新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2021年07月21日
映画「ワイルドバンチ」− 時代に取り残されていく男たちの美学 壮絶なクライマックスへ
「ワイルドバンチ」(The Wild Bunch )
1969年 アメリカ
監督サム・ペキンパー
脚本ウォロン・グリーン
サム・ペキンパー
撮影ルシアン・バラード
音楽ジェリー・フィールディング
〈キャスト〉
ウィリアム・ホールデン アーネスト・ボーグナイン
ウォーレン・オーツ ベン・ジョンソン
ロバート・ライアン エミリオ・フェルナンデス
クライマックスの壮絶な銃撃戦が話題を呼んだ、巨匠サム・ペキンパー監督のバイオレンス・アクションの傑作。
20世紀初頭。アメリカ=メキシコ、国境の街。
パイク・ビショップ(ウィリアム・ホールデン)に率いられた強盗団5人は、銀行を襲撃すべく軍服に身を包んで街に現れます。
襲撃はいったんは成功したかに見えましたが、それは鉄道会社が仕掛けた罠で、パイクのかつての仲間であるディーク・ソーントン(ロバート・ライアン)率いる賞金稼ぎたちの待ち伏せに遭い、一味の一人は射殺され、凄惨な銃撃戦の中をかいくぐってパイクたちはかろうじて逃げのびます。
強奪したと思った金貨も、実はただの鉄くずだったことで一味は深い落胆に陥りますが、気を取り直して次の仕事に取り掛かります。
一方、パイクたちを取り逃がしたソーントンは、会社側から厳しい言葉を投げつけられます。
本来、刑務所で服役しているはずのソーントンは、パイクたちを捕まえる条件で釈放されている体で、これ以上失敗を重ねれば、再び刑務所に戻すと脅されたソーントンは、粗野な賞金稼ぎたちを引き連れてパイクたちの後を追いかけます。
強盗団のひとり、エンジェル(ジェイミー・サンチェス)の故郷に潜伏したパイクたちは、政府軍の将軍マパッチ(エミリオ・フェルナンデス)が小銃や弾薬を欲しがっていることを知り、アメリカ軍の軍用列車から武器を奪うことに成功。
しかし、この列車にはソーントンも乗り合わせており、右往左往するアメリカ軍を尻目に、ソーントンの執拗な追跡が始まります。
マパッチに接近したパイクは武器を渡し、盛大な歓待を受けますが、そこには、村を飛び出してマパッチのものになった、エンジェルのかつての恋人テレサがマパッチに抱かれて、エンジェルに見せつけるようにマパッチを愛撫。
逆上したエンジェルがテレサを射殺。
凍り付くような緊張感の中、機転を利かせたパイクたちによって、一時は事なきを得ますが、その後、エンジェルはマパッチに捕らわれ、激しい暴行を受けて瀕死の状態に。
エンジェルの惨状を見たパイクは、俺たちには関係ないんだと、静かに立ち去ります。
ライル(ウォーレン・オーツ)、テクター(ベン・ジョンソン)の兄弟は酒と女で派手に騒ぎ、パイクも子持ちの若い女とひと時を過ごします。
静かな時が流れ、女に払う金のことで揉めているラウルの部屋に入り、パイクはこうつぶやきます。
「let's go」
パイク、ライル、テクター、そして、外で待っていたダッチ(アーネスト・ボーグナイン)を加え、エンジェルを救うべく、政府軍の待ち構える中へ、たった4人で乗り込むことになります。
男たちの美学に貫かれた骨太い傑作で、20世紀に入って近代化が芽を吹き出し始め、西部にも自動車が登場して、「なんだこれは?」と驚くパイクたちは、揺れ動く時代の波の中で、自分たちの生きた世界が過去になりつつあることを自覚するわけで、そういった男たちの滅びの美学を描いた映画であるといえます。
また、男たちの絆、団結なども強く描かれていて、冒頭、銀行襲撃が罠と判り、持ち帰った金貨を前に仲間割れが始まろうとする。
実は金貨ではなく鉄屑だったと判り、誰からともなく笑いがあふれ、それが全員に伝播していく場面は、小さいゴタゴタなどは(実際には殺気をはらんだ睨み合いですが)笑い飛ばしてしまおうとする豪快な大らかさが描かれて、とても印象的なシーン。
そういった場面は、ウイスキーの回し飲みをするシーンでもよく表れていて、一味の道化物的存在のライルが最後に飲もうとすると、すでにビンは空になっている。渋い顔をするライルの表情と、それを見てみんなが大笑いをする場面は、時代に取り残されていこうとする男たちの、哀しみを裏返した陽気さであったように思います。
出演者たちもサム・ペキンパー好みの一癖も二癖もある俳優たちが勢揃い。
強盗団の首領パイク・ビショップに「第十七捕虜収容所」(1953年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞し、その後も「麗しのサブリナ」(1954年)、「慕情」(1955年)、「戦場にかける橋」(1957年)など、名作や大作に欠かせない存在のウィリアム・ホールデン。
「ワイルドバンチ」と同年の「クリスマス・ツリー」では、偶然の事故で放射能を浴びてしまった息子の余命が残り少ないと知り、息子が欲しがっていた狼を友人のブールヴィルと二人で動物園から盗み出す父親を好演。
息子が亡くなるラストは、「パパありがとう」のクリスマス・カードと共に、狼の哀しい遠吠えが涙を誘う名作でした。
パイクの片腕ダッチに、「地上(ここ)より永遠(とわ)に」(1953年)で、フランク・シナトラを徹底的に苛め抜く軍曹役で強烈な印象を残し、「マーティー」(1955年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞したアーネスト・ボーグナイン。
また、パニック物のハシリとなった1972年の「ポセイドン・アドベンチャー」では、神父のジーン・ハックマンとことごとく対立するニューヨーク市警の刑事を熱演。
翌年の「北国の帝王」では、伝説のただ乗り男リー・マーヴィンを乗せまいとする鬼車掌を演じ、久しぶりにアクの強いボーグナインを見せてくれました。
強盗団の中では、ちょっと間の抜けたライルに、アカデミー賞作品賞受賞の「夜の大捜査線」(1967年)で注目されたウォーレン・オーツ。
「ワイルドバンチ」出演が転機となったのか、その後、「さすらいのカウボーイ」(1971年)、「デリンジャー」(1973年)、巨匠テレンス・マリックの「地獄の逃避行」(1973年)など、タフで粘り強い性格俳優として活躍。
1974年には「ガルシアの首」で再びサム・ペキンパーと組んでいます。
ライルの兄テクターに、「三人の名付親」(1948年)、「黄色いリボン」(1949年)、「リオ・グランデの砦」(1950年)などで、巨匠ジョン・フォードと縁の深いベン・ジョンソン。
サム・ペキンパー作品には「ワイルドバンチ」以外にも「ダンディー少佐」(1965年)、「ゲッタウェイ」(1972年)に出演。
最後まで生き残る老人サイクスに、「殺人者」(1946年)、「白熱」(1949年)のエドモンド・オブライエン。
1954年の「裸足の伯爵夫人」ではアカデミー賞助演男優賞を受賞。
極悪な政府軍の将軍マパッチに、メキシコ人俳優で監督でもあるエミリオ・フェルナンデス。
パイクを追う元相棒のソーントンに、「誇り高き男」(1956年)、「史上最大の作戦」(1962年)、「バルジ大作戦」(1965年)、「狼は天使の匂い」などの名優ロバート・ライアン。
無数のアリがサソリに群がり、それを喜んで見ている子どもたちの異様な雰囲気で始まる「ワイルドバンチ」。
時代に取り残されていく男たちと、壮絶な銃撃戦で幕を閉じるこの映画は、一方で、ディーク・ソーントンの存在がとても大きく、かつてパイクの相棒だったソーントンは、列車強盗に業を煮やした鉄道会社の言いなりになってパイクを追いかける立場となっているものの、その仕事にはなんとなく気が乗らない。パイクを捕まえなければならない反面、捕まえたくない気持ちも大きく、その両方で揺らぐ複雑な立場をロバート・ライアンが好演。
ラストでは、パイクたち全員が殺され、虚脱した体で街の外に座り込むソーントンに、生き延びたサイクス老人が、また一緒にやろうぜ、ひとりよりはいいだろう、と声をかけ、ソーントンが馬に乗ってサイクスたちと荒野に消える場面は、傑作にふさわしい見事なラストシーンでした。
1969年 アメリカ
監督サム・ペキンパー
脚本ウォロン・グリーン
サム・ペキンパー
撮影ルシアン・バラード
音楽ジェリー・フィールディング
〈キャスト〉
ウィリアム・ホールデン アーネスト・ボーグナイン
ウォーレン・オーツ ベン・ジョンソン
ロバート・ライアン エミリオ・フェルナンデス
クライマックスの壮絶な銃撃戦が話題を呼んだ、巨匠サム・ペキンパー監督のバイオレンス・アクションの傑作。
20世紀初頭。アメリカ=メキシコ、国境の街。
パイク・ビショップ(ウィリアム・ホールデン)に率いられた強盗団5人は、銀行を襲撃すべく軍服に身を包んで街に現れます。
襲撃はいったんは成功したかに見えましたが、それは鉄道会社が仕掛けた罠で、パイクのかつての仲間であるディーク・ソーントン(ロバート・ライアン)率いる賞金稼ぎたちの待ち伏せに遭い、一味の一人は射殺され、凄惨な銃撃戦の中をかいくぐってパイクたちはかろうじて逃げのびます。
強奪したと思った金貨も、実はただの鉄くずだったことで一味は深い落胆に陥りますが、気を取り直して次の仕事に取り掛かります。
一方、パイクたちを取り逃がしたソーントンは、会社側から厳しい言葉を投げつけられます。
本来、刑務所で服役しているはずのソーントンは、パイクたちを捕まえる条件で釈放されている体で、これ以上失敗を重ねれば、再び刑務所に戻すと脅されたソーントンは、粗野な賞金稼ぎたちを引き連れてパイクたちの後を追いかけます。
強盗団のひとり、エンジェル(ジェイミー・サンチェス)の故郷に潜伏したパイクたちは、政府軍の将軍マパッチ(エミリオ・フェルナンデス)が小銃や弾薬を欲しがっていることを知り、アメリカ軍の軍用列車から武器を奪うことに成功。
しかし、この列車にはソーントンも乗り合わせており、右往左往するアメリカ軍を尻目に、ソーントンの執拗な追跡が始まります。
マパッチに接近したパイクは武器を渡し、盛大な歓待を受けますが、そこには、村を飛び出してマパッチのものになった、エンジェルのかつての恋人テレサがマパッチに抱かれて、エンジェルに見せつけるようにマパッチを愛撫。
逆上したエンジェルがテレサを射殺。
凍り付くような緊張感の中、機転を利かせたパイクたちによって、一時は事なきを得ますが、その後、エンジェルはマパッチに捕らわれ、激しい暴行を受けて瀕死の状態に。
エンジェルの惨状を見たパイクは、俺たちには関係ないんだと、静かに立ち去ります。
ライル(ウォーレン・オーツ)、テクター(ベン・ジョンソン)の兄弟は酒と女で派手に騒ぎ、パイクも子持ちの若い女とひと時を過ごします。
静かな時が流れ、女に払う金のことで揉めているラウルの部屋に入り、パイクはこうつぶやきます。
「let's go」
パイク、ライル、テクター、そして、外で待っていたダッチ(アーネスト・ボーグナイン)を加え、エンジェルを救うべく、政府軍の待ち構える中へ、たった4人で乗り込むことになります。
男たちの美学に貫かれた骨太い傑作で、20世紀に入って近代化が芽を吹き出し始め、西部にも自動車が登場して、「なんだこれは?」と驚くパイクたちは、揺れ動く時代の波の中で、自分たちの生きた世界が過去になりつつあることを自覚するわけで、そういった男たちの滅びの美学を描いた映画であるといえます。
また、男たちの絆、団結なども強く描かれていて、冒頭、銀行襲撃が罠と判り、持ち帰った金貨を前に仲間割れが始まろうとする。
実は金貨ではなく鉄屑だったと判り、誰からともなく笑いがあふれ、それが全員に伝播していく場面は、小さいゴタゴタなどは(実際には殺気をはらんだ睨み合いですが)笑い飛ばしてしまおうとする豪快な大らかさが描かれて、とても印象的なシーン。
そういった場面は、ウイスキーの回し飲みをするシーンでもよく表れていて、一味の道化物的存在のライルが最後に飲もうとすると、すでにビンは空になっている。渋い顔をするライルの表情と、それを見てみんなが大笑いをする場面は、時代に取り残されていこうとする男たちの、哀しみを裏返した陽気さであったように思います。
出演者たちもサム・ペキンパー好みの一癖も二癖もある俳優たちが勢揃い。
強盗団の首領パイク・ビショップに「第十七捕虜収容所」(1953年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞し、その後も「麗しのサブリナ」(1954年)、「慕情」(1955年)、「戦場にかける橋」(1957年)など、名作や大作に欠かせない存在のウィリアム・ホールデン。
「ワイルドバンチ」と同年の「クリスマス・ツリー」では、偶然の事故で放射能を浴びてしまった息子の余命が残り少ないと知り、息子が欲しがっていた狼を友人のブールヴィルと二人で動物園から盗み出す父親を好演。
息子が亡くなるラストは、「パパありがとう」のクリスマス・カードと共に、狼の哀しい遠吠えが涙を誘う名作でした。
パイクの片腕ダッチに、「地上(ここ)より永遠(とわ)に」(1953年)で、フランク・シナトラを徹底的に苛め抜く軍曹役で強烈な印象を残し、「マーティー」(1955年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞したアーネスト・ボーグナイン。
また、パニック物のハシリとなった1972年の「ポセイドン・アドベンチャー」では、神父のジーン・ハックマンとことごとく対立するニューヨーク市警の刑事を熱演。
翌年の「北国の帝王」では、伝説のただ乗り男リー・マーヴィンを乗せまいとする鬼車掌を演じ、久しぶりにアクの強いボーグナインを見せてくれました。
強盗団の中では、ちょっと間の抜けたライルに、アカデミー賞作品賞受賞の「夜の大捜査線」(1967年)で注目されたウォーレン・オーツ。
「ワイルドバンチ」出演が転機となったのか、その後、「さすらいのカウボーイ」(1971年)、「デリンジャー」(1973年)、巨匠テレンス・マリックの「地獄の逃避行」(1973年)など、タフで粘り強い性格俳優として活躍。
1974年には「ガルシアの首」で再びサム・ペキンパーと組んでいます。
ライルの兄テクターに、「三人の名付親」(1948年)、「黄色いリボン」(1949年)、「リオ・グランデの砦」(1950年)などで、巨匠ジョン・フォードと縁の深いベン・ジョンソン。
サム・ペキンパー作品には「ワイルドバンチ」以外にも「ダンディー少佐」(1965年)、「ゲッタウェイ」(1972年)に出演。
最後まで生き残る老人サイクスに、「殺人者」(1946年)、「白熱」(1949年)のエドモンド・オブライエン。
1954年の「裸足の伯爵夫人」ではアカデミー賞助演男優賞を受賞。
極悪な政府軍の将軍マパッチに、メキシコ人俳優で監督でもあるエミリオ・フェルナンデス。
パイクを追う元相棒のソーントンに、「誇り高き男」(1956年)、「史上最大の作戦」(1962年)、「バルジ大作戦」(1965年)、「狼は天使の匂い」などの名優ロバート・ライアン。
無数のアリがサソリに群がり、それを喜んで見ている子どもたちの異様な雰囲気で始まる「ワイルドバンチ」。
時代に取り残されていく男たちと、壮絶な銃撃戦で幕を閉じるこの映画は、一方で、ディーク・ソーントンの存在がとても大きく、かつてパイクの相棒だったソーントンは、列車強盗に業を煮やした鉄道会社の言いなりになってパイクを追いかける立場となっているものの、その仕事にはなんとなく気が乗らない。パイクを捕まえなければならない反面、捕まえたくない気持ちも大きく、その両方で揺らぐ複雑な立場をロバート・ライアンが好演。
ラストでは、パイクたち全員が殺され、虚脱した体で街の外に座り込むソーントンに、生き延びたサイクス老人が、また一緒にやろうぜ、ひとりよりはいいだろう、と声をかけ、ソーントンが馬に乗ってサイクスたちと荒野に消える場面は、傑作にふさわしい見事なラストシーンでした。
【このカテゴリーの最新記事】
2021年07月13日
映画「ダイヤルMを廻せ!」− 予期せぬ誤算, 犯人の側からみた推理劇
「ダイヤルMを廻せ!」(Dial M for Murder)
1954年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作・脚本フレデリック・ノット
撮影ロバート・バークス
音楽ディミトリ・ティオムキン
〈キャスト〉
レイ・ミランド グレース・ケリー
ジョン・ウィリアムズ ロバート・カミングス
ハリウッドへ渡ったヒッチコックの18本目の監督作品で、イギリス時代の監督デビューからを含めれば43本目となる作品。
かなり余裕を持って作られた印象が強く、殺人を扱ったミステリーというよりは、犯人の側に立って事件を追いかけてゆく倒叙形式を取っており、後年の傑作TVシリーズ「刑事コロンボ」と同じく、周到に組み立てられた犯行を暴き、どうやって犯人を追い詰めてゆくのかが見どころ。
元プロテニスのスター選手であるトニー・ウェンディス(レイ・ミランド)はテニス界を引退して地道に働き出したが、金銭的には思うようにいかない。
妻のマーゴ(グレース・ケリー)は、かつて夫がテニスのツアー中に留守になる寂しさから、推理作家のマーク・ハリディと不倫の関係になり、トニーとは義理にキスは交わしても冷めた気持ちは変わらず、離婚を持ち出そうと考えています。
トニーは妻とマークの関係を薄々知っており、離婚話が持ち出されて自分が妻と別れた場合、資産家の娘で、現在も妻の財産で生活をしているような自分は、マーゴと離婚した途端、生活の破綻は目にみえています。
もし、マーゴが誰かに殺されるようなことがあれば、妻の財産はすべて自分のものになる。
自動車を売りに出しているスワン(アンソニー・ドーソン)はある日、車を買いたいという電話を受けてトニーのアパートへ。
待っていたトニーは、スワンを部屋へ招き入れ、スワンがかつての大学の先輩だったことを初めて知るが、これはあらかじめトニーが書いた筋書きで、初めて気づいたように見せかけて実は、大学時代におけるスワンの悪癖や、その後の女性関係から起きた金銭トラブルについて、スワンの人となりをすべて調べ上げていた。
過去の事情を洗いざらい話し出すトニーの態度にいぶかしさを感じ始めたスワンに、トニーは穏やかに、報酬1000ポンドで妻の殺害に手を貸してほしいと持ちかける。
そんなことはできないと撥(は)ねつけるスワン。しかし用意周到なトニーは、室内に残ったスワンの指紋をたてに、マーゴ殺害の実行をスワンに請け負わせることに成功。
マーゴ殺害計画のその夜、マーゴをひとりで部屋に残すため、マークと連れ立ってパーティーに出かけたトニーは、スワンが部屋の鍵を使って忍び込み、机の奥のカーテンの陰に隠れて、トニーが電話を掛ける手はずになっている11時には少し間があることを腕時計で確認。
しかし、再び確認した時間は少しも動いておらず、時計が止まっていることを知って、慌ててロビーの公衆電話へ。
部屋の電話が鳴り、ベッドから起き上がったマーゴが机の上の受話器を手に取っている隙に、カーテンの陰に隠れたスワンはストッキングを手に、マーゴを絞殺する一瞬の隙をうかがい、首に巻き付けたストッキングでマーゴの首を締め上げるが、そこに思わぬ誤算が…。
とても面白く、よくできた映画なのだけど、どうしてこうなるのだろうという疑問を一つ。
マーゴ殺害計画の現場。
スワンがストッキングをマーゴの首に巻き付け、締め上げる。マーゴは机の上にのけ反り、苦しみながらも机の上のハサミをつかむと、スワンの背中へグサッと一突き。
驚きと激痛の表情を浮かべながら、そのまま仰向けに床に倒れたスワン。背中のハサミを突き立てているため、そのままズブズブとハサミはスワンの背中に突き通ってスワンは絶命。
首を絞められて喘いでいる女性が、コートを着ている男の背中へハサミを突き立てられるものなのだろうか。
しかもスワンは、コートの下は背広、もちろんその下にはシャツや下着を着けているわけで、夏の暑い盛りにTシャツ一枚の体へハサミを突き立てるというのならともかく、それが鋭利なハサミであったとしてもコートの上から、というのはどうなのかな。
しかもスワンは、ハサミが突き通りやすいように都合よく仰向けに倒れている。素直に考えれば、背中に異物が突き刺さっている場合、うつ伏せに倒れるのが普通ではなかろうか。
それに、スワンの死因はなんなのだろう。
出血は少しなので、出血による死亡でもない。背中から心臓までハサミが通ったとも思えないし、このあたりは適当に誤魔化されてしまった感じで、ヒッチコックともあろう人が、どうしてこんな不自然なシーンで落ち着いてしまったのだろう。
疑問は疑問として置いといて。
トニーとマーゴのキスシーンで始まるこの映画は、くちびるを話してからの二人の態度がヘンによそよそしく、夫婦の間があまりうまくいっていないことを思わせながらも、体裁上は、二人が円満な夫婦を演じていることを匂わせているうまい導入部。
やがて、マーゴの不倫の発覚と、それに気づいたトニーのマーゴへの脅迫の手紙などが明るみに出始め、マーゴ殺害計画へと話が移っていきます。
しかし最大の誤算は、マーゴが殺されずに、逆に実行犯のスワンがマーゴによって殺されてしまったことで、話の展開が読めなくなってしまう。
「ダイヤルMを廻せ!」の面白さはここからで、冷静に事態に対処しようとするトニーは、素早くマーゴに罪を着せようと考え、そのための工作を始めます。
スワンが使ったストッキングを暖炉で燃やし、代わりにマーゴのストッキングを机の上にそれとなく隠して置き、マーゴの不倫相手マークの手紙をスワンのポケットに忍ばせる。
トニーの一連の行動は、ゲームを楽しんでいるようにも見え、実際、事件に乗り出したハバード警部(ジョン・ウィリアムズ)によってトニーの計画が崩れ去ったのち、犯人のトニーは、マーク、マーゴ、ハバード警部たちに、お酒でもどうだい、と言っているのですから、チェスでも楽しんで、自分の敗北を認めた対局者の余裕すら見せています。
主演のトニーに、「失われた週末」(1945年)でアカデミー賞主演男優賞、カンヌ国際映画祭男優賞、ゴールデングローブ賞男優賞を受賞したレイ・ミランド。
妻マーゴに、「真昼の決闘」(1952年)で注目を集めたグレース・ケリー。
美貌と知性と気品をあわせ持った稀有な女優で、その後、ヒッチコック作品には「裏窓」「泥棒成金」(1955年)と立て続けに出演。
モナコ公国の大公レーニエ3世に見初められて1956年に結婚。モナコ公妃となりましたが、1982年に脳梗塞による自動車事故で亡くなっています。
「ダイヤルMを廻せ!」は、下手をすれば地味な映画になってしまうところで、それを救っているのがグレース・ケリーの華やかな魅力といってもいいと思います。
マーゴの不倫相手で推理作家のマーク・ハリディに、「逃走迷路」(1942年)以来、12年ぶりのヒッチコック作品となるロバート・カミングス。
マーゴを殺すはずが、逆に殺されてしまう不運な実行犯のスワンに、「007/ドクター・ノオ」(1962年)、「レッド・サン」(1971年)、「バラキ」(1972年)で悪役として活躍したアンソニー・ドーソン。
事件の鍵となるのが、文字通りの“鍵”で、犯人しか知るはずのない場所に鍵が置かれていたことからトニーの犯行が暴かれるラストは推理ドラマの真骨頂。
続けて撮った「裏窓」と同じく、ほとんどが部屋の中での展開で、それだけに、ストーリーのテンポの良さや、「見知らぬ乗客」以降ヒッチコック作品の常連となったロバート・バークスによる撮影、また、登場人物の性格設定なども見ていて楽しく、特に、英国紳士然としたハバード警部の登場などは、ディクスン・カーやF・W・クロフツの小説に出てくるスコットランドヤードの警部といった風情で、口ひげをひねりながら思索にふける、茫洋とした姿は味わい深いものがありました。
1954年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作・脚本フレデリック・ノット
撮影ロバート・バークス
音楽ディミトリ・ティオムキン
〈キャスト〉
レイ・ミランド グレース・ケリー
ジョン・ウィリアムズ ロバート・カミングス
ハリウッドへ渡ったヒッチコックの18本目の監督作品で、イギリス時代の監督デビューからを含めれば43本目となる作品。
かなり余裕を持って作られた印象が強く、殺人を扱ったミステリーというよりは、犯人の側に立って事件を追いかけてゆく倒叙形式を取っており、後年の傑作TVシリーズ「刑事コロンボ」と同じく、周到に組み立てられた犯行を暴き、どうやって犯人を追い詰めてゆくのかが見どころ。
元プロテニスのスター選手であるトニー・ウェンディス(レイ・ミランド)はテニス界を引退して地道に働き出したが、金銭的には思うようにいかない。
妻のマーゴ(グレース・ケリー)は、かつて夫がテニスのツアー中に留守になる寂しさから、推理作家のマーク・ハリディと不倫の関係になり、トニーとは義理にキスは交わしても冷めた気持ちは変わらず、離婚を持ち出そうと考えています。
トニーは妻とマークの関係を薄々知っており、離婚話が持ち出されて自分が妻と別れた場合、資産家の娘で、現在も妻の財産で生活をしているような自分は、マーゴと離婚した途端、生活の破綻は目にみえています。
もし、マーゴが誰かに殺されるようなことがあれば、妻の財産はすべて自分のものになる。
自動車を売りに出しているスワン(アンソニー・ドーソン)はある日、車を買いたいという電話を受けてトニーのアパートへ。
待っていたトニーは、スワンを部屋へ招き入れ、スワンがかつての大学の先輩だったことを初めて知るが、これはあらかじめトニーが書いた筋書きで、初めて気づいたように見せかけて実は、大学時代におけるスワンの悪癖や、その後の女性関係から起きた金銭トラブルについて、スワンの人となりをすべて調べ上げていた。
過去の事情を洗いざらい話し出すトニーの態度にいぶかしさを感じ始めたスワンに、トニーは穏やかに、報酬1000ポンドで妻の殺害に手を貸してほしいと持ちかける。
そんなことはできないと撥(は)ねつけるスワン。しかし用意周到なトニーは、室内に残ったスワンの指紋をたてに、マーゴ殺害の実行をスワンに請け負わせることに成功。
マーゴ殺害計画のその夜、マーゴをひとりで部屋に残すため、マークと連れ立ってパーティーに出かけたトニーは、スワンが部屋の鍵を使って忍び込み、机の奥のカーテンの陰に隠れて、トニーが電話を掛ける手はずになっている11時には少し間があることを腕時計で確認。
しかし、再び確認した時間は少しも動いておらず、時計が止まっていることを知って、慌ててロビーの公衆電話へ。
部屋の電話が鳴り、ベッドから起き上がったマーゴが机の上の受話器を手に取っている隙に、カーテンの陰に隠れたスワンはストッキングを手に、マーゴを絞殺する一瞬の隙をうかがい、首に巻き付けたストッキングでマーゴの首を締め上げるが、そこに思わぬ誤算が…。
とても面白く、よくできた映画なのだけど、どうしてこうなるのだろうという疑問を一つ。
マーゴ殺害計画の現場。
スワンがストッキングをマーゴの首に巻き付け、締め上げる。マーゴは机の上にのけ反り、苦しみながらも机の上のハサミをつかむと、スワンの背中へグサッと一突き。
驚きと激痛の表情を浮かべながら、そのまま仰向けに床に倒れたスワン。背中のハサミを突き立てているため、そのままズブズブとハサミはスワンの背中に突き通ってスワンは絶命。
首を絞められて喘いでいる女性が、コートを着ている男の背中へハサミを突き立てられるものなのだろうか。
しかもスワンは、コートの下は背広、もちろんその下にはシャツや下着を着けているわけで、夏の暑い盛りにTシャツ一枚の体へハサミを突き立てるというのならともかく、それが鋭利なハサミであったとしてもコートの上から、というのはどうなのかな。
しかもスワンは、ハサミが突き通りやすいように都合よく仰向けに倒れている。素直に考えれば、背中に異物が突き刺さっている場合、うつ伏せに倒れるのが普通ではなかろうか。
それに、スワンの死因はなんなのだろう。
出血は少しなので、出血による死亡でもない。背中から心臓までハサミが通ったとも思えないし、このあたりは適当に誤魔化されてしまった感じで、ヒッチコックともあろう人が、どうしてこんな不自然なシーンで落ち着いてしまったのだろう。
疑問は疑問として置いといて。
トニーとマーゴのキスシーンで始まるこの映画は、くちびるを話してからの二人の態度がヘンによそよそしく、夫婦の間があまりうまくいっていないことを思わせながらも、体裁上は、二人が円満な夫婦を演じていることを匂わせているうまい導入部。
やがて、マーゴの不倫の発覚と、それに気づいたトニーのマーゴへの脅迫の手紙などが明るみに出始め、マーゴ殺害計画へと話が移っていきます。
しかし最大の誤算は、マーゴが殺されずに、逆に実行犯のスワンがマーゴによって殺されてしまったことで、話の展開が読めなくなってしまう。
「ダイヤルMを廻せ!」の面白さはここからで、冷静に事態に対処しようとするトニーは、素早くマーゴに罪を着せようと考え、そのための工作を始めます。
スワンが使ったストッキングを暖炉で燃やし、代わりにマーゴのストッキングを机の上にそれとなく隠して置き、マーゴの不倫相手マークの手紙をスワンのポケットに忍ばせる。
トニーの一連の行動は、ゲームを楽しんでいるようにも見え、実際、事件に乗り出したハバード警部(ジョン・ウィリアムズ)によってトニーの計画が崩れ去ったのち、犯人のトニーは、マーク、マーゴ、ハバード警部たちに、お酒でもどうだい、と言っているのですから、チェスでも楽しんで、自分の敗北を認めた対局者の余裕すら見せています。
主演のトニーに、「失われた週末」(1945年)でアカデミー賞主演男優賞、カンヌ国際映画祭男優賞、ゴールデングローブ賞男優賞を受賞したレイ・ミランド。
妻マーゴに、「真昼の決闘」(1952年)で注目を集めたグレース・ケリー。
美貌と知性と気品をあわせ持った稀有な女優で、その後、ヒッチコック作品には「裏窓」「泥棒成金」(1955年)と立て続けに出演。
モナコ公国の大公レーニエ3世に見初められて1956年に結婚。モナコ公妃となりましたが、1982年に脳梗塞による自動車事故で亡くなっています。
「ダイヤルMを廻せ!」は、下手をすれば地味な映画になってしまうところで、それを救っているのがグレース・ケリーの華やかな魅力といってもいいと思います。
マーゴの不倫相手で推理作家のマーク・ハリディに、「逃走迷路」(1942年)以来、12年ぶりのヒッチコック作品となるロバート・カミングス。
マーゴを殺すはずが、逆に殺されてしまう不運な実行犯のスワンに、「007/ドクター・ノオ」(1962年)、「レッド・サン」(1971年)、「バラキ」(1972年)で悪役として活躍したアンソニー・ドーソン。
事件の鍵となるのが、文字通りの“鍵”で、犯人しか知るはずのない場所に鍵が置かれていたことからトニーの犯行が暴かれるラストは推理ドラマの真骨頂。
続けて撮った「裏窓」と同じく、ほとんどが部屋の中での展開で、それだけに、ストーリーのテンポの良さや、「見知らぬ乗客」以降ヒッチコック作品の常連となったロバート・バークスによる撮影、また、登場人物の性格設定なども見ていて楽しく、特に、英国紳士然としたハバード警部の登場などは、ディクスン・カーやF・W・クロフツの小説に出てくるスコットランドヤードの警部といった風情で、口ひげをひねりながら思索にふける、茫洋とした姿は味わい深いものがありました。
2021年07月09日
映画「間違えられた男」ー 平凡な市民が巻き込まれる冤罪という深い闇
「間違えられた男」(The Wrong Man )
1956年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作・脚本マクスウェル・アンダーソン
音楽バーナード・ハーマン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ヘンリー・フォンダ ヴェラ・マイルズ
アンソニー・クエイル
実際に起きた冤罪事件をもとに、事件に巻き込まれた男と、その家族の苦悩を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作スリラー。
クリストファー・バレストレロ、愛称マニー(ヘンリー・フォンダ)は38歳。ベーシストとしてナイトクラブでの演奏が終わり、明け方に自宅へ戻ったマニーは玄関脇に置かれた牛乳を手に寝室へ向かいます。
眠っているはずの妻のローズは目覚めていて、歯が痛くて眠れないと言います。
歯の治療をさせてあげたいが、金銭的な余裕の無いマニーは、妻の掛けている保険で金が借りられるんじゃないかと思いつきます。
翌日、保険会社の支店に出向いたマニーは窓口で女性事務員に声をかけます。
保険証券を見せて、金を借りられないか、と尋ねるマニーの顔を見た事務員の表情がこわばり、少しお待ちを、と言って上司のデスクへ向かい、先日、拳銃を突き付けて強盗に入った男によく似ていることを告げます。
保険会社を後に、金の工面ができそうだと喜んで自宅へ戻ろうとしたマニーは、張り込んでいた刑事に玄関先で身柄を拘束され、警察署へ連行されてしまいます。
何がなんだか訳の分からないマニーは、妻が心配するから電話を、と言っても刑事は、心配は要らない、の一点張りで取り合わず、取調室での尋問が始まります。
自分が無実であることはマニー自身がよく知っていますから、落ち着いた態度で刑事の質問に答えようとしますが、目撃者の証言や、筆跡鑑定の結果などからマニーは不利な状況に追い込まれ、裁判所の手続きを経て、留置所へ入れられてしまいます。
一方、事件を知った妻のローズは、夫が無実であることを疑わず、弟と相談の上、7500ドルの保釈金を出してマニーを保釈します。
自由の身になったマニーは無実の罪を晴らそうと、弁護士のフランク・オコナー(アンソニー・クエイル)に相談。
マニーはアリバイを立証しようと、強盗が行われた日に旅行先で宿泊客たちとカードをしていた事実があることから、当時の宿泊客を探し出しますが、二人がすでに死亡。
アリバイの立証が絶望的になったことを引き金に、ローズの精神状態に異変が現れ始めます。
サスペンスやミステリー、スリラーなどを扱っても、ユーモアや娯楽性を盛り込むことを忘れないアルフレッド・ヒッチコックがここでは一転。身に覚えのない犯罪者として扱われた男の苦悩と、その妻が陥る暗黒に満ちた日常をリアルに描き出しています。
強盗犯人に似ているというだけで、ごく平凡な市民が犯罪者に仕立て上げられてしまう怖さ。
中でも一番の決め手となるのが筆跡鑑定で、犯人の残したメモを手掛かりに、犯人の書いた同じ文句を刑事が読み上げ、それをマニーが書くのですが、一度目はどうもハッキリしない。ところが二度目になると、マニーがスペルを間違えた。その間違え方が犯人の書いたものと同じであったという、あり得ないことが起こってしまう。
強盗に入られた店主たちも口をそろえて彼が犯人らしいと言う。
筆跡鑑定でも、犯人しか間違えようのないことをマニーがやってしまう。
あとは本人の自白になるのですが、もちろん自分は無実なのだから、自白できるはずがない。
この映画がかなり深刻性を帯びてくるのが、後半からの、妻のローズの精神状態。
マニーのアリバイを立証してもらえるはずの証人の二人はすでに死亡していると判り、そこからローズの様子がおかしくなっていきます。
この映画の怖さは、犯人に間違えられたマニーひとりの悲劇ではなく、当然ながら、その家族にも影響が及ぶということです。しかも、真犯人が捕まり、冤罪と認められたマニーは救われるとしても、ローズの精神障害はその後も長く残ってしまいます。
かつて江戸川乱歩も「D坂の殺人事件」だったかで、人間の記憶や視覚の頼りなさを書いていましたが、ここでは保険会社の事務員を含め、目撃者がマニーを犯人だと断定してしまっていることで、絶対的な思い込みがひとりの人間の運命を左右してしまう怖さ。
そしてそれは家族をも巻き込む悲劇につながってしまう。
このまま進めば、救いようのない映画になってしまうところでしたが、真犯人が強盗事件を起こしたことで、マニーの冤罪に結びつくことになります。
主人公マニーに「怒りの葡萄」(1940年)、「荒野の決闘」(1946年)、「ミスタア・ロバーツ」(1955年)など、巨匠ジョン・フォード作品でお馴染みの名優ヘンリー・フォンダ。
翌年の1957年に名作「十二人の怒れる男」での、他の陪審員全員が有罪とする中、物静かながら、粘り強く無罪判決へと導いてゆく陪審員を好演してアメリカの良心を表現しましたが、他方、その二年後の「ワーロック」(1959年)では貫禄十分の二丁拳銃の早撃ちガンマンに扮し、最後の決闘では保安官のリチャード・ウィドマークを圧倒しながら、拳銃を二丁とも捨てて静かに去ってゆくラストのカッコ良かったこと。
妻ローズに「捜索者」(1956年)のヴェラ・マイルズ。
後の「サイコ」(1960年)で再びヒッチコック作品に出演。
弁護士フランク・オコナーに「ナバロンの要塞」(1961年)、「アラビアのロレンス」(1962年)、「ローマ帝国の滅亡」(1964年)など、大作に顔をのぞかせるアンソニー・クエイル。
自作のほぼすべてにチラリと顔を見せる茶目っ気のあるアルフレッド・ヒッチコックは影を潜め(「間違えられた男」でもチラッと登場しますが)、冒頭、ヒッチコック自身が登場して、この映画が実話であることを語っているように、かなりシリアスなタッチで人間社会の不条理を描いています。
なぜ、こうまで目撃者は自信をもって、まるで関係のない人間を犯人だと決めつけてしまうのか。
早く犯人が捕まってほしいと願う心理が、そこに作用するのかもしれませんが、あまりにも無責任で、結果の重大性を考えれば目撃証言の信憑性(しんぴょうせい)をもっと疑ってもいいのではないかと思います。
不安におびえるヘンリー・フォンダの表情は印象的で、特に刑事に連行されて車に乗り込み、座席に座ってかたわらの刑事の顔を盗み見するシーンは、マニーの陥(おちい)りつつある不安な状況を表現した見事なシーン。
また、刑事二人も無闇にマニーを犯人と決めつけるのではなく、といって特別な温情を持って接するでもなく、容疑者とは余計な口をきかない、といった態度が、数々の事件を扱ってきた刑事らしく、親しみはもてないけれども、冷たい法の番人らしくてよかったなあ。
でもマニーが、妻が心配するから電話をさせてほしいと頼んでも、心配はいらない、の一点張りでまったく取り合おうとしなかったのには、やはり、容疑者を犯人として見る習性からなのかとは思うけど、容疑者に対しては寛大さがほしかった。
この映画を見て思うのは、犯人扱いをされて、この先どうなっていくのか不安を抱えながらもマニーが決して声を荒げることなく、静かに周囲の状況を見ながら行動していくところで、これは後の「十二人の怒れる男」の粘り強い陪審員を思わせ、苦難の経験を積んだマニーが精神的にも強くなって陪審員になったような、そんなことも連想させるヘンリー・フォンダの名演でした。
1956年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作・脚本マクスウェル・アンダーソン
音楽バーナード・ハーマン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ヘンリー・フォンダ ヴェラ・マイルズ
アンソニー・クエイル
実際に起きた冤罪事件をもとに、事件に巻き込まれた男と、その家族の苦悩を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作スリラー。
クリストファー・バレストレロ、愛称マニー(ヘンリー・フォンダ)は38歳。ベーシストとしてナイトクラブでの演奏が終わり、明け方に自宅へ戻ったマニーは玄関脇に置かれた牛乳を手に寝室へ向かいます。
眠っているはずの妻のローズは目覚めていて、歯が痛くて眠れないと言います。
歯の治療をさせてあげたいが、金銭的な余裕の無いマニーは、妻の掛けている保険で金が借りられるんじゃないかと思いつきます。
翌日、保険会社の支店に出向いたマニーは窓口で女性事務員に声をかけます。
保険証券を見せて、金を借りられないか、と尋ねるマニーの顔を見た事務員の表情がこわばり、少しお待ちを、と言って上司のデスクへ向かい、先日、拳銃を突き付けて強盗に入った男によく似ていることを告げます。
保険会社を後に、金の工面ができそうだと喜んで自宅へ戻ろうとしたマニーは、張り込んでいた刑事に玄関先で身柄を拘束され、警察署へ連行されてしまいます。
何がなんだか訳の分からないマニーは、妻が心配するから電話を、と言っても刑事は、心配は要らない、の一点張りで取り合わず、取調室での尋問が始まります。
自分が無実であることはマニー自身がよく知っていますから、落ち着いた態度で刑事の質問に答えようとしますが、目撃者の証言や、筆跡鑑定の結果などからマニーは不利な状況に追い込まれ、裁判所の手続きを経て、留置所へ入れられてしまいます。
一方、事件を知った妻のローズは、夫が無実であることを疑わず、弟と相談の上、7500ドルの保釈金を出してマニーを保釈します。
自由の身になったマニーは無実の罪を晴らそうと、弁護士のフランク・オコナー(アンソニー・クエイル)に相談。
マニーはアリバイを立証しようと、強盗が行われた日に旅行先で宿泊客たちとカードをしていた事実があることから、当時の宿泊客を探し出しますが、二人がすでに死亡。
アリバイの立証が絶望的になったことを引き金に、ローズの精神状態に異変が現れ始めます。
サスペンスやミステリー、スリラーなどを扱っても、ユーモアや娯楽性を盛り込むことを忘れないアルフレッド・ヒッチコックがここでは一転。身に覚えのない犯罪者として扱われた男の苦悩と、その妻が陥る暗黒に満ちた日常をリアルに描き出しています。
強盗犯人に似ているというだけで、ごく平凡な市民が犯罪者に仕立て上げられてしまう怖さ。
中でも一番の決め手となるのが筆跡鑑定で、犯人の残したメモを手掛かりに、犯人の書いた同じ文句を刑事が読み上げ、それをマニーが書くのですが、一度目はどうもハッキリしない。ところが二度目になると、マニーがスペルを間違えた。その間違え方が犯人の書いたものと同じであったという、あり得ないことが起こってしまう。
強盗に入られた店主たちも口をそろえて彼が犯人らしいと言う。
筆跡鑑定でも、犯人しか間違えようのないことをマニーがやってしまう。
あとは本人の自白になるのですが、もちろん自分は無実なのだから、自白できるはずがない。
この映画がかなり深刻性を帯びてくるのが、後半からの、妻のローズの精神状態。
マニーのアリバイを立証してもらえるはずの証人の二人はすでに死亡していると判り、そこからローズの様子がおかしくなっていきます。
この映画の怖さは、犯人に間違えられたマニーひとりの悲劇ではなく、当然ながら、その家族にも影響が及ぶということです。しかも、真犯人が捕まり、冤罪と認められたマニーは救われるとしても、ローズの精神障害はその後も長く残ってしまいます。
かつて江戸川乱歩も「D坂の殺人事件」だったかで、人間の記憶や視覚の頼りなさを書いていましたが、ここでは保険会社の事務員を含め、目撃者がマニーを犯人だと断定してしまっていることで、絶対的な思い込みがひとりの人間の運命を左右してしまう怖さ。
そしてそれは家族をも巻き込む悲劇につながってしまう。
このまま進めば、救いようのない映画になってしまうところでしたが、真犯人が強盗事件を起こしたことで、マニーの冤罪に結びつくことになります。
主人公マニーに「怒りの葡萄」(1940年)、「荒野の決闘」(1946年)、「ミスタア・ロバーツ」(1955年)など、巨匠ジョン・フォード作品でお馴染みの名優ヘンリー・フォンダ。
翌年の1957年に名作「十二人の怒れる男」での、他の陪審員全員が有罪とする中、物静かながら、粘り強く無罪判決へと導いてゆく陪審員を好演してアメリカの良心を表現しましたが、他方、その二年後の「ワーロック」(1959年)では貫禄十分の二丁拳銃の早撃ちガンマンに扮し、最後の決闘では保安官のリチャード・ウィドマークを圧倒しながら、拳銃を二丁とも捨てて静かに去ってゆくラストのカッコ良かったこと。
妻ローズに「捜索者」(1956年)のヴェラ・マイルズ。
後の「サイコ」(1960年)で再びヒッチコック作品に出演。
弁護士フランク・オコナーに「ナバロンの要塞」(1961年)、「アラビアのロレンス」(1962年)、「ローマ帝国の滅亡」(1964年)など、大作に顔をのぞかせるアンソニー・クエイル。
自作のほぼすべてにチラリと顔を見せる茶目っ気のあるアルフレッド・ヒッチコックは影を潜め(「間違えられた男」でもチラッと登場しますが)、冒頭、ヒッチコック自身が登場して、この映画が実話であることを語っているように、かなりシリアスなタッチで人間社会の不条理を描いています。
なぜ、こうまで目撃者は自信をもって、まるで関係のない人間を犯人だと決めつけてしまうのか。
早く犯人が捕まってほしいと願う心理が、そこに作用するのかもしれませんが、あまりにも無責任で、結果の重大性を考えれば目撃証言の信憑性(しんぴょうせい)をもっと疑ってもいいのではないかと思います。
不安におびえるヘンリー・フォンダの表情は印象的で、特に刑事に連行されて車に乗り込み、座席に座ってかたわらの刑事の顔を盗み見するシーンは、マニーの陥(おちい)りつつある不安な状況を表現した見事なシーン。
また、刑事二人も無闇にマニーを犯人と決めつけるのではなく、といって特別な温情を持って接するでもなく、容疑者とは余計な口をきかない、といった態度が、数々の事件を扱ってきた刑事らしく、親しみはもてないけれども、冷たい法の番人らしくてよかったなあ。
でもマニーが、妻が心配するから電話をさせてほしいと頼んでも、心配はいらない、の一点張りでまったく取り合おうとしなかったのには、やはり、容疑者を犯人として見る習性からなのかとは思うけど、容疑者に対しては寛大さがほしかった。
この映画を見て思うのは、犯人扱いをされて、この先どうなっていくのか不安を抱えながらもマニーが決して声を荒げることなく、静かに周囲の状況を見ながら行動していくところで、これは後の「十二人の怒れる男」の粘り強い陪審員を思わせ、苦難の経験を積んだマニーが精神的にも強くなって陪審員になったような、そんなことも連想させるヘンリー・フォンダの名演でした。
2021年06月30日
映画「見知らぬ乗客」− 偶然乗り合わせた列車で持ちかけられた“交換殺人”
「見知らぬ乗客」(Strangers on a Train )
1951年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作パトリシア・ハイスミス
脚本レイモンド・チャンドラー
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ファーリー・グレンジャー ロバート・ウォーカー
ケイシー・ロジャース レオ・G・キャロル
偶然乗り合わせた列車の乗客から“交換殺人”を持ちかけられたテニス・プレイヤーが陥る恐怖を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作。
ガイ・ハミルトン(ファーリー・グレンジャー)は、向かい合った乗客の足が触れたことから挨拶を交わし、会話が弾んで相手の男と親しくなります。
相手の男の名前はブルーノ・アントニー。
テニス選手として人気のあるガイのファンだというブルーノは、初対面ながらガイの身辺の事情をよく知っており、また、浮気な妻のミリアム(ケイシー・ロジャース)に嫌気がさし、モートン上院議員の娘であるアン・モートン(ルース・ローマン)との結婚を強く望んでいるガイは、そんな事情も急速に親しくなったブルーノに話します。
食堂車でグラスを傾け、お互いの事情を話す中で、ブルーノは殺人についての話を始めます。
君は妻のミリアムがいなくなれば、恋人のアン・モートンと結婚ができる。
僕は母とは仲がいいが、父とは折り合いが悪い。殺したいと思っている。
殺人が行われても、動機を持っていなければ疑われることはない。
“僕がミリアムを殺すから、君は僕の父を殺してくれないか”
そうすれば、お互いに動機が無いんだから疑われる心配はない。
半信半疑で笑顔を浮かべながら、冗談話にしてしまおうと思ったガイでしたが、後日ブルーノは、その言葉通り、夜の遊園地でガイの妻ミリアムを絞殺してしまいます。
ブルーノからミリアムのかけていたメガネを見せられたガイは、次は君が僕の父を殺す番だ、と“交換殺人”の強要を迫られます。
殺人など出来るはずのないガイは、恋人のアンにも事情を告げられないまま、ひとりブルーノの脅迫に苦しむことになります。
なぜ実行しないんだ、とガイの身辺に執拗に姿を現すブルーノ。
ブルーノの存在を不審に思ったアンは、“交換殺人”を持ちかけられたことをガイから聞き、衝撃を受けながらも、ガイを信じることを約束します。
一方、ガイの妻ミリアムが殺されたことで、アリバイの立証ができなかったことから、ガイには容疑者として刑事二人のゆるい監視の目がつくことになります。
交換殺人などできない、と言うガイに業を煮やしたブルーノは、一目でガイのものと判る特注品のライターを持っていたことから、これを殺人現場に落とせば君は有罪だと、ガイを脅します。
ブルーノよりも先に現場の遊園地へ向かいたいガイですが、折しもその日はテニスの試合日。
早く勝敗を決して遊園地へ駆けつけたいと焦るガイ。
しかし、相手の選手もしぶとく粘り、容易に決着がつきません。
ようやく勝負が決し、警察の尾行を逃れるように遊園地へと急ぐガイ。
先に駆けつけていたブルーノでしたが、誤って証拠品のライターを側溝へ落としてしまいます。懸命に手を伸ばして拾おうと焦るブルーノ。
やっとライターをつかみ、現場へ急ぐブルーノは、ガイと共に警察の追求が近づいていることを知ります。
そして二人はメリーゴーランドで対峙することになるのですが、多数の子どもたちを乗せたメリーゴーランドに入った二人を見て警察が発砲した銃弾は、誤って操作係りを撃ってしまい、メリーゴーランドは急回転を始めます。
原作は「太陽がいっぱい」のパトリシア・ハイスミス。
“交換殺人”というサスペンスミステリーを扱っていますが、脚色をしたのが「さらば愛しき女よ」「長いお別れ」などでハードボイルド小説を文学にまだ高めたレイモンド・チャンドラーなので、ハードボイルド的雰囲気も盛り込み、特にラストのメリーゴーランドの場面は息をのむ迫力とスリル。
それに、この映画は撮影が素晴らしい効果を上げていて、撮影に当たったロバート・バークスはアカデミー賞撮影賞にノミネート。受賞こそ逃しましたが(ちなみに撮影賞受賞は、白黒部門で「陽のあたる場所」のウィリアム・C・メラー、カラー部門で「巴里のアメリカ人」のアルフレッド・ジルクスとジョン・アルトン)、映画冒頭の、乗客が列車へ乗り込む場面を足の動きで追い、脚を組むために動かした足先が相手の足に当たって、そこからお互いの顔へ移動するシーンは、そこだけでドラマチックな展開。
物語の怖さ、不気味さを特徴づけるのがブルーノ・アントニーという男の異常性。
彼はガイ・ハミルトンに対して“交換殺人”を持ちかけます。理屈の上では動機なき殺人ですから、捜査の手が及ぶことはない。完全犯罪になり得そうに思われますが、見ず知らずの人間を簡単に殺せるものではない。
しかし、それをブルーノは淡々とやってのけます。
そしてブルーノが殺してほしいと願う相手が、こともあろうに自分の実の父親であるところに変質的な異常性が現れています。
父親を殺したいと願う男の心理とはどのようなものなのか。
フロイトは「精神分析入門」の中で、こんなことを言っています。
“同性、つまり母と娘、父と息子は互いに離反させる傾向を示す。息子にとって父親は、イヤイヤながら我慢していなければならない、あらゆる社会的強制の権化なのです。父親は、息子の意欲的な活動や、早期における性的な歓びを妨げ、………父親の死を待ち構えている気持ちは………悲劇的なものを生み出しかねないほど激しく高まります”「高橋義孝・下坂幸三訳」
世の中のすべての父親と息子の関係がフロイトのいうようなものであるとは思いませんが、ブルーノ・アントニーは父親との折り合いが悪くはあっても、母親との情愛が深いというのは、フロイト流にいえばエディプスコンプレックスと呼ぶべきものなのでしょう。
この性格造形は後の「サイコ」(1960年)のノーマン・ベイツにつながるのではないかと思います。
この異常性を持ったブルーノが、早く殺人を実行しろと、執拗にガイの身辺に現れる怖さ。
特に、ガイのテニスの試合観戦に現れたブルーノが、観客のすべてがテニスボールを追って首を左右に動かす中で、ひとりブルーノだけがジーッとガイを見つめる怖さ。
様々に散りばめられた恐怖シーンの中でも、最大の見どころとなるのはラストのメリーゴーランドのシーンでしょう。
ブルーノを狙撃するはずの警察の銃弾がそれて、メリーゴーランドの操作係に当たってしまう。倒れた拍子に機械が誤作動を起こし、異常な速さでメリーゴーランドが回転を始める。
最初は歓声を上げていた子供たちも、やがてその表情は恐怖におびえ、悲鳴と絶叫に変わります。
猛スピードで回転するメリーゴーランドで、振り落とされそうになりながら格闘するガイとブルーノ。
そして、ここに一人、おそらく遊園地の係員か何かの男が、メリーゴーランドを止めるべく、猛スピードで回転を続けるメリーゴーランドの下へもぐって機械のスイッチを探りにいく場面の怖いこと。
ガイ・ハミルトンに「ロープ」(1948年)でもヒッチコック作品に登場しているファーリー・グレンジャー。
ブルーノ・アントニーに「大草原」「愛の調べ」(1947年)のロバート・ウォーカー。
サイコパス的犯人像を演じて絶賛されたロバート・ウォーカーでしたが、「見知らぬ乗客」公開直後に32歳の若さで急死しています。
また、ガイの恋人アン・モートンの妹バーバラに、アルフレッド・ヒッチコックの娘パトリシア・ヒッチコック。
しっかり者の姉とは対照的に、ちょっとおしゃべりな脇役ながら、かけているメガネがブルーノの潜在意識に働きかける重要な役どころを好演。
怖い映画ですが、晴れて結ばれたガイとアン・モートンが列車に乗り、向かいあった乗客から声をかけられ、そそくさと立ち去るラストは、ユーモアを忘れないヒッチコックらしくて微笑ましい締めくくりでした。
1951年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作パトリシア・ハイスミス
脚本レイモンド・チャンドラー
音楽ディミトリ・ティオムキン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ファーリー・グレンジャー ロバート・ウォーカー
ケイシー・ロジャース レオ・G・キャロル
偶然乗り合わせた列車の乗客から“交換殺人”を持ちかけられたテニス・プレイヤーが陥る恐怖を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作。
ガイ・ハミルトン(ファーリー・グレンジャー)は、向かい合った乗客の足が触れたことから挨拶を交わし、会話が弾んで相手の男と親しくなります。
相手の男の名前はブルーノ・アントニー。
テニス選手として人気のあるガイのファンだというブルーノは、初対面ながらガイの身辺の事情をよく知っており、また、浮気な妻のミリアム(ケイシー・ロジャース)に嫌気がさし、モートン上院議員の娘であるアン・モートン(ルース・ローマン)との結婚を強く望んでいるガイは、そんな事情も急速に親しくなったブルーノに話します。
食堂車でグラスを傾け、お互いの事情を話す中で、ブルーノは殺人についての話を始めます。
君は妻のミリアムがいなくなれば、恋人のアン・モートンと結婚ができる。
僕は母とは仲がいいが、父とは折り合いが悪い。殺したいと思っている。
殺人が行われても、動機を持っていなければ疑われることはない。
“僕がミリアムを殺すから、君は僕の父を殺してくれないか”
そうすれば、お互いに動機が無いんだから疑われる心配はない。
半信半疑で笑顔を浮かべながら、冗談話にしてしまおうと思ったガイでしたが、後日ブルーノは、その言葉通り、夜の遊園地でガイの妻ミリアムを絞殺してしまいます。
ブルーノからミリアムのかけていたメガネを見せられたガイは、次は君が僕の父を殺す番だ、と“交換殺人”の強要を迫られます。
殺人など出来るはずのないガイは、恋人のアンにも事情を告げられないまま、ひとりブルーノの脅迫に苦しむことになります。
なぜ実行しないんだ、とガイの身辺に執拗に姿を現すブルーノ。
ブルーノの存在を不審に思ったアンは、“交換殺人”を持ちかけられたことをガイから聞き、衝撃を受けながらも、ガイを信じることを約束します。
一方、ガイの妻ミリアムが殺されたことで、アリバイの立証ができなかったことから、ガイには容疑者として刑事二人のゆるい監視の目がつくことになります。
交換殺人などできない、と言うガイに業を煮やしたブルーノは、一目でガイのものと判る特注品のライターを持っていたことから、これを殺人現場に落とせば君は有罪だと、ガイを脅します。
ブルーノよりも先に現場の遊園地へ向かいたいガイですが、折しもその日はテニスの試合日。
早く勝敗を決して遊園地へ駆けつけたいと焦るガイ。
しかし、相手の選手もしぶとく粘り、容易に決着がつきません。
ようやく勝負が決し、警察の尾行を逃れるように遊園地へと急ぐガイ。
先に駆けつけていたブルーノでしたが、誤って証拠品のライターを側溝へ落としてしまいます。懸命に手を伸ばして拾おうと焦るブルーノ。
やっとライターをつかみ、現場へ急ぐブルーノは、ガイと共に警察の追求が近づいていることを知ります。
そして二人はメリーゴーランドで対峙することになるのですが、多数の子どもたちを乗せたメリーゴーランドに入った二人を見て警察が発砲した銃弾は、誤って操作係りを撃ってしまい、メリーゴーランドは急回転を始めます。
原作は「太陽がいっぱい」のパトリシア・ハイスミス。
“交換殺人”というサスペンスミステリーを扱っていますが、脚色をしたのが「さらば愛しき女よ」「長いお別れ」などでハードボイルド小説を文学にまだ高めたレイモンド・チャンドラーなので、ハードボイルド的雰囲気も盛り込み、特にラストのメリーゴーランドの場面は息をのむ迫力とスリル。
それに、この映画は撮影が素晴らしい効果を上げていて、撮影に当たったロバート・バークスはアカデミー賞撮影賞にノミネート。受賞こそ逃しましたが(ちなみに撮影賞受賞は、白黒部門で「陽のあたる場所」のウィリアム・C・メラー、カラー部門で「巴里のアメリカ人」のアルフレッド・ジルクスとジョン・アルトン)、映画冒頭の、乗客が列車へ乗り込む場面を足の動きで追い、脚を組むために動かした足先が相手の足に当たって、そこからお互いの顔へ移動するシーンは、そこだけでドラマチックな展開。
物語の怖さ、不気味さを特徴づけるのがブルーノ・アントニーという男の異常性。
彼はガイ・ハミルトンに対して“交換殺人”を持ちかけます。理屈の上では動機なき殺人ですから、捜査の手が及ぶことはない。完全犯罪になり得そうに思われますが、見ず知らずの人間を簡単に殺せるものではない。
しかし、それをブルーノは淡々とやってのけます。
そしてブルーノが殺してほしいと願う相手が、こともあろうに自分の実の父親であるところに変質的な異常性が現れています。
父親を殺したいと願う男の心理とはどのようなものなのか。
フロイトは「精神分析入門」の中で、こんなことを言っています。
“同性、つまり母と娘、父と息子は互いに離反させる傾向を示す。息子にとって父親は、イヤイヤながら我慢していなければならない、あらゆる社会的強制の権化なのです。父親は、息子の意欲的な活動や、早期における性的な歓びを妨げ、………父親の死を待ち構えている気持ちは………悲劇的なものを生み出しかねないほど激しく高まります”「高橋義孝・下坂幸三訳」
世の中のすべての父親と息子の関係がフロイトのいうようなものであるとは思いませんが、ブルーノ・アントニーは父親との折り合いが悪くはあっても、母親との情愛が深いというのは、フロイト流にいえばエディプスコンプレックスと呼ぶべきものなのでしょう。
この性格造形は後の「サイコ」(1960年)のノーマン・ベイツにつながるのではないかと思います。
この異常性を持ったブルーノが、早く殺人を実行しろと、執拗にガイの身辺に現れる怖さ。
特に、ガイのテニスの試合観戦に現れたブルーノが、観客のすべてがテニスボールを追って首を左右に動かす中で、ひとりブルーノだけがジーッとガイを見つめる怖さ。
様々に散りばめられた恐怖シーンの中でも、最大の見どころとなるのはラストのメリーゴーランドのシーンでしょう。
ブルーノを狙撃するはずの警察の銃弾がそれて、メリーゴーランドの操作係に当たってしまう。倒れた拍子に機械が誤作動を起こし、異常な速さでメリーゴーランドが回転を始める。
最初は歓声を上げていた子供たちも、やがてその表情は恐怖におびえ、悲鳴と絶叫に変わります。
猛スピードで回転するメリーゴーランドで、振り落とされそうになりながら格闘するガイとブルーノ。
そして、ここに一人、おそらく遊園地の係員か何かの男が、メリーゴーランドを止めるべく、猛スピードで回転を続けるメリーゴーランドの下へもぐって機械のスイッチを探りにいく場面の怖いこと。
ガイ・ハミルトンに「ロープ」(1948年)でもヒッチコック作品に登場しているファーリー・グレンジャー。
ブルーノ・アントニーに「大草原」「愛の調べ」(1947年)のロバート・ウォーカー。
サイコパス的犯人像を演じて絶賛されたロバート・ウォーカーでしたが、「見知らぬ乗客」公開直後に32歳の若さで急死しています。
また、ガイの恋人アン・モートンの妹バーバラに、アルフレッド・ヒッチコックの娘パトリシア・ヒッチコック。
しっかり者の姉とは対照的に、ちょっとおしゃべりな脇役ながら、かけているメガネがブルーノの潜在意識に働きかける重要な役どころを好演。
怖い映画ですが、晴れて結ばれたガイとアン・モートンが列車に乗り、向かいあった乗客から声をかけられ、そそくさと立ち去るラストは、ユーモアを忘れないヒッチコックらしくて微笑ましい締めくくりでした。
2021年06月23日
映画「バルカン超特急」ー 列車という密室、消えた婦人を追って展開するサスペンス・ミステリー
「バルカン超特急」(The Lady Vanishes)
1938年 イギリス/アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本アルマ・レヴィル
シドニー・ギリアット
フランク・ラウンダー
原作エセル・リナ・ホワイト
撮影ジャック・コックス
〈キャスト〉
マーガレット・ロックウッド メイ・ウィッティ
マイケル・レッドグレイヴ
列車内で姿を消した老婦人をめぐるサスペンスで、翌年の「岩窟の野獣」を最後にハリウッドへ渡ったヒッチコックのイギリス時代の、文字通りサスペンス映画の傑作。
第二次世界大戦を間近に控え、世界情勢が混沌とするヨーロッパ、バンドリカ(架空の国)の山中。
雪のために列車が立ち往生して、乗客たちは仕方なく駅の近くのホテルへ宿泊することになります。
乗客たちの中には、クリケットの試合を観戦することを最大の楽しみにいているイングランド人の二人組、カルディコット(ノウントン・ウェイン)とチャータース(ベイジル・ラドフォード)。
弁護士トッドハンター(セシル・パーカー)とその愛人(リンデン・トラヴァース)は不倫関係。
家庭教師のミス・フロイ(メイ・ウィッティ)。
結婚を控え、独身時代の最後の旅行を楽しもうとしているアイリス・ヘンダーソン(マーガレット・ロックウッド)たちがいて、ホテルへの不満を口にしながら夜を過ごすことになります。
しかし、上の階のクラリネットの音や、床を踏み鳴らす音がうるさくて、アイリスは眠ることができません。
我慢ができなくなったアイリスは、支配人に頼んで静かにしてもらうように言いますが、上の階のクラリネット奏者ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)は、民族舞踊を記録するための大事な仕事なんだと主張。
支配人とモメた揚げ句、ギルバートは部屋を追い出されてしまいます。
やっと静かになったと喜んだアイリスでしたが、そこへ、部屋を追い出されたギルバートが入り込み、君のためにこうなったと、今度はアイリスとひと悶着。
仕方なくアイリスはギルバートを元の部屋へ戻してもらうよう支配人に頼むハメに。
列車の運行が決まり、客室に乗り込んだアイリスは、ミス・フロイと名乗る老婦人と同室になり、一緒に食堂車へ出かけて食事を楽しみます。
客室へ戻ったアイリスはひと眠りしますが、目を覚ますとミス・フロイの姿は無く、ミス・フロイの座っていた席には見知らぬ女性、クマー夫人が座っています。
ミス・フロイはどこへ行ったのかと、アイリスは他の乗客に尋ねますが、そんな女性は知らないという言葉しか返ってきません。
同乗していたエゴン・ハーツ医師からは、あなたはホテルを出たとき、鉢植えで頭を打ったから、その後遺症で記憶障害を起こしているのだ、と言われる始末。
納得のいかないアイリスは、列車内の他の乗客にも訊いてみますが、誰もが自分たちの事情を抱えていて他の問題に関わりたくないために、そんな女性は知らないと答えます。
そんな中、昨夜のトラブルの相手、クラリネット奏者のギルバートとバッタリ出会います。
ちょっと風変わりなギルバートは、アイリスの言葉を信じ、アイリスと一緒にミス・フロイ捜索のために危険の中へ乗り出すことになります。
原題は「消えたレディ」。
誰もが、そんな女性は知らないという、自分でも、本当はミス・フロイという人間は存在していなかったんじゃないか、そんなことを思い始めた矢先、食堂車の窓ガラスにミス・フロイが自分を紹介するために書いた名前、“フロイ”の文字跡がクッキリと浮かび上がる場面は秀逸で、そのため、列車の乗客すべてが嘘をついていると気づいた瞬間に、サスペンスの緊張感が一気に高まります。
しかし、緊張感の中にもユーモアを織り交ぜ、シャーロック・ホームズを気取ったギルバートと、助手役のアイリスの素人探偵コンビの軽妙さは、まるで子どもの探偵ごっこのような雰囲気を生み出して、ユーモア好きなイギリス人気質を持ったヒッチコックならでは。
アイリスとギルバートの男女設定は、最初はお互いに悪感情を持ったものの、事件に巻き込まれながらも、お互いに協力して最後には結ばれるというパターンで、ロマンティック・コメディとしての要素を持っていて、見ていても微笑ましく気持ちよく楽しめます。
事件の鍵を握るミス・フロイとはいったい何者なのか。それはやがて映画の後半で明らかにされてゆくのですが、そもそも、走行している狭い列車の中で、人間一人をどこへ隠したのか。
列車の乗客には様々な主要な人物が登場します。
外科医のエゴン・ハーツ医師。
不倫関係のトッドハンターとその愛人。
クリケット愛好家の英国人カルディコットとチャータース。
奇術師のイタリア人ドッポ。
ハーツ医師の助手の尼僧。
アイリスとギルバートの探偵コンビは、奇術師ドッポが人を消すトリックを使うことを知り、ドッポの道具を調べようと貨物車両に潜入。床に落ちているミス・フロイの眼鏡を発見します。
そこへ現れたドッポと揉み合いの格闘。
事件は国際的スパイ団が暗躍する様相を呈してきます。
アイリスに「ミュンヘンの夜行列車」(1940年)、「灰色の男」(1943年)などの美人女優マーガレット・ロックウッド。
ギルバートに「扉の陰の秘密」(1947年)、「静かなアメリカ人」(1958年)のマイケル・レッドグレイヴ。
クリケット愛好家のノウントン・ウェインとベイジル・ラドフォードは、次回作「ミュンヘンの夜行列車」でもクリケット愛好家として登場。「バルカン超特急」と同様とぼけたユーモアを振りまいています。
エゴン・ハーツ医師に、1933年のジョージ・キューカー版「若草物語」でベア教授を演じ、「ラインの監視」(1943年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞した演技派ポール・ルーカス。
事件の鍵を握るミス・フロイに「断崖」(1941年)、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「ガス燈」(1944年)など、名作に顔をのぞかせるメイ・ウィッティ。
ミステリー、サスペンス、アクション、ユーモア、ラブ・ロマンス。
1時間40分ほどの時間にエンターテインメントの要素を存分に盛り込み、なお、不倫関係の二人、クリケット愛好家の二人など、脇役の存在も軽視することなく個性を持たせました。
特に、クリケットの試合に遅れることを心配するあまり、余計なことに関わろうとせず、アイリスに対しても嘘までついてクリケットの観戦に急いだカルディコットとチャータースの二人は、駅に到着して目についた広告によって、天候悪化のために試合が中止になったことを知る場面は笑わせてくれます。
次回作「岩窟の野獣」(1939年)を最後にイギリスを去り、ハリウッドへ渡って「レベッカ」(1940年)を皮切りに次々と傑作を世に送り出したアルフレッド・ヒッチコック。
渡米以降ミステリー性やサスペンスタッチはさらに深みのある充実したものになりましたが、イギリス時代の、切れ味鋭く畳み込むような展開など、何度見ても飽きさせません。
ただ、完全に褒められたわけでもないのが、アイリスの婚約者の立場の描き方。
アイリスは彼(婚約者)との結婚にあまり乗り気ではなく、ギルバートとの仲が急展開してギルバートに心が移ってしまう。
駅へ到着して、婚約者が迎えにきていないことを知ったアイリスは、イヤな男よね、とかなんとか言って彼を非難する。
そこでサッとギルバートとの抱擁とキスがあるのですが、その後アイリスの婚約者は、彼女の姿を探してホームでウロウロする後ろ姿が描かれる。
なんとも間抜けな男としてアイリスの婚約者は描かれていて、彼の立場になってみると、これほど惨めな結末はありません。
名作として名高いダスティン・ホフマン主演の「卒業」(1967年, マイク・ニコルズ監督)の、有名なラストシーンでもそうなのですが、教会での結婚式へ、エレーンの結婚を阻止しようとベンジャミンが現れる。そして二人は手に手を取って…。
しかし、相手の新郎の立場はどうなるんだろう。
彼は別に悪者でもなく、結婚を嫌がるエレーンに無理やり結婚を強要したわけでもない。
ハッピーエンドのベンジャミンとエレーンはいいとしても、挙式の最中に、見ず知らずの男に花嫁をさらわれた新郎ほど惨めで情けない立場はないでしょう。
「卒業」を手放しで称賛する気になれないのは、相手の婚約者への配慮がまったく欠けているためです。
同じことが「バルカン超特急」でもいえるようで、アイリスとギルバートのロマンスの展開を急ぎ過ぎたのか、ちょっと腑に落ちないシーンでした。
とはいえ、イギリス時代の傑作であるには変わりなく、ミステリーとスリルに満ちた、とても優れた映画です。
1938年 イギリス/アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
脚本アルマ・レヴィル
シドニー・ギリアット
フランク・ラウンダー
原作エセル・リナ・ホワイト
撮影ジャック・コックス
〈キャスト〉
マーガレット・ロックウッド メイ・ウィッティ
マイケル・レッドグレイヴ
列車内で姿を消した老婦人をめぐるサスペンスで、翌年の「岩窟の野獣」を最後にハリウッドへ渡ったヒッチコックのイギリス時代の、文字通りサスペンス映画の傑作。
第二次世界大戦を間近に控え、世界情勢が混沌とするヨーロッパ、バンドリカ(架空の国)の山中。
雪のために列車が立ち往生して、乗客たちは仕方なく駅の近くのホテルへ宿泊することになります。
乗客たちの中には、クリケットの試合を観戦することを最大の楽しみにいているイングランド人の二人組、カルディコット(ノウントン・ウェイン)とチャータース(ベイジル・ラドフォード)。
弁護士トッドハンター(セシル・パーカー)とその愛人(リンデン・トラヴァース)は不倫関係。
家庭教師のミス・フロイ(メイ・ウィッティ)。
結婚を控え、独身時代の最後の旅行を楽しもうとしているアイリス・ヘンダーソン(マーガレット・ロックウッド)たちがいて、ホテルへの不満を口にしながら夜を過ごすことになります。
しかし、上の階のクラリネットの音や、床を踏み鳴らす音がうるさくて、アイリスは眠ることができません。
我慢ができなくなったアイリスは、支配人に頼んで静かにしてもらうように言いますが、上の階のクラリネット奏者ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)は、民族舞踊を記録するための大事な仕事なんだと主張。
支配人とモメた揚げ句、ギルバートは部屋を追い出されてしまいます。
やっと静かになったと喜んだアイリスでしたが、そこへ、部屋を追い出されたギルバートが入り込み、君のためにこうなったと、今度はアイリスとひと悶着。
仕方なくアイリスはギルバートを元の部屋へ戻してもらうよう支配人に頼むハメに。
列車の運行が決まり、客室に乗り込んだアイリスは、ミス・フロイと名乗る老婦人と同室になり、一緒に食堂車へ出かけて食事を楽しみます。
客室へ戻ったアイリスはひと眠りしますが、目を覚ますとミス・フロイの姿は無く、ミス・フロイの座っていた席には見知らぬ女性、クマー夫人が座っています。
ミス・フロイはどこへ行ったのかと、アイリスは他の乗客に尋ねますが、そんな女性は知らないという言葉しか返ってきません。
同乗していたエゴン・ハーツ医師からは、あなたはホテルを出たとき、鉢植えで頭を打ったから、その後遺症で記憶障害を起こしているのだ、と言われる始末。
納得のいかないアイリスは、列車内の他の乗客にも訊いてみますが、誰もが自分たちの事情を抱えていて他の問題に関わりたくないために、そんな女性は知らないと答えます。
そんな中、昨夜のトラブルの相手、クラリネット奏者のギルバートとバッタリ出会います。
ちょっと風変わりなギルバートは、アイリスの言葉を信じ、アイリスと一緒にミス・フロイ捜索のために危険の中へ乗り出すことになります。
原題は「消えたレディ」。
誰もが、そんな女性は知らないという、自分でも、本当はミス・フロイという人間は存在していなかったんじゃないか、そんなことを思い始めた矢先、食堂車の窓ガラスにミス・フロイが自分を紹介するために書いた名前、“フロイ”の文字跡がクッキリと浮かび上がる場面は秀逸で、そのため、列車の乗客すべてが嘘をついていると気づいた瞬間に、サスペンスの緊張感が一気に高まります。
しかし、緊張感の中にもユーモアを織り交ぜ、シャーロック・ホームズを気取ったギルバートと、助手役のアイリスの素人探偵コンビの軽妙さは、まるで子どもの探偵ごっこのような雰囲気を生み出して、ユーモア好きなイギリス人気質を持ったヒッチコックならでは。
アイリスとギルバートの男女設定は、最初はお互いに悪感情を持ったものの、事件に巻き込まれながらも、お互いに協力して最後には結ばれるというパターンで、ロマンティック・コメディとしての要素を持っていて、見ていても微笑ましく気持ちよく楽しめます。
事件の鍵を握るミス・フロイとはいったい何者なのか。それはやがて映画の後半で明らかにされてゆくのですが、そもそも、走行している狭い列車の中で、人間一人をどこへ隠したのか。
列車の乗客には様々な主要な人物が登場します。
外科医のエゴン・ハーツ医師。
不倫関係のトッドハンターとその愛人。
クリケット愛好家の英国人カルディコットとチャータース。
奇術師のイタリア人ドッポ。
ハーツ医師の助手の尼僧。
アイリスとギルバートの探偵コンビは、奇術師ドッポが人を消すトリックを使うことを知り、ドッポの道具を調べようと貨物車両に潜入。床に落ちているミス・フロイの眼鏡を発見します。
そこへ現れたドッポと揉み合いの格闘。
事件は国際的スパイ団が暗躍する様相を呈してきます。
アイリスに「ミュンヘンの夜行列車」(1940年)、「灰色の男」(1943年)などの美人女優マーガレット・ロックウッド。
ギルバートに「扉の陰の秘密」(1947年)、「静かなアメリカ人」(1958年)のマイケル・レッドグレイヴ。
クリケット愛好家のノウントン・ウェインとベイジル・ラドフォードは、次回作「ミュンヘンの夜行列車」でもクリケット愛好家として登場。「バルカン超特急」と同様とぼけたユーモアを振りまいています。
エゴン・ハーツ医師に、1933年のジョージ・キューカー版「若草物語」でベア教授を演じ、「ラインの監視」(1943年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞した演技派ポール・ルーカス。
事件の鍵を握るミス・フロイに「断崖」(1941年)、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「ガス燈」(1944年)など、名作に顔をのぞかせるメイ・ウィッティ。
ミステリー、サスペンス、アクション、ユーモア、ラブ・ロマンス。
1時間40分ほどの時間にエンターテインメントの要素を存分に盛り込み、なお、不倫関係の二人、クリケット愛好家の二人など、脇役の存在も軽視することなく個性を持たせました。
特に、クリケットの試合に遅れることを心配するあまり、余計なことに関わろうとせず、アイリスに対しても嘘までついてクリケットの観戦に急いだカルディコットとチャータースの二人は、駅に到着して目についた広告によって、天候悪化のために試合が中止になったことを知る場面は笑わせてくれます。
次回作「岩窟の野獣」(1939年)を最後にイギリスを去り、ハリウッドへ渡って「レベッカ」(1940年)を皮切りに次々と傑作を世に送り出したアルフレッド・ヒッチコック。
渡米以降ミステリー性やサスペンスタッチはさらに深みのある充実したものになりましたが、イギリス時代の、切れ味鋭く畳み込むような展開など、何度見ても飽きさせません。
ただ、完全に褒められたわけでもないのが、アイリスの婚約者の立場の描き方。
アイリスは彼(婚約者)との結婚にあまり乗り気ではなく、ギルバートとの仲が急展開してギルバートに心が移ってしまう。
駅へ到着して、婚約者が迎えにきていないことを知ったアイリスは、イヤな男よね、とかなんとか言って彼を非難する。
そこでサッとギルバートとの抱擁とキスがあるのですが、その後アイリスの婚約者は、彼女の姿を探してホームでウロウロする後ろ姿が描かれる。
なんとも間抜けな男としてアイリスの婚約者は描かれていて、彼の立場になってみると、これほど惨めな結末はありません。
名作として名高いダスティン・ホフマン主演の「卒業」(1967年, マイク・ニコルズ監督)の、有名なラストシーンでもそうなのですが、教会での結婚式へ、エレーンの結婚を阻止しようとベンジャミンが現れる。そして二人は手に手を取って…。
しかし、相手の新郎の立場はどうなるんだろう。
彼は別に悪者でもなく、結婚を嫌がるエレーンに無理やり結婚を強要したわけでもない。
ハッピーエンドのベンジャミンとエレーンはいいとしても、挙式の最中に、見ず知らずの男に花嫁をさらわれた新郎ほど惨めで情けない立場はないでしょう。
「卒業」を手放しで称賛する気になれないのは、相手の婚約者への配慮がまったく欠けているためです。
同じことが「バルカン超特急」でもいえるようで、アイリスとギルバートのロマンスの展開を急ぎ過ぎたのか、ちょっと腑に落ちないシーンでした。
とはいえ、イギリス時代の傑作であるには変わりなく、ミステリーとスリルに満ちた、とても優れた映画です。
2021年06月16日
映画「ナインスゲート」− 悪魔の古書に秘められた謎を追うオカルト・ミステリー
「ナインスゲート」(The Ninth Gate )
1999年 フランス/スペイン
監督ロマン・ポランスキー
脚本エンリケ・ウルビス
ジョン・ブラウンジョン
ロマン・ポランスキー
撮影ダリウス・コンジ
音楽ヴォイチェフ・キラール
〈キャスト〉
ジョニー・デップ エマニュエル・セニエ
レナ・オリン フランク・ランジェラ
円熟期に入った鬼才ロマン・ポランスキーが取り組んだオカルト・ミステリー。
演技に磨きのかかった主演のジョニー・デップは、古書の売買や調査の依頼を受け持つ、人付き合いの悪い独善家ながら、悪魔の古書に翻弄(ほんろう)される魅力ある主人公を好演。
見応えのある映画です。
稀覯本(きこうぼん)(希少価値のある本、珍しい本)の鑑定家でもあり、本の探偵とも呼ばれるディーン・コルソ(ジョニー・デップ)は、一方では、高額な取り引きのできる希少本のドン・キホーテを「いいものですが、あまり値打ちはありませんよ。高く売れませんから僕が買い取りましょう」と、相手の無知に付けこんで自分が安く買い取ってしまう悪賢さも持っている男。
ある日コルソは、バルカン出版のオーナーであり、膨大な蔵書のコレクターでもあるボリス・バルカン(フランク・ランジェラ)から、自分が所有する悪魔の祈祷書について、世界に同じものが3冊存在しているが、どれが本物なのか調査をしてほしいと依頼されます。
バルカンの所有する一冊を携(たずさ)え、調査を開始しようとしますが、自分が尾行されていることを感じたコルソは、不穏な気配に気づき、知人の古書店の店主に本を預かってもらうものの、店主は殺され、身の危険を感じたコルソは依頼を断ろうとバルカンに連絡。
しかし、報酬ははずむから、ぜひ続けてくれと諭され、しぶしぶながら調査を続行。
そしてコルソの背後には常に緑の瞳を持った謎の女(エマニュエル・セニエ)が付きまとい始めます。
スペイン、ポルトガル、パリと飛び、古書の持ち主を探し出して悪魔の祈祷書を調べますが、どれも本物にしか見えず、入念に調べた結果、本に挿入されている版画の違いに気づきます。
謎を追いかける中、ポルトガルのコレクター、ファルガス(ジャック・テイラー)は自宅の泉水の池で殺され、パリのケスラー男爵夫人(バーバラ・ジェフォード)も何者かに絞殺されてオフィスに火が放たれます。
金髪の黒人に何度か命を狙われながらも、その都度、緑の瞳を持った謎の女に助けられ、元々、古書の一冊の持ち主であった富豪のリアナ・テルファー(レナ・オリン)と、そのボディガードである金髪の黒人を追ううち、コルソたちは広壮な屋敷へとたどり着きます。
そこでは大勢の男女が黒衣を着け、悪魔の降臨の儀式を行っていましたが、そこへバルカンが現れ、リアナを殺害、全員が逃げ惑う中、悪魔の祈祷書の中の9枚の版画をもとに、自らが所有する古城で悪魔の儀式を執り行おうとしますが、一枚だけが偽物であったため、バルカンは焼死。
コルソは残る本物を探し出そうと謎の女の指示に従ってスペインへ向かいます。
そして手に入れた最後の一枚によって、コルソは古城へ向かい、9つの扉(ナインスゲート)と向き合うことになります。
映画の冒頭から目を引きます。
書斎の高価そうな本がズラリと並んだ書棚を背にして男が書き物をしている。やがてカメラはシャンデリアの下に置かれた椅子と、その上に垂れ下がった丸いロープへと移動。この男は自殺をしようとしていて、遺書を書いていることが判ります。
淡い茶色の色調で始まるこの場面は、不吉な物語の予感を漂わせているのと同時に、ゴシックのムードも漂わせ、美術感覚と娯楽的要素を盛り込んだオカルト・ミステリーだということを知らせてくれます。
話は一転。
とあるビルの一室で本のコレクターの蔵書を売買する話が行われている。
蔵書の鑑定をしているのは、業界のプロを自任するディーン・コルソ。
「これはすごい。とても高値で売れるから、他の鑑定士にも相談して売買を急いだほうがいいですよ」と勧める。
そして、さり気なく希少価値のあるドン・キホーテを手にして、「これはあまり高くは売れませんから、僕がこの場で買い取りましょう」と安く買い取ってしまう。
実際には、このドン・キホーテは高額な古書で、平気で他人をだまして自分のものにしてしまう小狡さを持ったディーン・コルソは、完全な悪人かというと、そうでもない。もちろん善人ともいえない。金髪の黒人に命を狙われ、カフェに身を隠しながら、なかなか外へ出られない弱さも持った男。
コトの終わったリアナとのいさかいから、彼女に掴(つか)みかかられながら、ズボンをずり下げたまま後ずさりで逃げるカッコ悪さ。
後年の「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジャック・スパロウのような、口達者で軽快なヒーローでもなく、どちらかといえば物静かで控えめ。
そんなユニークなキャラクターであるディーン・コルソが、緑の瞳の謎の女に助けられながら悪魔の古書にまつわる謎に翻弄されていくのですが、そのディーン・コルソをジョニー・デップが実に魅力的に演じている。
例えば、この映画にはお酒を飲む場面がいくつか出てきます。
ポルトガルのコレクター、ファルガスに会ったときにはブランデーを勧められる。
「いいグラスですね」と言いながら、ブランデーのボトルを持ち、膝をついて蔵書を見渡す。
なんでもないシーンですが、ひとつひとつの動作が魅力に富んでいる。
公衆電話で電話をかけるシーン。
黒人との格闘から眼鏡を落として誤って踏んでしまう。その壊れた眼鏡を拾って無造作にかけるシーン。
持っている古書を盗まれないように、ホテルの部屋の、小さな冷蔵庫の奥をゴトゴト動かしてそこへ本を隠し、ついでに冷蔵庫の中のドリンクを飲むシーン。
さり気ないシーンですが、とても印象に残ります。
おそらくそれらはロマン・ポランスキーの演出の冴えでもあるのでしょうが、演じたのがジョニー・デップだからこそ魅力的に見えるのかもしれません。
監督のロマン・ポランスキーは、1968年の「ローズマリーの赤ちゃん」以来、ほぼ30年ぶりのオカルト・ミステリーで、その流れを受け継ぐかのような、悪魔崇拝者を軸とした「ナインスゲート」は「ローズマリーの赤ちゃん」よりもさらに美術感覚を強め、映像センスの浮き出た映画になっています。
また、この映画は本の魅力というか、本の値打ちといったものも教えてくれます。
すなわち、本は美術品でもあり、絵画や骨董品のような資産価値があるということと、ごく当たり前のことですが、時代を経てきた本の中には何世紀にもわたる優れた知識が収められているということ(そういった本の上で、平気で煙草を吸いながらページをめくるディーン・コルソの性格は不思議な気がします)。
巨大な影となってディーン・コルソを操るボリス・バルカンと、コルソの守護天使であるかのような緑の瞳の謎の女。しかし彼女は天使とは裏腹の怪しげな雰囲気に包まれた、得体の知れない何者かの使いであることが、コルソを悪魔の書へと導くことで、その正体が次第に明らかになってゆきます。
それによって、古城へたどり着いたコルソの運命を握る者の実態も明らかにされてゆくことになります。
物語の背後で、全体を見通すかのように登場するボリス・バルカンの存在がドラマに深い陰影と深みを与えます。
演じたのは、数々の賞に輝く演技派フランク・ランジェラ。
緑の瞳を持つ謎の女にエマニュエル・セニエ。
「フランティック」(1988年)、「赤い航路」(1992年)でロマン・ポランスキー作品に度々登場するポランスキー監督の奥さん。
悪魔の崇拝者を率いる富豪のリアナ・テルファー夫人に、「存在の耐えられない軽さ」(1988年)でゴールデングローブ賞助演女優賞などにノミネートされ、「蜘蛛女」(19993年)では冷酷で強烈な印象を残したレナ・オリン。
ストーリー性、美術感覚、主役を演じたジョニー・デップの魅力等、一瞬も目を離せない見応えのある映画です。
1999年 フランス/スペイン
監督ロマン・ポランスキー
脚本エンリケ・ウルビス
ジョン・ブラウンジョン
ロマン・ポランスキー
撮影ダリウス・コンジ
音楽ヴォイチェフ・キラール
〈キャスト〉
ジョニー・デップ エマニュエル・セニエ
レナ・オリン フランク・ランジェラ
円熟期に入った鬼才ロマン・ポランスキーが取り組んだオカルト・ミステリー。
演技に磨きのかかった主演のジョニー・デップは、古書の売買や調査の依頼を受け持つ、人付き合いの悪い独善家ながら、悪魔の古書に翻弄(ほんろう)される魅力ある主人公を好演。
見応えのある映画です。
稀覯本(きこうぼん)(希少価値のある本、珍しい本)の鑑定家でもあり、本の探偵とも呼ばれるディーン・コルソ(ジョニー・デップ)は、一方では、高額な取り引きのできる希少本のドン・キホーテを「いいものですが、あまり値打ちはありませんよ。高く売れませんから僕が買い取りましょう」と、相手の無知に付けこんで自分が安く買い取ってしまう悪賢さも持っている男。
ある日コルソは、バルカン出版のオーナーであり、膨大な蔵書のコレクターでもあるボリス・バルカン(フランク・ランジェラ)から、自分が所有する悪魔の祈祷書について、世界に同じものが3冊存在しているが、どれが本物なのか調査をしてほしいと依頼されます。
バルカンの所有する一冊を携(たずさ)え、調査を開始しようとしますが、自分が尾行されていることを感じたコルソは、不穏な気配に気づき、知人の古書店の店主に本を預かってもらうものの、店主は殺され、身の危険を感じたコルソは依頼を断ろうとバルカンに連絡。
しかし、報酬ははずむから、ぜひ続けてくれと諭され、しぶしぶながら調査を続行。
そしてコルソの背後には常に緑の瞳を持った謎の女(エマニュエル・セニエ)が付きまとい始めます。
スペイン、ポルトガル、パリと飛び、古書の持ち主を探し出して悪魔の祈祷書を調べますが、どれも本物にしか見えず、入念に調べた結果、本に挿入されている版画の違いに気づきます。
謎を追いかける中、ポルトガルのコレクター、ファルガス(ジャック・テイラー)は自宅の泉水の池で殺され、パリのケスラー男爵夫人(バーバラ・ジェフォード)も何者かに絞殺されてオフィスに火が放たれます。
金髪の黒人に何度か命を狙われながらも、その都度、緑の瞳を持った謎の女に助けられ、元々、古書の一冊の持ち主であった富豪のリアナ・テルファー(レナ・オリン)と、そのボディガードである金髪の黒人を追ううち、コルソたちは広壮な屋敷へとたどり着きます。
そこでは大勢の男女が黒衣を着け、悪魔の降臨の儀式を行っていましたが、そこへバルカンが現れ、リアナを殺害、全員が逃げ惑う中、悪魔の祈祷書の中の9枚の版画をもとに、自らが所有する古城で悪魔の儀式を執り行おうとしますが、一枚だけが偽物であったため、バルカンは焼死。
コルソは残る本物を探し出そうと謎の女の指示に従ってスペインへ向かいます。
そして手に入れた最後の一枚によって、コルソは古城へ向かい、9つの扉(ナインスゲート)と向き合うことになります。
映画の冒頭から目を引きます。
書斎の高価そうな本がズラリと並んだ書棚を背にして男が書き物をしている。やがてカメラはシャンデリアの下に置かれた椅子と、その上に垂れ下がった丸いロープへと移動。この男は自殺をしようとしていて、遺書を書いていることが判ります。
淡い茶色の色調で始まるこの場面は、不吉な物語の予感を漂わせているのと同時に、ゴシックのムードも漂わせ、美術感覚と娯楽的要素を盛り込んだオカルト・ミステリーだということを知らせてくれます。
話は一転。
とあるビルの一室で本のコレクターの蔵書を売買する話が行われている。
蔵書の鑑定をしているのは、業界のプロを自任するディーン・コルソ。
「これはすごい。とても高値で売れるから、他の鑑定士にも相談して売買を急いだほうがいいですよ」と勧める。
そして、さり気なく希少価値のあるドン・キホーテを手にして、「これはあまり高くは売れませんから、僕がこの場で買い取りましょう」と安く買い取ってしまう。
実際には、このドン・キホーテは高額な古書で、平気で他人をだまして自分のものにしてしまう小狡さを持ったディーン・コルソは、完全な悪人かというと、そうでもない。もちろん善人ともいえない。金髪の黒人に命を狙われ、カフェに身を隠しながら、なかなか外へ出られない弱さも持った男。
コトの終わったリアナとのいさかいから、彼女に掴(つか)みかかられながら、ズボンをずり下げたまま後ずさりで逃げるカッコ悪さ。
後年の「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジャック・スパロウのような、口達者で軽快なヒーローでもなく、どちらかといえば物静かで控えめ。
そんなユニークなキャラクターであるディーン・コルソが、緑の瞳の謎の女に助けられながら悪魔の古書にまつわる謎に翻弄されていくのですが、そのディーン・コルソをジョニー・デップが実に魅力的に演じている。
例えば、この映画にはお酒を飲む場面がいくつか出てきます。
ポルトガルのコレクター、ファルガスに会ったときにはブランデーを勧められる。
「いいグラスですね」と言いながら、ブランデーのボトルを持ち、膝をついて蔵書を見渡す。
なんでもないシーンですが、ひとつひとつの動作が魅力に富んでいる。
公衆電話で電話をかけるシーン。
黒人との格闘から眼鏡を落として誤って踏んでしまう。その壊れた眼鏡を拾って無造作にかけるシーン。
持っている古書を盗まれないように、ホテルの部屋の、小さな冷蔵庫の奥をゴトゴト動かしてそこへ本を隠し、ついでに冷蔵庫の中のドリンクを飲むシーン。
さり気ないシーンですが、とても印象に残ります。
おそらくそれらはロマン・ポランスキーの演出の冴えでもあるのでしょうが、演じたのがジョニー・デップだからこそ魅力的に見えるのかもしれません。
監督のロマン・ポランスキーは、1968年の「ローズマリーの赤ちゃん」以来、ほぼ30年ぶりのオカルト・ミステリーで、その流れを受け継ぐかのような、悪魔崇拝者を軸とした「ナインスゲート」は「ローズマリーの赤ちゃん」よりもさらに美術感覚を強め、映像センスの浮き出た映画になっています。
また、この映画は本の魅力というか、本の値打ちといったものも教えてくれます。
すなわち、本は美術品でもあり、絵画や骨董品のような資産価値があるということと、ごく当たり前のことですが、時代を経てきた本の中には何世紀にもわたる優れた知識が収められているということ(そういった本の上で、平気で煙草を吸いながらページをめくるディーン・コルソの性格は不思議な気がします)。
巨大な影となってディーン・コルソを操るボリス・バルカンと、コルソの守護天使であるかのような緑の瞳の謎の女。しかし彼女は天使とは裏腹の怪しげな雰囲気に包まれた、得体の知れない何者かの使いであることが、コルソを悪魔の書へと導くことで、その正体が次第に明らかになってゆきます。
それによって、古城へたどり着いたコルソの運命を握る者の実態も明らかにされてゆくことになります。
物語の背後で、全体を見通すかのように登場するボリス・バルカンの存在がドラマに深い陰影と深みを与えます。
演じたのは、数々の賞に輝く演技派フランク・ランジェラ。
緑の瞳を持つ謎の女にエマニュエル・セニエ。
「フランティック」(1988年)、「赤い航路」(1992年)でロマン・ポランスキー作品に度々登場するポランスキー監督の奥さん。
悪魔の崇拝者を率いる富豪のリアナ・テルファー夫人に、「存在の耐えられない軽さ」(1988年)でゴールデングローブ賞助演女優賞などにノミネートされ、「蜘蛛女」(19993年)では冷酷で強烈な印象を残したレナ・オリン。
ストーリー性、美術感覚、主役を演じたジョニー・デップの魅力等、一瞬も目を離せない見応えのある映画です。
2021年06月10日
映画「炎628」‐ 舞い上がる炎の下で少年が見た地獄
「炎628」(Иди и смотри) 1985年 ソビエト連邦
監督エレム・クリモフ
原作エレシ・アダモヴィチ
脚本エレム・クリモフ
エレシ・アダモヴィチ
撮影アレクセイ・ロジオーノフ
第14回モスクワ国際映画祭最優秀作品賞受賞
〈キャスト〉
アレクセイ・クラヴチェンコ オリガ・ミロノヴァ
恐ろしい映画です。
実際に起こった虐殺事件を題材に、一人の少年の目撃と体験が、そのまま私たち観客にも恐怖の追体験として目の前に迫ります。
ナチスの蛮行はユダヤ人への迫害が広く知れ渡っていますが、ここで扱われるのは、かつてソビエト連邦の構成国の一つだった白ロシア、現在のベラルーシです。
ヨーロッパの東に位置するベラルーシは、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ラトビアなどと国境を接し、ナポレオンのモスクワ遠征の際にはフランス軍に蹂躙された歴史を持ち、第一次世界大戦では熾烈(しれつ)な激戦の地ともなりました。
そのような白ロシア(ベラルーシ)で、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻とともにヨーロッパを席巻したナチスの支配が白ロシアにまで及んだ時代。
1943年、ドイツ占領下の白ロシア。
フリョーラ(アレクセイ・クラヴチェンコ)は、土地の古老が止めるのも聞かずに、砂地から一丁の銃を掘り出します。
フリョーラは喜びましたが、しかしそれは少年フリョーラにとって忌まわしい日常への発端となります。
銃を手にしたフリョーラは、家を出ていかないでと泣いて頼む母親の意見を振り切るようにしてパルチザンに加わり、母親と幼い双子の妹たちを村に残して、パルチザンの同志が潜む森へと入ってゆきます。
パルチザンに加わることはできましたが、フリョーラがまだ少年であるためなのか、一人、森へ取り残されてしまいます。
森の中で出会った若い女性グラーシャと共に、森をさまよいながら故郷の村へと帰ろうとするフリョーラは、ドイツ軍の爆撃を逃れながら、空腹を抱えて村へとたどり着きます。
しかし、村には人の姿は無く、静まり返った家へ戻ったフリョーラとグラーシャが見たものは、床に散乱した壊れた人形でした。
異様な気配を感じた二人は家を飛び出し、「村の人たちはあそこにいるんだ!」と叫びながら走るフリョーラの後を追いかけるように走るグラーシャが振り返って見たのは、裸にされて殺された村人たちの死体の山。
村人たちが虐殺されたことに気づいたグラーシャでしたが、それに気づかず狂気のようになったフリョーラは沼に飛び込み、後を追うグラーシャも飛び込み、溺れそうになりながらも岸へ上がった二人は、森へ逃れていた難民たちの群れに加わることになります。
難民たちの食料は乏しく、食料調達のためにフリョーラは男たちと共に4人で食料を探しに出かけますが、地雷原で二人が吹き飛ばされ、近くの村から牝牛を調達して喜んだフリョーラたちでしたが、ドイツ軍の激しい銃撃に遭って一人は死に、度重なる銃撃で牝牛も殺されてしまいます。
フリョーラは一人、深い霧の中をさまよいながら農夫の荷馬車を見つけ、盗んでいこうとしますが、農夫にとがめられ、口論の中、ドイツ軍の車両に遭遇、行き場を失ったフリョーラは農夫の孫になりすまし、農夫の村に身をひそめることになりますが、それはフリョーラにとって阿鼻叫喚の地獄を経験することにつながるものとなります。
一風変わった題名の「炎628」は、フランソワ・トリュフォー監督の傑作「華氏451」(1966年)を意識して改題されたと思われますが、原題は「来なさい、そして見よ」。
聖書の最終章である「啓示(黙示録)」の第6章7節から8節による、青ざめた馬に乗った“死”が食糧不足と殺戮をもたらすことが描かれ、これが原題になったと思われます。
「炎628」の終盤、フリョーラが身を隠した村ではドイツ軍が続々と押し寄せ、村人たちを教会へ押し込めて教会の中は騒然となります。
窓から外へ顔を出した農民が射殺されたことをキッカケに悲鳴と号泣は極度に達します。
フリョーラは窓から体を乗り出して外へ逃れますが、ドイツ兵たちもフリョーラがまだ子どもだと思ったためか、薄汚れた野良猫のごとくあしらいながら見逃します。
悲鳴と号泣の教会の中へ手榴弾が投げ込まれます。
ここまででも、その凄まじさは見る者に戦慄を与えますが、さらにそこへ火が放たれ、火炎放射器が轟音を放ちます。
炎を上げて燃える教会へ射撃が行われ、笑い興じるドイツ兵たち。しかし、その中でも、涙を拭きながら射撃を行う者、嘔吐する者、多少は人間性を持った兵たちが少なからずいたことが描かれたことは、一方的にドイツを悪と決めつけていない冷静な視点があったように思います。
一カ所へ村人が集められて、建物もろ共焼き殺される残虐な事件は、ニキータ・ミハルコフ監督の秀作「戦火のナージャ」(2010年)でも描かれていますが、「戦火のナージャ」はコンピューター・グラフィックスを上手く使っているためか、一歩距離を置いて見ることができますが、「炎628」はまるでドキュメンタリーフィルムを見るような現実感があります。
冒頭の森の中でのパルチザンの様子やグラーシャの登場などはツルゲーネフの小説を思い起こさせますが、その雰囲気はドイツ軍による落下傘部隊の降下と、誰もいなくなったパルチザンのキャンプへの空爆で一転。
パルチザンに対する殲滅作戦が始まったことが分かります。
もともと工業化の進んでいなかった白ロシア(ベラルーシ)ですから、あたりは森と湿地帯、ぬかるんだ道、古い農家、見ようによっては牧歌的な東ヨーロッパの風景ともとれますが、戦争の狂気が取り巻く環境は、飢えと恐怖が支配する寒々とした世界。
ひとすら逃げ惑(まど)うフリョーラとグラーシャも泥と土ぼこりにまみれ、そしてたどり着いた村で体験した惨劇によってフリョーラの顔はまるで老人のように変わり果てている。
一方のグラーシャは放心状態で笛を口にくわえさせられ、両足の、おそらく股間から血を流し、ドイツ兵たちによって激しいレイプを受けたことをうかがわせます。
戦争映画で、これほどの惨状を描いた映画は、ちょっと記憶にありません。反戦映画と呼ぶには少し違うような気もします。ここで、こういうことが起きた、この事実を知ってもらいたい、そういう意図で作られたようにも思います。
監督は「ロマノフ王朝の最後」(1975年)などのエレム・クリモフ。
苛烈な題材を扱いながら、決して過剰な演出に陥ることなく、かなり衝撃的なシーンのひとつである虐殺された村人の死体の山をグラーシャが目撃する場面でも、グラーシャが振り返った一瞬に見えるだけで、そのまま二人の狂乱へとつながっていきます。
改題の「炎628」とは、白ロシア国内の628もの村が住民もろ共焼き尽くされた数字であることが最後に判ります。
これほどの殺戮(さつりく)が、同じ人間同士によって何故引き起こされるのか。
パルチザンに捕えられた将校らしき男が言います。「共産主義を根絶することが我々の使命だ」
理由はそうであっても、それが暴力や虐殺にまで発展するのは、ディケンズの「二都物語」に描かれたような、死刑判決を受けた人間の八つ裂きの処刑を見ることを楽しみに待つ群衆のような、暗い心理が潜んでいるように思われます。
恐ろしくも、深く考えさせられる映画です。
監督エレム・クリモフ
原作エレシ・アダモヴィチ
脚本エレム・クリモフ
エレシ・アダモヴィチ
撮影アレクセイ・ロジオーノフ
第14回モスクワ国際映画祭最優秀作品賞受賞
〈キャスト〉
アレクセイ・クラヴチェンコ オリガ・ミロノヴァ
恐ろしい映画です。
実際に起こった虐殺事件を題材に、一人の少年の目撃と体験が、そのまま私たち観客にも恐怖の追体験として目の前に迫ります。
ナチスの蛮行はユダヤ人への迫害が広く知れ渡っていますが、ここで扱われるのは、かつてソビエト連邦の構成国の一つだった白ロシア、現在のベラルーシです。
ヨーロッパの東に位置するベラルーシは、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ラトビアなどと国境を接し、ナポレオンのモスクワ遠征の際にはフランス軍に蹂躙された歴史を持ち、第一次世界大戦では熾烈(しれつ)な激戦の地ともなりました。
そのような白ロシア(ベラルーシ)で、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻とともにヨーロッパを席巻したナチスの支配が白ロシアにまで及んだ時代。
1943年、ドイツ占領下の白ロシア。
フリョーラ(アレクセイ・クラヴチェンコ)は、土地の古老が止めるのも聞かずに、砂地から一丁の銃を掘り出します。
フリョーラは喜びましたが、しかしそれは少年フリョーラにとって忌まわしい日常への発端となります。
銃を手にしたフリョーラは、家を出ていかないでと泣いて頼む母親の意見を振り切るようにしてパルチザンに加わり、母親と幼い双子の妹たちを村に残して、パルチザンの同志が潜む森へと入ってゆきます。
パルチザンに加わることはできましたが、フリョーラがまだ少年であるためなのか、一人、森へ取り残されてしまいます。
森の中で出会った若い女性グラーシャと共に、森をさまよいながら故郷の村へと帰ろうとするフリョーラは、ドイツ軍の爆撃を逃れながら、空腹を抱えて村へとたどり着きます。
しかし、村には人の姿は無く、静まり返った家へ戻ったフリョーラとグラーシャが見たものは、床に散乱した壊れた人形でした。
異様な気配を感じた二人は家を飛び出し、「村の人たちはあそこにいるんだ!」と叫びながら走るフリョーラの後を追いかけるように走るグラーシャが振り返って見たのは、裸にされて殺された村人たちの死体の山。
村人たちが虐殺されたことに気づいたグラーシャでしたが、それに気づかず狂気のようになったフリョーラは沼に飛び込み、後を追うグラーシャも飛び込み、溺れそうになりながらも岸へ上がった二人は、森へ逃れていた難民たちの群れに加わることになります。
難民たちの食料は乏しく、食料調達のためにフリョーラは男たちと共に4人で食料を探しに出かけますが、地雷原で二人が吹き飛ばされ、近くの村から牝牛を調達して喜んだフリョーラたちでしたが、ドイツ軍の激しい銃撃に遭って一人は死に、度重なる銃撃で牝牛も殺されてしまいます。
フリョーラは一人、深い霧の中をさまよいながら農夫の荷馬車を見つけ、盗んでいこうとしますが、農夫にとがめられ、口論の中、ドイツ軍の車両に遭遇、行き場を失ったフリョーラは農夫の孫になりすまし、農夫の村に身をひそめることになりますが、それはフリョーラにとって阿鼻叫喚の地獄を経験することにつながるものとなります。
一風変わった題名の「炎628」は、フランソワ・トリュフォー監督の傑作「華氏451」(1966年)を意識して改題されたと思われますが、原題は「来なさい、そして見よ」。
聖書の最終章である「啓示(黙示録)」の第6章7節から8節による、青ざめた馬に乗った“死”が食糧不足と殺戮をもたらすことが描かれ、これが原題になったと思われます。
「炎628」の終盤、フリョーラが身を隠した村ではドイツ軍が続々と押し寄せ、村人たちを教会へ押し込めて教会の中は騒然となります。
窓から外へ顔を出した農民が射殺されたことをキッカケに悲鳴と号泣は極度に達します。
フリョーラは窓から体を乗り出して外へ逃れますが、ドイツ兵たちもフリョーラがまだ子どもだと思ったためか、薄汚れた野良猫のごとくあしらいながら見逃します。
悲鳴と号泣の教会の中へ手榴弾が投げ込まれます。
ここまででも、その凄まじさは見る者に戦慄を与えますが、さらにそこへ火が放たれ、火炎放射器が轟音を放ちます。
炎を上げて燃える教会へ射撃が行われ、笑い興じるドイツ兵たち。しかし、その中でも、涙を拭きながら射撃を行う者、嘔吐する者、多少は人間性を持った兵たちが少なからずいたことが描かれたことは、一方的にドイツを悪と決めつけていない冷静な視点があったように思います。
一カ所へ村人が集められて、建物もろ共焼き殺される残虐な事件は、ニキータ・ミハルコフ監督の秀作「戦火のナージャ」(2010年)でも描かれていますが、「戦火のナージャ」はコンピューター・グラフィックスを上手く使っているためか、一歩距離を置いて見ることができますが、「炎628」はまるでドキュメンタリーフィルムを見るような現実感があります。
冒頭の森の中でのパルチザンの様子やグラーシャの登場などはツルゲーネフの小説を思い起こさせますが、その雰囲気はドイツ軍による落下傘部隊の降下と、誰もいなくなったパルチザンのキャンプへの空爆で一転。
パルチザンに対する殲滅作戦が始まったことが分かります。
もともと工業化の進んでいなかった白ロシア(ベラルーシ)ですから、あたりは森と湿地帯、ぬかるんだ道、古い農家、見ようによっては牧歌的な東ヨーロッパの風景ともとれますが、戦争の狂気が取り巻く環境は、飢えと恐怖が支配する寒々とした世界。
ひとすら逃げ惑(まど)うフリョーラとグラーシャも泥と土ぼこりにまみれ、そしてたどり着いた村で体験した惨劇によってフリョーラの顔はまるで老人のように変わり果てている。
一方のグラーシャは放心状態で笛を口にくわえさせられ、両足の、おそらく股間から血を流し、ドイツ兵たちによって激しいレイプを受けたことをうかがわせます。
戦争映画で、これほどの惨状を描いた映画は、ちょっと記憶にありません。反戦映画と呼ぶには少し違うような気もします。ここで、こういうことが起きた、この事実を知ってもらいたい、そういう意図で作られたようにも思います。
監督は「ロマノフ王朝の最後」(1975年)などのエレム・クリモフ。
苛烈な題材を扱いながら、決して過剰な演出に陥ることなく、かなり衝撃的なシーンのひとつである虐殺された村人の死体の山をグラーシャが目撃する場面でも、グラーシャが振り返った一瞬に見えるだけで、そのまま二人の狂乱へとつながっていきます。
改題の「炎628」とは、白ロシア国内の628もの村が住民もろ共焼き尽くされた数字であることが最後に判ります。
これほどの殺戮(さつりく)が、同じ人間同士によって何故引き起こされるのか。
パルチザンに捕えられた将校らしき男が言います。「共産主義を根絶することが我々の使命だ」
理由はそうであっても、それが暴力や虐殺にまで発展するのは、ディケンズの「二都物語」に描かれたような、死刑判決を受けた人間の八つ裂きの処刑を見ることを楽しみに待つ群衆のような、暗い心理が潜んでいるように思われます。
恐ろしくも、深く考えさせられる映画です。
2021年04月18日
映画「心の旅路」‐ 記憶を失った男がたどる愛の名作
「心の旅路」(Random Harvest) 1942年アメリカ
監督マーヴィン・ルロイ
原作ジェームズ・ヒルトン
脚本クローディン・ウェスト
ジョージ・フローシェル
アーサー・ウィンペリス
撮影ジョセフ・ルッテンバーグ
〈キャスト〉
ロナルド・コールマン グリア・ガースン
スーザン・ピータース ヘンリー・トラヴァース
「失われた地平線」「チップス先生さようなら」などのベストセラー作家ジェームズ・ヒルトンの同名小説を映画化。
記憶喪失になった陸軍大尉がたどる心の変遷を、情感あふれるドラマ構成で描いた名作。
1918年、4年間続いた第一次世界大戦も終わりを迎えようとする秋のころ。
戦場で負傷し、記憶を失ったイギリス陸軍大尉ジョン・スミス(ロナルド・コールマン)は、軍人障害者施設に入院しています。
自分が何者なのかを知ることのできないもどかしさを感じている彼は、ある日、病院を抜け出し、街に出かけます。
折しも街では終戦を祝う祝賀ムードの喧騒にあふれ、雑踏を避けようと入った煙草屋で、ジョン・スミスは旅芸人の踊子ポーラ・リッジウェイ(グリア・ガースン)に出会います。
記憶喪失のスミスに同情し、深いやさしさと美貌を持ったポーラにジョン・スミスは惹かれ、やがて二人は恋に落ちます。
ポーラは踊子を辞め、記憶は戻らず体調も思わしくないジョン・スミスと二人で喧騒の街を離れ、小川が流れ、庭に桜の木が枝を伸ばしている、ある静かな田舎の小さな家で暮らし始めます。
ポーラは、ジョン・スミスを愛称の「スミシー」と呼び、二人だけの穏やかな生活の中でポーラは妊娠、子どもが生まれます。
文才のあったジョン・スミスは執筆を始め、原稿を見た新聞社から採用通知を受け取ったスミシーはリバプールへ出かけますが、路上で車にはねられてしまいます。
怪我は大したことはなく、意識を回復したスミシーは、なぜ自分がここに居るのか理解できません。事故のショックで、記憶喪失になる以前の自分がよみがえり、逆に記憶を失ってからのポーラとの生活のすべての記憶が消失してしまっていました。
以前の記憶が戻り、ジョン・スミス(スミシー)ではなく、チャールズ・レニアとしての過去を取り戻して自宅へ帰ったチャールズは、父の葬儀と、遺言によって莫大な遺産を相続し、富豪としての生活を送ることになるのですが、ただ、ひとつの気がかりとして、事故の時に身につけていた玄関の鍵と思われる鍵と、なぜ自分は事故のときにリバプールにいたのか、という疑問がつきまといます。
一方、自宅へ戻ったチャールズに恋心を持つ少女がいました。
チャールズには姪にあたるキティ(スーザン・ピータース)です。姉の娘ではあるが、実の娘ではなく、夫の連れ子であるキティとは血のつながりがないため、キティはチャールズへの愛を燃やします。
実業家として成功したチャールズのオフィスには、子どもを失った失意のポーラが、マーガレット・ハンソンと名前を変えて、秘書として雇われていました。チャールズの現在を知り、自分とのつながりを失ってしまったと悟ったポーラは、なんとか彼の記憶を取り戻そうと考えるのですが、チャールズはポーラに気づくこともなく、月日は過ぎてゆきます。
キティとの交際は続き、彼女の愛を受け入れようと、やがてチャールズはキティとの婚約に踏み切りますが、チャールズには空白の記憶が障害となって心にわだかまり、そんなチャールズの気持ちを察したキティは自ら身を引いてゆきます。
時は流れ、国政選挙に打って出たチャールズは当選を果たし、政治家として活動を始めます。そして、それまで秘書として自分を支えてくれたマーガレットを妻として迎えようと考えます。
しかし、自分の愛を受け入れてくれたマーガレットには、誰か自分以外の男性の影がつきまとっていることを知ります。
どこかちぐはぐな関係を続けていたチャールズ(スミシー)とマーガレット(ポーラ)でしたが、どうしても彼の記憶が戻らないことに悲観したマーガレットはチャールズから離れ、南米へと旅経つ決心をします。
マーガレットの心が理解できないまま、チャールズは駅までマーガレットを見送り、所要で向かったメルブリッジの街でストライキに遭遇。やがて事なきを得たストライキの歓喜と喧騒の中、記憶の断片が現れ、知るはずのない煙草屋に立ち寄ったことから、おぼろげな記憶がよみがえりはじめます。
数年前の事故のとき、自分はなぜリバプールにいたのか、チャールズは記憶を追い求め、小川の流れる一軒の小さな家にたどり着きます。
一方、チャールズが記憶を取り戻しはじめたことを知ったマーガレットは、かつて彼をスミシーと呼び、仲睦まじく暮らしていた自分たちの家へと急ぎます。
軋んだ庭の扉を開け、桜の枝に頭をひっかけたチャールズは、鮮明になろうとする過去の思い出の中で、手にしていた鍵で家のドアを開けると、背後から彼の名前を呼ぶ声が響きます。
「スミシー!」
記憶喪失を題材にした作品にはアンリ・コルピ監督、アリダ・ヴァリ主演の「かくも長き不在」(1961年フランス )などの名作があり、戦争の暗い影が背景に重く揺らいでいます。ハリソン・フォードが主演した「心の旅」(1991年 マイク・ニコルズ監督)は、ややエンターテインメントに傾きましたが、自己を見つめ直す一人の男の姿が感動を呼びました。
また、手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」の一連の作品の中で「ネコと庄造と」では、ヒューマニズムにあふれる「ブラック・ジャック」の中でも特に胸に残る佳作でした。
「心の旅路」は、「哀愁」(1940年)、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「ガス燈」(1944年)、「傷だらけの栄光」(1956年)などで手腕を発揮して、アカデミー撮影賞で数々の受賞をしたジョセフ・ルッテンバーグのすぐれた映像と、「心の旅路」と同年の「ミニヴァー夫人」でアカデミー主演女優賞を受賞したグリア・ガースンのスケールの大きな演技が生んだ名作です。
しかし、この映画はグリア・ガースンにとどまらず、チャールズを恋する一途な少女キティを演じたスーザン・ピータース(狩猟事故による後遺症で1952年に31歳の若さで死去)も助演女優賞候補になるなど脇役も素晴らしく、「ミニヴァー夫人」でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたヘンリー・トラヴァースも村の医者として顔をのぞかせています。
また、一度見たら忘れがたい風貌を持ったウナ・オコナー。ジョン・スミスとポーラの出会いの場所となる煙草屋の女店主で、この人は、ビリー・ワイルダー監督の傑作ミステリー「情婦」(1957年 タイロン・パワー主演)でのアクの強い家政婦役は、主演のマレーネ・ディートリッヒと共に強く印象に残りました。
ただ、チャールズが記憶を取り戻してゆく過程では、なんとなく都合が良すぎるような印象がありますが、そういった欠点も、ラストで二人が抱き合う感動的なシーンで吹き飛んでしまうくらいのもの。
「哀愁」(1940年)を手がけ、後に「キュリー夫人」(1943年)、「若草物語」(1949年)などの名作も手がけた名匠マーヴィン・ルロイのメロドラマの名作。
監督マーヴィン・ルロイ
原作ジェームズ・ヒルトン
脚本クローディン・ウェスト
ジョージ・フローシェル
アーサー・ウィンペリス
撮影ジョセフ・ルッテンバーグ
〈キャスト〉
ロナルド・コールマン グリア・ガースン
スーザン・ピータース ヘンリー・トラヴァース
「失われた地平線」「チップス先生さようなら」などのベストセラー作家ジェームズ・ヒルトンの同名小説を映画化。
記憶喪失になった陸軍大尉がたどる心の変遷を、情感あふれるドラマ構成で描いた名作。
1918年、4年間続いた第一次世界大戦も終わりを迎えようとする秋のころ。
戦場で負傷し、記憶を失ったイギリス陸軍大尉ジョン・スミス(ロナルド・コールマン)は、軍人障害者施設に入院しています。
自分が何者なのかを知ることのできないもどかしさを感じている彼は、ある日、病院を抜け出し、街に出かけます。
折しも街では終戦を祝う祝賀ムードの喧騒にあふれ、雑踏を避けようと入った煙草屋で、ジョン・スミスは旅芸人の踊子ポーラ・リッジウェイ(グリア・ガースン)に出会います。
記憶喪失のスミスに同情し、深いやさしさと美貌を持ったポーラにジョン・スミスは惹かれ、やがて二人は恋に落ちます。
ポーラは踊子を辞め、記憶は戻らず体調も思わしくないジョン・スミスと二人で喧騒の街を離れ、小川が流れ、庭に桜の木が枝を伸ばしている、ある静かな田舎の小さな家で暮らし始めます。
ポーラは、ジョン・スミスを愛称の「スミシー」と呼び、二人だけの穏やかな生活の中でポーラは妊娠、子どもが生まれます。
文才のあったジョン・スミスは執筆を始め、原稿を見た新聞社から採用通知を受け取ったスミシーはリバプールへ出かけますが、路上で車にはねられてしまいます。
怪我は大したことはなく、意識を回復したスミシーは、なぜ自分がここに居るのか理解できません。事故のショックで、記憶喪失になる以前の自分がよみがえり、逆に記憶を失ってからのポーラとの生活のすべての記憶が消失してしまっていました。
以前の記憶が戻り、ジョン・スミス(スミシー)ではなく、チャールズ・レニアとしての過去を取り戻して自宅へ帰ったチャールズは、父の葬儀と、遺言によって莫大な遺産を相続し、富豪としての生活を送ることになるのですが、ただ、ひとつの気がかりとして、事故の時に身につけていた玄関の鍵と思われる鍵と、なぜ自分は事故のときにリバプールにいたのか、という疑問がつきまといます。
一方、自宅へ戻ったチャールズに恋心を持つ少女がいました。
チャールズには姪にあたるキティ(スーザン・ピータース)です。姉の娘ではあるが、実の娘ではなく、夫の連れ子であるキティとは血のつながりがないため、キティはチャールズへの愛を燃やします。
実業家として成功したチャールズのオフィスには、子どもを失った失意のポーラが、マーガレット・ハンソンと名前を変えて、秘書として雇われていました。チャールズの現在を知り、自分とのつながりを失ってしまったと悟ったポーラは、なんとか彼の記憶を取り戻そうと考えるのですが、チャールズはポーラに気づくこともなく、月日は過ぎてゆきます。
キティとの交際は続き、彼女の愛を受け入れようと、やがてチャールズはキティとの婚約に踏み切りますが、チャールズには空白の記憶が障害となって心にわだかまり、そんなチャールズの気持ちを察したキティは自ら身を引いてゆきます。
時は流れ、国政選挙に打って出たチャールズは当選を果たし、政治家として活動を始めます。そして、それまで秘書として自分を支えてくれたマーガレットを妻として迎えようと考えます。
しかし、自分の愛を受け入れてくれたマーガレットには、誰か自分以外の男性の影がつきまとっていることを知ります。
どこかちぐはぐな関係を続けていたチャールズ(スミシー)とマーガレット(ポーラ)でしたが、どうしても彼の記憶が戻らないことに悲観したマーガレットはチャールズから離れ、南米へと旅経つ決心をします。
マーガレットの心が理解できないまま、チャールズは駅までマーガレットを見送り、所要で向かったメルブリッジの街でストライキに遭遇。やがて事なきを得たストライキの歓喜と喧騒の中、記憶の断片が現れ、知るはずのない煙草屋に立ち寄ったことから、おぼろげな記憶がよみがえりはじめます。
数年前の事故のとき、自分はなぜリバプールにいたのか、チャールズは記憶を追い求め、小川の流れる一軒の小さな家にたどり着きます。
一方、チャールズが記憶を取り戻しはじめたことを知ったマーガレットは、かつて彼をスミシーと呼び、仲睦まじく暮らしていた自分たちの家へと急ぎます。
軋んだ庭の扉を開け、桜の枝に頭をひっかけたチャールズは、鮮明になろうとする過去の思い出の中で、手にしていた鍵で家のドアを開けると、背後から彼の名前を呼ぶ声が響きます。
「スミシー!」
記憶喪失を題材にした作品にはアンリ・コルピ監督、アリダ・ヴァリ主演の「かくも長き不在」(1961年フランス )などの名作があり、戦争の暗い影が背景に重く揺らいでいます。ハリソン・フォードが主演した「心の旅」(1991年 マイク・ニコルズ監督)は、ややエンターテインメントに傾きましたが、自己を見つめ直す一人の男の姿が感動を呼びました。
また、手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」の一連の作品の中で「ネコと庄造と」では、ヒューマニズムにあふれる「ブラック・ジャック」の中でも特に胸に残る佳作でした。
「心の旅路」は、「哀愁」(1940年)、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「ガス燈」(1944年)、「傷だらけの栄光」(1956年)などで手腕を発揮して、アカデミー撮影賞で数々の受賞をしたジョセフ・ルッテンバーグのすぐれた映像と、「心の旅路」と同年の「ミニヴァー夫人」でアカデミー主演女優賞を受賞したグリア・ガースンのスケールの大きな演技が生んだ名作です。
しかし、この映画はグリア・ガースンにとどまらず、チャールズを恋する一途な少女キティを演じたスーザン・ピータース(狩猟事故による後遺症で1952年に31歳の若さで死去)も助演女優賞候補になるなど脇役も素晴らしく、「ミニヴァー夫人」でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたヘンリー・トラヴァースも村の医者として顔をのぞかせています。
また、一度見たら忘れがたい風貌を持ったウナ・オコナー。ジョン・スミスとポーラの出会いの場所となる煙草屋の女店主で、この人は、ビリー・ワイルダー監督の傑作ミステリー「情婦」(1957年 タイロン・パワー主演)でのアクの強い家政婦役は、主演のマレーネ・ディートリッヒと共に強く印象に残りました。
ただ、チャールズが記憶を取り戻してゆく過程では、なんとなく都合が良すぎるような印象がありますが、そういった欠点も、ラストで二人が抱き合う感動的なシーンで吹き飛んでしまうくらいのもの。
「哀愁」(1940年)を手がけ、後に「キュリー夫人」(1943年)、「若草物語」(1949年)などの名作も手がけた名匠マーヴィン・ルロイのメロドラマの名作。
2021年01月14日
映画「死刑執行人もまた死す」‐ ナチス副総督ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を背景にした傑作サスペンス
「死刑執行人もまた死す」(Hangmen Also Die!)
1943年 アメリカ
監督フリッツ・ラング
原案フリッツ・ラング
ベルトルト・ブレヒト
脚本ジョン・ウェクスリー
撮影ジェームズ・ウォン・ハウ
音楽ハンス・アイスラー
〈キャスト〉
ブライアン・ドンレヴィ ウォルター・ブレナン
アンナ・リー ジーン・ロックハート
ヴェネツィア国際映画祭特別賞
ナチス占領下のプラハで実際に起きたナチス副総督、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を背景に、ナチスに抑圧されたチェコの民衆、そして反ナチの活動家たちの暗躍と悲劇を、重厚でリアリティーあふれる中に娯楽性を織り交ぜた傑作。
第二次世界大戦下のヨーロッパ、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)で、統治者であるラインハルト・ハイドリヒが何者かに狙撃されます。
ゲシュタポ(国家秘密警察)は犯人捜索を開始。
そんな中、マーシャ・ノヴォトニー(アンナ・リー)は、立ち寄った八百屋の店先で不審な男を目撃しますが、ゲシュタポから男の行方を尋ねられたマーシャは、男の逃げた道とは反対の方角を教えます。
しかし、その男との偶然の出会いが、マーシャとその家族にとっては波乱の要因となるものでした。
夜の8時以降の外出が禁止されているその日、マーシャの家にひとりの男が現れます。
ヴァニヤックと名乗るその男(ブライアン・ドンレヴィ)は、ゲシュタポを欺いて自分を助けてくれたマーシャにお礼を言いに来たのですが、マーシャの父、ステファン・ノヴォトニー教授(ウォルター・ブレナン)とも親しくなる中、その夜は遅くなったので帰宅することのできなくなったヴァニヤックはマーシャの家で一夜を過ごすことになります。
犯人追求のゲシュタポの手は、嘘をつかれたマーシャの身辺に及び、怪しい男ヴァニヤックをかくまっていたマーシャ一家へと疑惑が移り、やがてノヴォトニー教授はゲシュタポに連れ去られ、プラハの市民たちも人質のために連行されることになります。
父が連れ去られ、処刑されることを恐れたマーシャは、ヴァニヤックのために事件に巻き込まれたことを憤り、ヴァニヤックの居所を突き止め、自首をすすめますが、ヴァニヤックに断られたマーシャはゲシュタポ本部へ通報しようとします。
しかし、プラハ市民やレジスタンスは巧妙にそれを察知し、マーシャの通報を阻みます。
一連の騒動を不審に思ったゲシュタポは、犯人が名乗り上げるまで、連行した市民たちを次々と処刑する方策へと非情性を表していきます。
レジスタンス内部でも動揺が広がる中、ヴァニヤックは自分が自首することもなく、市民たちの処刑を止められる一計を考えつきます。
それは、レジスタンスの中に紛れ込んでいるゲシュタポのスパイ、ビール工場の持ち主、チャカ(ジーン・ロックハート)を犯人に仕立て上げることでした。
レジスタンスの仕組んだ罠の中に入り込みそうになったチャカでしたが、彼には絶対ともいえるアリバイが切り札として残っており、それを証明してくれる警察主任クリューバーの存在が鍵となったのですが、そのクリューバーは行方不明となっていて、クリューバーは後に死体となって発見されます。
ヒロイン、マーシャや、その父で教授のステファン・ノヴォトニー、謎めいたヴァニヤックなど、個性的な人物たちが登場する中で、悪賢く立ち回ろうとするチャカの存在が映画に面白いドラマ性を添えています。
ビール工場主で秘密警察とも内通してレジスタンスの分裂を図ろうとするチャカ。
しかしチャカの悪だくみは自分自身へと跳ね返り、レジスタンスの仕掛けた罠にはまり込んで、ハイドリヒ暗殺事件の犯人として射殺されてしまいます。
このチャカの存在はイソップ物語の寓話を連想させて面白いし、自らの保身のために選んだ策略に自らがはまり込む人間的な哀れさが、なんとなく同情を起こさせてしまう滑稽さも含んでいて印象的でした。
製作が戦時中の1943年で、監督のフリッツ・ラングや原案を担当したベルトルト・ブレヒト、音楽のハンス・アイスラーなど、ドイツからの亡命者によって作られているので、映画としてはナチスに対するプロパガンダの要素を持っていることは確かなのですが、にも関わらず、スリリングな展開や巧妙なストーリーなど、一瞬も目を離せない面白さを持った娯楽要素をタップリと含んでいて、映画史に残る傑作といえます。
映画の背景となっているのは、チェコのイギリス亡命政府などが計画した“エンスポライド作戦”と呼ばれるラインハルト・ハイドリヒ暗殺計画で、当時、秘密警察をも束ねた国家保安本部の長官で、ユダヤ人や他の人種問題を扱っていたハイドリヒは、その冷酷さから“金髪の野獣”“絞首刑人”の異名をもって恐れられていた人物。
映画「死刑執行人もまた死す」は、ハイドリヒ暗殺事件そのものを扱うのではなく、ナチスによる抑圧から解放されたいと願うプラハの市民、そして地下に潜って活動を続けるレジスタンスたちの活動を、暗殺事件を背景に力強く描いたものです。
監督は、「メトロポリス」(1927年)、「月世界の女」(1928年)、「M」(1931年)などの巨匠フリッツ・ラング。
原案には、詩や戯曲などで世界的な影響を与えたベルトルト・ブレヒト。
ヒロイン、マーシャに「わが谷は緑なりき」(1941年)、「アパッチ砦」(1948年)、「馬上の二人」(1961年)など、巨匠ジョン・フォードとも縁の深い美人女優アンナ・リー。
マーシャの父親で大学教授のステファンに、「西部の男」(1940年)でアカデミー賞助演男優賞を受賞。その後「ヨーク軍曹」(1941年)、「荒野の決闘」(1946年)などで、善人や悪役など幅広い演技力を持つウォルター・ブレナン。
特に、「リオ・ブラボー」(1959年)では飄々とした味わいを残しました。
事件の犯人ヴァニヤック(フランツ・スヴォボダ医師)に「大平原」(1939年)、「砂塵」(1939年)、「死の接吻」(1947年)のブライアン・ドンレヴィ。
ゲシュタポに内通するビール工場主チャカに、「群衆」(1941年)、「壮烈第七騎兵隊」(1941年)、「三十四丁目の奇蹟」(1947年)のジーン・ロックハート。
アルフレッド・ヒッチコックばりのとても面白いサスペンス映画であるため、映画が製作された1943年という時代を忘れそうになるほどなのですが、ラストに使われた「NOT THE END」(終わりではない)は、現在もまだ続いているナチスの蛮行と、それと戦い、自由をつかもうとする民衆蜂起を訴えるようなラストの余韻は、映画の世界から一気に現実の狂気の時代へと引き戻され、その時代に苦難をなめた人々の悲痛な思いが伝わってきます。
1943年 アメリカ
監督フリッツ・ラング
原案フリッツ・ラング
ベルトルト・ブレヒト
脚本ジョン・ウェクスリー
撮影ジェームズ・ウォン・ハウ
音楽ハンス・アイスラー
〈キャスト〉
ブライアン・ドンレヴィ ウォルター・ブレナン
アンナ・リー ジーン・ロックハート
ヴェネツィア国際映画祭特別賞
ナチス占領下のプラハで実際に起きたナチス副総督、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件を背景に、ナチスに抑圧されたチェコの民衆、そして反ナチの活動家たちの暗躍と悲劇を、重厚でリアリティーあふれる中に娯楽性を織り交ぜた傑作。
第二次世界大戦下のヨーロッパ、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)で、統治者であるラインハルト・ハイドリヒが何者かに狙撃されます。
ゲシュタポ(国家秘密警察)は犯人捜索を開始。
そんな中、マーシャ・ノヴォトニー(アンナ・リー)は、立ち寄った八百屋の店先で不審な男を目撃しますが、ゲシュタポから男の行方を尋ねられたマーシャは、男の逃げた道とは反対の方角を教えます。
しかし、その男との偶然の出会いが、マーシャとその家族にとっては波乱の要因となるものでした。
夜の8時以降の外出が禁止されているその日、マーシャの家にひとりの男が現れます。
ヴァニヤックと名乗るその男(ブライアン・ドンレヴィ)は、ゲシュタポを欺いて自分を助けてくれたマーシャにお礼を言いに来たのですが、マーシャの父、ステファン・ノヴォトニー教授(ウォルター・ブレナン)とも親しくなる中、その夜は遅くなったので帰宅することのできなくなったヴァニヤックはマーシャの家で一夜を過ごすことになります。
犯人追求のゲシュタポの手は、嘘をつかれたマーシャの身辺に及び、怪しい男ヴァニヤックをかくまっていたマーシャ一家へと疑惑が移り、やがてノヴォトニー教授はゲシュタポに連れ去られ、プラハの市民たちも人質のために連行されることになります。
父が連れ去られ、処刑されることを恐れたマーシャは、ヴァニヤックのために事件に巻き込まれたことを憤り、ヴァニヤックの居所を突き止め、自首をすすめますが、ヴァニヤックに断られたマーシャはゲシュタポ本部へ通報しようとします。
しかし、プラハ市民やレジスタンスは巧妙にそれを察知し、マーシャの通報を阻みます。
一連の騒動を不審に思ったゲシュタポは、犯人が名乗り上げるまで、連行した市民たちを次々と処刑する方策へと非情性を表していきます。
レジスタンス内部でも動揺が広がる中、ヴァニヤックは自分が自首することもなく、市民たちの処刑を止められる一計を考えつきます。
それは、レジスタンスの中に紛れ込んでいるゲシュタポのスパイ、ビール工場の持ち主、チャカ(ジーン・ロックハート)を犯人に仕立て上げることでした。
レジスタンスの仕組んだ罠の中に入り込みそうになったチャカでしたが、彼には絶対ともいえるアリバイが切り札として残っており、それを証明してくれる警察主任クリューバーの存在が鍵となったのですが、そのクリューバーは行方不明となっていて、クリューバーは後に死体となって発見されます。
ヒロイン、マーシャや、その父で教授のステファン・ノヴォトニー、謎めいたヴァニヤックなど、個性的な人物たちが登場する中で、悪賢く立ち回ろうとするチャカの存在が映画に面白いドラマ性を添えています。
ビール工場主で秘密警察とも内通してレジスタンスの分裂を図ろうとするチャカ。
しかしチャカの悪だくみは自分自身へと跳ね返り、レジスタンスの仕掛けた罠にはまり込んで、ハイドリヒ暗殺事件の犯人として射殺されてしまいます。
このチャカの存在はイソップ物語の寓話を連想させて面白いし、自らの保身のために選んだ策略に自らがはまり込む人間的な哀れさが、なんとなく同情を起こさせてしまう滑稽さも含んでいて印象的でした。
製作が戦時中の1943年で、監督のフリッツ・ラングや原案を担当したベルトルト・ブレヒト、音楽のハンス・アイスラーなど、ドイツからの亡命者によって作られているので、映画としてはナチスに対するプロパガンダの要素を持っていることは確かなのですが、にも関わらず、スリリングな展開や巧妙なストーリーなど、一瞬も目を離せない面白さを持った娯楽要素をタップリと含んでいて、映画史に残る傑作といえます。
映画の背景となっているのは、チェコのイギリス亡命政府などが計画した“エンスポライド作戦”と呼ばれるラインハルト・ハイドリヒ暗殺計画で、当時、秘密警察をも束ねた国家保安本部の長官で、ユダヤ人や他の人種問題を扱っていたハイドリヒは、その冷酷さから“金髪の野獣”“絞首刑人”の異名をもって恐れられていた人物。
映画「死刑執行人もまた死す」は、ハイドリヒ暗殺事件そのものを扱うのではなく、ナチスによる抑圧から解放されたいと願うプラハの市民、そして地下に潜って活動を続けるレジスタンスたちの活動を、暗殺事件を背景に力強く描いたものです。
監督は、「メトロポリス」(1927年)、「月世界の女」(1928年)、「M」(1931年)などの巨匠フリッツ・ラング。
原案には、詩や戯曲などで世界的な影響を与えたベルトルト・ブレヒト。
ヒロイン、マーシャに「わが谷は緑なりき」(1941年)、「アパッチ砦」(1948年)、「馬上の二人」(1961年)など、巨匠ジョン・フォードとも縁の深い美人女優アンナ・リー。
マーシャの父親で大学教授のステファンに、「西部の男」(1940年)でアカデミー賞助演男優賞を受賞。その後「ヨーク軍曹」(1941年)、「荒野の決闘」(1946年)などで、善人や悪役など幅広い演技力を持つウォルター・ブレナン。
特に、「リオ・ブラボー」(1959年)では飄々とした味わいを残しました。
事件の犯人ヴァニヤック(フランツ・スヴォボダ医師)に「大平原」(1939年)、「砂塵」(1939年)、「死の接吻」(1947年)のブライアン・ドンレヴィ。
ゲシュタポに内通するビール工場主チャカに、「群衆」(1941年)、「壮烈第七騎兵隊」(1941年)、「三十四丁目の奇蹟」(1947年)のジーン・ロックハート。
アルフレッド・ヒッチコックばりのとても面白いサスペンス映画であるため、映画が製作された1943年という時代を忘れそうになるほどなのですが、ラストに使われた「NOT THE END」(終わりではない)は、現在もまだ続いているナチスの蛮行と、それと戦い、自由をつかもうとする民衆蜂起を訴えるようなラストの余韻は、映画の世界から一気に現実の狂気の時代へと引き戻され、その時代に苦難をなめた人々の悲痛な思いが伝わってきます。
2021年01月07日
映画「ブレイブ ワン」‐ ニューヨークの夜に浮かび上がるもう一人の自分, そして衝撃のラストへ
「ブレイブ ワン」(The Brave One ) 2007年
アメリカ / オーストラリア
監督ニール・ジョーダン
脚本ロドリック・テイラー
ブルース・A・テイラー
シンシア・モート
音楽ダリオ・マリアネッリ
撮影フィリップ・ルースロ
〈キャスト〉
ジョディ・フォスター テレンス・ハワード
メアリー・スティーンバージェン
結論から言ってしまえば、女性版「狼よさらば」。
1972年にマイケル・ウィナー監督、チャールズ・ブロンソン主演で作られた「狼よさらば」は、街のチンピラグループに妻を殺され、娘をレイプされた男が、かつてアメリカに根付いていた自警の精神に目覚め、銃を手に入れて犯罪者を処刑(射殺)していくという話でした。
あきらかに「狼よさらば」を下敷きにしたと思われる「ブレイブ ワン」なのですが、違うところは、主人公が男性ではなく若い女性(多少無理はありますが)であるということと、「狼よさらば」が妻子を凌辱した犯人に対する復讐劇ではなく、社会の悪そのものに目を向けられていたのに対し、「ブレイブ ワン」では犯人への復讐に主眼が置かれていること。
エリカ・ベイン(ジョディ・フォスター)はニューヨークでラジオパーソナリティーを務め、恋人デイビッド(ナヴィーン・アンドリュース)との結婚を目前に控えて幸せな日々を送っています。
そんな二人は夜、デイビッドの愛犬を連れて散歩の途中、三人の暴漢にからまれ、袋叩きにされてデイビッドは死亡、エリカは一命をとりとめますが、事件の衝撃から立ち直ることができず、心に傷を負ったまま外出もできない状態が続きます。
警察は事件の捜査をつづけますが、警察署の対応に嫌気がさしたエリカは護身のための銃を買おうと銃器店に入りますが、ライセンス取得のために日数を要すると言われ、銃の購入をあきらめかけた直後、アジア系の男に声をかけられ、闇でオートマチックの拳銃を手に入れます。
ある夜、買い物のために立ち寄ったコンビニエンスストアでエリカは強盗事件に遭遇。店主の女性を射殺した犯人に追い詰められながらも、エリカは強盗を射殺してしまいます。
コンビニ事件を担当したショーン・マーサー刑事(テレンス・ハワード)とも親しくなる中、エリカの中でもう一人の自分が目覚め、地下鉄の暴漢を平然と射殺する、歯止めのきかない自分に気づきます。
事件を捜査するマーサー刑事は、犯人が男性ではなく女性であることに気づき、親しくなったエリカの言動に不審を抱くようになります。
やがて、エリカを襲った暴漢グループの所在が明るみに出始め、破滅を覚悟したエリカはマーサーに別れのメッセージを残し、ひとり、復讐の死地へと向かいます。
「狼よさらば」でもそうでしたが、法の裁きを経ずに犯罪者を処刑してゆく人間に対して、世論からは賛否両論の声が上がります。そして、それはそのまま、映画を見ている私たち観客に対してへの問いかけでもあります。エリカ・ベインのやっていることは正しいのか?
私たちは無法地帯に暮らしているわけではなく、法治国家に住んでいる以上、どんな犯罪者であろうとも法の裁きを経て審判が下されなければいけない。
だから、エリカは間違っている。
しかし、そう単純に決められないところに人間社会の、モヤモヤとした複雑さがあります。
「ブレイブ ワン」でエリカ・ベインの犯す殺人の設定には同じパターンはなくて、コンビニ強盗であったり、地下鉄の暴漢であったり、セックスにからんだ娼婦への暴行、さらに、マーサー刑事たちが追いかけながらも捕まえることできなかった犯罪組織の極悪なボスなどが登場しますが、これは社会悪の暴力の象徴として考えることができます。
それらを抹殺する中でエリカは煩悶します。殺さなくても、銃で脅すだけでよかったのではないか。
しかしまた、人間には自分で気づかないもう一人の自分がいることに気づくことがあります。
「アラビアのロレンス」(1962年)の中で、重傷を負って、とても助かる見込みがないと分かったロレンスの従者の少年を、楽にしてあげようとロレンスが銃で撃ち殺してしまう場面があります。
しかしロレンスは一発で仕留めるのではなく、二発三発と少年の体に銃弾を撃ち込みます。
そのときの邪悪な自分を振り返ってロレンスはこう言います。
「私は彼を殺すことを楽しんでいた」
「ブレイブ ワン」のラストでは、エリカの復讐が遂げられようとしている場面を私たちは目撃するのですが、そこへ現れたマーサー刑事の視点に立って、自分ならどうするだろうという問いかけが突きつけられます。
エリカの殺人をやめさせ、法に従うようエリカを説得するのか、それとも…。
マーサー刑事は「合法的な銃を使え」とエリカに自分の銃を渡し、復讐を遂げさせます。
このラストを、間違っている、と感じるのが正常な感覚であるかとも思います。法の番人たる警察官が殺人に手を貸したのですから。
「目には目を 歯には歯を」は、やられたらやり返せという意味ではありませんが、人の命を奪った者に対しては、その人の命で償うのが本当だと思いますから(明確に犯人が特定された場合に限ります)、映画としての、このラストはいささか衝撃的でしたが、個人的には納得してしまいました。
監督は、「クライング・ゲーム」(1992年)、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994年)のニール・ジョーダン。
ヒロイン、エリカ・ベインに、「ダウンタウン物語」、「タクシードライバー」(1976年)で天才子役と騒がれながらも映画界を離れ、後に「告発の行方」(1988年)、「羊たちの沈黙」(1991年)で二度オスカーを受賞したジョディ・フォスター。
エリカの心のよりどころとなるマーサー刑事に、「クラッシュ」、「Ray/レイ」(2004年)などのテレンス・ハワード。
ラジオ局のディレクター、キャロルに「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」(1990年)、「ギルバート・ブレイク」(1993年)、「ニクソン」(1995年)などの実力派で、1980年の「メルビンとハワード」ではアカデミー賞、ゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞しているメアリー・スティーンバージェン。
暴力という社会的で普遍的なテーマとエンターテインメントをうまく一つにまとめ上げた見応えのある映画。
ただ、欲を言えば、ジョディ・フォスターもいいのですが、さすがに40代半ばに達していて、これから結婚しようという女性を演じるにはちょっと無理があったかなあ。
一度結婚に失敗して、新たな幸せをつかめると思った矢先に暴力事件に巻き込まれるとか、そんなほうが良かったような気もしました。
「羊たちの沈黙」のころだと良かったのですがね。
アメリカ / オーストラリア
監督ニール・ジョーダン
脚本ロドリック・テイラー
ブルース・A・テイラー
シンシア・モート
音楽ダリオ・マリアネッリ
撮影フィリップ・ルースロ
〈キャスト〉
ジョディ・フォスター テレンス・ハワード
メアリー・スティーンバージェン
結論から言ってしまえば、女性版「狼よさらば」。
1972年にマイケル・ウィナー監督、チャールズ・ブロンソン主演で作られた「狼よさらば」は、街のチンピラグループに妻を殺され、娘をレイプされた男が、かつてアメリカに根付いていた自警の精神に目覚め、銃を手に入れて犯罪者を処刑(射殺)していくという話でした。
あきらかに「狼よさらば」を下敷きにしたと思われる「ブレイブ ワン」なのですが、違うところは、主人公が男性ではなく若い女性(多少無理はありますが)であるということと、「狼よさらば」が妻子を凌辱した犯人に対する復讐劇ではなく、社会の悪そのものに目を向けられていたのに対し、「ブレイブ ワン」では犯人への復讐に主眼が置かれていること。
エリカ・ベイン(ジョディ・フォスター)はニューヨークでラジオパーソナリティーを務め、恋人デイビッド(ナヴィーン・アンドリュース)との結婚を目前に控えて幸せな日々を送っています。
そんな二人は夜、デイビッドの愛犬を連れて散歩の途中、三人の暴漢にからまれ、袋叩きにされてデイビッドは死亡、エリカは一命をとりとめますが、事件の衝撃から立ち直ることができず、心に傷を負ったまま外出もできない状態が続きます。
警察は事件の捜査をつづけますが、警察署の対応に嫌気がさしたエリカは護身のための銃を買おうと銃器店に入りますが、ライセンス取得のために日数を要すると言われ、銃の購入をあきらめかけた直後、アジア系の男に声をかけられ、闇でオートマチックの拳銃を手に入れます。
ある夜、買い物のために立ち寄ったコンビニエンスストアでエリカは強盗事件に遭遇。店主の女性を射殺した犯人に追い詰められながらも、エリカは強盗を射殺してしまいます。
コンビニ事件を担当したショーン・マーサー刑事(テレンス・ハワード)とも親しくなる中、エリカの中でもう一人の自分が目覚め、地下鉄の暴漢を平然と射殺する、歯止めのきかない自分に気づきます。
事件を捜査するマーサー刑事は、犯人が男性ではなく女性であることに気づき、親しくなったエリカの言動に不審を抱くようになります。
やがて、エリカを襲った暴漢グループの所在が明るみに出始め、破滅を覚悟したエリカはマーサーに別れのメッセージを残し、ひとり、復讐の死地へと向かいます。
「狼よさらば」でもそうでしたが、法の裁きを経ずに犯罪者を処刑してゆく人間に対して、世論からは賛否両論の声が上がります。そして、それはそのまま、映画を見ている私たち観客に対してへの問いかけでもあります。エリカ・ベインのやっていることは正しいのか?
私たちは無法地帯に暮らしているわけではなく、法治国家に住んでいる以上、どんな犯罪者であろうとも法の裁きを経て審判が下されなければいけない。
だから、エリカは間違っている。
しかし、そう単純に決められないところに人間社会の、モヤモヤとした複雑さがあります。
「ブレイブ ワン」でエリカ・ベインの犯す殺人の設定には同じパターンはなくて、コンビニ強盗であったり、地下鉄の暴漢であったり、セックスにからんだ娼婦への暴行、さらに、マーサー刑事たちが追いかけながらも捕まえることできなかった犯罪組織の極悪なボスなどが登場しますが、これは社会悪の暴力の象徴として考えることができます。
それらを抹殺する中でエリカは煩悶します。殺さなくても、銃で脅すだけでよかったのではないか。
しかしまた、人間には自分で気づかないもう一人の自分がいることに気づくことがあります。
「アラビアのロレンス」(1962年)の中で、重傷を負って、とても助かる見込みがないと分かったロレンスの従者の少年を、楽にしてあげようとロレンスが銃で撃ち殺してしまう場面があります。
しかしロレンスは一発で仕留めるのではなく、二発三発と少年の体に銃弾を撃ち込みます。
そのときの邪悪な自分を振り返ってロレンスはこう言います。
「私は彼を殺すことを楽しんでいた」
「ブレイブ ワン」のラストでは、エリカの復讐が遂げられようとしている場面を私たちは目撃するのですが、そこへ現れたマーサー刑事の視点に立って、自分ならどうするだろうという問いかけが突きつけられます。
エリカの殺人をやめさせ、法に従うようエリカを説得するのか、それとも…。
マーサー刑事は「合法的な銃を使え」とエリカに自分の銃を渡し、復讐を遂げさせます。
このラストを、間違っている、と感じるのが正常な感覚であるかとも思います。法の番人たる警察官が殺人に手を貸したのですから。
「目には目を 歯には歯を」は、やられたらやり返せという意味ではありませんが、人の命を奪った者に対しては、その人の命で償うのが本当だと思いますから(明確に犯人が特定された場合に限ります)、映画としての、このラストはいささか衝撃的でしたが、個人的には納得してしまいました。
監督は、「クライング・ゲーム」(1992年)、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994年)のニール・ジョーダン。
ヒロイン、エリカ・ベインに、「ダウンタウン物語」、「タクシードライバー」(1976年)で天才子役と騒がれながらも映画界を離れ、後に「告発の行方」(1988年)、「羊たちの沈黙」(1991年)で二度オスカーを受賞したジョディ・フォスター。
エリカの心のよりどころとなるマーサー刑事に、「クラッシュ」、「Ray/レイ」(2004年)などのテレンス・ハワード。
ラジオ局のディレクター、キャロルに「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」(1990年)、「ギルバート・ブレイク」(1993年)、「ニクソン」(1995年)などの実力派で、1980年の「メルビンとハワード」ではアカデミー賞、ゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞しているメアリー・スティーンバージェン。
暴力という社会的で普遍的なテーマとエンターテインメントをうまく一つにまとめ上げた見応えのある映画。
ただ、欲を言えば、ジョディ・フォスターもいいのですが、さすがに40代半ばに達していて、これから結婚しようという女性を演じるにはちょっと無理があったかなあ。
一度結婚に失敗して、新たな幸せをつかめると思った矢先に暴力事件に巻き込まれるとか、そんなほうが良かったような気もしました。
「羊たちの沈黙」のころだと良かったのですがね。