2018年08月02日
【朗報?】ドラゴンボール超が映画「ブロリー」でZ(改)と分離確定? ついに原作とも繋がらない完全なるパラレルワールドへ!?【悲報?】
ドラゴンボール超(スーパー)。
当初は鳥山明原案のドラゴンボール正統続編として期待された。
しかし、その実態は作者自らの原作破壊というほど酷いものだった。
もはや原作レイプといっても過言ではないだろう。
・悟空のクズロット化をはじめとするキャラ崩壊。
・ポタラ1時間や亀仙人は元から強かったなど、考えなしの後付けによる設定破綻。
・全王や破壊神以下、傲慢な神々の掌で踊らされるだけの窮屈な世界観。
・新形態に覚醒して負けるという糞パターンの繰り返し。
・バトルアニメとしても底辺の支離滅裂なパワーバランス。
・まったく脈絡のないオマージュ乱発、押しつけがましい家族愛アピール。
・下はヤムチャから上は17号まで、キャラの上げ下げの極端さ。被害者多数。
枚挙にいとまがない、とはまさにこのことだ。
結果、ドラゴンボール全体の売上の好調さとは裏腹に
DB超は視聴率が低迷し4%(すーぱー)と揶揄されるほどの落ち目となった。
特に渾身のスペシャル回で歴代最低視聴率の3.5%を記録。
いかに不人気、不評であるかを端的に示した回だった。
それでも付いて回る「作者原案の正統続編」という名目。
まるで呪い。逃れられない宿命とでもいうべきDB超の原作破壊。
歪められ、まったく別の何かへと変形させられていくDB世界をただ眺めるだけ。
GTのようにアニメオリジナルの蛇足と割り切ることもできない。
そのせいで、どれだけ多くのDBファンが苦しめられてきたか。
せめて、DB超は原作やZ(改)とは繋がらないパラレルワールドだと
公言してくれれば多少なりとも救われることになるのだが―
・ドラゴンボール超が原作やZ(改)とは繋がらない根拠
それはすでにいくつか存在する。
DB超と原作やZ(改)との設定の相違点だ。
・フリーザがいた地獄の様子が違う。
-宇宙サバイバル編では閻魔大王がなぜか地球限定のあの世の管理者に。
・未来トランクスの髪の色が違う。
-漫画版では現代トランクスまで青色の髪になっている。
・ベジータが原作最終回前の時点でウーブの存在を知ってしまった。
-今さら悟空が魔人ブウの生まれ変わり程度の強さの相手に興味を持つのか。
・原作最終回まで5年間悟空とブルマは会っていないという設定。
-DB超では4年を切ったうえに、短期間でキャラの風貌が変わりすぎている。
・DB超では原作設定とアニメオリジナル要素が混在している。
-ブウ編の回想でビーデルが倒した強盗は原作のもの(Z・改では別人)。
-グレゴリーやサタンの弟子などアニオリキャラが多数登場。
-ブルマはギニュー(カエル)とボディチェンジされた過去を持つ。
しかし、前述のようにDB超は作者原案の正統続編。
公式には原作の続きとして扱われている。
そもそも原作もZ(改)も多少の矛盾を含みつつも
全体的にはなんとなく繋がっているイメージがあった。
(無印の劇場版3部作と「最強への道」は除く)
基本的に旧劇場版は本編と交わらないパラレルワールドとされているが、
ガーリックJr.がZ本編に登場してきたこともあるし、
Zの続編として制作されたGTでは劇場版のキャラや技が登場している。
超だけ完全なパラレルワールドと、そう簡単に割り切れるものではない。
が…?
・映画『ドラゴンボール超 ブロリー』予告編映像
DB超の完全パラレル化を確定する最後のピースがそこに?
サイヤ人の“強さの原点”に迫るという映画「DB超 ブロリー」。
サイヤ人の原点といえば、悟空の父バーダックの孤独な闘いを描いた
「ドラゴンボールZ たったひとりの最終決戦〜フリーザに挑んだZ戦士 孫悟空の父〜」
が有名だ。
しかし、映画「DB超 ブロリー」ではなんと
その「たったひとりの最終決戦」ではなく
「銀河パトロール ジャコ」のコミックに収録された
「ドラゴンボールマイナス 放たれた運命の子供」が採用されそうなのだ。
「放たれた運命の子供」では、バーダックとその妻ギネが
悟空を宇宙ポッドで地球を送り出すまでが描かれる。
その理由がフリーザの魔の手から息子を守るため。
原作や「たったひとりの最終決戦」とは異なる展開と
今さらながら作者が描く新たなバーダック像にファンは困惑した。
ファンにとってバーダックといえば「たったひとりの最終決戦」であり、
それを否定されるのは、作者はいえあまりに横暴だった。
今度はついにその被害がアニメまで及ぼうとしている。
作者アレンジという名のブロリー凌辱とともに。
しかし、ここまで来るとかえって好都合かもしれない。
公式でのパラレル宣言など待たずとも、もはや材料は揃った。
揃ってしまったという状況だ。
・結論
DB超は原作やZ(改)を再構成したうえに成り立つ続編
原作やZ(改)そのものとは繋がらない独立した新たな世界観
映画「DB超 ブロリー」は、旧劇場版のブロリーを再構成した作品。
そして、DB超には原作やZ(改)のオリジナル要素が混在している。
2つを合わせると、DB超全体が原作やZ(改)の再構成のうえに成り立っているとできそうだ。
DB超は原作やZ(改)そのものの続きではなく、再構成された世界を過去に持つ続編。
要するに、DB超は原作やZ(改)と似て非なる別世界の物語だったということだ。
以上を踏まえると、DBの歴史には大きく分けて3つの流れが存在することになる。
・原作
絶対不可侵のコミック全42巻(完全版34巻)
・旧アニメ
たったひとりの最終決戦⇒無印⇒Z(改)⇒GT
劇場版含めて何となく全体的に繋がっているイメージ
ただし無印の劇場版3部作と「最強への道」は除く
・ドラゴンボール超
放たれた運命の子供(ジャコ)⇒原作やZ(改)をひとつに再構築した過去⇒DB超本編⇒映画ブロリー
原作やZ(改)そのものとは繋がらない独立した新たな世界観
ドラゴンボール超は原作とは異なる世界線を歩んできた別世界の物語。
原作は原作、旧アニメは旧アニメ、DB超はDB超。
それぞれ交わることのない完全なるパラレルワールド。
こう考えることで、原作やZ(改)を汚染浸食する異物汚物を綺麗さっぱり除去できる。
ファンの心を蝕む原作破壊、原作レイプを異次元の彼方へと抹消できる。
亀仙人が元から強くても、パワーバランスがおかしくても、
悟空がクズロットでも、神々の掌の上で踊らされる胸糞悪い内容でも、
原作やZ(改)とは似て非なる歴史を辿ってきたのだから、何も問題はなくなる。
何せDB超は原作やZ(改)とは繋がらない、繋がりようもない完全な別世界の出来事なのだから。
・「神と神」以降の展開はいわば壮大なIF展開?
「神と神」から始まりドラゴンボール超に繋がる展開は
鳥山明が原作(ブウ編)の続きの「つもり」で作っていると当初から発表されていた。
つまり、原作そのものの続きではないというヒントは最初からあったわけだ。
しかし、曲がりなりにも作者原案の正統続編でいきなり別作品扱いするのは難しい。
そもそも、DB超が真の正統続編に相応しい内容になっていればこんな解釈をする必要はない。
原作と切り離して考えたところでDB超自体の評価が上がるわけでもない。
むしろ、そうしないと受け入れられない正統続編という時点で最低最悪の評価だ。
これは、ファンが仕方なく自己防衛的にそう解釈せざるを得なくなっただけの哀しい話…
・原作と切り離さなければ受け入れられない正統続編の存在意義とは
ちなみに、DB超の漫画版も原作とは別の世界線だとするのが妥当。
トランクスの髪の色が未来・現代ともに青くなっていたり、
ピッコロ(ナメック星人)の指の本数がアニメ準拠になっていたり、
やはり細かい部分で繋がらない部分が多数存在するからだ。
以前はよくあった
Z⇒GT
改⇒超
という2ルートを想定するのも不可能となった。
改は「たったひとりの最終決戦」から始まる歴史だから。
「放たれた運命の子供」から始まる超とは繋がらない。
ドラゴンボールはもともと設定がいい加減。
細かいことは考えずノリで楽しむもの。
たしかにそういう部分もあるのだが、
DB超はその範囲に収まるレベルのいい加減さではない。
支離滅裂なストーリーや設定をひり出し続ける壊れた作者。
そんな鳥山を異常なほどに持ち上げる狂ったスタッフ。
まさに全王と破壊神の饗宴とでもいうべき惨状。
視聴者サバイバル編ともいわれていた力の大会。
どうしてこうなった…
・
・
・
ドラゴンボール超は、DB原作やZ(改)とは繋がらない、似て非なる歴史を歩んできた世界。では、その似て非なる歴史とはいったいどんなものなのだろう。と想像したとき、ふと思い当たった。あった。そんな歴史を描いた作品が。
ドラゴンボールSD―
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当初は鳥山明原案のドラゴンボール正統続編として期待された。
しかし、その実態は作者自らの原作破壊というほど酷いものだった。
もはや原作レイプといっても過言ではないだろう。
・悟空のクズロット化をはじめとするキャラ崩壊。
・ポタラ1時間や亀仙人は元から強かったなど、考えなしの後付けによる設定破綻。
・全王や破壊神以下、傲慢な神々の掌で踊らされるだけの窮屈な世界観。
・新形態に覚醒して負けるという糞パターンの繰り返し。
・バトルアニメとしても底辺の支離滅裂なパワーバランス。
・まったく脈絡のないオマージュ乱発、押しつけがましい家族愛アピール。
・下はヤムチャから上は17号まで、キャラの上げ下げの極端さ。被害者多数。
枚挙にいとまがない、とはまさにこのことだ。
結果、ドラゴンボール全体の売上の好調さとは裏腹に
DB超は視聴率が低迷し4%(すーぱー)と揶揄されるほどの落ち目となった。
特に渾身のスペシャル回で歴代最低視聴率の3.5%を記録。
いかに不人気、不評であるかを端的に示した回だった。
それでも付いて回る「作者原案の正統続編」という名目。
まるで呪い。逃れられない宿命とでもいうべきDB超の原作破壊。
歪められ、まったく別の何かへと変形させられていくDB世界をただ眺めるだけ。
GTのようにアニメオリジナルの蛇足と割り切ることもできない。
そのせいで、どれだけ多くのDBファンが苦しめられてきたか。
せめて、DB超は原作やZ(改)とは繋がらないパラレルワールドだと
公言してくれれば多少なりとも救われることになるのだが―
・ドラゴンボール超が原作やZ(改)とは繋がらない根拠
それはすでにいくつか存在する。
DB超と原作やZ(改)との設定の相違点だ。
・フリーザがいた地獄の様子が違う。
-宇宙サバイバル編では閻魔大王がなぜか地球限定のあの世の管理者に。
・未来トランクスの髪の色が違う。
-漫画版では現代トランクスまで青色の髪になっている。
・ベジータが原作最終回前の時点でウーブの存在を知ってしまった。
-今さら悟空が魔人ブウの生まれ変わり程度の強さの相手に興味を持つのか。
・原作最終回まで5年間悟空とブルマは会っていないという設定。
-DB超では4年を切ったうえに、短期間でキャラの風貌が変わりすぎている。
・DB超では原作設定とアニメオリジナル要素が混在している。
-ブウ編の回想でビーデルが倒した強盗は原作のもの(Z・改では別人)。
-グレゴリーやサタンの弟子などアニオリキャラが多数登場。
-ブルマはギニュー(カエル)とボディチェンジされた過去を持つ。
しかし、前述のようにDB超は作者原案の正統続編。
公式には原作の続きとして扱われている。
そもそも原作もZ(改)も多少の矛盾を含みつつも
全体的にはなんとなく繋がっているイメージがあった。
(無印の劇場版3部作と「最強への道」は除く)
基本的に旧劇場版は本編と交わらないパラレルワールドとされているが、
ガーリックJr.がZ本編に登場してきたこともあるし、
Zの続編として制作されたGTでは劇場版のキャラや技が登場している。
超だけ完全なパラレルワールドと、そう簡単に割り切れるものではない。
が…?
・映画『ドラゴンボール超 ブロリー』予告編映像
DB超の完全パラレル化を確定する最後のピースがそこに?
PV見返し中、このシーンに物凄い嫌な予感を感じて探してみたら…やっぱり…。
— SSGSSポポロット(燃えつき中) (@SSGSSpoporotto) 2018年7月20日
もう駄目だ…おしまいだ…。 pic.twitter.com/ArPFft1ROl
サイヤ人の“強さの原点”に迫るという映画「DB超 ブロリー」。
サイヤ人の原点といえば、悟空の父バーダックの孤独な闘いを描いた
「ドラゴンボールZ たったひとりの最終決戦〜フリーザに挑んだZ戦士 孫悟空の父〜」
が有名だ。
しかし、映画「DB超 ブロリー」ではなんと
その「たったひとりの最終決戦」ではなく
「銀河パトロール ジャコ」のコミックに収録された
「ドラゴンボールマイナス 放たれた運命の子供」が採用されそうなのだ。
「放たれた運命の子供」では、バーダックとその妻ギネが
悟空を宇宙ポッドで地球を送り出すまでが描かれる。
その理由がフリーザの魔の手から息子を守るため。
原作や「たったひとりの最終決戦」とは異なる展開と
今さらながら作者が描く新たなバーダック像にファンは困惑した。
ファンにとってバーダックといえば「たったひとりの最終決戦」であり、
それを否定されるのは、作者はいえあまりに横暴だった。
今度はついにその被害がアニメまで及ぼうとしている。
作者アレンジという名のブロリー凌辱とともに。
しかし、ここまで来るとかえって好都合かもしれない。
公式でのパラレル宣言など待たずとも、もはや材料は揃った。
揃ってしまったという状況だ。
・結論
DB超は原作やZ(改)を再構成したうえに成り立つ続編
原作やZ(改)そのものとは繋がらない独立した新たな世界観
VジャンプでのDB超 ブロリーの紹介。
— 偉言者Ω@模写修行中 (@igenshaomega) 2018年7月22日
>「DB」の創造主・鳥山明先生自らが、このブロリーの物語を再構築
ブロリーに限らず、DBの原作やZを再構築したうえでの続編がドラゴンボール超だと考えたほうがいいかもしれない。 pic.twitter.com/9hnOxzOthp
映画「DB超 ブロリー」は、旧劇場版のブロリーを再構成した作品。
そして、DB超には原作やZ(改)のオリジナル要素が混在している。
2つを合わせると、DB超全体が原作やZ(改)の再構成のうえに成り立っているとできそうだ。
DB超は原作やZ(改)そのものの続きではなく、再構成された世界を過去に持つ続編。
要するに、DB超は原作やZ(改)と似て非なる別世界の物語だったということだ。
以上を踏まえると、DBの歴史には大きく分けて3つの流れが存在することになる。
・原作
絶対不可侵のコミック全42巻(完全版34巻)
・旧アニメ
たったひとりの最終決戦⇒無印⇒Z(改)⇒GT
劇場版含めて何となく全体的に繋がっているイメージ
ただし無印の劇場版3部作と「最強への道」は除く
・ドラゴンボール超
放たれた運命の子供(ジャコ)⇒原作やZ(改)をひとつに再構築した過去⇒DB超本編⇒映画ブロリー
原作やZ(改)そのものとは繋がらない独立した新たな世界観
ドラゴンボール超は原作とは異なる世界線を歩んできた別世界の物語。
原作は原作、旧アニメは旧アニメ、DB超はDB超。
それぞれ交わることのない完全なるパラレルワールド。
こう考えることで、原作やZ(改)を汚染浸食する異物汚物を綺麗さっぱり除去できる。
ファンの心を蝕む原作破壊、原作レイプを異次元の彼方へと抹消できる。
亀仙人が元から強くても、パワーバランスがおかしくても、
悟空がクズロットでも、神々の掌の上で踊らされる胸糞悪い内容でも、
原作やZ(改)とは似て非なる歴史を辿ってきたのだから、何も問題はなくなる。
何せDB超は原作やZ(改)とは繋がらない、繋がりようもない完全な別世界の出来事なのだから。
・「神と神」以降の展開はいわば壮大なIF展開?
神と神〜ドラゴンボール超は、原作(ブウ編)の続きの「つもり」で鳥山先生が携わっている作品であって、いわば壮大な「IF」展開。原作そのものの続きではないということもできます。 pic.twitter.com/exQTEzwt7u
— 偉言者Ω@模写修行中 (@igenshaomega) 2018年7月26日
「神と神」から始まりドラゴンボール超に繋がる展開は
鳥山明が原作(ブウ編)の続きの「つもり」で作っていると当初から発表されていた。
つまり、原作そのものの続きではないというヒントは最初からあったわけだ。
しかし、曲がりなりにも作者原案の正統続編でいきなり別作品扱いするのは難しい。
そもそも、DB超が真の正統続編に相応しい内容になっていればこんな解釈をする必要はない。
原作と切り離して考えたところでDB超自体の評価が上がるわけでもない。
むしろ、そうしないと受け入れられない正統続編という時点で最低最悪の評価だ。
これは、ファンが仕方なく自己防衛的にそう解釈せざるを得なくなっただけの哀しい話…
・原作と切り離さなければ受け入れられない正統続編の存在意義とは
ちなみに、DB超の漫画版も原作とは別の世界線だとするのが妥当。
トランクスの髪の色が未来・現代ともに青くなっていたり、
ピッコロ(ナメック星人)の指の本数がアニメ準拠になっていたり、
やはり細かい部分で繋がらない部分が多数存在するからだ。
以前はよくあった
Z⇒GT
改⇒超
という2ルートを想定するのも不可能となった。
改は「たったひとりの最終決戦」から始まる歴史だから。
「放たれた運命の子供」から始まる超とは繋がらない。
ドラゴンボールはもともと設定がいい加減。
細かいことは考えずノリで楽しむもの。
たしかにそういう部分もあるのだが、
DB超はその範囲に収まるレベルのいい加減さではない。
支離滅裂なストーリーや設定をひり出し続ける壊れた作者。
そんな鳥山を異常なほどに持ち上げる狂ったスタッフ。
まさに全王と破壊神の饗宴とでもいうべき惨状。
視聴者サバイバル編ともいわれていた力の大会。
どうしてこうなった…
ドラゴンボール超:劇場版新作「ブロリー」の前売り券が好調 「神と神」の236.7% https://t.co/2V7LwtFpFI
— MANTANWEB (まんたんウェブ) (@mantanweb) 2018年7月23日
今度の映画のブロリー人気を、まるでドラゴンボール超そのものが人気であるかのように言わないでくれ。せいぜい、視聴率低迷の超から離れていったDBファンが再び興味を持ったか、あるいはそもそも超に興味がなかったブロリーファンが食いついたか。大半はそんなところだろう…
— 偉言者Ω@模写修行中 (@igenshaomega) 2018年7月26日
・
・
・
ドラゴンボール超は、DB原作やZ(改)とは繋がらない、似て非なる歴史を歩んできた世界。では、その似て非なる歴史とはいったいどんなものなのだろう。と想像したとき、ふと思い当たった。あった。そんな歴史を描いた作品が。
ドラゴンボールSD―
・ドラゴンボール超の歴史ルート
— 偉言者Ω@模写修行中 (@igenshaomega) 2018年8月30日
放たれた運命の子供(ジャコ)
↓
ドラゴンボールSD(原作やZ/改を再構築した世界)
↓
ビルス編〜宇宙サバイバル編
↓
ブロリー
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私も貴方と全く同じ解釈をしています。
ほかのどの世代のDBファンそして製作者がどう言おうとも、ドラゴンボール超と原作はつながりようがないのです。
物語の始まりにも、終わりにも、、もちろんGTにもw
個人的に"神と神"から最近のDB作品は受け付けず、約20年前に終了した名作に対し"正統続編"と謳ってファンに押し付けてくる某出版社や大人達には、怒りに近い違和感を感じています。正直鳥山氏にも、、
それだけDBが好きだからこそ余計に。
ですが、今回のブロリー映画で、関係者や鳥山氏がどう触れ込んでも、超がパラレルにしかならない事実が決定的になったのでむしろ安心しました。
素直に製作サイドがZ・GT・超(神と神含)といずれも道筋が原作と異なる作品、パラレルである事を認めたら良いのになと笑
自分含め連載当時からのファン、超が好きなファンも、気楽に今のDBを見れると思うんですが。。
長文失礼しました。
Zや改は原作とはつながらないし当然たったひとりの最終決戦も原作とはつながらず
マイナスや超ブロリーが原作とつながるってだけの話では