行を加え問題となった(アブグレイブ刑務所における捕虜虐待)。

紛争地域[編集]

紛争地域において、集落を襲撃した武装集団が自身の身辺を世話をさせると共に性的な欲求の捌け口とするべく、未成年者を誘拐するケースが見られる。これらのケースでは、被誘拐者は常時武装集団により監視され、精神的にも追い詰められるケースも見られる。

誘拐・監禁事件[編集]

児童を誘拐し、それらに性的虐待行為を繰り返す犯罪者(変質者)のケースがある。これらでは特に都市の匿名性により犯人が特定されにくい事件も発生しており、日本では新潟少女監禁事件が2000年に発覚したが、これに伴い模倣犯の発生も見られた。

支配的傾向の見られる男性が、いわゆる「出会い系」サイトなどで知り合った女性を連れ出し、犬用の首輪・手綱で柱にくくりつけたり、暴力を振るうなどして逃げる意思を奪った上で性的行為を強要する例があり、日本でも確認された。

SMプレイにおける性的奴隷[編集]

いわゆるSMにおいて、性的遊戯として両者の合意の上で、Mの側が奴隷の役割を演じる場合があるが、これは本項における(強要された)性奴隷とは区別されるべきものである。

この事例の一つとして、例えば娼館などでは「奴隷遊び」という名目で、割高の料金で娼婦を緊縛や鞭打ち、浣腸などして嗜虐的に玩弄するプレイが用意されている(あるいは客と娼婦間の交渉で可能となる)場合もある。

なお通常の恋人間やセックスフレンド同士でも、精神の良識的な部分ではSMプレイを嫌悪、あるいは同プレイに抵抗の念を覚えながらも、一方で相手に調教された肉体そのもの、または精神の裏面がマゾヒズムとしての要求を生じ、奴隷のように責められる行為が成立する場合もある。完全には心のままではないが、それでもマゾヒストが相手の支配下に置かれるのを希求し、奴隷のごとく扱われて性的な快楽を覚える場合はこれも一種の主従関係である。

それゆえ、上記のように(強要された)性奴隷とはまったく意味合いが異なるものの、こういったSMプレイにおける事例も、現代におけるひとつのタイプの性的奴隷と見ることが可能である。


過去における性的奴隷[編集]

各国軍における性的奴隷[編集]

古来、軍隊の行軍等に伴って、軍人・兵士に対する売春または性的奉仕に従事し、またはさせられる慰安婦がいた。中には強制的なものもあり、似た事例は多く発生していたと想像されるしかし現代では倫理的な問題から廃止している場合が多く、性的欲求が捕虜に向けられることが多くなった。

日本の明治から戦前までの時期における性的奴隷[編集]

日本においては欧米と違い江戸時代から階級としての奴隷は存在しなかった。つまり社会的な意味での性的奴隷とは、当時強制的に売春婦にされた、または自発的になったがその後に搾取や人権侵害を受けた人々を指す。

集娼制[編集]

明治においてマリア・ルス号事件のさいに、郭の遊女が実質の奴隷に当たるとして政府はこれを形の上で解放した。しかし、前借り借金というシステムは存続し、法的な建前上遊郭を貸座敷と呼び変える形で存続した。

戦後の赤線廃止まで続く公娼制の元での娼婦の実態は、集娼制という形で郭からの外出が禁止されていたり、前借り借金で自由に仕事を辞められなかったりがほとんどであり、収入が搾取されたり、かってに売買されてしまうなどのことも横行していた。また、とくに朝鮮では少女がだまされて朝鮮外へと売られることが多かった。

旧日本軍における慰安婦[編集]

詳細は「慰安婦」を参照

欧米諸国などの英語圏や旧日本の支配地域の北朝鮮や韓国および日本の一部左派、在日朝鮮人団体などから、第二次世界大戦中に日本軍が戦地に配置した慰安婦を指して言われる場合がある。

1990年代以降の韓国や日本における一部市民運動により、これら慰安婦に対して自由の制限と強制売春による甚だしい人権侵害があったと主張され、「性的奴隷」という表現が用いられた[6]。同様の表現は、国連人権委員会におけるクマラスワミ報告(1996年)、マクドゥーガル報告(1998年、2000年)においても用いられている[7]。 マクドゥーガル報告書において性的奴隷とは、奴隷制(奴隷状態)の一形態であり、1926年の奴隷条約において「奴隷状態とは、所有権を伴う権力の一部もしくは全部が一個人に対して行使されている状況もしくは状態である」と定義され、性的奴隷には、レイプなどの性暴力の形態による性的接触も含むとされている。さらに、奴隷制という犯罪は政府の関与または国家の行為がなくても成立し、国家の行為者によるものであろうと民間の個人によるものであろうと、国際犯罪に相当すること。奴隷制とは人を所有物として扱うことを指すが、その人が金銭で売買されなかったからといって、奴隷制であるという主張が崩れることはないこと。性的奴隷には全てではないとしても大半の形態の強制売春も含まれ、武力紛争下での強制売春と呼びうる実態はたいていの場合、性的奴隷状態に相当すること。性的奴隷状態には、女性や少女が結婚を強要されるケースや、最終的には拘束する側から強かんなど性行為を強要される家事労働その他の強制労働も含まれること等が性的奴隷の定義として明記されている[8]。

なお、慰安婦問題を性奴隷の問題として扱うようになったきっかけは、1992年以降、日本弁護士連合会(日弁連)がNGOと共に国連において慰安婦問題を性奴隷としてあつかうよう活動し、1993年のウィーンの世界人権会議において性的奴隷制という用語が国連で採用されたのがはじまりであると、日弁連は語っている[9]。

特殊慰安施設協会[編集]

第二次大戦の終結後、進駐軍を迎えるにあたって日本の内務省は、上記の慰安婦と同様の発想に立って進駐軍用の慰安婦を用意し、「日本人女性の純潔を守る」ことを決めた。その結果特殊慰安施設協会が設立された。設立にあたって、多くの日本人女性が集められたさいに、ときに甘言などでだまされたことがあったり、兵士による肉体毀損的な行為を受けたとされるが、移動の不自由や接客拒否ができなかった継続性がなければ、一時的な暴行被害があっても奴隷的とは呼べない。

風習と価値観[編集]

過去においては、その土地の女性の魅力と思われつつも、現代では虐待としか見えず、奴隷の象徴と見えるものもある。中国では女性を表向き大事にするといいつつも、清代末まで盛んだった纏足。アフリカで今も残り、女性らしさの形成に役立つと信じる者もいる女性割礼、ヨーロッパの女性を苦しめたコルセットなどである。
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中国の奴隷制

中国の奴隷制は、歴史を通じて様々な形を取ってきた。アメリカやアラブのモデルのように明白ではないが、中国の奴隷制はその対象を「半人、半物」と見ていた。[1]奴隷制は1910年に完全に制定された[2] 1909年の法律[3][1] のように、何度も法的な制度としては廃止された。しかしその実践は少なくとも1949年まで続いた[4] 中国の奴隷は多くの種類があり、原因も異なるが、大きな傾向は周より始まり、主人と奴隷の個人的依存関係は弱められ続け、基本的な観点では戦国時代から奴隷制度がなくなりはじめた。中華民国の成立後、中国は最終的に法律上から明確に奴隷の存在を消し去った。しかし実際は家庭の中に家内労働に従事する奴婢は中華民国の大陸時期には存在した。香港では、1922年に当地の一部の人間が反対蓄婢会zh:反對蓄婢會を組織して、伝統的な蓄婢制度の廃止を主張した。香港政府は1923年に『家庭女役則例』を通過させ、正式に蓄婢を廃止し、婢女は給料で雇われる女傭(メイド)に変わった。

殷から春秋時代[編集]

殷代には少なくとも中国で奴隷制が確立し、この時点で人口の5%が奴隷であったと推定される。[5] 殷は、戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、非常に盛んに利用していた。商(殷)までは奴隷制社会であったことは定説となっているが、いつまでが奴隷制時代であったかは諸説あり、奴隷制から封建制に変革されたとされる周の易姓革命、ないしは、殷程ではないにせよ実質的には奴隷が生産力の主力となっていた春秋時代までが奴隷制時代と考えられる範疇として議論されている。いずれにせよ、中原とは文化の異なる民族(夷蛮戎狄)との戦争で捕虜とした奴隷が過酷な労役に就かされたと考えられている。

秦[編集]

秦朝では、宮刑(去勢)を宣告された男は宦官奴隷となり、兵馬俑のような計画の強制労働に従事した。[6] 秦の政府は、強姦の罰として宮刑を受けた者の家族の財産を没収し奴隷とした。[7]奴隷は家族と連絡を取る権利を奪われた。[8]

三代、先秦、秦朝時代には、官奴(国の奴隷)と私属(個人の奴隷)の区別があった。奴隷は多くは戦争で発生し、敵の捕虜になった庶人や軍人は奴隷になる可能性があった。犯人も奴隷に貶められ、反逆]罪を犯した時は、全家族または全宗族が官奴にならなければならなかった。

前漢[編集]

漢の高祖劉邦の最初の行動の一つは、戦国時代に奴隷となった農業労働者を解放することだった。だが家内奴隷の地位はそのままだった。[1]漢代も宮刑を受けた男性は奴隷労働に使われた。[9] 初期法家思想の法より、漢朝も三年の重労働か宮刑を言い渡された犯罪者の家族は逮捕され政府の財産とされると規則を定めた。[10] 漢朝では、奴隷の生産は主に耕地整理から形成された私属民からである。 前漢の衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。

新[編集]

王莽は土地改革法の一環として、全ての奴隷制を廃止し[1] 奴隷の取引を廃止した。[要出典] 王朝があっけなく崩壊したことによって両方は元の状態に戻った。

後漢、三国、魏晋南北朝[編集]

後漢末期では、戦乱を避けるために、大荘園主に投降して、私属民となるものがいた。 三国時代では、自由民と奴隷の中間状態が発展したが、1%を越えることはなかったとおもわれる。[1] 後漢末・魏晋南北朝以来の貴族制下では、律令により賎民に区分された雑戸官戸や奴婢などの農奴と奴隷が政府や勢家の下に多く存在していた

唐[編集]





唐代の契約書、15歳の奴隷を絹布5反と五枚の中国貨幣と交換する ことを記録する。
唐の法律では、自由民は奴隷に出来ないこと、売られる奴隷は以前から奴隷として所有されていなければ法的に売買できないことを定めた。 この時期、シルクロード市場で多くの奴隷が取引された。いくつかの例では、ソグド人奴隷の少女がソグド人商人によって中国人に売られたことが分かる。[11]

法律上は奴隷と自由民が別々の階級に分けられ、奴隷は犯罪者として分類されていた。犯罪者と外国人だけが奴隷にすることを許された。 中国人女性と外国人奴隷の雑婚は禁止された。[12] 朝鮮やモンゴルや中央アジアやインドへの唐朝の軍の遠征で、外国人が奴隷として捕らえられた。[13] 男を処刑した後、唐朝は捕らえた女性を奴隷にし、宮廷や同盟部族へ行く家畜とした。 [14]

海賊に誘拐されたペルシア人はWan'an島や海南島に閉じ込められてから売られた。トランスオクシアナのサーマーン朝は、トゥルク人を中国人に売った。[15]

自由民の中国人は、自身を売ろうと望まない限り、法的に奴隷に出来なかった。もし自身を売らなかった場合、売った者は処刑された。 しかしその他の人々は許可無く奴隷にされていた。南部原住民は奴隷の最も多い部分を占めていた。富を求めて、トゥルク系民族やペルシア人や朝鮮人の女性は、奴隷として中国人に売られた。[16] 中国は結婚のための女性不足に苦しんでおり、埋め合わせるために朝鮮人女性が中国奴隷市場に売られるようになった。 [17] 妾としての若い朝鮮人女性奴隷の中国需要は、朝鮮半島周辺海域の海賊に儲けになる市場を作り出し、山東で売られた。629年に山東の支配者はこの交易を禁じた。 [18][19]

南部原住民の奴隷少女の貿易の大規模な市場もまた存在した。中国政府は禁止を試み非難したが、効果は上がらず継続した。[20] インド人やマレー人やアフリカ黒人の奴隷も中国人に売られた。彼らの黒い肌や巻き髪が記録されている。[21]

唐の法では、奴隷を人間と同じ権利を持たない家財とみなした。自由民女性は男性奴隷と結婚できなかった。[22]

漢代から隋唐の時期では、法律上に明確な良民と賤民の区別があった。例えば部曲(奴隷の一種)が良民を殴り殺せば死罪だが、良民が自分の部曲を殴り殺した場合、部曲に罪があれば追求されず、部曲が無罪なら徒罪のみで銭で贖うこともできた。

宋[編集]

宋朝の北と西の隣国との戦争状態は、双方に多くの捕虜を生み出した。しかし奴隷身分から自由に移行することを容易にする改革が導入された。[1]

宋朝以前は、長期の雇われ人の地位は良民より低く、奴隷の一種であった。宋代から雇用による主従関係が良賤関係と同一視されなくなった。 実際には私属奴隷の現象は大量に存在したが、法律上は私属奴隷は禁止され、良民を売って奴隷にすることも許されなかった。宋代の一部の軍人は賤民視された。宋王朝以降は官奴婢が禁止された。

元[編集]

モンゴル元朝は中国で大規模な奴隷制の拡張を実行し、より厳しい労働期間を復興した。[1] しかし中国人は文化的により統合されて居たため、こうした「奴隷」はしばしば貴重であり、自身が所有する奴隷を含む自身の権力を持つようになった。[4] 反乱や奴隷の暴動の期間中、こうした不忠から、モンゴル人自身より先に彼らの財産がターゲットにされた。[4]

元代は、モンゴル人そのものが奴隷制を実施していたため、官奴が盛んに行われた。

明[編集]

元朝を打倒すると、洪武帝朱元璋は公的に中国内の全ての奴隷を殺したが、その実践は継続した。[1] 1,381年、ジャワ人は3人の黒人奴隷を明朝への朝貢品として送った。[23]

明朝が1,460年にミャオ族の反乱(明朝綏寧苗族起義)en:Miao Rebellions (Ming dynasty)を鎮圧した時、 彼らは1,565人のミャオ族の少年を去勢し、そのうち329人が施術により死亡したが、宦官奴隷にされた。[24][25][26] この出来事は正統帝英宗の治世に起こった。329人の少年が死亡したため、より多くの去勢が必要だった。[27]

1630年代には、多くの奴隷反乱が起こり、家内奴隷の数を制限する法が作られた。[1] 明朝初年には、朱元璋が奴隷を良民にする法令を発布したが、明中葉以後には奴隷を蓄える風習が盛んになった。 顧炎武によれば、「今の呉の仕官する家では、奴隷を1,2千人も持つ。(今呉仕宦之家,(奴)有至一二千人者。)」であり[28]湖北麻城の梅、劉、田、李の四家では「奴隷は3,4千人は下らない(家僮不下三四千人。)」という[29]

清[編集]

清朝は当初、包衣阿哈( en:booi ahazh:包衣)のような奴隷制の拡張を担当した。[4] 朝鮮では丙子胡乱で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦いの際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京(瀋陽)の奴隷市場で売られた。 しかし、中国本土内で少しずつ奴隷や農奴を小作人に変える改革を導入した。康煕帝は1685年に満州人の世襲奴隷を解放し、雍正帝は1720年代にその他の奴隷解放を目指した。[1]

清初はzh:投充法を実施したが、雍正年間になると正式に奴隸制を廃止した。 康熙帝は低税政策を採用したため、明代のように身売りして奴隷になる者が実際に大幅に減少した。しかし満州の風俗は主奴を厳格に分けたため、八旗の人は愛新覚羅家の家奴と見なされ、皇帝は愛新覚羅家の主人であるため、旗人の大臣は君主に会う時にzh:奴才と自称した。もし単に漢人の身分ならば、「臣」と自称でき、もし「奴才」と称せば皇帝に退けられた。乾隆帝はある時漢人zh:官員が満風を擬して「奴才」と自称したために大い怒り、満漢を問わず、奏摺する時は「臣」と称するように勅命した。

イギリスの奴隷解放en:British emancipationに続くその他の場所での奴隷制の「終焉」によって、苦力としてしられる安価な中国人労働力への需要が増した。1800年代中期のハワイやキューバで誘拐周旋業者や商人によって奴隷に近い状態に置かれたり、1860年代のセントラルパシフィック鉄道en:Central Pacific Railroad建設中に中国人により危険な仕事をあたえるといった虐待があった。[4]

太平天国[編集]

洪秀全は改革の一環として、1850年代と1860年代に支配下の領地で奴隷制と売春を廃止した。[4]

新疆[編集]

詳細は「:en:History of Xinjiang」を参照

トルグートモンゴル人、回民中国イスラーム教徒が新疆での奴隷貿易の主な犠牲者だった。漢族や回族(ドンガン人)といった中国自由民はみな、職業に係わらず商人に分類された。他の中国の人びとは軍人や兵士、漢人やトルキスタン人ベグの奴隷の回民だった。[30] 満州人歴史家のJi Dachenの主張によれば、清朝はLukchunzh:鲁克沁镇王のためにトルファンにカレーズ(地下水路)を作るため奴隷を送り、奴隷はトルファンのウイグル人と混じり、彼らを「混血」と呼んだという。[31]

コーカンドからの奴隷略奪者は回民イスラーム教徒と漢人を区別せず、可能なら新疆のどんな中国人も奴隷にした。[32][33]

テュルク系イスラーム教徒奴隷[編集]

テュルク系イスラーム教徒も、コーカンドとホージャ達の間の戦争後、ベグの奴隷にされた。[34]

モンゴル人奴隷[編集]

清朝は1764年、全てモンゴル人の420人の女性と少女の奴隷を、新疆に駐屯するオイラトモンゴル旗人に仕えさせるために調達した。[35]

多くのトルグート・モンゴル人の少年や少女が中央アジア市場や新疆市場の現地トルキスタン人に売られた。新疆の役人は政府に禁じられたこの不法な取引に関与していた。 [36]

回族イスラーム教徒奴隷[編集]

中国人イスラーム教徒 (東干人)のスーフィーが邪教を実践しているとして清朝政府に告発され、罰として新疆に追放されスーフィーのベグのような他のイスラーム教徒に奴隷として売却された。[37]

そのほかの奴隷[編集]

中国の「基本法」には、「魔法使い、魔女、すべての迷信を禁じる」という一条があった。嘉慶帝は1814年にキリスト教についての第六節を加えた。1821年に修正され1826年に道光帝によって発布された。それは漢人や満州人(タルタル人)にキリスト教を布教するヨーロッパ人に死刑を定めた。改宗を悔いないキリスト教徒は新疆のイスラーム教徒都市に送られ、イスラーム教徒の指導者やベイの奴隷として与えられた。[38]


この節は述べる。「西洋人(ヨーロッパ人かポルトガル人)は、この国で天主教を布教すること、密かに本を印刷すること、布教のために集会 を開くこと及び民衆を欺くこと、一方あらゆる満人および漢人は、教説を布教すること、密かに(洗礼で)名を授けること、大勢を扇動し 惑わすことが証言で証明されれば、その頭目や指導者には速やかに絞殺刑が宣告される。宗教を布教して民衆を扇動して欺いた者は、 その人数が多くなく名を与えなければ、投獄の後に絞殺刑が下される。教説の聴者や信者が少ない者は、(トルキスタンの)イスラーム教都市 に移送し、彼らを支配できるベイやその他のイスラーム教徒の有力者に奴隷として渡されねばならない。. . . .ヨーロッパ人が密かに国内に 彼らの管轄内で居住し、宗教を布教して多くを欺いていることを発見できなかったすべての文民及び軍人の官僚は、最高議会に移送され査問会に掛けられる。」




奴隷間の結婚[編集]

自由民の中国商人は通常東トルキスタン女性と関係を持たなかったが、ベグに属す中国人男性奴隷の幾人かは緑営の兵士とともに、東トルキスタン女性と関係を持った。[39] イスラーム教徒の主人の幾人かは中国人女性奴隷と子を儲けた。[40] 解放された後、タシュクルガンやヤルカンドやカルギリクなどの新疆の都市にいるギルギット人などの多くの奴隷は、ギルギットのフンザに帰るよりもむしろ留まった。奴隷の多くが女性で、現地の奴隷男性や非奴隷男性と結婚して子供を持っていた。時折、女性はその主人や他の奴隷や主人ではない自由男性と結婚した。10人の奴隷男性が奴隷女性と結婚し、15人の主人が奴隷女性と結婚し、幾人かの主人ではない自由男性が奴隷女性と結婚した。奴隷と自由民のトルコ人と中国人の男性双方がフンザ人の奴隷女性と子供を儲けた。Khas Muhammadという自由男性は二人の子どもとDaulatという24歳の女性奴隷と結婚した。26歳のギルギット人奴隷女性Makhmalは中国人奴隷男性Allah Vardiと結婚し、三子を儲けた。[41] フンザ人はイスマーイール派イスラーム教徒である。[42]

その他[編集]

フンザ人en:Hunza peopleは、中国の属国で同盟国であり、中国を宗主国と認めていた。[43] フンザ人がキルギス人に略奪された時は、キルギス人奴隷を中国人に売った。[44]

バダフシャーン人商人は魅力的なチトラルの少女を、中国のヤルカンドで20-25スターリング・ポンドで売り、この貿易は中国官僚によって行われた。ブルシャスキーen:kunjootやギルギットやカーフィリスターンen:Kafiristan出身者も奴隷にされヤルカンドで売られた。少女は両親によって売られた。[45][46]

乾隆帝は新疆の奴隷制を1778年か1779年に廃止したが、ベグの行政下で継続した。[47] 新疆の外国人奴隷の多くはシーア派山岳タジク人であった。[48]

新疆のタジク人は奴隷制を持ち、刑罰として同族を売った。従順な奴隷は妻を与えられ、タジク人とともに定住した。彼らは財産と見なされ、好きな時に売却された。奴隷の出自は様々で、キルギス人の奴隷襲撃の報復で捕らえられたキルギス人などのスンニ派捕虜や、Kunjuudやギルギットやチトラル出身者などであった。タジク人はブハラにも奴隷を売った。スンニ派は彼らをラーフィディーen:Rafida(異端者)と呼び、イスラーム教徒と認めなかった。[49] シーア派イスラーム教徒は奴隷としてホータンで売られた。新疆のイスラーム教徒はイスラーム法を無視して、イスラーム教徒を売り買いしていた。新疆の奴隷市場でカシミール出身のイギリス王冠に服するインド人が奴隷として売られているため、 ジョージ・マカートニー卿が解放するために送られ、2000人を解放した。1897年に新疆で奴隷制が廃止された。[50] マカートニー]インド人だけでなくその他の多くの奴隷を購入して解放した。マカートニーの来訪後、新疆の官僚の幾人かはもっと多くの奴隷の解放に取り組んだ。[51][52]

罰としての奴隷[編集]

奴隷と宮刑は反乱に対する刑罰として用いられた。

馬化龍の孫の馬進成は、馬化龍が清朝に対する回民蜂起に参加したため、開封で宮刑と奴隷になることを宣告された。[53] ヤクブ・ベクの息子や孫も中国政府によって1879年に宮刑を受け、宦官となって宮殿で働いた。[54]

賤民[編集]

中国古代の賤民制度は奴隷と異なり、楽戸(zh:乐户)や匠戸(zh:匠户)やzh:仵作やzh:牙人や娼妓、甚だしくは宋代の一部の軍人も法律上では賤民だったが、奴隷ではなかった。中国には厳格な定義での奴隷制はなかったが、奴隷制に似た制度で害される中国人は多かった。清の雍正帝は賤民制度を廃止した。

その他[編集]

zh:婿縻または「胥靡」は、古代の一種の奴隷の呼称である。縄で縛って労働を強制するために、この名がある。『墨子・天志』では「抵抗しないものは縛って連れて帰り、男は奴隷とする(不格者則系累而帰、丈夫以為僕圉婿縻。)」とある。また漢代には刑の名称として使われた。例えば『漢書・楚元王伝』には「胥靡之。」とあり注では「顔師古注之曰:“聯系使相随而服役之,故謂之胥靡,猶今役囚徒以鎖聯綴耳。」とある。 近年、多くの人が中国の歴史上奴隷はあったが、具体的な奴隷制度は出現しなかったと認識している。

また日本統治下の台湾では、中国伝統の童養媳 (台湾語で媳婦仔)などの奴隷制度が合法であった。第二次大戦後、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が日本の奴隸階級の解放を宣布した。

アミール

アミール(アラビア語:أمير (amīr))は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号のひとつとしても用いられる。

概要[編集]

アミールは、アラビア語で「司令官」「総督」を意味する語で、転じてイスラム世界で王族、貴人の称号となったものである。英語表記Emir からエミールと書かれることもある。元来はムスリム集団の長の称号として用いられ、カリフは「信徒たちの長」を意味するアミール・アル=ムウミニーン(Amīr al-Mu'minīn)とも称し、正統カリフ時代には遠征軍の長、征服地の総督がアミールと称した。

歴史[編集]

アッバース朝時代の10世紀前半にアミールの中の有力な者が大アミール(Amīr al-Umarā)の称号を授与されるようになり、ワジール(宰相)とハージブ(侍従)を統括してカリフに代わって権力を掌握した。大アミールの称号はのちにブワイフ朝に世襲される。ブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝は大アミールに代わってスルタンの称号を受け、アミールの称号はマムルークを統括し、時に地方総督となる将軍クラスの軍人の称号となった。

一方、アラビア半島のアラブ人や中央アジアのテュルク人の間ではアミールの称号が部族の長の称号として広く用いられるようになり、ブハラ・ハン国の末期の君主やアフガニスタンのターリバーン政権の長(ムハンマド・オマル)がアミールの称号を名乗っていた。アフガニスタンのバーラクザイ朝のドースト・ムハンマド・ハーンやターリバーン政権のムハンマド・オマルは、上述のアミール・アル=ムウミニーンを名乗ったことで知られているが、特にムハンマド・オマルの場合ウマル・イブン=ハッターブ以来カリフの主要な称号だったこのアミール・アル=ムウミニーンを名乗ったことで、カリフを僭称する冒涜的行為であると各国のスンナ派市民から甚だしい非難を浴びていた。

イベリア半島や北アフリカ(マグリブ)、西アフリカを支配したムラービト朝においてはアッバース朝の権威を認めながらもアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)と類似した「ムスリムたちの長」を意味するアミール・アル=ムスリミーンを用い、その後ムラービト朝に対して反乱を起こしたムワッヒド朝は自らをカリフになぞらえてアミール・アル=ムウミニーンを用いた。

モンゴル帝国においてはチンギス一門に譜代の家臣として仕え、帝国や帝国を形成する諸ウルスの政策決定に与る幹部武将をモンゴル語でネケル(nökör)と呼んだが、これをペルシア語史料ではアミール・イ・ブスルグ(Amīr-i buzurg)や省略形で単にアミールと表記している。当時のモンゴル語では、チンギス・ハン王家に関わる役職や事柄には語頭に「大」を付けて他の一般的な事柄とは区別していた。ペルシア語文献ではこれにあたる単語を上記のブズルグ(buzurg)やアラビア語のアアザム(a'a ẓam)、ムウタバル(Mu'tabar)などの単語で表した。ペルシア語のこのアミール・イ・ブスルグを語義通りに「偉大なるアミール」や普通のアミールと解釈してしまい、単なる武人の長を指すアミールと混同してしまうと、モンゴル帝国やその後継政権の政権構造の理解を妨げるので注意が必要である。

モンゴル帝国に参与していた諸部族の首長たちは、モンゴル語やテュルク語ではノヤン(noyan)やベク(bek/beg)と称していたが、これのアラビア語・ペルシア語での訳語がアミールであった。いわゆるチンギス・ハンの千戸体制において、十戸から万戸までの部隊を各々統括していた隊長たちがベクでありその訳語であるアミールで呼ばれていた。すなわちペルシア語では、これら十戸長をアミール・イ・ダハ(Amīr-i dahah)、百戸長をアミール・イ・サダ(Amīr-i ṣadah)、千戸長をアミール・イ・ハザーラ(Amīr-i hazārah)、複数の千戸を統括する万戸長をアミール・イ・トゥーマーン(Amīr-i tūmān)といった具合に呼んでいた。ティムール朝を開いたチャガタイ・ウルスのバルラス部の首長であるティムールは「アミール・ティームール・クールガーン」などと称されるが、彼の場合もまたこの種のモンゴル帝国の制度的意味の上に立脚したアミールである。

現代[編集]

現在では、クウェート、カタール、アラブ首長国連邦の構成国の君主がアミールを称号としており、首長と訳される。ただし、アラブ首長国連邦の構成国にはハーキム(حاكم、英語では"ruler")を用いている国もある。かつては土侯とも訳されたが侮蔑的であるとして使われなくなった。また中国語では「酋長」と訳されている。バーレーンの国王も2002年まではアミールを名乗っていた。アミールが支配する国(إمارة イマーラ)は「首長国」(英語では"Emirate")と訳されている。ただし、カタール及びクウェートの場合は"دولة"ダウラ「国」(英語では"State")が用いられている。

影響[編集]

以上のようにアミールとは基本的にイスラーム社会、あるいはイスラーム社会を包摂した世界における軍司令官などの呼称であるが、イスラーム世界から一定の影響を受けたヨーロッパ世界でも、アミールに由来する語彙の存在が認められる。例えば、英語で海軍の提督(狭義には海軍大将、広義には海軍大将のほかに中将・少将・准将までの海軍将官全体を含む)を意味するAdmiral(アドミラル)は、アラビア語で「海の司令官」を意味するアミール・ル・バハルに由来する。

イスラームと奴隷制

イスラム社会では奴隷(ラキーク)は自由人(フッル)とは明らかに異なる身分を形成していた。アラビア語ではラキーク以外に、男奴隷をアブド、マムルーク、あるいはグラームといい、女奴隷をアマあるいはジャーリヤと呼ぶ。アラブの歴史世界では、アブドはブラックアフリカの黒人奴隷をさし、マムルークはトルコ人やスラブ人などの「白人奴隷兵」を意味する慣行がはやくから成立していた[1]。

ムハンマドは奴隷を所有していただけでなく、さらに戦争捕虜の奴隷化と売買、ついでに捕虜として確保したユダヤ人の女性を妻としている。このためイスラム教は奴隷=悪という立場をとらない。ただし奴隷の取り扱いや福祉には規定が存在しており、奴隷を解放することは善行であると記されている。(女奴隷に教育をほどこし、解放し、結婚した者には、天国で2倍の報いがある(ハディース))

奴隷は温情を持って処遇せねばならないと記されている。(両親にやさしくあれ。また、近親者、孤児、貧者、血縁の隣人、血縁のない隣人、近くの仲間、旅人、そして自分の右手が所有する者に(コーラン第4章36節)

奴隷獲得における規定が存在し、ジハードにおける戦争捕虜(女性を含む)を奴隷とすること、あるいはすでに奴隷であるものを奴隷商人から買い受けることは許されているが、単なる略奪行為の一環としての奴隷獲得は禁止されている。

ムハンマドが所有していた黒人奴隷の一人であるビラール・ビン=ラバーフは現代においてもイスラム教の偉人の一人として、特にムアッジンの間では目指すべき理想像として尊敬の対象となっている。 イスラム教における宗教指導者であるムフティーは奴隷の身分であってもイスラム法学に秀でていればなる事が出来た。実際に奴隷のムフティーは数多くの事例がある。 また、イスラム社会では身分の流動性があり奴隷を辞めて上位の身分になることも能力しだいでは可能であった。

バグダードに生まれたイブン・ブラトーン(1066年没)は、『奴隷の購入と検査に関する有用な知識の書』という奴隷購入の手引書を著している。この書では人種に対する差別と偏見を“科学”的言説で糊塗しており、また、各人種すべてに対する蔑視やステレオタイプの一環という性格が強いものの、『肌の色が黒ければ良さが減じられる』『黒人女性は臭いので性的搾取のための女奴隷には向かない』など、黒人に対する差別意識も強くみられる[2]。また、ザンジュ(黒人奴隷)の子どもであっても、白人(ビード)との婚姻をくり返して三代をへれば、黒人は白人となる」と記されている。黒人の血が混じることにより厳格だった近代アメリカに比べた場合、イスラームに対して擁護的な著者は、イスラム社会が早くから異民族の受け入れに先進的な社会慣行をつくりあげてきたことがわかるとする。[3]。

アメリカ黒人奴隷のように商品として売買され耐久消費財として人命を消費されてきたのと比べるとイスラム社会の奴隷は身分の一つであって人間であることまで否定されていたわけではない。だが、ヨーロッパ人に奴隷を売っていたのはイスラム教徒のアラブ人商人であり、またリビングストンやケースメントなど奴隷廃止運動家は、アフリカにおけるアラブ人奴隷商人の蛮行を多数目撃している。

ただし異教徒に対するジハードであるとの名目で奴隷狩りが頻繁に行われたこともある。イスラームの支配者たちは商人たちが奴隷狩りや誘拐、詐欺などで連行してきたヨーロッパ人やアフリカの黒人を奴隷として使役し、親衛隊や官吏などに利用してきた。彼らの待遇は一般的には周辺地域(アメリカ黒人奴隷など)の奴隷よりよく、奴隷から司令官や執政官、更には君主の位まで上り詰めたものもいた。しかし奴隷であることには変わりなく、『人間の形をした道具』として差別に苦しんだ。オスマン帝国ではハレムでの勤務用に去勢される子供もいた。とりわけ女性の奴隷の場合は、他の地域同様性欲処理の道具としてみなされ、性的な虐待を受けることも少なくなかった。ハレムの女性はこのように自由なく厳しい生活を強いられなければならなかったが、しかし、ひとたび自身の生んだ息子がスルターンとして即位することとなればヴァーリデ・スルタン(母后)と呼ばれてハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。オスマン帝国では一時期、母后による権勢が強まり、女人政治、女人の天下とも呼ばれる時代も出現した。

イスラーム諸国での奴隷制の禁止はヨーロッパの植民地化以降のことであった。またトルコ、イラン(イラン革命以前)、イラク、シリア、アルジェリアなどの世俗主義と近代化を標榜する勢力が国権を握った国でいち早く廃止された。現在でも原理主義を守っているサウジアラビアでも1962年11月26日に当時首相であったファイサル国王によって出された内政基本政策10カ条の10番目として奴隷制度の廃止とすべての奴隷の解放が明示されている。また奴隷取引の列強による禁止、およびジハードの事実上の消滅により奴隷獲得手段が消滅し、奴隷そのものが消滅した。ただしイスラムは原理主義的な一面が強いため奴隷がイスラム教にそむくという明確なファトワーは出ていない。逆にイスラム教における奴隷はヨーロッパ人によって行われた過酷な黒人奴隷の取り扱い方と同一のものではないとの主張が多いが、奴隷貿易の最盛期、ヨーロッパ人に奴隷を狩って売っていたのはイスラム教徒だった。

なお、解放された奴隷がムスリムであれば、軍人(マムルーク)として活躍する事が出来ればアミールなどに出世する事もでき、その実力を持ってして王朝を打ち立てる事も出来た。エジプトのマムルーク朝、インドの奴隷王朝(インド・マムルーク朝)がその典型である。

プランテーション

プランテーション (plantation) とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。経営主体は、国営、企業、民間など様々である。経営する側をプランターと呼ぶ場合もある。


環境・人道上の問題[編集]

この「安価な労働力」は、かつては植民地の原住民あるいは奴隷であり、現在は発展途上国の農民であったり、土地自体が先住民から奪われて経営者に売られていたりなどするため、労働者の人権が問題とされることがある。また水質汚染・森林破壊・農薬問題などの環境破壊が問題とされることも多い。

経済・飢餓の問題[編集]

コーヒー、天然ゴム、サトウキビ、ヤシ、綿(綿花)その他果物全般などがプランテーション作物として良く知られている。プランテーション作物の多くは商品作物であり、国としてはこれを輸出することで外貨を稼がざるを得ないが、これに依存している度合いが高い国の場合、自然災害などの影響を受けると経済が立ち行かなくなってしまう。こういった経済構造はモノカルチャー経済とも呼ばれる。こうした構造が原因で国内で必要とされる食物の生産がおろそかになり、飢餓の原因の一つになっているとされる。また、特に中米のバナナ共和国と呼ばれる国々で見られるように、先進国のプランテーション企業が巨大な力を持ち、現地政府を牛耳ってしまう例も見られる。

プランテーション作物の主な生産国[編集]





サトウキビのプランテーション(インド)サトウキビ (ブラジル、インド、中国、マレーシア)
茶(インド、中国、スリランカ)
カカオ (コートジボワール、ガーナ、インドネシア、マレーシア)
コーヒー (ブラジル、ベトナム、コロンビア)
バナナ (インド、エクアドル、フィリピン、ブラジル)
アブラヤシ (インドネシア、マレーシア)
天然ゴム (タイ、インドネシア、インド、マレーシア)

FAO生産年間 2002年

プランテーション作物の輸出の割合が多い国[編集]





茶のプランテーション(ケニア)エチオピア(コーヒー)
ケニア(茶、コーヒー)
セントビンセント・グレナディーン諸島(バナナ)
エクアドル(バナナ)
ガーナ(カカオ)

貿易統計年間 2000年

関連項目[編集]
荘園
人種
混血
人種差別
奴隷
ニガー
ムラート
サンボ
ブラッドリー効果
黒人霊歌
スピリチュアル
ドール・フード・カンパニー
調所広郷

エラストマー

エラストマー(elastomer)とはゴム状の弾力性を有する工業用材料の総称。

elastic(弾力のある) と polymer(重合体) を組み合わせた造語。


熱硬化性エラストマー[編集]

(Thermosetting Elastomers)

製品に熱を加えても軟化することが無く、比較的耐熱性が高いエラストマー。一般に「ゴム」と呼ばれるのはこのタイプ。

加硫ゴム[編集]

原材料に加硫剤を混錬したのち加熱することで得られるもの。狭義のゴム。
天然ゴム
合成ゴム

熱硬化性樹脂系エラストマー[編集]

ウレタンゴムの一部、シリコーンゴム、フッ素ゴム、など。

詳細は「ゴム」を参照

熱可塑性エラストマー[編集]

(Thermoplastic Elastomers (TPE))

熱を加えると軟化して流動性を示し、冷却すればゴム状弾性体に戻る性質を持つエラストマー。スチレン系、オレフィン系、塩ビ系、ウレタン系、アミド系などがある。射出成形によって迅速に成型加工を行なえる利点があるが、熱によって変形するため耐熱性を要する用途には適さない。

ゴム

ゴム (蘭: gom)は、元来は植物体を傷つけるなどして得られる無定形かつ軟質の高分子物質のことである。現在では、後述の天然ゴムや合成ゴムのような有機高分子を主成分とする一連の高弾性材料すなわち弾性ゴムを指すことが多い。漢字では「護謨」と書き、この字はゴム関連の会社名などに使われることが多い。エラストマーの一種であり、エラストマーはゴムと熱可塑性エラストマーの二つに分けられる。

由来[編集]

今日の英語で gum、フランス語で gomme、ドイツ語で Gummi などと一群の欧州言語で表記される物質は、古代や中世には、アルコールには不溶だが、水を含ませると著しく膨潤してゲル状になり、種類によってはさらに水を加えると粘質のコロイド溶液となる植物由来の物質を指しており、主として多糖類から構成されている。逆に、水には不溶だがアルコールには溶ける植物由来の無定形の樹脂はレジンと呼ばれる。こうしたゴムの代表がアラビアゴムであり、また似たものにトラガカントゴムやグアーガムがある。近代の発酵工業によって新たに登場した類似物質として、キサンタンガムが知られる。これらは食品の粘度を調整したり(増粘多糖類)、接着剤、あるいは水彩絵具の基質として用いられてきた。これらは弾性ゴムが一般的となってからは水溶性ゴムと呼ばれている。

天然ゴムがクリストファー・コロンブスによって1490年代にヨーロッパ社会に伝えられた[1]。16世紀になってヨーロッパ人が中南米の文化や自然産物と接触するようになってから、彼らが古くから知っていたゴム(ガム)に似ているが、それらにはない新しい性質を持った植物由来の物質が知られるようになり、また導入され、古くから知られていたゴム(ガム)と同じ範疇の物質としてゴム(ガム)と呼ばれた。これらは植物体に含まれる乳液(ラテックス)を採取し、凝固させることによって得られるものであった。その中のひとつはチクルの幹から得られ、人間の体温程度の温度で軟化するもので、噛む嗜好品として用いられていた。このゴム(ガム)に関しては、チューインガムを参照されたい。

「シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ」も参照

もうひとつ、パラゴムノキの幹から採取されるラテックスを凝固させたものは著しい弾性を持ち、後世ヨーロッパで産業用の新素材として近代工業に欠かせない素材として受容され、発展することとなった。そのため、パラゴムノキ以外の植物からの同様の性質のゴムが探索され、また同様の性質を持つ高分子化合物の化学合成も模索されることとなった。この一群のゴムを弾性ゴムと呼び、イギリスの科学者ジョゼフ・プリーストリーが鉛筆の字をこすって (英: rub) 消すのに適することを報告したこと(消しゴムの発祥)から、英語ではこするものを意味するラバー (rubber) とも呼ばれることとなった。

さらに天然のゴム類似物質としてガタパーチャ(グッタペルカ)がある。

合成ゴムはグッドイヤーやダンロップなどにより研究開発が行なわれ、ゴム工業を発展させた。

以下、弾性ゴムについて詳述する。

物理的特徴[編集]

弾性ゴムは高弾性材料である。ここで言う「高弾性」とは弾性限界が大きいことを指す[2][3]。なお、弾性に関する指標には弾性限界のほかに弾性率等があって、ゴムの場合には弾性限界は大きいが弾性率は小さい(つまり、高弾性限界であるが低弾性率である)。

ゴム弾性の構造[編集]

分子間を共有結合で結合し、三次元網目構造を形成する高分子は、ガラス転移温度以上ではゴム弾性という特殊な性質を示すゴム状態となる。ゴム弾性とは、ゴムのように弾む性質ではなく、一見柔らかく塑性変形を起こしやすそうに見えるが、元に戻る応力が大きく、変形しにくいといった性質を指し、次のような特徴を持つ。
通常の固体ではその弾性率は1〜100 GPaであるが、ゴムは1〜10 MPaと非常に低い弾性率を示す。
このため、弱い力でもよく伸び、5から10倍にまで変形する。しかし外力を除くとただちに元の大きさまで戻る。伸びきった状態では非常に大きな応力を示す。
弾性率は絶対温度に比例する。
急激(断熱的)に伸長すると温度が上昇し、その逆に圧縮すると温度が降下する(Gough-Joule効果(英語版))。
変形に際し、体積変化がきわめて少ない。すなわちポアソン比が0.5に近い。

これはゴムの弾性がエントロピー弾性と呼ばれる、他の固体とは異なる機構で実現しているからである(他の固体ではエネルギー弾性という)。ゴムの弾性は、本来規則構造を持たない(非晶質)分子の配列が、外部からの力により規則的(結晶組織)になり、これが元の不規則な配列に戻ろうとするときの力によるもので、熱力学的には応力によるエントロピーの低下(ギブス自由エネルギーの増加)が元に戻ろうとする力による弾性である。

その他の物理的特徴[編集]

ゴムは粘弾性を持つ。粘度の測定にはムーニー粘度(英語版)を測るムーニー粘度計(英語版)やキャピラリーレオメータ(英語版)が用いられる。

実用上は他に、耐摩耗性、耐寒性(ガラス転位温度)、耐熱性、耐候性(耐日光、オゾン)、耐油性(溶解パラメーター)などが重視される[4]。

種類[編集]

ゴムはゴムノキの樹液(ラテックス)によって作られる天然ゴムと、人工的に合成される合成ゴムが存在する。

天然ゴム[編集]





天然ゴムの構造
天然ゴム (NR) はゴムノキの樹液に含まれる cis-ポリイソプレン [(C5H8)n] を主成分とする物質であり、生体内での付加重合で生成したものである。樹液中では水溶液に有機成分が分散したラテックスとして存在し、これを集めて精製し凝固乾燥させたものを生ゴムという。生ゴムも弾性材料として消しゴムなどに使われるが、硫黄による加硫により架橋させると広い温度範囲で軟化しにくい弾性材料となる。この加硫法による弾性改良はチャールズ・グッドイヤーにより1839年に発見された[1]。硫黄の他に炭素粉末を加えて加硫すると特性が非常に改善され、その含有量によって硬さが変化する。多くの硬質ゴム製品はこの炭素のために黒色をしている。

なおイソプレンを化学的に重合させたポリイソプレンは合成ゴムの一種であるが、天然ゴムのポリイソプレンとはいくらかの構造的違いがある。まず合成ポリイソプレンでは現在のところ100%シス体を得ることはできず、少量のトランス体が含まれている。また天然ゴムはポリイソプレンの他に微量のタンパク質や脂肪酸を含むが、合成ポリイソプレンにはそのような不純物はない。

天然ゴムは殆どシス型のポリイソプレンから出来ているが、その一方トランス型のポリイソプレンから出来ているものをガタパーチャまたはグッタペルカと言う。ガタパーチャは東南アジアに野生するアカテツ科の常緑高木グッタペルカノキ (palaquium gutta) などのラテックスから作られる天然樹脂の一つであり、天然ゴム、ガタパーチャ双方ともポリイソプレンから出来ているが、天然ゴムは弾性を示し、グッタペルカは弾性を示さない。この弾性の違いは幾何異性体の性質によるものである。即ち、シス型のポリイソプレンは分子鎖が折れ曲がった構造をとって不規則な形を取りやすく、分子鎖と分子鎖の間に多くの隙間を生じ分子間力が比較的小さくなる為、分子同士の結晶化が起こらず軟らかな性質を持つようになるが、それに対してトランス型のポリイソプレンは分子鎖が直線構造をとりやすく、分子鎖と分子鎖の距離が近くなる為、分子間力が強く作用し分子間で微結晶化を引き起こし、硬い樹脂状の物質となる。

但し、シス型であることは弾性の獲得の十分条件ではない。ポリイソプレンにおいては側鎖であるメチル基の影響もあり弾性を持つのはシス型であるが、例えばクロロプレンゴムはトランス型であるが弾性を有する。

天然ゴムに含まれる微量のタンパク質や脂肪酸はポリイソプレン鎖の末端に結合していると考えられている。このタンパク質はアレルゲンとなることがある[5]。

合成ゴム[編集]

合成ゴムには、ポリブタジエン系、ニトリル系、クロロプレン系などがある。いずれも付加重合または共重合によって得られる。以下にJISによる分類別に示す[1]。
R グループ(天然ゴムを除く) − 主鎖に不飽和結合を含むもの イソプレンゴム(IR)
ブタジエンゴム(BR)
スチレン・ブタジエンゴム(SBR)
クロロプレンゴム(CR)
ニトリルゴム(NBR)
ポリイソブチレン(ブチルゴム IIR)

M グループ エチレンプロピレンゴム(EPM, EPDM)
クロロスルホン化ポリエチレン(CSM)
アクリルゴム(ACM)
フッ素ゴム(FKM)

O グループ エピクロルヒドリンゴム(CO, ECO)

U グループ ウレタンゴム(U)

Q グループ シリコーンゴム(Q)


工業的利用[編集]

生産[編集]

天然ゴムの世界の生産量は70%がマレーシア、インドネシア、タイで占められている。日本はインドネシア、タイから輸入している。

規格が次の2種類ある。
視覚的格付けゴム(RSS、英: ribbed smoked sheet)シート形状
技術的格付けゴム(TSR、英: technically specitied rubber)ブロック形状

これらの中で流通量が多いのがRSS3とTSR20といわれる等級である。貿易で流通しているRSS3はタイでのみ生産。日本国内流通のRSS3とTSR20の比は1:2である。 RSS3を上場している取引所は東京商品取引所、上海期货交易所、SGX(Singapore Exchange Ltd) TSR20を上場している取引所はSGX(Singapore Exchange Ltd)

加工[編集]

ゴムは 素練り → 混練り → 成形 → 加硫 などの加工工程を経て製造される。
素練り天然ゴムの分子を分断し加工しやすくする工程である。天然ゴムをミキサーに投入し練るが、このときしゃく解剤という分子を分断させる効果をもつ薬品を添加することもある。混練り素練りしたゴムにカーボンブラック、加硫剤(硫黄等の架橋物質)、加硫促進剤ほかの薬品を混入、分散させゴム製品を製造できるゴムにする。この工程には1916年にF.H. Banburyにより開発されたバンバリーミキサー(英語版)やニーダー(kneader)などが用いられる。加硫加硫という言葉は主にゴム業界の用語で、正確には硫黄などによる架橋反応を起こさせることである。硫黄は熱の働きでゴムの分子を「橋渡し」し、弾性のある強力なゴムへと変える。
応用例・応用製品[編集]

約75%が自動車用のタイヤおよびチューブに用いられている(1997年)[4]。
工業用途・建築用途 絶縁体 − 電線、ケーブルの被覆材
シール材 − パッキン、ガスケット、Oリング
防振ゴム − インシュレーター#機械工学を参照。
免震ゴム − 免震を参照。
接着剤
ゴム改質アスファルト

主に一般家庭向けの製品 雨合羽、雨靴
タイヤ
輪ゴム
イラスティック
手袋(炊事用、作業用、医療用等)
コンドーム(俗語で「ゴム」と呼ばれることがある)
消しゴム(近年ではほとんどがプラスチック製)
不使用ガス栓の蓋

スポーツ用品 各種球技(テニス・バスケットボール等)用のボール
卓球のラバー

玩具・模型 風船
模型飛行機用動力ゴム
糸巻き戦車

潤滑油 − 太平洋戦争中の国内では南方還送の生ゴムを原料とした潤滑油が製造されていた。生ゴムを軽油と混合溶解させ特定の処理をもって精製、その後に既存の潤滑油で調合するなどして目的とする潤滑油を得ていた。特に戦争末期に多く製造され、最も多い時期では生産高にして同時期の原油由来潤滑油の一割強ほどと、まとまった量が作られた。

奴隷制

奴隷制(どれいせい)は、一般に人格を否認され所有の対象として他者に隷属し使役される人間、つまり奴隷が、身分ないし階級として存在する社会制度。


歴史[編集]

有史以来あまねく存在したが、時代的・地域的にその現われ方は複雑かつ多様であった。抽象的にいえば生産力発達が他人の剰余労働搾取を可能とした段階以降の現象であり、始原的には共同体間に発生する戦争捕虜、被征服民に対する略奪・身分格下げ、共同体内部の階層分化、成員の処罰や売却、債務不払いなどが供給源であった。

古くから一般に家長権のもとに家族の構成部分として家内労働に使役されたが(家父長制奴隷)、古代ギリシア、古代ローマ、カルタゴや近世のアメリカ大陸などでは、プランテーション、鉱山業などの生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷)。奴隷制は自前の奴隷補給が困難であったため、古来より戦争による奴隷供給と奴隷商業の発達を不可欠とした。ローマ帝国ではパクス・ロマーナによる戦争奴隷の枯渇により、コロナートゥス(農奴制)への移行を余儀なくされた[要出典]。

熱帯・亜熱帯でのゴム・煙草・砂糖などのプランテーション農業や鉱山など、一次産品における労働では、労働者が生産物の直接的消費者とならないため、私有財産を持たない奴隷は効率的であった。しかし、二次産品以降の工場労働者は、製品の消費者となり得るため、賃金労働が進められた。国の工業化が進むと、内需拡大策の一つとして、一次産品の労働者についても賃金労働が推し進められた(大土地所有制は維持される)。また、大土地所有制を否定し、農地改革をすることで農民の収入増を実現し、賃金労働農民を作らない政策を行った国も存在する。

奴隷貿易

奴隷貿易(どれいぼうえき)は国際間の奴隷制の取引を指す。

古代から中世の奴隷貿易[編集]

詳細は「古代ギリシアの奴隷(英語版)」を参照

古代ギリシアにおいては、戦争捕虜が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀から紀元前2世紀のマンティネイアの戦いまでは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は交易港に運ばれて戦利品とともに売られた。スパルタのアゲシラオス2世[1]がその場での競売を考え出し、以後は軍隊にかわって従軍する奴隷商人が担った[2]。古代ギリシャの都市国家では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特にスパルタにおいては市民の数を奴隷(ヘイロタイ)が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。古代ローマもこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣闘士となりコロッセウムで戦いを演じさせられたものもいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。

古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。アテナイの奴隷は市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、カラカラ帝によるアントニヌス勅令施行以前まではローマ市民権を得ることによって自由人になる(解放奴隷)道が開かれていた。鉱山労働者や家庭教師など奴隷の仕事は様々であり、言ってみれば職業と就職先を自分で決定する権利が無い労働者と言ってよい存在だった。娼婦や剣闘士のような、特定の主人に仕えない自由契約の奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。

中世においてはバイキングによりスラブ人が、またアッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が多く奴隷とされた。それら奴隷とされたトルコ人は生産活動に従事するのではなく、主に奴隷兵士として徴用された者も多かった。また、マムルーク朝、奴隷王朝の名はマムルーク(奴隷兵士)を出自とする軍人と、その子孫に由来する。

中世における世界の奴隷売買の中心地と言えたイスラム圏においては、その奴隷のほとんどがゲルマン人、スラブ人、中央アジア人およびバルカン人で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラブ人に由来する。西欧を例にとれば、ヴェルダンではアラブ諸国向けの宦官の製造が町の最も活発な産業部門という時代もあった[3]。中世のイタリア商人は黒海において奴隷貿易を行ない、スラブ人、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人、タルタル人の奴隷が、アレキサンドリア、ヴェネツィア、ジェノヴァなどへ運ばれた。ジェノヴァの商人は、カッファの後背地で奴隷狩を行なった。1317年に教皇ヨハネス22世は、ジェノヴァに対して、異教徒に奴隷を供給して力を強めることがないようにと警告をした[4]

『奴隷』の代名詞が黒人(いわゆるブラック・アフリカ諸民)になったのは大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって、それまでの『奴隷』の代名詞は主にゲルマン人とスラブ人であった。

大西洋奴隷貿易[編集]

詳細は「大西洋奴隷貿易(英語版)」および「:en:Atlantic slave trade」を参照

概要[編集]





アフリカに於ける奴隷狩りの様子。




奴隷船の内部構造。
大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。

2004年3月、奴隷貿易に関与していた英国ロイズ保険組合、米国たばこメーカー大手R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーなどに対して奴隷の子孫のアメリカ人が訴訟を起こした。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国(英語版)、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。[5]

歴史[編集]

ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易(英語版)は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス(英語版)が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。

大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。

初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地化に伴うインディオ人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと(貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気だった)、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、「奴隷狩り」から「奴隷貿易」へのシフトは、中南米植民地の開発よりもずっと早い1450年代に起こっている。1450年代に入ると、カシェウ(ポルトガル領ギニア、現ギニアビサウ)、ゴレ島(セネガル)、クンタ・キンテ島(ガンビア)、ウィダー(現在のベニンのギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(コンゴ)などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。

1480年代にはエルミナ城(黄金海岸)が建設される。特に1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社(英語版)が設立されるにいたった(勅許会社)。この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークの航海は有名である。しかし、誤解も多いが、映画に見られるような白人による「奴隷狩り」はごく稀なケースである。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国(英語版)、ダホメ王国[6]、セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた[7]。16世紀には、ナイジェリア(ラゴス)などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。





奴隷販売の広告(1829年)。
18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。[5]

規模[編集]

約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・D・カーティン(英語版)の説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は20-25%に達している)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16、17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を超えることはないと考えられている[8]。

奴隷貿易廃止から植民地化へ[編集]

奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1807年、世界に先駆けてアフリカ人奴隷貿易(英語版)禁止を打ち出し(en:Slave Trade Act 1807)、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から[9]1835年にグレート・トレックが起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保と結びつける考えがあるが、これは全く根拠の無い間違いである。奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化が始ったのは、少なくともイギリスに関しては、19世紀半ば以降のことで、1880年には南アフリカでボーア戦争が開始された。

その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制(英語版)は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。

日本人奴隷の貿易[編集]

16世紀から17世紀にかけての日本はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国に、東南アジアにおける戦略拠点として重視されていた。様々な物資が植民地獲得と維持のために東南アジア各地に輸出されていた。主な輸出品は武器弾薬、鉄や木材などの資源、食料、薬品、そして奴隷である。

古来、日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取ったヨーロッパ商人や中国人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。[10]

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。


1587年(天正15年)、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼び、バテレン追放令を発布して、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。[11]

1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス(Don Pedro Martins)はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[12]

やがて日本が鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。

しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、アメリカのホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインしてしまい、売り飛ばされている。

カアバ

カアバ(كعبة‎ Ka’ba または Ka’aba)は、メッカ(マッカ)のマスジド・ハラームの中心部にある建造物で、イスラーム教(イスラーム)における最高の聖地とみなされている聖殿である。カアバ神殿(カーバ神殿)とも呼ばれる。カアバの南東角にはイスラームの聖宝である黒石(くろいし)が要石として据えられている。

カアバはもとはイスラーム以前(ジャーヒリーヤ)におけるアラブ人の宗教都市であったメッカの中心をなす神殿であったとされる。

「カアバ(カーバ)」とはアラビア語で「立方体」を意味し、形状はその名の通り立方体に近い(縦にやや長い)。


歴史[編集]





預言者ムハンマドとカアバ
カアバの歴史は非常に古く、イスラーム以前の時代にはアラビア人の信仰していた多神教の神々の神殿として使われ、アニミズム時代(イスラームで言う「無明時代」)には、360もの神々の聖像が置かれていた。その中での最高神が「月の神」アッラート(アラーフの女性名詞形。アリラト、アルラトとも)であり、月経を司る五穀豊穣の老婆の神であった。イスラーム教が「太陰暦」を採用しているのはこのためである。アラート神の「御神体」は、天然ガラスである黒曜石(もしくは隕石由来のテクタイト)でできていると言われており、アニミズム時代は「月からの隕石」と信じられていた。現在この黒石は、カアバ神殿の東南角に鄭重にはめ込まれており、イスラームの巡礼であるハッジにおいてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされると、イスラーム世界では信じられている。ハッジはイスラーム成立期のアラビア半島での伝承を色濃く残しており、考古学的にも大変興味深いものである。

ムスリム(イスラーム教徒)の伝承によれば、カアバはそもそも神が人類の祖であるアーダム(アダム)とその妻ハウワー(イヴ)に命じて建設させた聖殿であり、その周囲を回ることは天上の神の玉座とそれを巡る天使たちの地上における再現で、神がアーダムに命じたことであるという(旧約聖書の創世記にはカアバ神殿の記述は無い)。しかし最初のカアバの建物はヌーフ(ノア)の時代の大洪水によって失われたとされている。

イスラーム教の聖典『クルアーン』によると、カアバの場所は大洪水以来その場所がわからなくなっていたが、預言者イブラーヒーム(アブラハム)は神からカアバの場所を教えられた。そして、イブラーヒームは息子のイスマーイール(イシュマエル)[1]とともにカアバを建設した、という(第2章「牝牛」125-127節)。その後、カアバはイスマーイールの子孫であるアラビア人が信仰の中心とする神殿となったが、やがてイブラーヒーム親子の真正な一神教は忘れ去られて多神教の神殿となったとされる。





預言者ムハンマドによる「カアバの黒石」の聖別(14世紀、エディンバラ大学図書館所蔵『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画)
イスラーム教の事実上の創始者で最終かつ最高の預言者とされているムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの生まれた時代、カアバはこの地の豪族であるクライシュ族が管理していて、その当時メッカはアラビア半島の交易路の十字路だったためにキャラバンの避難所としても使われていた。そのキャラバンは当時支配的だった多神教の偶像をカアバに奉納し続け一年にちなんだと考えられる360もの偶像があった。しかし、多神教と偶像を否定するムハンマドの興したイスラーム共同体は、クルアーンを通じてカアバを宗教的に重要な場所と認識していた。

このためマディーナへ移転(ヒジュラ)したムハンマドらイスラーム共同体側は、628年に交戦中にあったクライシュ族側と交渉し、メッカへの小巡礼(ウムラ)を行えるよう10年間の休戦を約定した(フダイビーヤの和議)。翌629年にはムハンマド自身もメッカへの小巡礼を行っている。しかし、その後も巡礼中などでの部族間の刃傷事件が絶えず、これを口実としついに630年に預言者ムハンマド率いるムスリム軍がアブー・スフヤーン(ムアーウィヤ1世の父)を筆頭とするクライシュ族のメッカを無血開城して征服した。この時上記のアラート神の「御神体」とされていた「黒石」( حجر الأسود‎ Ḥajar al-Aswad)を除く359の聖像が全て破壊されて名実共にイスラームの聖殿とし、同時に伝承によるとムハンマド自身の手によって「黒石」は聖別され、カアバの建物の東の角に据え付けられた。このため現在でもカアバの内部は天井を支える柱などを除くと装飾のない空洞になっている。

信仰[編集]

カアバは、世界が創造されてから最初に真正の唯一神であるアッラーフに奉納された聖殿であるとされ、イスラーム教における最高の聖地とされている。ムスリムはムハンマドがマディーナにあって当地のユダヤ教徒との仲が険悪になった頃、礼拝する方向をエルサレムの方向からカアバの方角(キブラ)に改められ、以来、1日5回の礼拝はカアバの方角(キブラ)に向かって行われるようになった。

カアバのあるマスジド・ハラームを除く世界の全てのモスクは、必ずキブラの方向にミフラーブというくぼみを持ち、モスクに集まったムスリムはミフラーブを目印としてカアバに向かって礼拝を行う。

ただし、ムスリムにとってカアバはアッラーフでもなければ、それ自体が聖なる建物でもない。最初に奉納された、アッラーフを象徴する「奉納」を通じての、ただし、アッラーフとの伝達手段で、神道に例えるならば神鏡という位置付けであるに過ぎない。

また、ムスリムは聖地であるカアバに巡礼することを義務とされ、メッカに赴いて巡礼に参加する余裕があるならば、一生に一度カアバに巡礼しなければならない(五行のひとつハッジ)、とされている。

形状[編集]


Kaaba.png







平面図
カアバの基本的な形は、ムハンマドの青年時代に火災で損傷したカアバが再建されたものであり、1630年の大改修を経て現在の姿になった。

建物は大理石の基盤の上にたつ石造モルタル造りで、北東を正面とする立方体の長さは約10メートルあり、北西と南東を向く側面は約12メートルの幅をもち、高さは約15メートルである。屋上は大理石が敷き詰められており、北西に向かって雨どいがある。

入り口は正面の高さ約2メートルのところにしつらえられており、普段は内部に入る必要がまったくないので階段は外されている。内部は三本の柱で支えられた空間になっているが、ムハンマドが偶像を破壊して以来、何も置かれていない。

東の角には、イブラーヒームが建設したとき以来カアバに使われているものと伝承される黒石が高さ約1.5メートルの箇所にはめこまれている。黒石は大きな黒曜石で、イブラーヒームがカアバを建立したとき、天使が運んできたものと伝承されており、巡礼者が一人一人着衣で拭って接吻するため磨り減ってしまったので、現在は金属の覆いがかけられて保護されている。

建物全体はキスワと呼ばれる黒い布で覆われている。キスワはイスラーム以前から神殿にかけられていたもので、カアバをすっぽり覆う黒い布に金色の糸で聖なる言葉が刺繍されている。キスワは毎年一度交換される慣わしで、これを奉納する栄誉は歴代のメッカの最高支配者によって担われてきた。現在ではメッカを領土の一部とするサウジアラビア政府がその奉納者であり、キスワもメッカ市内で制作されている。





マスジド・ハラーム
カアバが中枢に据えられたマスジド・ハラームは、サウジアラビア政府によってエスカレーターなどの最新の設備を備えた立派なモスクに改装されている。マスジド・ハラームはカアバを中心とする中庭と、中庭を取り巻く二階建ての礼拝施設からなっており、モスク全体をあわせると中華人民共和国の首都北京にある天安門広場とほぼ同じの約100万人を収容し、同時に礼拝を行うことができる。カアバを取り巻くようにムスリムが整然と集まって礼拝し、巡礼のためにカアバのまわりを周回する様子は写真によく写され、イスラーム教のもたらす信徒同士の一体感の強さを示すものとして引用されている。
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