2017年08月18日
戦災の記憶の伝承へ、、、、茨城大生が
戦後72年、、、、、
戦時中、本土では異例の艦砲射撃を受けた日立市。
その戦災について、茨城大の学生たちが「他の都市に比べて被災体験が伝わっていないのでは」という
疑問から調査をしている。
日立市は終戦間際、米軍から大きな攻撃を3度受けた。
このうち2回は空襲だけで、2度目となる1945年7月17日の深夜にあったのが
米海軍の艦砲射撃だ。
日立製作所の山手、多賀工場などが標的とされ、勝田町(現ひたちなか市)にあった、
同社の工場も同時に攻撃された。
この被害の記憶を調査しているのは、茨城大の村上信夫教授(メディア文化論)の
ゼミの3年生7人。
県内の戦災調査の中で、「艦砲射撃」という襲撃的な経験をしているのに、史料や
報道での少なさに疑問を抱き、この事実の記憶伝承へ動くことに。
学生たちは、、、、未来に向けて、、、、この戦災を、、、、
「とうしたら歴史を伝えていけるか」と。
自身も戦後生まれですが、若い人たちがこのような考えを持ってくれたことは
大変、うれしいことです。
*日立市への艦砲射撃
砲弾870発の16インチ砲弾
戦時中、本土では異例の艦砲射撃を受けた日立市。
その戦災について、茨城大の学生たちが「他の都市に比べて被災体験が伝わっていないのでは」という
疑問から調査をしている。
日立市は終戦間際、米軍から大きな攻撃を3度受けた。
このうち2回は空襲だけで、2度目となる1945年7月17日の深夜にあったのが
米海軍の艦砲射撃だ。
日立製作所の山手、多賀工場などが標的とされ、勝田町(現ひたちなか市)にあった、
同社の工場も同時に攻撃された。
この被害の記憶を調査しているのは、茨城大の村上信夫教授(メディア文化論)の
ゼミの3年生7人。
県内の戦災調査の中で、「艦砲射撃」という襲撃的な経験をしているのに、史料や
報道での少なさに疑問を抱き、この事実の記憶伝承へ動くことに。
学生たちは、、、、未来に向けて、、、、この戦災を、、、、
「とうしたら歴史を伝えていけるか」と。
自身も戦後生まれですが、若い人たちがこのような考えを持ってくれたことは
大変、うれしいことです。
*日立市への艦砲射撃
砲弾870発の16インチ砲弾
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