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2017年09月20日
離乳食の頃
母は繰り返し私の幼かった頃の話をしてくれました。それは、どれほど幼い私が可愛らしくて、賢い子どもで、母にとっての自慢の娘だったかという内容です。ほんの小さな子どもだった頃から、つい先だっての電話でも、母の口をついて出るのは幼かった頃の私の話です。
例えば話はこんな風なものです。離乳食の時期だというので、母はうどんを柔らかく煮て人肌に冷まし、そしていつものように「今日こそは無事に食べてくれるだろうか」と胸の鼓動を高鳴らせ、歩行器に入れられた幼い子どもの前へやってきます。
そして更にうどんをふ〜ふ〜と冷まして、子どもの口に入れます。しかし間も無く子どもは口を噤んでしまいます。いくら「はい、お口をあ〜んと開けて」とやっても、もう子どもは口を開きません。しかし、おもしろいもので赤ん坊のくせにネギを見せるとその時だけ口を開きます。そこで母の作戦は、口を噤んでしまったら、ネギを囮にして口を開けさせ、その隙にうどんを口の中に突っ込むというものでした。
けれども、その内に赤ん坊はネギ囮作戦にも騙されなくなり、口を噤んだままイヤイヤを続け、ついに小さな手をうどんの器の中に突っ込み、うどんを鷲掴みにするや否や、母の顔をうどんで往復ビンタをしたというのです。
母はこの話をするのが大好きで、もう何百回も、私がうどんを鷲掴みにして往復ビンタする様を実演しながら、実に愉しそうに話してくれました。ネギに騙される赤ん坊の浅知恵と、結局まんまと復讐を成功させる赤ん坊の賢さの両方が可愛くて面白くて仕方ないという様子でした。
他にも、バナナのエピソードがありました。食べさせようと思って出しておいたバナナがいつの間にかなくなっていて、まだハイハイしかできない赤ん坊の私が犯人とは思わず、あちこち探してもない。まだ言葉も話せない赤ん坊に「バナナ、どこいったか知らない?」と尋ねると、玄関の方を指差す。でもそれが赤ん坊がハイハイしてバナナを隠しにいった場所だとは夢にもは思わず、お台所や部屋を探し回り見つからずに諦めてしまう。ところが夕方になってポストを開けると、郵便物と一緒にバナナも出て来るというものです。
この話には別バージョンもあって、数回バナナを郵便ポストに入れたのち、今度は傘立ての傘の中に隠すというのもありました。どこを探しても見つからなかったバナナが、雨の日に傘を開こうとすると傘の中から落っこちてきたというものでした。
母はこれらの話を、私がどれだけ賢い子だったかというエピソードとして幾度も幾度も話してくれました。この話をする時、母は毎回相好を崩して、本当に面白くってたまらないというように話してくれました。
ですから、私もうどんやバナナのエピソードは、幼い私がどれだけ母に愛されていたのか、可愛がられていたのかという内容として長年捉えていました。乳児の頃のミルク噴水事件も、若い母がどれだけ手間をかけて赤ん坊に向き合い愛情を注いでいたかというエピソードとして捉えていました。
例えば話はこんな風なものです。離乳食の時期だというので、母はうどんを柔らかく煮て人肌に冷まし、そしていつものように「今日こそは無事に食べてくれるだろうか」と胸の鼓動を高鳴らせ、歩行器に入れられた幼い子どもの前へやってきます。
そして更にうどんをふ〜ふ〜と冷まして、子どもの口に入れます。しかし間も無く子どもは口を噤んでしまいます。いくら「はい、お口をあ〜んと開けて」とやっても、もう子どもは口を開きません。しかし、おもしろいもので赤ん坊のくせにネギを見せるとその時だけ口を開きます。そこで母の作戦は、口を噤んでしまったら、ネギを囮にして口を開けさせ、その隙にうどんを口の中に突っ込むというものでした。
けれども、その内に赤ん坊はネギ囮作戦にも騙されなくなり、口を噤んだままイヤイヤを続け、ついに小さな手をうどんの器の中に突っ込み、うどんを鷲掴みにするや否や、母の顔をうどんで往復ビンタをしたというのです。
母はこの話をするのが大好きで、もう何百回も、私がうどんを鷲掴みにして往復ビンタする様を実演しながら、実に愉しそうに話してくれました。ネギに騙される赤ん坊の浅知恵と、結局まんまと復讐を成功させる赤ん坊の賢さの両方が可愛くて面白くて仕方ないという様子でした。
他にも、バナナのエピソードがありました。食べさせようと思って出しておいたバナナがいつの間にかなくなっていて、まだハイハイしかできない赤ん坊の私が犯人とは思わず、あちこち探してもない。まだ言葉も話せない赤ん坊に「バナナ、どこいったか知らない?」と尋ねると、玄関の方を指差す。でもそれが赤ん坊がハイハイしてバナナを隠しにいった場所だとは夢にもは思わず、お台所や部屋を探し回り見つからずに諦めてしまう。ところが夕方になってポストを開けると、郵便物と一緒にバナナも出て来るというものです。
この話には別バージョンもあって、数回バナナを郵便ポストに入れたのち、今度は傘立ての傘の中に隠すというのもありました。どこを探しても見つからなかったバナナが、雨の日に傘を開こうとすると傘の中から落っこちてきたというものでした。
母はこれらの話を、私がどれだけ賢い子だったかというエピソードとして幾度も幾度も話してくれました。この話をする時、母は毎回相好を崩して、本当に面白くってたまらないというように話してくれました。
ですから、私もうどんやバナナのエピソードは、幼い私がどれだけ母に愛されていたのか、可愛がられていたのかという内容として長年捉えていました。乳児の頃のミルク噴水事件も、若い母がどれだけ手間をかけて赤ん坊に向き合い愛情を注いでいたかというエピソードとして捉えていました。
2017年09月19日
乳児の頃
今日鍼に行ったら大先生が治療を対応してくださいました。右膝を治療していただいている時「この痛みなら痩せなくても治りますよ」と優しく仰いました。この言葉の裏には多くの意味が含まれており、大先生の一言には優しさと励ましが詰まっていて、とても嬉しいものでした。
しかしそれと同時に、7月から8kg減量していても、まったく気づかれないということの再確認にもなって、ちょっと残念でした。ただ帰りがけに別の先生が「あら、少し痩せました?」と言ってくれました。「ええ、少しだけですが」と答えましたが、今日初めて今回の減量を気づいてくれた人に出会えました。
今日のお昼もコンビニのサラダとミニ冷やし中華、それにヨーグルトでした。工業製品です。これから人生の食生活を振り返ってみようと思います。今日は乳児の頃について書いてみます。
母は、私が生まれてもなかなか母乳が出ず苦労したそうです。そのため私はほぼ粉ミルクで育てられました。哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そして赤ん坊に口元に持っていきます。飲み終えてゲップをさせても横にした途端、赤ん坊は噴水のようにミルクを吹き出すのだそうです。
着ている肌着もお布団も全部取り替えて、それをまだ洗濯機のない時代に手洗いをしなくてはなりません。でも、ミルクを吐き出してしまった赤ん坊は、お腹がすいているので泣き止みません。そこで、また哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そしてまた赤ん坊の口元に持っていこうと思うのですが、また吐き出してしまったらどうしようと思うと、若い母の心臓は高鳴ります。
このようなことを繰り返していくうちに、母が極度の緊張状態で哺乳瓶を持って赤ん坊に近づく度に、その緊張が赤ん坊にも伝わるのかミルクを飲む前から泣き出し、母の鼓動は益々高まっていくという悪循環になっていたそうです。子どもの頃から「本当によその子の何倍も手のかかる子だった」と言われ続けてきました。
時は流れて2004年、浜名湖の花博に母と一緒に出掛けたときのことです。乗り物の列に並んでいたら、近くの乳母車に乗った小さな赤ちゃんが泣き始めました。すると母は私が初めて聞くエピソードを話し始めました。
私の生まれた1960年前後は戦後約15年で、古い因習や迷信から、合理的で科学的な思考に人々の価値観がシフトし始めた頃でした。母によれば、当時育児のお手本といえばアメリカの育児の翻訳本だったそうです。これまでの戦前の育児のやり方とは違い、衛生的で近代的なアメリカ式育児法を母は早速取り入れました。
そのひとつがミルクの与え方でした。赤ちゃんが泣いたらおっぱいをあげるという従来のやり方ではなく、きちんと時間を測って、きちんきちんと時間通りにミルクを与えるという方法です。母の目にはそれが輝くばかりの育児法と映りました。
ところが、ただでさえミルクの噴水芸を得意とする赤ん坊の私は、育児本通りにお腹をすかせるわけではありませんでした。お腹がすいて泣き出しても、時間が来ないとミルクは与えて貰えません。赤ん坊は声を張り上げて泣き続けます。それでも翻訳育児本には一定の間隔を開けることがなにより大切だと書かれています。母は、赤ん坊のことを思えばこそ、心を鬼にして泣かし続けました。
赤ん坊は顔を真っ赤にして空腹を訴えますが、その内声を上げて泣く元気もなくなり、泣き声のトーンが変わっていきます。泣くというよりはヒーヒーというかすれた声だけになっていったそうです。そばにいた祖母(母の母)が声を荒げて「可哀想に。もういい加減ミルクをやりなさい」と叱っても、母は最新鋭の育児法を遵守し続けました。
力の限りを尽くした赤ん坊がくたびれ果てて眠ってしまった頃、ミルクの時間はやってきました。母は寝入りばなの赤ん坊の唇をこじ開け、哺乳瓶の吸い口を捻じ込みました。赤ん坊はむせ返り、またミルクを吐き出し、そして洗濯物が増えていきました。
母は「あの時は本当に可哀想なことをした」と目にうっすらと涙を浮かべました。まだ二十代の若い母の試行錯誤の育児はこのようにして始まりました。
しかしそれと同時に、7月から8kg減量していても、まったく気づかれないということの再確認にもなって、ちょっと残念でした。ただ帰りがけに別の先生が「あら、少し痩せました?」と言ってくれました。「ええ、少しだけですが」と答えましたが、今日初めて今回の減量を気づいてくれた人に出会えました。
今日のお昼もコンビニのサラダとミニ冷やし中華、それにヨーグルトでした。工業製品です。これから人生の食生活を振り返ってみようと思います。今日は乳児の頃について書いてみます。
母は、私が生まれてもなかなか母乳が出ず苦労したそうです。そのため私はほぼ粉ミルクで育てられました。哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そして赤ん坊に口元に持っていきます。飲み終えてゲップをさせても横にした途端、赤ん坊は噴水のようにミルクを吹き出すのだそうです。
着ている肌着もお布団も全部取り替えて、それをまだ洗濯機のない時代に手洗いをしなくてはなりません。でも、ミルクを吐き出してしまった赤ん坊は、お腹がすいているので泣き止みません。そこで、また哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そしてまた赤ん坊の口元に持っていこうと思うのですが、また吐き出してしまったらどうしようと思うと、若い母の心臓は高鳴ります。
このようなことを繰り返していくうちに、母が極度の緊張状態で哺乳瓶を持って赤ん坊に近づく度に、その緊張が赤ん坊にも伝わるのかミルクを飲む前から泣き出し、母の鼓動は益々高まっていくという悪循環になっていたそうです。子どもの頃から「本当によその子の何倍も手のかかる子だった」と言われ続けてきました。
時は流れて2004年、浜名湖の花博に母と一緒に出掛けたときのことです。乗り物の列に並んでいたら、近くの乳母車に乗った小さな赤ちゃんが泣き始めました。すると母は私が初めて聞くエピソードを話し始めました。
私の生まれた1960年前後は戦後約15年で、古い因習や迷信から、合理的で科学的な思考に人々の価値観がシフトし始めた頃でした。母によれば、当時育児のお手本といえばアメリカの育児の翻訳本だったそうです。これまでの戦前の育児のやり方とは違い、衛生的で近代的なアメリカ式育児法を母は早速取り入れました。
そのひとつがミルクの与え方でした。赤ちゃんが泣いたらおっぱいをあげるという従来のやり方ではなく、きちんと時間を測って、きちんきちんと時間通りにミルクを与えるという方法です。母の目にはそれが輝くばかりの育児法と映りました。
ところが、ただでさえミルクの噴水芸を得意とする赤ん坊の私は、育児本通りにお腹をすかせるわけではありませんでした。お腹がすいて泣き出しても、時間が来ないとミルクは与えて貰えません。赤ん坊は声を張り上げて泣き続けます。それでも翻訳育児本には一定の間隔を開けることがなにより大切だと書かれています。母は、赤ん坊のことを思えばこそ、心を鬼にして泣かし続けました。
赤ん坊は顔を真っ赤にして空腹を訴えますが、その内声を上げて泣く元気もなくなり、泣き声のトーンが変わっていきます。泣くというよりはヒーヒーというかすれた声だけになっていったそうです。そばにいた祖母(母の母)が声を荒げて「可哀想に。もういい加減ミルクをやりなさい」と叱っても、母は最新鋭の育児法を遵守し続けました。
力の限りを尽くした赤ん坊がくたびれ果てて眠ってしまった頃、ミルクの時間はやってきました。母は寝入りばなの赤ん坊の唇をこじ開け、哺乳瓶の吸い口を捻じ込みました。赤ん坊はむせ返り、またミルクを吐き出し、そして洗濯物が増えていきました。
母は「あの時は本当に可哀想なことをした」と目にうっすらと涙を浮かべました。まだ二十代の若い母の試行錯誤の育児はこのようにして始まりました。
2017年09月16日
お味噌汁
私の育った家のお味噌汁の具は、必ずお豆腐と油揚げでした。他の具材であったことは記憶にありません。父が偏食だったので、冷や奴があったとしてもお味噌汁は必ずお豆腐と油揚げに決まっていました。
いつの頃からか、母は「最高級の煮干し」で出汁を取るようになりました。その煮干は滅多なことでは手に入らない最高級品なので大切に扱う必要がありました。手で背ワタを取って水から煮出し、沸騰直前に削りたての鰹節を入れて出汁を取りました。栄養素がたくさん含まれているという理由で出汁は布巾では濾さずに煮干と鰹節だけを取り出して利用していました。味噌自体ももちろん「最高級品」で、それを象徴していることになっている大豆の破片がたくさん混じっていました。
母は手間暇かけて取った出汁と味噌で、豆腐と油揚げのお味噌汁を作りました。いつも大き目のお鍋で作っていました。お椀によそわれたお味噌汁には、キラキラした煮干の欠片がたくさん浮いていました。そして、お椀の底には大豆の破片が溜まっていました。煮干の欠片も大豆の破片もどちらも最高級品で栄養満点なので残さず食べるよう躾けられていました。
子ども達には残さず食べるように言いつけていた母ですが、自分だけは具材のお豆腐と油揚げだけを食べ、味噌汁の汁はほとんど残しました。そして食後に、その残り汁をまだたくさんのお味噌汁が残っているお鍋にあけるのです。そして父が大声で怒鳴るのです。「そんな汚いことをするな。残り汁はきちんと捨てろ」と。
翌日の夕食の時には、母は前日に作り、母の残り汁が入ったお味噌汁を温めて出しました。父は「味噌汁は温めないでくれ。温め直す味噌汁はまずい。冷たい方がよっぽどうまい」と常々言っていました。しかし母は「あら、温め直した方がずっとおいしいわ」といい平然と温め直しました。父は顔を真っ赤にして怒鳴り、母は「温め直した方がずっとおいしいのに」と不思議そうに首を傾げていました。
このやり取りは、私が小学生の頃から十数年前に父が亡くなるまで、判で押したように繰り返されました。@お味噌汁を作って食後に母が残り汁を返す日と、Aそのお味噌汁を温め直す日が、一日置きに繰り返されるのです。お味噌汁を作らないことがわかっている日には、父はあらかじめ「今晩の夕食には味噌汁は温め直さずに、冷たいまま出してくれ」と言っていましたが、母は「お味噌汁は温め直した方がおいしいから」と言って必ず温め直して出しました。つまり毎日毎日父はお味噌汁のことで母を怒鳴りつけていました。
友人の家のお味噌汁には煮干のキラキラも、大豆の破片もなく、舌触りのいいお味噌汁でした。後年、結婚したばかりの弟が、「うちの妻の作る味噌汁は、毎日具材が違うんだよ」と感慨深げに語っていたことも忘れられません。
いつの頃からか、母は「最高級の煮干し」で出汁を取るようになりました。その煮干は滅多なことでは手に入らない最高級品なので大切に扱う必要がありました。手で背ワタを取って水から煮出し、沸騰直前に削りたての鰹節を入れて出汁を取りました。栄養素がたくさん含まれているという理由で出汁は布巾では濾さずに煮干と鰹節だけを取り出して利用していました。味噌自体ももちろん「最高級品」で、それを象徴していることになっている大豆の破片がたくさん混じっていました。
母は手間暇かけて取った出汁と味噌で、豆腐と油揚げのお味噌汁を作りました。いつも大き目のお鍋で作っていました。お椀によそわれたお味噌汁には、キラキラした煮干の欠片がたくさん浮いていました。そして、お椀の底には大豆の破片が溜まっていました。煮干の欠片も大豆の破片もどちらも最高級品で栄養満点なので残さず食べるよう躾けられていました。
子ども達には残さず食べるように言いつけていた母ですが、自分だけは具材のお豆腐と油揚げだけを食べ、味噌汁の汁はほとんど残しました。そして食後に、その残り汁をまだたくさんのお味噌汁が残っているお鍋にあけるのです。そして父が大声で怒鳴るのです。「そんな汚いことをするな。残り汁はきちんと捨てろ」と。
翌日の夕食の時には、母は前日に作り、母の残り汁が入ったお味噌汁を温めて出しました。父は「味噌汁は温めないでくれ。温め直す味噌汁はまずい。冷たい方がよっぽどうまい」と常々言っていました。しかし母は「あら、温め直した方がずっとおいしいわ」といい平然と温め直しました。父は顔を真っ赤にして怒鳴り、母は「温め直した方がずっとおいしいのに」と不思議そうに首を傾げていました。
このやり取りは、私が小学生の頃から十数年前に父が亡くなるまで、判で押したように繰り返されました。@お味噌汁を作って食後に母が残り汁を返す日と、Aそのお味噌汁を温め直す日が、一日置きに繰り返されるのです。お味噌汁を作らないことがわかっている日には、父はあらかじめ「今晩の夕食には味噌汁は温め直さずに、冷たいまま出してくれ」と言っていましたが、母は「お味噌汁は温め直した方がおいしいから」と言って必ず温め直して出しました。つまり毎日毎日父はお味噌汁のことで母を怒鳴りつけていました。
友人の家のお味噌汁には煮干のキラキラも、大豆の破片もなく、舌触りのいいお味噌汁でした。後年、結婚したばかりの弟が、「うちの妻の作る味噌汁は、毎日具材が違うんだよ」と感慨深げに語っていたことも忘れられません。
2017年09月15日
食卓の光景
あたたかな食卓というと、脳裏に一枚の光景が浮かび上がります。高校生の時、友人の家で夕食に招かれた時の光景です。湯気が立ち昇る食卓を、驚きを持って見つめたあの時の自分の戸惑いと共に思い起こされます。
その日、いつものように学校帰りにバス停の目の前にあった友人宅に上がり込み、あれこれおしゃべりしていたら、友人のお母さんが「夕食時だからよかったら食べてって。あり合わせのものだけど。家族とおんなじものしかないけど、どうぞ」と呼びにきてくれて、友人も「そうだよ、そうだよ、一緒に食べようよ」といってくれ、階下の食卓に向かいました。
お父さんはその時はいなかったように思います。まだ仕事から帰ってきていらっしゃらなかったのかもしれません。友人と、友人の妹と、友人のお母さんと、私の4人でした。「なんにもないけど、遠慮しないで」という友人のお母さんの目の前には、揚げたての一口カツ、みずみずしいキャベツの千切り、たっぷり盛られた大根おろし、茄子のお味噌汁、炊き立てのご飯、そして他にも小鉢がいくつか並んでいました。
友人は私に向かって「遠慮しないでどんどんお代わりしてね」といい、妹と一緒に「いっただきまーす」と声を上げてソースをたっぷりかけた一口カツにかぶりつきました。友人のお母さんも「カツもまだまだあるからたくさんお代わりしてね」と言いました。
私にとってこの時の食卓の光景は、40年経っても脳裏に焼きついたままの衝撃的なものでした。
私の家ではカツを自宅で揚げたことはありませんでした。カツはお肉屋さんで揚げてもらうものでした。小学生の頃の、母が得意そうに言った言葉を今でも覚えています。「今日、お肉屋さんでカツを(家族の人数分の)4枚揚げて貰っていたら、(弟の同級生の)○○君のお母さんに『お宅は贅沢ねぇ、うちなんてそんなに高いお肉は買えないわ』って言われたの。これは特上のカツなのよ」
母は、特上とか、舶来とか、一流とかという言葉が大好きで、このような言葉をいつも枕詞に使っていました。幼い私は、素直にそのまま信じ、うちは他の家より贅沢をさせて貰っているのだと思っていました。
しかし、友人の家ではカツは「あり合わせのもの」だったのです。確かにひとくちカツ用の肉は、一枚の特上の肉に比べれば値段は安いかもしれません。でも、我が家のようにもったいぶって恭しく供されるものではなく、日常の食卓に並ぶ普段のおかずであり、子どもの友人が来たらついでに枚数を増やす程度のものだったのです。
ちなみにお母さんが「そんな贅沢はできない」と言っていた弟の同級生は、当時はまだ珍しかった受験をして、有名私立中学に進学しました。カツ代は教育費として貯金されていたのでしょう。
私が驚いたのは、カツを自宅で揚げていたからだけではありませんでした。そこには食卓としてのまとまりがあったのです。献立と表現したら良いのでしょうか。カツもあるけれど、他にも旬野菜やらお浸しが並んでいて、それぞれがバランス良く互いを引き立てあっていました。
それは一家の主婦が家族のことを思って、健康を考え、愛情をもって作った献立でした。そこには温かさがありました。
私の育った家では、「特上のカツ」の日にはおかずは「特上のカツ」だけでした。キャベツの千切りはもしかしたら自分たちで刻んで並べていたかもしれませんが、でも、テーブルの上にはカツと、キャベツと、お味噌汁とご飯だけでした。そして、そのお味噌汁は気味の悪いものでした。キラキラした煮干の背がたくさん浮いている「特別な」お味噌汁でした。お味噌汁には、苦くイヤな思い出がたくさんあります。時間のある時に後述しようと思います。
その日、いつものように学校帰りにバス停の目の前にあった友人宅に上がり込み、あれこれおしゃべりしていたら、友人のお母さんが「夕食時だからよかったら食べてって。あり合わせのものだけど。家族とおんなじものしかないけど、どうぞ」と呼びにきてくれて、友人も「そうだよ、そうだよ、一緒に食べようよ」といってくれ、階下の食卓に向かいました。
お父さんはその時はいなかったように思います。まだ仕事から帰ってきていらっしゃらなかったのかもしれません。友人と、友人の妹と、友人のお母さんと、私の4人でした。「なんにもないけど、遠慮しないで」という友人のお母さんの目の前には、揚げたての一口カツ、みずみずしいキャベツの千切り、たっぷり盛られた大根おろし、茄子のお味噌汁、炊き立てのご飯、そして他にも小鉢がいくつか並んでいました。
友人は私に向かって「遠慮しないでどんどんお代わりしてね」といい、妹と一緒に「いっただきまーす」と声を上げてソースをたっぷりかけた一口カツにかぶりつきました。友人のお母さんも「カツもまだまだあるからたくさんお代わりしてね」と言いました。
私にとってこの時の食卓の光景は、40年経っても脳裏に焼きついたままの衝撃的なものでした。
私の家ではカツを自宅で揚げたことはありませんでした。カツはお肉屋さんで揚げてもらうものでした。小学生の頃の、母が得意そうに言った言葉を今でも覚えています。「今日、お肉屋さんでカツを(家族の人数分の)4枚揚げて貰っていたら、(弟の同級生の)○○君のお母さんに『お宅は贅沢ねぇ、うちなんてそんなに高いお肉は買えないわ』って言われたの。これは特上のカツなのよ」
母は、特上とか、舶来とか、一流とかという言葉が大好きで、このような言葉をいつも枕詞に使っていました。幼い私は、素直にそのまま信じ、うちは他の家より贅沢をさせて貰っているのだと思っていました。
しかし、友人の家ではカツは「あり合わせのもの」だったのです。確かにひとくちカツ用の肉は、一枚の特上の肉に比べれば値段は安いかもしれません。でも、我が家のようにもったいぶって恭しく供されるものではなく、日常の食卓に並ぶ普段のおかずであり、子どもの友人が来たらついでに枚数を増やす程度のものだったのです。
ちなみにお母さんが「そんな贅沢はできない」と言っていた弟の同級生は、当時はまだ珍しかった受験をして、有名私立中学に進学しました。カツ代は教育費として貯金されていたのでしょう。
私が驚いたのは、カツを自宅で揚げていたからだけではありませんでした。そこには食卓としてのまとまりがあったのです。献立と表現したら良いのでしょうか。カツもあるけれど、他にも旬野菜やらお浸しが並んでいて、それぞれがバランス良く互いを引き立てあっていました。
それは一家の主婦が家族のことを思って、健康を考え、愛情をもって作った献立でした。そこには温かさがありました。
私の育った家では、「特上のカツ」の日にはおかずは「特上のカツ」だけでした。キャベツの千切りはもしかしたら自分たちで刻んで並べていたかもしれませんが、でも、テーブルの上にはカツと、キャベツと、お味噌汁とご飯だけでした。そして、そのお味噌汁は気味の悪いものでした。キラキラした煮干の背がたくさん浮いている「特別な」お味噌汁でした。お味噌汁には、苦くイヤな思い出がたくさんあります。時間のある時に後述しようと思います。
2017年09月14日
工業製品
昨日は夕食を宅配弁当にしたら気持ちがとても楽になったと書きました。それでは昼食はどうかというと、実はほとんど毎日コンビニのお世話になっています。コンビニで買うものは、サラダやそのまま食べられる野菜、サンドイッチ、ブランパンなどのパン類、冷やし中華、カレーうどん、ピリ辛蕎麦などの麺類、あるいはビーフシチューやミートソースなどレトルトパウチ製品、それにカットフルーツなどです。色々と組み合わせて500kcalに納めるように工夫しています。
正直に言えば、毎日工業製品を食べているような感じです。規格に合った工業製品のような食品です。
多くのダイエットブログには、朝昼夕の食事の写真がたくさん載っています。腕をふるったお料理をなさっている方も多く、弟子入りしたくなるような方々もおられます。それに比べて私は、朝は外食、お昼はコンビニ、夜は宅配弁当なのです。夫がよく私の手料理を褒めてくれていたので、私はお料理は嫌いではないと思い込んでいましたが、きっと料理自体が好きではないのでしょう。
お料理上手というのは、女性としてポジティブポイントが高いという先入観があって、無理やり自分自身を料理上手と思い込みたかったのでしょう。毎日手作りの家庭料理をテーブルに並べたいというのが私のささやかな夢でしたが、現実にはデパ地下やスーパーマーケットのすぐに食べられるお惣菜をよく買ってきていました。
人間は育てられたようにしか育たないと思うのですが、今、自分の子どもの頃の食卓を思い浮かべると、今日私の食生活の原点は、やはり母の食卓にあったのだと感じます。何度思い出そうとしても、私の家には「あたたかい食卓」というものは存在しなかったのです。
私の育った家は、決して裕福な家ではありませんでしたが、だからと言ってことさら貧しい家でもありませんでした。食べるものに不自由したことは一度もありません。食後にいただくクッキーなどのお菓子も常にふんだんにありました。それでも、私が夢見てきたような手作りの家庭料理が並んでいたことはなかったように思います。いえ、もしかしたらあったのかもしれません。ただ私が思い出せないだけなのかもしれません。
ほうれん草の胡麻和えや、カレイの煮付け、オムライス、秋刀魚の塩焼き、蕗ご飯…。一品一品、断片的には母の手料理を食べていたことは思い出せるのです。幼い時の雛祭りのちらし寿司のご馳走とか、母と一緒にオーブンで焼いたシュークリームのことなどは懐かしく思い出せるのです。しかしまとまった集合体としての「あたたかな食卓」となると途端に記憶がないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
これから、時間を見つけては、子どもの頃の食卓の思い出を書いていこうと思います。
正直に言えば、毎日工業製品を食べているような感じです。規格に合った工業製品のような食品です。
多くのダイエットブログには、朝昼夕の食事の写真がたくさん載っています。腕をふるったお料理をなさっている方も多く、弟子入りしたくなるような方々もおられます。それに比べて私は、朝は外食、お昼はコンビニ、夜は宅配弁当なのです。夫がよく私の手料理を褒めてくれていたので、私はお料理は嫌いではないと思い込んでいましたが、きっと料理自体が好きではないのでしょう。
お料理上手というのは、女性としてポジティブポイントが高いという先入観があって、無理やり自分自身を料理上手と思い込みたかったのでしょう。毎日手作りの家庭料理をテーブルに並べたいというのが私のささやかな夢でしたが、現実にはデパ地下やスーパーマーケットのすぐに食べられるお惣菜をよく買ってきていました。
人間は育てられたようにしか育たないと思うのですが、今、自分の子どもの頃の食卓を思い浮かべると、今日私の食生活の原点は、やはり母の食卓にあったのだと感じます。何度思い出そうとしても、私の家には「あたたかい食卓」というものは存在しなかったのです。
私の育った家は、決して裕福な家ではありませんでしたが、だからと言ってことさら貧しい家でもありませんでした。食べるものに不自由したことは一度もありません。食後にいただくクッキーなどのお菓子も常にふんだんにありました。それでも、私が夢見てきたような手作りの家庭料理が並んでいたことはなかったように思います。いえ、もしかしたらあったのかもしれません。ただ私が思い出せないだけなのかもしれません。
ほうれん草の胡麻和えや、カレイの煮付け、オムライス、秋刀魚の塩焼き、蕗ご飯…。一品一品、断片的には母の手料理を食べていたことは思い出せるのです。幼い時の雛祭りのちらし寿司のご馳走とか、母と一緒にオーブンで焼いたシュークリームのことなどは懐かしく思い出せるのです。しかしまとまった集合体としての「あたたかな食卓」となると途端に記憶がないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
これから、時間を見つけては、子どもの頃の食卓の思い出を書いていこうと思います。
2017年08月30日
リバウンド
順調にダイエットが進み、10kg、15kgと成果を出し続けていても、停滞期が訪れ、自分では頑張っているつもりでも思うように体重が減らなかったり、誘惑にまけてお菓子を食べてしまうと、ダイエットへの意欲が一気に失われていきます。それでも「まだまだ大丈夫、これはいっときのこと、気を取り直してちゃんとしよう」と自分で自分にはっぱをかけるのですが、ちょっとしたほころびがリバウンドのきっかけになります。
1回だけ恐る恐るお菓子を食べてみたら、翌日、体重に変わりはないので、もう1日だけ食べてみる。すると今度も大丈夫そうだったので、という調子で、徐々に菓子を食べる回数が増えていき、一旦そのような生活になってしまうと、元の状態に戻すことができなくなってしまうのです。
私の場合、何度も何度も「最後のダイエット」を繰り返し、もう大丈夫だと思って、大きいサイズの服を全部捨てて退路を断ち、背水の陣で臨んできましたがリバウンドの繰り返しでした。
これまでの努力、これからの未来が、自分自身を諫めようと脳内で連日大音量で警告しているのですが、一旦リバウンドモードに入ってしまうと、何も聞こえない状態になってしまい、リバウンド道を真っしぐらに突き進んでしまうのです。
これまで何度もこの状態を経験してきましたが、この時には「意志」などというものは存在していません。
そこには生理現象しかないと感じてきました。そこには意志が介入する余地がないのです。例えば睡眠不足が続いたときの眠気との闘いに似ています。とにかく眠いのです。もしも数日以上一睡もしなかったとしたら、その人が強い意志を持っているかどうかに関わりなく、意識を保ち続けることは誰にもできないでしょう。
リバウンドも、意志でコントロールできない状態になります。そして、一旦、タガが外れてしまうと、もう決して自分の意志の力では、途中でストップさせることはできません。
例えがおかしいのは承知の上ですが、しばらくおしっこを我慢していてようやくトイレに入った時によく似ています。とにかく全部おしっこを出し切らないといけないのです。途中でおしっこを止めて、再びトイレを出て別の何かに集中するなんてことはできないのと同じなのです。とにかく落とした体重をすべて取り戻し、心と体が安堵する状態、つまりダイエット前の体重に完全に戻り、さらに余分な体重を確保して安心できる状態になるまでリバウンドは止まらないのです。
私は、決して立派な人間ではありません。欠点もたくさんあるし、改善すべきところもたくさんある人間です。それでも、大学を卒業し、留学したり大学院で学んだりしながら、社会の一員として責任ある仕事についてきました。きちんと計画を立て、目標を持って、それを実現させようと努力してきました。そして多くの目標を達成してきました。けれど、たかだか自分の体重管理だけがどうしてもできないのです。
何度やっても、何度も何度も、今度こそ、これが最後と、七転び八起きで挑んできましたが、これまでことごとく失敗に終わってきました。
リバウンドは、体にも大きな負担ですが、心にとってもかなりのダメージを与えます。自分で決めたことが守れない圧倒的な敗北感です。なりふり構わずリバウンドしているときの自己イメージは、いつまでも自分を苦しめます。つらいダイエットし、それを上回る苦しみをリバウンドで味わい、手にしたものといえばダイエット前より増えた体脂肪だけなのです。
「ダイエットさえしなければリバウンドはしないのだから、今のこの体重を受け入れて生きていこう。その方がリバウンドして体重増加するよりずっとマシだ」と何度思ったかしれません。リバウンド恐怖症からダイエット恐怖症になっていきました。
こうして、私は糖尿病になりました。
私の場合、糖尿病は肥満の合併症みたいなものです。膝痛も、高血圧も、高度脂肪肝も、すべてダイエット&リバウンドの失敗の連続が引き起こしたものなのです。人生を肥満に支配されてきました。それでも、まだ人生は終わったわけではないので、今度こそ「一生続けるダイエット」をしていこうと思っています。
1回だけ恐る恐るお菓子を食べてみたら、翌日、体重に変わりはないので、もう1日だけ食べてみる。すると今度も大丈夫そうだったので、という調子で、徐々に菓子を食べる回数が増えていき、一旦そのような生活になってしまうと、元の状態に戻すことができなくなってしまうのです。
私の場合、何度も何度も「最後のダイエット」を繰り返し、もう大丈夫だと思って、大きいサイズの服を全部捨てて退路を断ち、背水の陣で臨んできましたがリバウンドの繰り返しでした。
これまでの努力、これからの未来が、自分自身を諫めようと脳内で連日大音量で警告しているのですが、一旦リバウンドモードに入ってしまうと、何も聞こえない状態になってしまい、リバウンド道を真っしぐらに突き進んでしまうのです。
これまで何度もこの状態を経験してきましたが、この時には「意志」などというものは存在していません。
そこには生理現象しかないと感じてきました。そこには意志が介入する余地がないのです。例えば睡眠不足が続いたときの眠気との闘いに似ています。とにかく眠いのです。もしも数日以上一睡もしなかったとしたら、その人が強い意志を持っているかどうかに関わりなく、意識を保ち続けることは誰にもできないでしょう。
リバウンドも、意志でコントロールできない状態になります。そして、一旦、タガが外れてしまうと、もう決して自分の意志の力では、途中でストップさせることはできません。
例えがおかしいのは承知の上ですが、しばらくおしっこを我慢していてようやくトイレに入った時によく似ています。とにかく全部おしっこを出し切らないといけないのです。途中でおしっこを止めて、再びトイレを出て別の何かに集中するなんてことはできないのと同じなのです。とにかく落とした体重をすべて取り戻し、心と体が安堵する状態、つまりダイエット前の体重に完全に戻り、さらに余分な体重を確保して安心できる状態になるまでリバウンドは止まらないのです。
私は、決して立派な人間ではありません。欠点もたくさんあるし、改善すべきところもたくさんある人間です。それでも、大学を卒業し、留学したり大学院で学んだりしながら、社会の一員として責任ある仕事についてきました。きちんと計画を立て、目標を持って、それを実現させようと努力してきました。そして多くの目標を達成してきました。けれど、たかだか自分の体重管理だけがどうしてもできないのです。
何度やっても、何度も何度も、今度こそ、これが最後と、七転び八起きで挑んできましたが、これまでことごとく失敗に終わってきました。
リバウンドは、体にも大きな負担ですが、心にとってもかなりのダメージを与えます。自分で決めたことが守れない圧倒的な敗北感です。なりふり構わずリバウンドしているときの自己イメージは、いつまでも自分を苦しめます。つらいダイエットし、それを上回る苦しみをリバウンドで味わい、手にしたものといえばダイエット前より増えた体脂肪だけなのです。
「ダイエットさえしなければリバウンドはしないのだから、今のこの体重を受け入れて生きていこう。その方がリバウンドして体重増加するよりずっとマシだ」と何度思ったかしれません。リバウンド恐怖症からダイエット恐怖症になっていきました。
こうして、私は糖尿病になりました。
私の場合、糖尿病は肥満の合併症みたいなものです。膝痛も、高血圧も、高度脂肪肝も、すべてダイエット&リバウンドの失敗の連続が引き起こしたものなのです。人生を肥満に支配されてきました。それでも、まだ人生は終わったわけではないので、今度こそ「一生続けるダイエット」をしていこうと思っています。
タグ:リバウンド
2017年08月20日
肥満度
私の身長は165cmなので、1999年に日本肥満学会が定めた体格指数(Body mass index)BMI22は59.9kgです。このBMIが22とは、高血圧、高脂血症、肝障害、対糖能障害などが最も低くなる値だそうです。そしてこの指数が上がるにつれて肥満度も上がります。
165cmの場合
<18.5..............50.1kg以下............痩せ過ぎ
≧18.5〜22>....50.1kg〜59.9kg.....普通体重(標準以下)
≧22〜25>.......59.9kg〜68.1kg.....普通体重(標準以上)
≧25〜30>.......68.1kg〜81.7kg.....肥満度1
≧30〜35>.......81.7kg〜95.3kg.....肥満度2
≧35〜40>.......95.3kg〜108.9kg...肥満度3
≧40.0.............108.9kg以上............肥満度4
私の場合、最大の体重は106kgでBMI38.9でしたから、かろうじて肥満度3でしたが、もう少しで肥満度4に突入してしまうところでした。今朝の体重は100.8kgだったので、BMIは多少下がって37です。しかし相変わらず肥満度は3のままです。肥満度2になるには、あと5.5kgの減量が必要です。ひと月で5kgの減量ができたので、9月末までには肥満度2のレンジに入りたいものです。
それにしても、こうして肥満度一覧を眺めていると、20歳前後はBMI22以下だったのに、自分は太り過ぎていると思い込んでいたという認知のズレがあったことに気づきます。大学生の頃なんて48kg、49kgだったのに、まだまだ痩せなくてはと思っていました。先日かつての同級生に会った時、私のことを「随分と足の細い人だと思っていた」と言われて、心底驚きました。自分の足は大根足だと思い込み、ものすごくコンプレックでした。
20代の多くは50kg台だったと思います。60kgを超えたことがあって、大ショックを受けたのでよく覚えています。いつも必死にダイエットしてはリバウンドしていました。リンゴダイエットをして寝込んだこともありました。留学中にドイツ人の友人から「なぜ少しも太っていないのにダイエット、ダイエットというの?」と聞かれたことも覚えています。今から見れば普通体重の中でもBMI22以下だったのです。
30代はダイエットとリバウンドの幅が段々と大きくなっていきました。50kg台から70kg台を何度も往き来していたように思います。毎年健康診断の時に居残りさせられて、保健師さんに厳重注意され、肥満の怖さについてレクチャーを受けるようになりました。私は益々ダイエットに勤しみました。38歳の時80kgを超え愕然とし、また大急ぎで10kgダイエットに走ったことを覚えています。30代は肥満度1の時代でした。
40代には80kgを超え、頑張って10kg痩せて70kgになり、でも15kgリバウンドして85kgになり、また頑張って10kg痩せて75kgになり、また15kgリバウンドしてなどというダイエットを繰り返すうちに90kgも突破してしまうようになりました。医師に助けを求め始めたのもこの頃です。内分泌専門医、肥満治療専門医も訪ねました。肥満度2の時代です。
50代は、いよいよ肥満度3の時代に入ります。2009年に到頭100kgの大台に乗ってしまい、もうどうしていいやら途方に暮れたのを覚えています。もはや、自分の意志で食べないでいることができないのです。夜中に冷蔵庫を開けてしまう自分自身に絶望して、精神病院の閉鎖病棟に監禁してもらえないか明日の朝になったら聞いてみようとか、犯罪を犯せば刑務所に入れてもらえるかもしれないという考えも脳裏をよぎるようになりました。お金持ち相手に詐欺罪で捕まって、あとから被害者にちゃんとお金を返せばあまり迷惑をかけずに刑務所に入れてもらえるのではないかとも考えました。
図書館で肥満治療についてたくさん調べ、あちこちの専門医に電話しました。肥満専門医の中には、安定剤だのなんだので9種類もの薬を処方する医師もいました。SNSで仲間と一緒に努力もしました。何度も頑張って、何度も挫折しました。3年越しで予約をした摂食障害の医師にもようやく繋がりました。おざなりの医師もいたし、親身になってくれる医師もいました。
信頼できる医師と出会えたと思った時です。何度か通院したあと入院ということになりました。やっと助けてもらえると心の底から安堵しました。すると医師の口から出た質問は「あなたは人の物を盗んだりしませんか?」というものでした。私はこれほどまで屈辱的な質問をされるような人間に成り下がってしまったのかと絶望しました。顔色を変えた私に医師は、「こんなこと聞いてごめんなさいね。入院中に他の人の冷蔵庫からモノを盗む人がいるものですから」と言い訳しました。
図書館で借りた本にもしばしば、摂食障害者には万引きする人が多いと書かれていたので、医師の質問は特別おかしなものではなかったのかもしれません。しかし、今、こうしてあの質問をされた瞬間を思い出すだけで、心拍数が上がり、上気してしまう自分がいます。刑務所に入れてもらうことまで考えていたのに、この屈辱には耐えられず、その医師の元を去りました。
できることは、次々に行いました。でも続けられないのです。ダイエットしている時には、周りの皆んなは「あら、やせたんじゃない?」と声をかけてくれました。でもリバウンドしたときには、皆んなそっとしておいてくれました。何度も何度も、急激に痩せたり太ったりを繰り返す私を優しく見守ってくれる友人にいつも心の中で感謝し続けてきました。でも時には、心ない言葉にも傷つけられました。風邪を引いて熱を出し、近くのクリニックに行った時「風邪よりもその体型が問題です。メタボリック症候群です。少しは節制したらどうですか」と嘲るように言われた時の絶望感をどのように表現したら良いでしょうか。
でも、never give up。諦めたらそこで人生終了です。
今はまず肥満度2、40代にタイムスリップが目標です!
165cmの場合
<18.5..............50.1kg以下............痩せ過ぎ
≧18.5〜22>....50.1kg〜59.9kg.....普通体重(標準以下)
≧22〜25>.......59.9kg〜68.1kg.....普通体重(標準以上)
≧25〜30>.......68.1kg〜81.7kg.....肥満度1
≧30〜35>.......81.7kg〜95.3kg.....肥満度2
≧35〜40>.......95.3kg〜108.9kg...肥満度3
≧40.0.............108.9kg以上............肥満度4
私の場合、最大の体重は106kgでBMI38.9でしたから、かろうじて肥満度3でしたが、もう少しで肥満度4に突入してしまうところでした。今朝の体重は100.8kgだったので、BMIは多少下がって37です。しかし相変わらず肥満度は3のままです。肥満度2になるには、あと5.5kgの減量が必要です。ひと月で5kgの減量ができたので、9月末までには肥満度2のレンジに入りたいものです。
それにしても、こうして肥満度一覧を眺めていると、20歳前後はBMI22以下だったのに、自分は太り過ぎていると思い込んでいたという認知のズレがあったことに気づきます。大学生の頃なんて48kg、49kgだったのに、まだまだ痩せなくてはと思っていました。先日かつての同級生に会った時、私のことを「随分と足の細い人だと思っていた」と言われて、心底驚きました。自分の足は大根足だと思い込み、ものすごくコンプレックでした。
20代の多くは50kg台だったと思います。60kgを超えたことがあって、大ショックを受けたのでよく覚えています。いつも必死にダイエットしてはリバウンドしていました。リンゴダイエットをして寝込んだこともありました。留学中にドイツ人の友人から「なぜ少しも太っていないのにダイエット、ダイエットというの?」と聞かれたことも覚えています。今から見れば普通体重の中でもBMI22以下だったのです。
30代はダイエットとリバウンドの幅が段々と大きくなっていきました。50kg台から70kg台を何度も往き来していたように思います。毎年健康診断の時に居残りさせられて、保健師さんに厳重注意され、肥満の怖さについてレクチャーを受けるようになりました。私は益々ダイエットに勤しみました。38歳の時80kgを超え愕然とし、また大急ぎで10kgダイエットに走ったことを覚えています。30代は肥満度1の時代でした。
40代には80kgを超え、頑張って10kg痩せて70kgになり、でも15kgリバウンドして85kgになり、また頑張って10kg痩せて75kgになり、また15kgリバウンドしてなどというダイエットを繰り返すうちに90kgも突破してしまうようになりました。医師に助けを求め始めたのもこの頃です。内分泌専門医、肥満治療専門医も訪ねました。肥満度2の時代です。
50代は、いよいよ肥満度3の時代に入ります。2009年に到頭100kgの大台に乗ってしまい、もうどうしていいやら途方に暮れたのを覚えています。もはや、自分の意志で食べないでいることができないのです。夜中に冷蔵庫を開けてしまう自分自身に絶望して、精神病院の閉鎖病棟に監禁してもらえないか明日の朝になったら聞いてみようとか、犯罪を犯せば刑務所に入れてもらえるかもしれないという考えも脳裏をよぎるようになりました。お金持ち相手に詐欺罪で捕まって、あとから被害者にちゃんとお金を返せばあまり迷惑をかけずに刑務所に入れてもらえるのではないかとも考えました。
図書館で肥満治療についてたくさん調べ、あちこちの専門医に電話しました。肥満専門医の中には、安定剤だのなんだので9種類もの薬を処方する医師もいました。SNSで仲間と一緒に努力もしました。何度も頑張って、何度も挫折しました。3年越しで予約をした摂食障害の医師にもようやく繋がりました。おざなりの医師もいたし、親身になってくれる医師もいました。
信頼できる医師と出会えたと思った時です。何度か通院したあと入院ということになりました。やっと助けてもらえると心の底から安堵しました。すると医師の口から出た質問は「あなたは人の物を盗んだりしませんか?」というものでした。私はこれほどまで屈辱的な質問をされるような人間に成り下がってしまったのかと絶望しました。顔色を変えた私に医師は、「こんなこと聞いてごめんなさいね。入院中に他の人の冷蔵庫からモノを盗む人がいるものですから」と言い訳しました。
図書館で借りた本にもしばしば、摂食障害者には万引きする人が多いと書かれていたので、医師の質問は特別おかしなものではなかったのかもしれません。しかし、今、こうしてあの質問をされた瞬間を思い出すだけで、心拍数が上がり、上気してしまう自分がいます。刑務所に入れてもらうことまで考えていたのに、この屈辱には耐えられず、その医師の元を去りました。
できることは、次々に行いました。でも続けられないのです。ダイエットしている時には、周りの皆んなは「あら、やせたんじゃない?」と声をかけてくれました。でもリバウンドしたときには、皆んなそっとしておいてくれました。何度も何度も、急激に痩せたり太ったりを繰り返す私を優しく見守ってくれる友人にいつも心の中で感謝し続けてきました。でも時には、心ない言葉にも傷つけられました。風邪を引いて熱を出し、近くのクリニックに行った時「風邪よりもその体型が問題です。メタボリック症候群です。少しは節制したらどうですか」と嘲るように言われた時の絶望感をどのように表現したら良いでしょうか。
でも、never give up。諦めたらそこで人生終了です。
今はまず肥満度2、40代にタイムスリップが目標です!
2017年08月17日
お菓子雑考
食べ物で何が好きかというと、パティシエが作った宝石のようなケーキと、季節の移り変わりが表現されている繊細な和菓子と、よくここまで研究したなぁと感心してしまうようなコンビニスイーツです。
私はスナック菓子はめったに食べないし、コーラなどの清涼飲料水もまず飲むことはありません。カップ麺を食べることもないし、ハンバーガーショップにも行きません。いわゆるジャンクフードにはあまり興味がありません。焼き肉を口にするのも年に数回といったところです。ラーメンもまず食べません。お酒を飲むこともめったにありません。実は太ると言われている果物も自分から積極的にいただくことはありません。
それなのに、なぜこれほど高度な脂肪肝になってしまったのでしょうか。
普通の人なら到来物としてしかいただかないような、値段の高いケーキや和菓子を私は頻繁に買っていました。スーパーマーケットなどで、野菜や果物、お肉やお魚などだと、これは高いからやめておこうと自制することはありますが、お菓子に関してはそういう感覚が麻痺していて、値段にかかわらず買ってしまいます。
ケーキケースの端から端まで全部1つずつなどという大人買いもよくやっていました。帰宅して、一度に3個を昼と夜、などというペースで平らげてしまうのです。和菓子売り場では日持ちのしない和菓子をこれからお得意様周りでもするのですというように何包みも購入してしまうのです。
そうです。私はよく「フリ」をしていました。お得様周りをするフリ、これから友人が来るフリ、家で子どもが大勢待っているフリ…などです。当然のことながら、お店の人にお菓子の使用目的など聞かれることなどないのですが、心の中でしばしば言い訳を準備していました。
もはや高級菓子に負けないくらいに進化を遂げたコンビニスイーツに至っては、値段を気にせずたくさん、しかも色々な種類が買えるので、一度に8種類くらい買い込むこともありました。そういう時には心の中で言い訳が必要でした。明日また買いに来ればいいのにと思いながらも、一度にたくさん買って、その日のうちに完食してしまいました。私は過食嘔吐をしたことは一度もありませんが、どう考えてもお菓子の買い方が病的でした。
これまでにも、医師やカウンセラーなどの専門家に、お菓子の異常摂取については繰り返し相談してきました。専門家によっては、甘えたいという欲求を甘味で満たそうとしているとか、性的欲求不満が甘味を求めさせているとか、母親との愛着障害が根本にあるとか、様々な原因が検討されてきました。でも結局のところ、行動としてのお菓子の衝動的な買い方や食べ方は止めることができませんでした。
「パスカルの賭け」という言葉があります。
パスカルとは、17世紀のフランス人。思想家、数学者、神学者などにとどまらない巨人です。体の弱かったパスカルはその生涯の多くをベッドの上で過ごしましたが、計算機、今のレジスターの原型を作ったり、断章『パンセ』を著したりしました。最近では毎日の天気予報で、彼の名が元になった単位「ヘクトパスカル」を耳にします。
「パスカルの賭け」とは、神が存在するかしないかについて賭けをしなくてはならないとしたら、神は存在するという方に賭けるべきだというものです。神が存在するという方に賭けた場合、神は存在していても存在していなくても失うものは何もない。しかし反対に神は存在しないという方に賭けたとしたら、神が存在していた場合、失うものはあまりにも大きいからだいうものです。
私のお菓子に「パスカルの賭け」を用いるのは、まったく見当違いなのは、自分でもよく解っているのですが、最近では、気がつくと「パスカルの賭け」と心の中で口ずさんでいるのです。それは「今後の人生において、お菓子を食べるか食べないか、どちらかに賭けなければならないとしたら、お菓子を食べない人生に賭けるべきなのです。お菓子を食べないと人生の楽しみは半減するかもしれませんが、残された人生は輝きに満ちているでしょう。しかしお菓子を食べる人生を選ぶとしたら、失うものがあまりにも大きいのです。下肢切断、透析、失明、脳梗塞、心疾患と人生そのものを根こそぎ失いかねないのです」
今後、どうしてもお菓子が食べたくなったら、今日のこのブログを読み返そうと思います。
私はスナック菓子はめったに食べないし、コーラなどの清涼飲料水もまず飲むことはありません。カップ麺を食べることもないし、ハンバーガーショップにも行きません。いわゆるジャンクフードにはあまり興味がありません。焼き肉を口にするのも年に数回といったところです。ラーメンもまず食べません。お酒を飲むこともめったにありません。実は太ると言われている果物も自分から積極的にいただくことはありません。
それなのに、なぜこれほど高度な脂肪肝になってしまったのでしょうか。
普通の人なら到来物としてしかいただかないような、値段の高いケーキや和菓子を私は頻繁に買っていました。スーパーマーケットなどで、野菜や果物、お肉やお魚などだと、これは高いからやめておこうと自制することはありますが、お菓子に関してはそういう感覚が麻痺していて、値段にかかわらず買ってしまいます。
ケーキケースの端から端まで全部1つずつなどという大人買いもよくやっていました。帰宅して、一度に3個を昼と夜、などというペースで平らげてしまうのです。和菓子売り場では日持ちのしない和菓子をこれからお得意様周りでもするのですというように何包みも購入してしまうのです。
そうです。私はよく「フリ」をしていました。お得様周りをするフリ、これから友人が来るフリ、家で子どもが大勢待っているフリ…などです。当然のことながら、お店の人にお菓子の使用目的など聞かれることなどないのですが、心の中でしばしば言い訳を準備していました。
もはや高級菓子に負けないくらいに進化を遂げたコンビニスイーツに至っては、値段を気にせずたくさん、しかも色々な種類が買えるので、一度に8種類くらい買い込むこともありました。そういう時には心の中で言い訳が必要でした。明日また買いに来ればいいのにと思いながらも、一度にたくさん買って、その日のうちに完食してしまいました。私は過食嘔吐をしたことは一度もありませんが、どう考えてもお菓子の買い方が病的でした。
これまでにも、医師やカウンセラーなどの専門家に、お菓子の異常摂取については繰り返し相談してきました。専門家によっては、甘えたいという欲求を甘味で満たそうとしているとか、性的欲求不満が甘味を求めさせているとか、母親との愛着障害が根本にあるとか、様々な原因が検討されてきました。でも結局のところ、行動としてのお菓子の衝動的な買い方や食べ方は止めることができませんでした。
「パスカルの賭け」という言葉があります。
パスカルとは、17世紀のフランス人。思想家、数学者、神学者などにとどまらない巨人です。体の弱かったパスカルはその生涯の多くをベッドの上で過ごしましたが、計算機、今のレジスターの原型を作ったり、断章『パンセ』を著したりしました。最近では毎日の天気予報で、彼の名が元になった単位「ヘクトパスカル」を耳にします。
「パスカルの賭け」とは、神が存在するかしないかについて賭けをしなくてはならないとしたら、神は存在するという方に賭けるべきだというものです。神が存在するという方に賭けた場合、神は存在していても存在していなくても失うものは何もない。しかし反対に神は存在しないという方に賭けたとしたら、神が存在していた場合、失うものはあまりにも大きいからだいうものです。
私のお菓子に「パスカルの賭け」を用いるのは、まったく見当違いなのは、自分でもよく解っているのですが、最近では、気がつくと「パスカルの賭け」と心の中で口ずさんでいるのです。それは「今後の人生において、お菓子を食べるか食べないか、どちらかに賭けなければならないとしたら、お菓子を食べない人生に賭けるべきなのです。お菓子を食べないと人生の楽しみは半減するかもしれませんが、残された人生は輝きに満ちているでしょう。しかしお菓子を食べる人生を選ぶとしたら、失うものがあまりにも大きいのです。下肢切断、透析、失明、脳梗塞、心疾患と人生そのものを根こそぎ失いかねないのです」
今後、どうしてもお菓子が食べたくなったら、今日のこのブログを読み返そうと思います。
2017年08月07日
母のダイエット
私の体質は母とよく似ています。その母のダイエットについて思い出せるだけ思い出してみようと思います。
母は現在84歳。父が亡くなったあと、ひとりで暮らしています。
母の20歳くらいの頃の写真を見ると、大柄な女性という印象があります。ところがその数年後の母のウエディングドレスの写真はとても痩せていて、ウエストなど両手で掴んだら、両手の指先がついてしまいそうに細いのでした。
私が子どもの頃、母は大柄ではあったけれど太ってはいませんでした。若い頃から母はお洒落な人でした。
そんな母がダイエットに成功した記憶があります。私が十代の終わりの頃だったので母は四十代半ばだったと思います。子どもに手がかからなくなってから始めた仕事が楽しくて仕方のない頃で、従来のお洒落魂にも火がついて、ある時ピンクのパーティドレスを着ることになって、頑張って食事の量を減らし、おそらく20kgほど減量したと思います。その時の母は色黒のミイラのようでした。
それから6年か7年後、母は動けないほど巨漢になりました。一緒に旅行したときも、少し歩くだけでふぅふぅ肩で息をして、あまりにも歩くのがつらいからと、観光スポットに着いてもひとり車の中で待っていました。
さすがの母もこれではいけないと、人づてに聞いた健康法を試したりして、少しずつ体重を落としていったと思います。あの頃はわずか5cmの段を降りるだけで膝が痛むと嘆いていました。
しかしその後、私が三十代の初めですから母は五十代の後半、つまり今の私とほぼ同年代の頃、母は糖尿病になりました。糖尿病と言われる前に、母と2人で旅行したことがありました。その時のことは今でも鮮明に憶えています。
母は四六時中モノを口に運んでいました。はたで見ていてもつらくなるほど、ひたすら食べていました。食事が終わってからもお菓子の袋を抱えて食べ続け、ホテルのトイレで吐いていました。わが母ながらあまりに見苦しく、私は嫌気がさし、トイレに助けにいかなかったことも覚えています。
それから間も無く、母は糖尿病と診断されました。母は頭をハンマーで殴られたようにショックを受け、その日から食品交換表と首っぴきの、秤が手放せない生活になりました。あんな無茶苦茶な食生活をしていて病気にならない方がおかしいのであって、私はといえばそれでショックを受けている母を不思議に感じていました。
しかし、母はあまりのショックのせいか、とにかく忠実に医師の指導を守り、みるみるうちに体重を落とし、半分くらいになりました。ぼんやりとした記憶ですが、1日当たり1,200kcalの食事療法だったと思います。よくサツマイモを蒸してオヤツにしていたこと、食べたことのなかった納豆を毎日食べるようになったことなどを覚えています。
「思ったよりずっと食べられるわ」「お腹も減らないわ」「もうお菓子は一生分食べたから、あとの人生はファッションを楽しむことに専念するわ」などという母のセリフもよく覚えています。
初めの数年は大学病院に通って、毎月医師の目の前で体重計にのるという診察もあり、厳格な食事療法は続いていましたが、HbA1cが通常の範囲になり、服薬の必要もなくなったので、近所の医院に転院させられました。
近所の医院は、体重測定もなく、時々血液検査をする程度で、そろそろと、母の間食は復活することになります。相変わらず秤で食事の量を1gの単位まで厳密に計り、納豆は40gでなくてはならず、たまたま40gの納豆が売り切れの時には、45gの納豆は買わずに40gの納豆を求めて別のスーパーまで出かけていきました。でも、厳密に計算された食事のあと、袋菓子を抱えるようになってしまったのです。
母は、再び太り始めました。もうあの巨漢のようにはなりませんでしたが、おそらく、100kgから60kgになって、80kgになったのではないかと思います。
母は現在84歳。父が亡くなったあと、ひとりで暮らしています。
母の20歳くらいの頃の写真を見ると、大柄な女性という印象があります。ところがその数年後の母のウエディングドレスの写真はとても痩せていて、ウエストなど両手で掴んだら、両手の指先がついてしまいそうに細いのでした。
私が子どもの頃、母は大柄ではあったけれど太ってはいませんでした。若い頃から母はお洒落な人でした。
そんな母がダイエットに成功した記憶があります。私が十代の終わりの頃だったので母は四十代半ばだったと思います。子どもに手がかからなくなってから始めた仕事が楽しくて仕方のない頃で、従来のお洒落魂にも火がついて、ある時ピンクのパーティドレスを着ることになって、頑張って食事の量を減らし、おそらく20kgほど減量したと思います。その時の母は色黒のミイラのようでした。
それから6年か7年後、母は動けないほど巨漢になりました。一緒に旅行したときも、少し歩くだけでふぅふぅ肩で息をして、あまりにも歩くのがつらいからと、観光スポットに着いてもひとり車の中で待っていました。
さすがの母もこれではいけないと、人づてに聞いた健康法を試したりして、少しずつ体重を落としていったと思います。あの頃はわずか5cmの段を降りるだけで膝が痛むと嘆いていました。
しかしその後、私が三十代の初めですから母は五十代の後半、つまり今の私とほぼ同年代の頃、母は糖尿病になりました。糖尿病と言われる前に、母と2人で旅行したことがありました。その時のことは今でも鮮明に憶えています。
母は四六時中モノを口に運んでいました。はたで見ていてもつらくなるほど、ひたすら食べていました。食事が終わってからもお菓子の袋を抱えて食べ続け、ホテルのトイレで吐いていました。わが母ながらあまりに見苦しく、私は嫌気がさし、トイレに助けにいかなかったことも覚えています。
それから間も無く、母は糖尿病と診断されました。母は頭をハンマーで殴られたようにショックを受け、その日から食品交換表と首っぴきの、秤が手放せない生活になりました。あんな無茶苦茶な食生活をしていて病気にならない方がおかしいのであって、私はといえばそれでショックを受けている母を不思議に感じていました。
しかし、母はあまりのショックのせいか、とにかく忠実に医師の指導を守り、みるみるうちに体重を落とし、半分くらいになりました。ぼんやりとした記憶ですが、1日当たり1,200kcalの食事療法だったと思います。よくサツマイモを蒸してオヤツにしていたこと、食べたことのなかった納豆を毎日食べるようになったことなどを覚えています。
「思ったよりずっと食べられるわ」「お腹も減らないわ」「もうお菓子は一生分食べたから、あとの人生はファッションを楽しむことに専念するわ」などという母のセリフもよく覚えています。
初めの数年は大学病院に通って、毎月医師の目の前で体重計にのるという診察もあり、厳格な食事療法は続いていましたが、HbA1cが通常の範囲になり、服薬の必要もなくなったので、近所の医院に転院させられました。
近所の医院は、体重測定もなく、時々血液検査をする程度で、そろそろと、母の間食は復活することになります。相変わらず秤で食事の量を1gの単位まで厳密に計り、納豆は40gでなくてはならず、たまたま40gの納豆が売り切れの時には、45gの納豆は買わずに40gの納豆を求めて別のスーパーまで出かけていきました。でも、厳密に計算された食事のあと、袋菓子を抱えるようになってしまったのです。
母は、再び太り始めました。もうあの巨漢のようにはなりませんでしたが、おそらく、100kgから60kgになって、80kgになったのではないかと思います。
タグ:母親
2017年08月06日
ご飯の量
入院生活で食事療法の勉強をしました。私の指示エネルギーは1日で1,500kcalです。ご飯の量は1食当たり150gです。入院するときにいつも使っているお茶碗を持ってくるよう言われ、自分で150g秤で計って盛り付けし体得しました。
私の場合、毎食3単位を表1から摂取するよう指示されているので、3単位 = 80kcal x 3 = 240 kcal が毎食の主食です。1,500kcal/日なので、1食当たり500kcalです。その内の48%を主食であるご飯やパンで摂取するようにというのが病院の指示です。
150gのご飯…。今回入院してから多くのブログを拝見しました。糖質制限をしていらっしゃる方が多い中、病院の指示に従って治療している方でも、ご飯の量は80gや100gというのが主流のようです。
私は去年2016年2月から9月までの8ヶ月間に、自己流の糖質制限で105.6kgから91.4kgまで14.2kgの減量に成功しましたが、また8ヶ月で106kgまで14.6kgリバウンドさせてしまいました。リバウンドに関してはまた項を改めたいと思いますが、前回減量していくときには、朝食はトーストや目玉焼きなど普通の食事を摂りましたが、昼食と夕食はほとんど主食を取らず、耐え難い空腹に悩まされることもなく、するすると減量に成功しました。
2016年1月25日のHbA1cは6.56で糖尿病と診断されましたが、3月15日には6.15に下がり、5月17日には5.93となりました。
結局のところリバウンドさせてしまったわけで、2017年7月18日にはHbA1cも7.6に上昇させてしまいました。そこで今回は糖質制限ではなく、糖尿病学会推薦のカロリー制限で減量を試みているわけですが、何だか面倒な計量と悲痛な空腹感に苦しんでいる割には血糖値下降に効果があるか不安にかられています。
昨年は、入院当日102.4kgだった体重は、2週間の教育入院+1週間で98.7kgとなり、3.7kgの成果でした。今回は、入院当日106.0kgだった体重は、同じ入院+1週間で本日現在102.4kgと3.6kgですから、ほぼ同じ効果です。
今回、なぜ私が糖質制限を選ばずにカロリー制限を選んだかといえば、理由は大きく分けて2つあります。
1つ目の理由は、糖質制限には不自然さを感じていたからです。高タンパク高脂肪になりがちな食事に不安がありました。外食がちな私の場合、不経済だったこともありました。また古今東西の多くの民族の食生活を考えてみても穀物が食事の中心にあったと思うのです。
2つ目の理由は、私と体質がよく似ている母が私と同年代の頃糖尿病を発症したのですが、母はカロリー制限ダイエットで体重をほぼ半減させ、糖尿病を克服していました。傘寿を超えた今日も元気に暮らしています。
色々な思いが脳裏を交差しますが、ご飯の量についてはこのままでいくかどうか迷うところです。
私の場合、毎食3単位を表1から摂取するよう指示されているので、3単位 = 80kcal x 3 = 240 kcal が毎食の主食です。1,500kcal/日なので、1食当たり500kcalです。その内の48%を主食であるご飯やパンで摂取するようにというのが病院の指示です。
150gのご飯…。今回入院してから多くのブログを拝見しました。糖質制限をしていらっしゃる方が多い中、病院の指示に従って治療している方でも、ご飯の量は80gや100gというのが主流のようです。
私は去年2016年2月から9月までの8ヶ月間に、自己流の糖質制限で105.6kgから91.4kgまで14.2kgの減量に成功しましたが、また8ヶ月で106kgまで14.6kgリバウンドさせてしまいました。リバウンドに関してはまた項を改めたいと思いますが、前回減量していくときには、朝食はトーストや目玉焼きなど普通の食事を摂りましたが、昼食と夕食はほとんど主食を取らず、耐え難い空腹に悩まされることもなく、するすると減量に成功しました。
2016年1月25日のHbA1cは6.56で糖尿病と診断されましたが、3月15日には6.15に下がり、5月17日には5.93となりました。
結局のところリバウンドさせてしまったわけで、2017年7月18日にはHbA1cも7.6に上昇させてしまいました。そこで今回は糖質制限ではなく、糖尿病学会推薦のカロリー制限で減量を試みているわけですが、何だか面倒な計量と悲痛な空腹感に苦しんでいる割には血糖値下降に効果があるか不安にかられています。
昨年は、入院当日102.4kgだった体重は、2週間の教育入院+1週間で98.7kgとなり、3.7kgの成果でした。今回は、入院当日106.0kgだった体重は、同じ入院+1週間で本日現在102.4kgと3.6kgですから、ほぼ同じ効果です。
今回、なぜ私が糖質制限を選ばずにカロリー制限を選んだかといえば、理由は大きく分けて2つあります。
1つ目の理由は、糖質制限には不自然さを感じていたからです。高タンパク高脂肪になりがちな食事に不安がありました。外食がちな私の場合、不経済だったこともありました。また古今東西の多くの民族の食生活を考えてみても穀物が食事の中心にあったと思うのです。
2つ目の理由は、私と体質がよく似ている母が私と同年代の頃糖尿病を発症したのですが、母はカロリー制限ダイエットで体重をほぼ半減させ、糖尿病を克服していました。傘寿を超えた今日も元気に暮らしています。
色々な思いが脳裏を交差しますが、ご飯の量についてはこのままでいくかどうか迷うところです。