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2018年07月29日

日大・田中理事長が仰天発言「半年後、内田を戻す」 日大アメフト部は新監督就任で再生なるか

産経新聞 より

日大・田中理事長が仰天発言「半年後、内田を戻す」 日大アメフト部は新監督就任で再生なるか

日本大学アメフト部の 悪質タックル問題をめぐり、 大学の権力構造の頂点に立つ 田中英寿理事長(71)から仰天発言だ。 アメフト部監督や大学の役職を辞任した 内田正人氏(62)について、 「半年たったら戻す」と述べたというのだ。  16日放送の フジテレビ系「直撃LIVEグッディ!」が報じた。 田中理事長の発言があったのは、 内田氏がアメフト部だけでなく 日大の要職も外されてから数日がたった 6月11日。 田中理事長は、 複数人の日大職員との会合で 「半年たったら内田を戻す」 と自身の思惑を打ち明けたという。  スポーツライターの小林信也氏は 「『このやり方でここまでやってきたんだ』 という自信があってこその発言だろう」と指摘する。 「内田氏も世間の反応に対して、 やむを得ず監督辞任などの処分を受け入れて きたのであって、 当然本意ではない。 合意の上での発言ではないか。 内田氏が戻るとすれば、 アメフト部ではなく大学組織の内部だろう」とみる。 肝心の日大アメフト部の後任監督人事をめぐっては、 17日付の朝日新聞が 元立命館大学コーチの橋詰功氏(54)が 内定したと報じた。 橋詰氏は、立命館大OBで 1994年に同大コーチに就任してからは、 2003年、04年と 日本選手権(ライスボウル)連覇に貢献した実績を持つ。  前出の小林氏は 「元京大監督の水野弥一氏が有力視されていたが、 高齢という点や 指導体質が古いという懸念から 適任ではないと判断されたのだろう。 米国から監督を呼ぶという話もあったが、 部員からの反応がよくなかったようだ。 消去法で残った 『若い日本人監督』の中で、 ある程度の実績も残し、 公募条件を満たす 橋詰氏に白羽の矢が立ったのではないか」 と解説する。  秋のシーズンに向け、 日大アメフト部の再生は実現するのか。
そもそも最初っから 悪いと思っていないのだろう。 なぜ悪いと思っていないかというと 今までこうやってきたから という理由だろう。 少し冷静に考えて欲しいが 時代の考え方は すでにそのベクトルではない。 そのことに 強制力はまだないが 否応無しに 世の中の考え方は変わる。 中学校や高校の部活動でさえも 変わらざるを得ない状態になる。 その世の中の流れを読めないのは 狭い社会で威を振り回してきたからだ。 そのスポーツが強いということの その仕組みが具体的に 世の中に利益をもたらさなければ 世の中から消えるしかない。 それは もう始まっている。

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posted by sachi at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事

2018年07月26日

選手も応援団も熱中症続出の高校野球 主催する朝日新聞の「運動部は熱中症に注意」の記事にツッコミ相次ぐ

キャリコネニュース より

選手も応援団も熱中症続出の高校野球 主催する朝日新聞の「運動部は熱中症に注意」の記事にツッコミ相次ぐ

連日、各地で熱戦が繰り広げられている高校野球。照りつける太陽の下、ほとばしる汗を飛ばしながら懸命にプレーする高校球児の姿に心打たれる人は多いだろう。 だが、この暑い時期に大会を開催するリスクを、私たちは真剣に考える必要がある。岐阜大会で7月18日、スタンドで応援していた生徒や保護者合わせて15人が熱中症の疑いで病院に運ばれた。さらに、群馬県でも高校野球の応援から戻った東京農大第二高校の生徒23人が、頭痛やしびれを訴え、病院に搬送された。(文:宮西瀬名)

熱中症になりながらプレーする選手は素晴らしいのか?

炎天下で運動するのは危険です 応援に駆けつけた生徒や保護者は、 炎天下に長時間さらされることに 慣れていないため、 熱中症になったのかもしれないと予想されそうだ。 ただ、そのリスクは炎天下に慣れている選手でも 例外ではない。 高校野球北埼玉大会で18日、 上尾高校と早大本庄高校の試合が行われた。 埼玉新聞では、 上尾高校の木村投手が熱中症による 体調不良を引き起こし、 失点してしまったと記載している。 熱中症になりながらも投げきった木村投手のガッツと 投球術は素晴らしいが、 これを「熱中症になりながらも力投」 「暑さに負けない不屈の精神」 みたいな美談にしてしまっても良いのだろうか。 愛知県の6歳の男子児童が 熱中症で亡くなる事件を始め、 熱中症の脅威を伝えるニュースは 毎日耳に入ってくる。 「高校野球=夏の風物詩」というイメージは強いが、 開催時期を6月や9月に変更も 視野に入れる必要があるのではないだろうか。 それが難しいなら、 試合開始を16時や18時などの遅い時間にしたり、 ドーム球場を使用したりなどの対策を検討すべきだ。

朝日新聞は甲子園の開催時期について再検討する時期では

そうした中、14日に朝日新聞に、 「運動部のみんな、熱中症『無理』『もうダメだ』の勇気を」 という記事が掲載された。 記事では、 運動部に所属する学生に 「『それは無理』と感じた時、 『もうダメだ』と体に異変を感じた時、 仲間の様子がおかしい時、 自分や仲間を守るために、声を上げましょう」 と呼びかけており、 納得させられる点は非常に多かった。 だが、朝日新聞社は甲子園大会の主催。 猛暑の中、 高校球児にプレーを強いている張本人と言える。 そのため、この記事に対してネットでは、 「何故か真夏に過密日程で開催している全国高校野球選手権大会の主催者様が何か言ってるぞ」 「甲子園を夏から秋にしてから言おうな」 といった厳しい声が多数寄せられた。 死者が出てからでは遅い。 球児やその背中を後押しする応援団の体調面を 配慮する本気の議論が必要だ。 朝日新聞社にはぜひ行動で示してほしい。 熱中症になりながらプレーする選手は素晴らしいのか? 炎天下で運動するのは危険です 応援に駆けつけた生徒や保護者は、炎天下に長時間さらされることに慣れていないため、熱中症になったのかもしれないと予想されそうだ。ただ、そのリスクは炎天下に慣れている選手でも例外ではない。 高校野球北埼玉大会で18日、上尾高校と早大本庄高校の試合が行われた。埼玉新聞では、上尾高校の木村投手が熱中症による体調不良を引き起こし、失点してしまったと記載している。 熱中症になりながらも投げきった木村投手のガッツと投球術は素晴らしいが、これを「熱中症になりながらも力投」「暑さに負けない不屈の精神」みたいな美談にしてしまっても良いのだろうか。 愛知県の6歳の男子児童が熱中症で亡くなる事件を始め、熱中症の脅威を伝えるニュースは毎日耳に入ってくる。「高校野球=夏の風物詩」というイメージは強いが、開催時期を6月や9月に変更も視野に入れる必要があるのではないだろうか。それが難しいなら、試合開始を16時や18時などの遅い時間にしたり、ドーム球場を使用したりなどの対策を検討すべきだ。 朝日新聞は甲子園の開催時期について再検討する時期では そうした中、14日に朝日新聞に、「運動部のみんな、熱中症『無理』『もうダメだ』の勇気を」という記事が掲載された。 記事では、運動部に所属する学生に「『それは無理』と感じた時、『もうダメだ』と体に異変を感じた時、仲間の様子がおかしい時、自分や仲間を守るために、声を上げましょう」と呼びかけており、納得させられる点は非常に多かった。 だが、朝日新聞社は甲子園大会の主催。猛暑の中、高校球児にプレーを強いている張本人と言える。そのため、この記事に対してネットでは、 「何故か真夏に過密日程で開催している全国高校野球選手権大会の主催者様が何か言ってるぞ」 「甲子園を夏から秋にしてから言おうな」 といった厳しい声が多数寄せられた。 死者が出てからでは遅い。球児やその背中を後押しする応援団の体調面を配慮する本気の議論が必要だ。朝日新聞社にはぜひ行動で示してほしい。
朝日は美談が好きなのだ。 率直にそう思った。 熱中症予防を呼びかける。 当然、誰もがそれに異論を挟まない。 運動部の選手や指導者 みんな当然受け入れ気をつける。 それでも試合に集中すれば忘れる。 そこに意識が行かないことは 十分起こり得る。 体の不調の中頑張ったことは 責めないが 根本的に美談にする話ではないし 朝日自身がそのことに言及すべきところだ。 それを美談にしたがるところに ある種の朝日の病を感じる。 朝日を含む多くの 美談好きを 見ていて感じるのは プライオリティーの問題 つまり優先順位の問題だ。 例えばこの場合 最悪の場合 熱中症患者を増やすことにもなりかねない。 そのことよりも 新聞紙面として 読者に受け入れられやすい表現であることを 優先するということになる。 新聞紙面が 読者に受け入れられやすい表現をすることは 読者にとっても新聞社にとっても 大切なことであることわかる。 しかし それが少数であっても 熱中症増やすことを犠牲にして成り立つわけはない。 ここで考えたのは 朝日は美談を尊重するから優先順位を誤るのか それとも 優先順位がわかっていないから美談を尊重するのか と言う問題。 これが考えれば考えるほど 後者に当てはまるように思えてくるから 恐ろしい。 何と言っても 「事実」 の優先順位が低すぎる。 その最たる例は 慰安婦問題だが もりかけにしても 確定事実よりも 疑いを感情的に煽ることに 重きが置かれる。 前川喜平文部科学事務次官の問題では 前川氏の主張の中身の成否よりも 官僚主導の国政を完全肯定をしてしまい また同時に 官僚の天下りも完全肯定してしまうことに なってしまっている。 そうなってしまっていることに 気づいてはいるのだろうが 問題にしていない。 つまり朝日は 官僚主導の問題や 官僚の天下りの問題よりも 優先すべきものがあると 主張していると言うことだ。 夏の高校野球も100回を迎えるようだ。 よく勘違いされやすいことだが 長い伝統を誇るものは 初めの状態を 変えずに頑張ってきた と思われやすい。 しかし実際には 決してそうではないようだ。 常日頃の細かな変更やバージョンアップを 繰り返し長い年月に 耐えてきている と言うことの方が はるかに多いようだ。 伝統を守るには 変えない根性論や思考停止状態よりも 変える勇気の方が はるかに大切なようだ。 100回続けたことには 純粋に敬意を感じるが 問題が起こる前に 事前に回避する方策を練ることは 美談ネタの根を自ら絶やすようで 美談好きの朝日には断腸の思いだろうが 公共性・社会的立場を考えた行動を 期待する。

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posted by sachi at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事

2018年02月05日

北条かやの 若者の「節分離れ」は、恵方巻きのブラックノルマが原因である

HARBOR BUSINESS Online より

北条かやの 若者の「節分離れ」は、恵方巻きのブラックノルマが原因である

北条かやの「炎上したくないのは、やまやまですが」【その13】

「若者の○○離れ」を 大手メディアが嘆き、 ネット世論が「若者を批判するな!」と 盛り上がる図はもう飽きた、 という人も多いと思う。   これまでにも、 若者の車離れ (若者が車から離れたんじゃない、 高価格な車が若者から勝手に離れていったんだ)、 恋愛離れ (若者が恋愛しなくなったんじゃない、 高コストの恋愛が勝手に若者から離れていったんだ)、 お酒離れ(以下同)など、 さまざまなバリエーションが奏でられてきた。   少子高齢化とIT化で激変する社会においては、 年長世代と若者世代のギャップが 拡大していくのは仕方のないことだろう、 と冷笑気味にネットを眺めていたら、 今度は日本の伝統文化 (といえるのかは微妙だが) である節分までが、 若者から離れていっているらしい。   ソーシャルクラウドサービス事業を手がけるホットリンク (本社・東京) が、自社ツールを使って 「節分」に関するツイートを分析したところ、 「節分」関連のツイート数が 2年連続で減っていることがわかった。 (プレスリリース: 『ホットリンク、SNS上のクチコミから調査を実施  若者の「節分」ツイートは減少傾向!?』) 2015年には1万8000件だったのが、 16年には1万5000件、 17年には1万2000件まで減っている。 年齢別でみると、 特に20歳未満の若い世代における 「節分離れ」が顕著なようだ。 一体、何が起きているのだろうか。   ホットリンクの調査によれば、 「節分」とともにつぶやかれるキーワードは 「恵方巻き」や「豆まき」だが、 中には 「節分だけど○○(恵方巻き以外の食べ物)を食べる」 というツイートも散見されるという。 「2月3日だからといって、必ずしも恵方巻きは食べません」 とアピールする人も少なくないようだ。

関西の風物詩が、ここ数年で「ブラック」「ノルマ」のイメージに

恵方巻きといえば、 関西における節分の風物詩。 それがここ数年、 全国チェーンのコンビニやスーパーなどの影響で 一気に広まった。 筆者が京都の大学生だった10年前は、 まだ恵方巻きは関西限定のイメージが強く、 東京ではほとんど見かけなかったように思う。   しかし、日本人は信仰心が深いのか、 季節ごとにご利益のある食べ物を きちんとありがたがる性質があるようで、 今では全国どこのコンビニでも 恵方巻きを拝めるようになった。 その過程にあるコンビニ各社の 「商魂たくましさ」の犠牲になったのが、 若きアルバイト店員たちだ。   2009年頃から「ブラック企業」なる言葉が 世間に浸透しはじめたのは周知の事実だが、 最近では学生バイトに無理やりノルマを課したり、 学業に支障をきたすような 長時間シフトを押し付けたりする 「ブラックバイト」が問題になっている。   例としてよく出されるのが 「コンビニの季節商品ノルマ」だ。 クリスマスケーキやおせち、 そして恵方巻きが、まさにそれ。 ツイッターでは、 「恵方巻きのノルマで○本買わされた」とか、 「恵方巻きとかここ5年で浸透した浅い行事に ノルマを付けるコンビニ業界」 等のつぶやきが散見される。   郵便局員が年賀はがきや季節ギフトを買わされる 「自爆営業」のごとく、 1人ではとうてい食べきれない量の 海苔と白米でできた 重たい棒状の風物詩を押し付けられる若者は、 本当に報われない。 あまりに犠牲になるアルバイトが多いため、 コンビニ業界も 近年はそこまでゴリ押しはしていないようだが、 恵方巻きにまとわりついた 「ノルマ」「ブラック」というイメージは なかなか消えない。   このマイナスイメージこそ、 若者の「節分離れ」を招いた 要因のひとつではないか。   コンビニ業界が勝手に、 商業化された伝統文化を押し付け、 追いつかない需要をブラックノルマで 埋め合わせようとした結果、 若者が節分から逃げ出したのではないかと思う。   言葉ができれば、 概念ができる。 今までおかしいと思っていたモヤモヤに、 多くの人が気づくようになっただけのこと。 若者よ、 節分から離れたって何の問題もない。 いらない寿司の棒を消費する主体になんぞ、 ならなくてもよろしいのである。
経済では 大抵のことは 結果がよければ プロセスの問題は みんなで示し合わせたかのごとく なかったことにされる。 なかったことにしてきた。 だから売ってしまえば ノルマでも何でも 泣く泣く買わされた側は 泣くしかない。 それでも何らかの形で 代償が支払われたり お金以外の要素で 報われれば 泣くしかなくとも それ以上の行動は 現れなかった。 そして昭和は 経済を 仲間意識で 乗り切って行った。 そして 乗り切れると思ってしまった。 今の時代 ノルマを押し付けられて 絶望感に浸った若者の心情は 昭和の仲間意識の思い出に浸って 現代の若者を批判的に眺めて 疎ましく思っている中高年には 理解できるレベルではない。 ノルマは 結局、親族か友人に買ってもらうしかない。 もしそれ以外のところへ 大量に捌く才覚があったら その人はバイトなどしてる場合ではない 早く起業した方が良い。 昭和の時代は 困った時に親族や友人に協力を求めることは 社会的にありだった。 しかし今の若者世代は それはむしろやりたくないこと やってはいけないことの上位に入る。 昔は困ったことは親しい人に助けてもらったが 今は 親しい人には迷惑をかけられない と考える。 だから 特に都市部の若者にとって ノルマの苦しみは コンビニのエライ人たちが 想像しうるようなレベルではなかった。 そのエネルギーは 節分という伝統行事も 悪いイメージで塗りつぶすに十分なほどだ。 巻き寿司を節分に食べる習慣は 関西の一部に確かにあったようだが 「恵方巻き」 という言葉はごく近年のもののようだ。 考えるひとからすれば 苦心の上生み出したビジネスモデルかもしれない。 そのことに全く敬意を払わないというのはない。 しかし あえて言わせてもらえば WIN-WINの状態を目指したものではないということだ。 長続きさせたり 長期的に発展するモデルであるためには WIN-WINでなくてはいけない。

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2017年12月21日

日立でも不適合製品=エレベーター1万1700台−国交省、再発防止を指示

JIJI.COM より

日立でも不適合製品=エレベーター1万1700台−国交省、再発防止を指示

日立製作所は19日、 同社と子会社の日立ビルシステム(東京)、 関連会社のサイタ工業(同)が扱った エレベーターの安全装置の一部が 国土交通省の認定に適合していなかったと発表した。 認定に不適合のエレベーターは 設置済みと工事中を合わせ、 1万1699台に上る。 相次ぐ製品の品質不正問題は、 総合電機最大手で 日本を代表する企業である日立に広がった。 速度監視やブレーキなど、 扉が開いたままエレベーターが動いた時に 停止させる安全装置の仕様が認定と異なっていた。 国土交通省は同日、 日立に原因究明や再発防止策の提出を指示した。   日立によると、 不適合のエレベーターについては、 国交省指定の評価機関から安全性に問題はない との見解を得た。 安全性確認後、 実際に販売した仕様で認定を取り直した。 所有者から要望があれば、 装置の一部機能の改修を行う方針だ。
役所の言うこと全てに 文句をいうつもりはないし こういう基準は 甘すぎるよりは 厳し目の方がいいのは当然だが 厳しすぎるのも いいことではない。 スバルなどの車の件にしても 「守られなかった」 という割には そのことを原因とする 問題は起きていない。 しかも 輸出車には適応されない基準だという。 この日立の件も 安全上は問題ない。 つまり安全であるためには 役所の基準以外の方法が あったということだ。 この手の話で 役所を過度に批判することは また別の問題が生まれるので 極端なものの言い方は 控えるが 役所の立場としては 完璧なものを追うあまり 陥っている事で 基本的には悪意ではないと考えるが 弊害がどれだけあるかは あまり考え抜かれてはいないと見えるの。 まず 国民一人当たりの 生産性の低さに繋がっていないか という事。 安全性が必要なのはわかるが それが全てに優先するのは 良いようで 実際には現実的ではない。 現実的ではないということが どういうことかというと コントロールが 効かなくなるということだ。 車の制限速度などは典型だが 規則の価値そのものが 下がるということだ。 そっちの方が 結構取り返しがつかないことに なりかねない。 つまり守られなければ 規則によるコントロール全般が 効かなくなる。 そして 守られれば 確実に生産性を落とす。 これは慎重に扱わないと 傷つく人と 誤解する人が結構いるので あえて 例をあえてあげない。 お許しいただきたい。 しかし よく考えていただきたい。 それともう一点は 言われ尽くした 当然のことだが 役所の利権 ということだ。 これも今の時代 かなり慎重に考えないと システムそのものを壊すことになる。 誰かが得をするとか 損をするとかのレベルならまだ良いが そんな単純な問題ではない。 今 大学関係者の多くが 文科省に気を使う。 異常なほどに気を使う。 今まで学問のことだけ考えて 社会的なこと政治のことなど 何も考えてこなかった人まで 気を使う。 先日の前川さんの発言から察するに 文科省は天下りを悪いとは思っていないと 解釈できるので とても大きな問題だと思える。 これは 大学のシステムを破壊するところまで 行く可能性があると思っている。 それは 気が付いた時には 大きな国力の低下 生産性の低下に繋がるということだ。 少し冷静に 考えるべきことだ。

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レッジョ・アプローチについてはこちらで紹介
posted by sachi at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事

2017年12月02日

日本教育の“弱点” グローバルな人材が育たない3つの理由

文春オンライン より

日本教育の“弱点” グローバルな人材が育たない3つの理由

『レッジョ・アプローチ 世界で最も注目される幼児教育』が画期的な理由

1991年、ニューズウィーク誌で 「世界で最も先進的な初期教育」 として「レッジョ・アプローチ」 を取り入れた幼児学校が紹介された。 その教育はモンテッソーリを継ぐ 画期的な手法であるとして 世界中のインテリ層が注目している。 『レッジョ・アプローチ  世界で最も注目される幼児教育』 の著者で、 自身も日本で子育て中の アレッサンドラ・ミラーニさんに、 その特徴を聞いた。 ◆◆◆ 『レッジョ・アプローチ 世界で最も注目される幼児教育』 (アレッサンドラ・ミラーニ 著 水沢透 訳)   私がレッジョ・アプローチに初めて出会ったのは、 今から十数年前のことです。 当時私は、アメリカでしていた、 獣医学の研究者という仕事を途中で中断し、 日本に来て、 インターナショナルスクールの 幼児クラスの教師をしていました。 イタリアで幼稚園教師の資格は 取得していたものの、 現代の、 いろいろな文化的背景を持った 子供を預かる国際的なクラスで教えるために、 一番ふさわしい教育方法は 何かを模索していました。 そんな中で出会ったのが、 1945年に北イタリアの小さな街、 レッジョ・エミリアで生まれた レッジョ・アプローチという 教育法だったのです。

グローバルな人材が育たない日本の教育

 私自身、女の子と男の子、 2人の子供の母親なのですが、 我が子を最初は日本の公立の小学校に 通わせていました。 その体験から、 どんどんグローバル化してゆく これからの社会を 背負って立つ人を育てるという観点から見ると、 日本の教育には大きな欠点が いくつかあることに気付きました。   1つめは、 教育内容が、 子供たちから見て受け身の、 知識の習得中心に偏り過ぎていること、 そして生徒たちがペーパーテストの結果に 縛られ過ぎていることです。   その一方で、 知識を現実の社会や生活と結びつけて、 創造的な学習をすること、 自発的、かつ批判的な思考をしながら、 クリエイティブに物事を推し進めていく力を 養うような教育が、 軽視されているように感じました。   2つめは、 子供の個性を尊重し、 伸ばすような教育がきちんと行われていないこと。 特に中学校以降になると、 全ての生徒が画一的に、 無条件に守らなければいけない 「校則」があります。 でも、その校則が何のためにあるのか、 子供や家族には説明がありません。 ただ決まりだから、 みんな守っているからというだけ。 それを誰も不思議に思わない。 そんな環境で個性的な人間が育つのかな、 という疑問を持ちました。   3つめは、 自分の考えを積極的に主張したり、 他の子と議論したり、 ネゴシエーションしたりということを、 あまりにもさせないこと。 実は、これが一番問題だと思います。 自分とは立場や考え方が違う人と議論したり、 コミュニケーションをとったりという機会が 少ないまま育てられた子供は、 これからどんどん社会が国際化する中で、 様々に意見や利害、 立場が異なる人々が一緒に働く場に置かれたとき、 チームの仕事に重要な貢献をしたり、 イニシアチブをとったりしていくことが、 困難になると思います。

レッジョ・アプローチが日本の子供の弱点を補う

本書のテーマである レッジョ・アプローチは、 子供を無力で、大人から一方的に 物事を教えてもらうべき、 未熟な存在とみなしません。 子供を、 大人と同じ権利を持った人間として認めた上で、 子供の自発的な選択、発想、意志といったものを 最大限に生かします。 これによって子供たちの 自主性、創造力、決断力、表現力が伸びていきます。   レッジョのプレスクールで学ぶ子供たちを見て、 よく驚かれるのは、 パソコンやプリンター、ウェブカメラといった ハイテク機器を使いこなしているだけでなく、 アクリル絵の具や泥、針金といった、 ふつうは幼児に触らせないようなものを使って、 自在にものを作り出していることです。 こうした「汚れるもの」「あぶないもの」から 遠ざけるのではなく、 子供たち自身が注意して扱えるよう 大人がサポートするのが、 レッジョの考え方といえるでしょう。   また、レッジョ・アプローチの教育法には 「時間割」というものがありません。 その日にやる主な活動のプログラムは、 朝のミーティングの時間に 子供たち同士が話し合って決めます。 こうしたことによって 「指示待ち」人間とは違う、 将来、イノベーションを起こせる 能力を持った人材が育っていくのです。   もう1つ重要な点は、 レッジョ・アプローチが、 グループで話し合い、行動する、 つまり「協働」することを重視している ということです。 そうした中で、 子供たちは他者とコミュニケーションをとり、 ネゴシエーションし、 お互いの考え方や好み、 立場の違いをすり合わせながら 物事を前に進めていきます。 本当の意味での 社会性を伸ばしていくことができるのです。   たとえば、 本書の中でも紹介した例ですが、 ある4歳児のグループが皆で使っている 小テーブルの長さを測ることになりました。 彼らはメジャーや物差しのような 道具を持っていないし、 使い方も知りません。 どうしたと思いますか?  最初は毛糸で測ろうとしていたのですが、 両側から引っ張ると 伸びて長さが変わることに気付き、 話し合いの結果、 引っ張っても長さの変わらない お絵描き用のカラーマーカーを 使うことにしたのです。 テーブルの長さは 「カラーマーカー8本とペットボトルのふた1個分」 であることがわかりました。 彼らは4歳にして、 ちゃんと協議し、 皆で協力し合ってものごとを 解決する能力を持っているのです。   このような観点から見ると、 レッジョ・アプローチには、 日本の子供たちの弱い点を 補う力があると思います。 もちろん、幼児教育だけで 教育問題が解決するわけではありません。 しかし、 コミュニケーション能力、社会性、創造性 といったものの基本的な部分は、 子供時代のごく初期に形成され、 その人の生涯にわたって決定的な影響を与える、 非常に重要なものとなります。 ですから、 レッジョ・アプローチの 幼児教育を経験する子供は、 確実に大きなプレゼントを もらうことになるでしょう。

「最も先進的な幼児教育法」と評価される理由

レッジョ・アプローチは、 1つの固定したメソッドではありません。 また一種のマニュアルでもありません。 その本質はひとつの哲学であり、 子供へのアプローチの姿勢です。 その教育現場での実践内容は、 世界の様々な地域の 文化的状況によって変わります。 また新しい社会環境の変化に応じて、 日々刻々と 「アップデート」 されていくものです。   こうした、 ダイナミックに動き続ける 仕組みを持った教育法は、 いままで世界に 例がなかったのではないでしょうか。 だからこそ、 ニューズウィークを始めとする 世界のメディアからも注目を集め、 現在、最も先進的な幼児教育法として 評価されているのです。   本書が、これから日本にレッジョ・アプローチが 導入されるときの 入り口になることができれば幸いです。   私の本を読まれて、 レッジョ・アプローチに 興味を持たれた方もいらっしゃることでしょう。 しかし残念ながら現在のところ、 日本国内には、 まだレッジョ・アプローチに関する専門の組織や、 完全なかたちで レッジョ・アプローチによる教育を行っている 幼稚園等はありません。 ただ私を含め、 数人の教師によって レッジョ・アプローチを取り入れた教育をしている プレスクールが東京にあります。 スクール側の日程と都合が合えば、 ご参観いただける可能性がありますので、 幼児教育の専門家や親御さんで参観を希望される方は、下記までお問い合わせください。 KOMAZAWA PARK INTERNATIONAL SCHOOL FOREST KINDERGARTEN http://www.kpischool.com/j.contact.html   なお、ご予約なしのご訪問は固くお断りいたします。   本書の内容、およびレッジョ・アプローチに関するご質問は、お手数ですが、下記のアドレスまで必ず英文にてお問い合わせください。 milani@il-centro.net ――― アレッサンドラ・ミラーニ 1966年、イタリアのカステルフランコ・ヴェネト生まれ。故郷で幼児教育と学童教育を学び、小学校教員の資格を取得。パルマ大学獣医学科を卒業後、EUの奨学金でスペインのサラゴサ大学に留学。1993年米国のカリフォルニア大学デービス校に移り、比較病理学の修士号を得る。その後同校の研究者として勤務していたが、幼児教育への情熱を捨てがたく、縁あって来日した後はその道に専心。約9年前、在日イタリア人やイタリア人とのハーフの子供を教えるプレスクール、ダンテ・アリギエーリ協会東京支部「GGDA」http://www.il-centro.net/wpggda/を創設、校長兼教員に就任。レッジョ・エミリアのメソッドを使った教育を実践している。二児の母でもある。
だいたいこの手の話は 日本の将来に向けた話で 緊急性はない話として 扱われるものだが、 そのこと自体が 大きな問題だと思っていただきたい。 確かに来月末までには なんとかしなければいけない ような緊急性ではないが 欧米の人間が 今普通にしているような 国という単位を意識せずに いろいろな文化を受け入れて楽しみ たくさんの意味ある刺激から より個性的な自己や社会のあり方を 考えている姿を考えると 日本がこのままで良いわけがない とごく当たり前に感じる。 生活のエリアが 狭ければ狭いほど 人間関係や 形式的な手続きのようなものの 重要度が増す。 反対に エリアが広くなれば広くなるほど 自分が自分の立場や もののあり方を 主張しなければならない場が増え 結果的に積極的な工夫や創造が 必要になる。 人間関係や 形式的な手続きのようなものでも 当然工夫や創造は本来必要なのだが ともすれば 過度に周囲に自分を合わせること つまり 考えないことの方が 価値を持ちやすくなる。 そこで違ってくる 個人の人生の質 また 社会への意識の質 社会そのもの質の違いは まだまだ日本人の多くには 伝わっていないかもしれない。 もっとも それは海外旅行で 知ることのできる質のものではない。 短期間であっても 海外の生活にふれ 家庭生活にふれ 個人のヴィジョンにふれなくては 実感できないかもしれない。 しかし 本などのメディアから 知識として知って置くことは できるし必要だと思っている。 そして グローバル化とは 乗り越えなくてはいけない 難しい課題ではなくて 待っている すばらしく 楽しい姿であることも 知っていく必要がある。

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2017年11月30日

デーモン閣下、“かわいがり”は必要と「相撲協会750人のうち740人が思ってる」と指摘

スポーツ報知 より

デーモン閣下、“かわいがり”は必要と「相撲協会750人のうち740人が思ってる」と指摘

好角家として知られるミュージシャンのデーモン閣下が29日、TBS系情報番組「ひるおび」(月〜金曜・前10時25分)に生出演し、横綱・日馬富士(33)=伊勢ケ浜=が貴ノ岩(27)=貴乃花=に暴行して負傷させた問題についてコメントした。

デーモン閣下は 「ちょっと改造手術をして、 入院とかしてたんで」 とケガをしていたことを明かし、 松葉杖をついて登場。 この日明らかになった 日馬富士の引退に 「世間一般的にはこういうことになるのは 当然だという風潮はあるでしょうけど、 相撲ファンとしては 一番望んでいなかった結果」 と言い、 「場所前も横審総見で 4横綱ほとんど休んでる中、 日馬富士だけが頑張って 若手に胸を出して 横綱らしさを見せていた。 吾輩はそれを見て立派な横綱になったなと 本人にも言ったくらい。 そんな矢先なので」 と明かした。   また 「今回の件が世間を騒がせる大きな理由に 2つ問題があると思う」 とし、 「1つは横綱が暴行を起こした。 その暴行が どのくらいの処分に値する問題だったか」 と指摘。   もう1つは 相撲協会の体質について言及。 相撲協会が公益財団法人に移行し 「かわいがりと称して体罰するのを 一切止めましょうと表向きに言っていた」 が、関係者の多くが 「多少の体罰なしでは 指導できるわけないんじゃないかと思っている」 と指摘。 「750人いる相撲協会の人のうち 740人ぐらいまでそう思ってる」 と語った。   その上で 「多かれ少なかれ 若い奴らを指導するのに 番付上位のものが手を出すことは 当たり前だと思ってる。 本当に心の底から相撲協会全員が一丸となって、 今の時代に 反することなんだから 心を入れ替えてそういうことをやらないで 指導していくことができるかどうかの 岐路に立たされている」 とコメントした。   また、 貴乃花親方(45)は相撲協会理事として 「経営者でもある」 と指摘。 理事として改革を目指す貴乃花が 「なあなあの昔ながらの意識の中で やっているならそれは立派」 としたが、 「自分の部屋の若手がひどい目に遭わされて、 私情が絡む。 そこのバランスが 上手く取らなかったなというのが吾輩の見方」 と語った。
いろいろ 誤解を招きやすい表現が あるかもしれないが、 お許しいただきたい。 あえて極端な表現がある。 出された料理を食べて とても美味しいと思い 何かレシピに秘策が 隠されていて特別な材料とか 聞いたことのない調味料が 使われているのだろうと思って レシピを尋ねると 案外 全くありふれた食材や どこの家庭にも常にある 調味料しか使っていない ということがある。 つまり 割合の問題なのだ。 特別な食材を使えば 特別な味になるが ありふれた食材を使っても その配合の割合次第で 美味しい料理はできる。 その場合 恐ろしく安い値段で 美味しいものはできる。 日常の事柄は 一つ一つの要素の良し悪し ではなくて 様々な要素の割合で うまく成り立っている という面がある。 それは 日常の多くのことが うまくいくのも うまくいかないのも 割合つまり 物事の程度問題だということなのだろう。 しかしそれは 境界線を曲線で引くようなもので わかりにくいとかスッキリしないと 感じる人は多い。 だから直線で境界線を引いた方が 良いと考え直線で境界線を引く。 するとそこで様々な不都合が起こる。 暴力はいけないということは理性的な判断で 問題を暴力によって解決しようとすることは 感情的判断で 理性的ではないということになっている。 その事を否定する人はまずいない。 しかし 自分の部屋の若手がひどい目に遭わされて、 私情が絡んで 暴力を訴えるのは理性なのかというと 表向き理性だということで世の中には通るが 釈然としない。 福井県池田中の中2自殺も 担任副担任が 叱責で自殺に追い込んだと 報告されても 体罰は加えていないから 直線で引かれた境界の外には出ていない。 実際にはそうとうひどかったと思う。 体罰が禁止されれば他の方法が 発達してしてまうのが 直線の境界線のもつ性格だ。 人間が利口になるしかないのか、 利口になれないから こういう世界ができているのか。 けっこう 本気で 考えなくてはいけないことかもしれない。
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2017年11月29日

世界のエリートに学ぶ「創造的思考力」の伸ばし方

Forbes より

世界のエリートに学ぶ「創造的思考力」の伸ばし方

この数年で 「デザイン思考」 が新しいフェーズに入り、 イノベーションを生む手段としてのみならず、 企業を変革する経営戦略のツールとしても 使われるようになってきています。 さらには、 数年前から 「デザイン」を「芸術」に 広げた考え方も出てきています。 特に、 昨年ごろからその動きは 顕著といえるでしょう。 昨年、 フィナンシャル・タイムズが 「The art school MBA that promotes creative innovation (美術大学のMBAが創造的イノベーションを加速する)」 という記事で、 グローバル企業が幹部トレーニングを 美術系大学院と一緒に行う実態を報じました。 また、別の記事では、 『Art Thinking』(邦訳なし)の著者である エイミー・ウィタカー氏を紹介するなど、 芸術をビジネスに取り込む重要性を説いています。 『Art Thinking』の中で、 デザイン思考は、 自分の外側から与えられた条件の中で 創造的アイデアを出すものであり、 アート思考は 自分の内側から湧き起る目的を作るとものだと 説明されています。 デザイン思考が普及する中で、 経営手法は 「デザイン」を包括した「芸術」へと 進化していっているのです。

日本でも問われる「芸術思考」の重要性

日本では、2012年に 明治大学の阪井和男氏と 東北芸術大学の有賀三夏氏が 「芸術思考」という言葉を作り、 提唱し始めています。 文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成事業に 採択され、 数多くの研究が進められ、 論文にまとめられたり、 講演やワークショップなどが行われたりしています。 たとえば、 2015年に情報コミュニケーション学会の全国大会で 研究奨励賞を受賞した 阪井氏・有賀氏・筆者の3名で書いた 「新規事業を生み出す芸術思考」では、 新規事業におけるデザイン思考の限界を指摘し、 芸術思考を ゼロから顧客を生み出す事業に適用し、 5つのステップにまとめています。 1. 新規事業を思い描き、関係者に共有する 2. 思い描いた事業を実現するための人・モノ(技術)・金を含むパーツを揃える 3. 現在あるものでシンプルなビジネスモデルを作る 4. 少額の投資によるフィージビリティ・スタディで実現性をチェックする 5. 実現可能であれば実行し、さもなければギャップが何かを調べ(1)あるいは(2)に戻る 顧客が明確でない新規事業の開発の場合は、 目的を問い直す芸術思考で 新しい仮説やビジョンを創造したあとに、 デザイン思考を適用することが有効です。 欧米では90年代から芸術教育 (美術、音楽を含む) の効果を測定する研究が多数行われています。 その中でわかってきているのは、 芸術は創造的思考力を 伸ばすということです。 コロンビア大学の芸術教育センターでは、 3つの州の公立学校に通う 2046人の子供たちを対象に 大規模調査が行われました。 芸術の授業に多くの時間を使っている生徒ほど、 創造的思考力の能力が 向上していることがわかったのです。 創造的思考力には、 次の4つの能力が含まれています。 ・問題解決力: より多くのアイデアや問題解決へのアプローチが考えられる ・オリジナリティ: より多くの創造的な問題解決アプローチを生み出せる ・進化させる力: 問題を解決するプランを作成する際、より詳細な案を練ることができる ・粘り強さ: 多様な価値観を受け入れ、早計に判断を下さない。また解決策に対してすぐに満足しない この調査によると、 芸術で培った創造的思考力は、 業界などに依存せず、 すべての分野で発揮できるものでした。 音楽教育の効果については、 ドイツのゲッティンゲン大学の教育学者、 クリスチャン・リッテルマイヤー氏らの 研究によっても指摘されています。 音楽はひとりだけで完結できる美術と比べると、 対人的な能力も求められる。 よって芸術的な経験に加えて、 人と人とのコミュニケーションを 繰り返すことで効果を 上げていると述べています。 美術も音楽もどちらも創造性が養われますが、 それぞれ異なる脳の領域を使っているので、 身につく能力に違いは出てきます。 美術は、創造性を具現化して可視化する能力、 音楽は創造性を表現したり 人とコミュニケーションを取ったりする能力を 育んでくれます。 もちろん どちらも取り入れることが理想的ですが、 まずは、音楽を聴いてみる。 または美術館へ出かけてみる。 少しずつでもアートと触れ合うことで、 創造的思考力をより磨く第一歩が踏み出せるでしょう。
古代ギリシャの主要三科目は 数学、音楽、体育だったという。 確かにこの三つが人並み以上にできたら 結構幸せな人生がおくれるかもしれない。 テレビ番組で聞いた話だが 東大生の習い事経験で、 もっとも多いのはピアノで 確か52パーセントが ピアノを習った経験を持つそうだ。 普通の公立の中学などで ピアノを習っているか 習った経験のある人が 圧倒的に女子が多いことを考えると 男女比ほぼ4:1の東大で 52パーセントというのは 驚くべき数字だ。 今の日本の学校教育では 芸術教育は尊重されているとは 言い難い。 時間数も少ないし 内容も充実しているとは言い難い。 理由は簡単で 他に教えなくてはならないことが たくさんあるからということだろう。 高校に情報科の授業が必修になった時 割を食ったのは芸術教科だった。 多くの普通科の高校で 4単位だったものが 2単位になった。 感覚的に良いことではないのではないかと思った。 しかし 芸術科の指導要領や教科書と 情報科の指導要領や教科書を 読み比べてみると確かに 「お役人様がそうお考えになるのも無理はございません」 と皮肉を込めても込めなくても思ってしまった。 そもそも 目に見えるものを中心に 生きてきた官僚が 目に見えない世界のことより 情報化の社会の中で 目に見える危険が迫りつつある 青少年に 必要な情報化社会の知識を 短期間にしっかりと教えなくてはならない 気持ちはわかる。 そして こういう話が一事が万事で 日本の社会全体として より直接的に成果を上げることが 重要視される度合いが 極端に高まってきた。 「文学部不要論」 などもその最たる例で 直接的な効用がわかりやすい 理系学部だけがあれば良いなどと いう人までいる。 しかし より成果を上げる人たちの 成果に至るプロセスを 事細かに見聞きすると そこには 文学部不要論者の唱えるような 成果のパラダイスは 全くありえないことに 気づかされる。 上の文章なども良いし 少し前に話題になった本に 『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる──21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』 などもあるし、 そして心や脳を育てることに 芸術がどう関わるかといった研究も 結構ある。 そういう書物に寄らなくても 実際に成功した人 有能だとされる人 ストレス知らずな人 社会的にも プライベートでも幸せな人たちと 直接やりとりをしても 音楽、美術、文学に長けた人は 思いの外多いし 彼らがその芸術を学び楽しむ過程で 身につけた能力は多い。 そもそも 人間は普通考えられているほど 原因と結果の関係に気づいていないし その関係を諭されても なかなか気づくものではないし また 原因と結果の位置が 遠ければ遠いほど わかる人は少ないから よほど 物事の 全体像が把握できる人でないと わからないことも多々ある。 そして (皮肉や冗談ではなくて) その物事の全体を把握する力も 芸術や哲学などの抽象的思考で 培われるところがあるから 堂々巡りになる。 つまり わかる人は大いにわかるが わからない人は 全くわからないことが起こる。 そういう 大いにわかる人と 全くわからない人の 乾いた争いが 一国や社会全体の 命運を分けるようなことには なってほしくない。 と考えると 芸術教育は 学校教育でも必要だし 社会教育としての 芸術教育も 趣味レベルではなく あって良い。 文学部不要論者のような種類の 成果論者は 物事を因果関係という形で見ようとしない。 または 因果関係を 狭い範囲でしか適用しようとしないから 結果の部分と そのとりあえずの周辺だけを見て より成果を上げることを考える。 だから 根性論になってしまったり 給料を増やせば 誰でもモチベーションが上がると 本気で思い込んだり できなければ 努力が足りないと思い込む。 こういう上司は 過労死やブラック労働の 温床となるばかりでなく 良い企業風土や 企業の歴史的遺産まで 破壊する。 さらにタチが悪いのは その当事者本人は 良いことをやっていると 本気で思っている。 「人は善意でやったことには 反省はない」(河合隼雄)から あっという間に 大変なことになってしまう。 いわゆる「企業の不祥事」の多くは こういうことに集約されることが 多いのではないか ちなみに 希望の党の支持率3パーセント台も 因果関係がまるで見えてなくないか。 ひどいことだ。
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2017年11月24日

朝日新聞がバッシングへの抗議開始も「まず慰安婦捏造を謝罪しろ」の大合唱

デイリーニュースオンライン より

朝日新聞がバッシングへの抗議開始も「まず慰安婦捏造を謝罪しろ」の大合唱

朝日新聞社は21日、 同社の社説記事を「捏造」だと Twitter上でつぶやいた 日本維新の会・足立康史衆議院議員(52)に抗議して、 発言を撤回するよう 求める申入書を発表した。 「朝日新聞が沈黙を破り、今週から一挙に反撃を始めたようです」 と説明するのはある新聞記者だ。 「同社は同21日に、 『徹底検証『森友・加計事件』  朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』 の著者・小川榮太郎氏(50)にも 名誉・信用を傷つけられたと、 謝罪と該当部分の訂正、 損害賠償を求めています。 他にも同日に 『月刊正論』(産經新聞社)12月号の 高山正之氏(75)の連載コラムの 「安倍叩きは社是」 の記述についても、 訂正を求める申入書を送りました」   同記者によれば 背景にあるのは 「この1年で31万部減と、目に見えて部数を減らしている現実」 に焦りを感じ始めているからだという。 ネットメディアの発達とともに 強まり続ける 「朝日新聞バッシング」を、 もはや見過ごせないと 決断に踏み切ったのだろう。

自民党・山田宏議員「その前に日本国民に謝罪すべきでは?」

  だが、 逆襲に出た朝日新聞に 各方面から思いがけないカウンターパンチが 飛びまくっている。 「朝日は 小川榮太郎に抗議を出したその日の内に、 自民党・山田宏参議院議員(59)から 『朝日新聞は、まず日本国民に対し、 自らの慰安婦報道で 世界にばら撒いた嘘に謝罪し、 賠償するのが先決じゃないの?』 と痛すぎるツッコミを入れられ、 2500リツイートと3800もの『いいね』を受けるなど 共感を呼んでます。 さらに朝日新聞が騒いだことで 小川氏の著作は逆に注目を集め、 22日には Amazon政治本カテゴリで1位になりました。 さらに足立議員も 20万視聴の人気ネット番組 『報道特注』に出演するなど、 むしろ反論が SNSで拡散してしまってます」 (週刊誌編集者)   たしかにすべての 「ディスカウントジャパン」は 朝日から始まっているといっても過言ではない。 その訂正も 中途半端な一部訂正を軽く認めただけで、 謝罪がウヤムヤになったのが現実だ。 社会の木鐸として 人に謝罪を求める前に まず己の襟を正すべきだろう。   そして「安倍叩き」についても、 8月26日の産經新聞「産経抄」で 「いま、(朝日新聞)社内は 安倍(晋三首相)を叩(たた)くためなら、 どんなことでもするという空気になっている」 と新聞業界の不都合な真実を バラされたのが大きかった。 TBSやテレビ朝日同様、 しつこくモリカケ問題を特集する怪しさに、 ネット利用者はすでに勘づいている。   完全に ヤブ蛇をつついた形になった 朝日新聞の一連の抗議。 朝日は再び昇ることなく、 沈んでしまうのか。 朝焼けのような さらなる炎上で 真実が より多くの人に届くことを期待したい。
真偽がはっきりしない面白い話と 明白な事実だがつまらない話で 大衆が飛びつきやすいのは 当然前者だが だからと言って 報道機関が飛びついてはいけないのは ごく初歩的な 社会の約束事だ。 しかし それを破るからには それ相応の目的があるはずだ。 その本当の目的がどこにあるかが 本当に深刻な問題ということになるのではないかと 危惧している。 こういう場合 多くは 「お金」 または 「権力」(覇権)。 事実であってもなくとも 保守勢力や国を中傷することが お金や権力に結び付くとすれば どのような具体的な構造なのだろうか。 右寄りの主張をするが 基本的に本当のことしか書かない産経新聞と 平均年収が倍近く違うのは やはり朝日のような論調に対するニーズ つまり都合が良いという人たちが 一定数いるということなのか。 それは朝日新聞よりタチが悪くないか。
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2017年11月15日

鈴木涼美「好きを仕事に」で生まれるブラックな過重労働は「悪」と断罪できるのか

文春オンライン より

鈴木涼美「好きを仕事に」で生まれるブラックな過重労働は「悪」と断罪できるのか

NHK女性記者の過労死報道から1ヶ月。君たちはどう稼ぐか

「そうだ、鈴木さん、あの方ご存知だったんじゃないですか?」

先日、 久しぶりに 私が新聞記者時代に大変お世話になった 取材先の広報の方と お話しする機会があった。 私が密かに憧れていた その課長も今は広報を離れ、 本流のエリートコースを大驀進中なのだが、 お世話になった頃には 明かされていなかった私の黒歴史 (文春砲とかAVとか) は気に留めてくださっていたようで、 「会社にいても会社を辞めても話題の中心ですね」 と若干皮肉られつつ、 「そうだ、鈴木さん、 あの方ご存知だったんじゃないですか?」 と話題を振られた。   彼があの方、 と指したのは先月、 過重労働によって亡くなっていたことが 幾度も報道されたNHKの女性記者のことである。 2013年に亡くなった時の年齢は31歳で、 現在34歳の私とは年齢も大変近く、 ほぼ同時期に都政報道の担当をしていたことから、 その取材先の課長も 「うちの部下も鈴木さんと似たような時期に お世話になっていたようで」と、 私とその女性記者が仕事仲間だったのでは と心配していたようだ。   ちょうど電通新入社員の 過労自殺などが 大きく報道された後というタイミングもあって NHK過労死報道への人々の関心は高かった。 ブラック企業などについて テレビや週刊誌もいつにも増して 特集を組んでいる。

過重労働の被害者になっている「私」は想像しにくい

あいにく、 私は利害関係のない プライベートの友達は女の子だけ、 仕事上の利害あるお付き合いは ほぼ男の子だけ、 というゲンキンで薄情な人間のため、 亡くなった佐戸未和さんとは 直接的な知り合いではない。 しかし年齢と担当の取材先が似通っている 元同業者の死が 労災認定されていたことは、 私にとっても少なからず気になる報道だったし、 周囲の人間も 記事を見て私を連想した人はいたようで、 ある人は 「君も死んでいたかもしれない、 記者なんて辞めて良かったのかも」 というような内容のメールをよこした。 確かに 私がのうのうと生きていて 別の人が亡くなったということに 必然性などないのかもしれないが、 仮に私がそのまま新聞記者として 働いていたと考えてみても、 過重労働の被害者になっている自分 というのが想像しにくいのも確かだ。

給料は成果への報酬か、苦痛の対価か

常識的に、 私たちは仕事で得る収入、 つまりお給料について 大体二通りの感覚を持っている。 お給料を自分の労働による成果への報酬 と捉えるか、 苦痛の対価と捉えるか。 そして、 もちろん生き生きと仕事をして 自己を華々しく実現する人に 前者の感覚が共有されている場合が多いのだが、 反面、 過労で倒れたり、 追い詰められたりする人も その感覚を持っていることは否定し難い。   そして、 どちらかというと後者の感覚が強く、 お給料に対してどれだけの我慢が 見合うかということを 常に考えている私のようなタイプの人間は、 仕事で成功する道も狭いが 仕事に追い詰められることも 比較的少ない。 私の関心は、 いかに職場での居場所を失わない程度に うまくサボって、 しっかり仕事している人と 同じだけの給料をもらうか、 ということに偏りがちだったし、 だから仕事を面白いとか楽しいとか、 そんな感覚なんてなかった。   ただ、 私の方がカノジョたちより 幸福だなんて言えるんだろうか。 死ぬほど働いてみたい なんて言ったら怒られるけど、 でも死ぬほど疲れていることに気づかないほど 入れ込んでできる仕事を持つのは、 かわいそうなことなんだろうか。 程よく、身体を壊さない程度に、 ワークライフバランスを考えて、 入れ込んで、思いっきり、 楽しみながら、泥臭く、 それなりに一所懸命 ……働くことを彩る言葉は多いが、 どれもこれもしっくりこない。 どうせ同じ給料だから、 と手を抜かないで、 死ぬくらい真面目にやればよかった、 と時々思う。 でも死んでしまったら好きな仕事もできないし、 手を抜いて上手いことやるくらいで ちょうどよかったんだ、とも思う。

夜業界でワーカホリック状態の女の子は「給料=成果」派

収入についての感覚が 仕事への姿勢を分けるのは何も、 いかにも自己実現的な 現場や職種に限った話ではない。 私が新聞社の前に勤めていた 夜業界というのは、 とくダネをとったり 上司の機嫌を窺ったりして 評価査定をあげて花形部署に異動して 論説委員や 部長の席を狙う新聞記者なんかよりも ずっと直接的に ずっと露骨に 出来高による収入格差と 成績ランキングが可視化される場所だった。 そして 過度なワーカホリック状態になる女の子たちが 持っているのは まさに給料を成果ととる思考回路だ。   彼女たちの論理では当然、 美人で気が利く巨乳の若い娘、 がより多く稼げる。 逆に言えば稼いだ金額が、 自分の女としての価値であると 見紛うようなシステムがそこにある。 そして、 幸福なことに、 あるいは大変不幸なことに、 それほど美人でもなく 機転も利かず貧乳で年増であっても、 労働時間を増やすことで 収入をある程度補填できる。 彼女たちにとって稼いだ金額は、 時に自分の常軌を逸した 頑張りの結果でもあるが、 その過程を無視すれば、 それはそのまま 自分が良い女であるという証明にもなる。 夜業界の女の子たちが 競ってホストクラブで 死ぬほどまずいスパークリング酒に 高額を使うのは、 お金が使えるということは 稼げるということであり、 稼げるということは 自分がスペックの高い良い女である という誇りに直結しているからだ。 そして彼女たちは あたかも自分は寝ずに節約を重ねて 過度な出勤と 長い労働時間によって稼いでいるのではなく、 良い女だから簡単に稼げているように振る舞う。 そうでなければすぐさま 「鬼出勤してまでホスト通い乙www」 なんて不名誉な噂を立てられる。

「指名本数を少なく、客単価を上げる」派の嬢たちも

「大して働いてないよ」 というそれはもちろん、 他人に対してのポーズでもある。 しかし彼女たちを見ていると、 あくまで装いだったその姿勢を いつしか内面化し、 自分でもどこかしら過重労働の実態を 意識的に忘却し、 売れっ子だから かわいいから 色っぽいから稼いでいると 信じ込むようなところまで見え隠れする。 そして 他人に対しても 自分に対しても そのポーズを裏切らない成果を上げるために、 より一層過酷な労働環境に没入していく。   と、書くと いかにも蟹工船状態で あくせくと働く姿が想像されるが、 彼女たちの実態は内面的にも 外見的にも 大変華やかで充実したものである。 夜業界においては 忙しいということそれ自体が 自分が個人的にある程度 求められるような存在でない限り 実現しないことであり、 どんなに忙しくてもそれは自分の 「売れっ子」っぷりを 体現しているに過ぎない と思えてしまう。 売れに売れているアイドル歌手の睡眠が 2時間であるような事態と似ている。   対極にはもちろん、 いかに効率よく 必要なぶんだけを稼ぐかを目的に、 なんとか指名本数を少なく、 客単価を上げようという思考の嬢たちもいる。 彼女たちの場合は、 稼いだ金額は 見知らぬオヤジのちんぽをしゃぶる苦痛に 見合うものであるべきで、 ホストクラブで 豪快に散財する同輩たちを見ても、 「あんなにお金が使えるほど 売れっ子の良い女なんだ」 などとは思わず、 「あのシャンパンタワーのために 何本のちんぽをしゃぶったのだろう」 と捉える。 チップをくれる上 客がいれば一本の稼ぎだけで勤務を終えるし、 店を通さずに お金をくれるパパを見つければ 平気で無断欠勤を続ける。

「好きを仕事に」の否定は神を証明し愛を否定するくらいに難しい

社会学者の阿部真大氏は 初期の名著『搾取される若者たち』 (集英社新書) の中で、 過酷な労働条件の中で バイク便ライダーがある意味 嬉々として労働に打ち込んでいく様を、 「好きを仕事に」 することの落とし穴として 鮮やかに描いた。 私がかつて 『「AV女優」の社会学』 (青土社) の中で指摘した、 下がっていく条件を うまくプライドに置き換えていく 彼女たちのホリックの構造も 似たようなところはある。   しかし、 現場で見るワーカホリックのホスト狂いたちも 劣悪なギャランティのAV嬢たちも、 苦痛の対価だと割り切って 仏頂面で通勤するかつての私や 私のような労働者に比べて ずっと輝かしく、 羨ましい存在でもあった。 確かに、 「好きを仕事に」も 「仕事で自己実現」も 「やりがい搾取」も、 人が本来保つべき 安定した生活習慣を 脅かす落とし穴だらけではある。 ただ、 それを否定しようとするのは、 実は神を証明し 愛を否定するくらいに難しい。

AV女優時代のギャラ100万円は何の対価に支払われていたのか

何にお金が支払われているのか、 というのは、 実は正解のない問いである。 そして時間が経って、 考えが変わることもある。 例えば、 私はAV女優時代、 今ほど給料を 苦痛の対価だと考えて 仕事をしていなかった。 100万円のギャラは 私の若さや巨乳や 可愛らしさに支払われているものと信じていたし、 だからこそ頑張って ダイエットして お金にならない営業も回り、 需要がなくならないように どんどん過激な内容にもチャレンジした。 引退して数年後、 本気で好きになった人に 「元AV嬢とは付き合えない」 と言われて、 若さや可愛さの対価だと思っていたお金は、 実はそんなことを言われる 悲しさに対して支払われた 100万円だったのだとわかった。   最初からそう思っていれば、 過激なビデオなんて出なかっただろうし、 もっともっと手を抜いて 効率よく100万円稼いだだろうし、 高熱で寝不足の現場なんて とっとと休んでいたと思う。 その方が健康にはいいし、 命は落とさないけど、 パワーとやる気に満ち満ちていたあの頃は あの頃で幸せだった。   人の弱みに付け込んだひどい習慣が まかり通るブラック企業は もちろん存在する。 ただ、 全ての過重労働問題を 労務管理に回収しては、 仕事と人の本来的な関係を見落とす。 かつての同僚と 久しぶりにメールをしたら 「夜回り禁止なんていう バカみたいなルールのせいで 思うように取材できない」 と会社のホワイトっぷりを呪っていた。 少なくとも、 時に仕事のやりがいが 健康より大切に思えることを 一刀両断に否定することなんて、 他人にできるんだろうか、 とちょっと思う。
好きなことを始めれば やめられない。 好きなんだから しょうがない。 しかし 美味しいものも 毎日たくさん食べれば 飽きるように 好きなことだって それだけやっていれば 飽きる。 飽きたら 少し別のことをする。 でもまた 元の好きなことを 始める。 好きだから またやりたくなる。 これが自然で健康的なわけだが これが仕事に 当てはめられるかというと 簡単ではない。 簡単ではないが 「飽きたらやめる」か 「飽きても続ける」かは 健康か不健康(肉体的・精神的共に)の 分岐点ではありそうだ。 しかし 仕事を 「飽きたらやめる」ことは 世の中は奨励してないし 親も先生も それを良いこととは教えていない。 つまり 「飽きたらやめる」 ことには あらかじめ 「罪悪感」 が設定されている。 その罪悪感に どの程度反応するか また 反応しないのかは 当然個人差があるわけだが その個人差を作る要素の一つには 「自己評価」 ということが 関係する。 つまり 自分に自信のある人は 休みたいときに 休むのに抵抗はないが 自信のない人や 劣等感の強い人は 休むことに罪悪感を感じたり 一生懸命にやっても 足りない感じがしたり 休むと不安になって 仕事をしてる方が 安心だったりして 結果として休めない。 でも本人は 休まないことを 自分で決めたつもりでいる。 実際には 過労に至る道筋は もっと多様で複雑な場合も多いから あまりこの場では 原因を むやみに断定するような言い方は 避けるべきだと思うが 嫌なこと、嫌な時に 「やりたくない」は わがままと考えるより 健康管理の目安と考える方が有益だ。 それでも やらなければいけない時はあるのだが それはある種の異常な事態で 異常な事態を正常な状態だと思って働らくと 幾多の災難に見舞われるが 異常な状態を異常な状態だと思って働らく分には まだ歯止めが効いて 災難は多少少ない。
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2017年10月26日

「レイプ被害の救済システム整備を」 伊藤詩織さん会見

朝日新聞デジタル より

「レイプ被害の救済システム整備を」 伊藤詩織さん会見

レイプ被害を訴えている ジャーナリストの伊藤詩織さん(28)が 手記を出版し、 東京・有楽町の日本外国特派員協会で24日、 会見した。 伊藤さんは姓は明らかにしていなかったが、 10月に手記 「ブラックボックス」(文芸春秋刊) を出版したことを機に公表。 英語と日本語でスピーチし、 「捜査や司法のシステムの改正に加え、 社会の意識を変えていくこと、 レイプ被害にあった人を 救済するシステムの整備が必要だ」と話した。 伊藤さんは2015年4月、 就職相談のため、 元TBS記者の男性と都内で飲食した際に、 意識を失い 望まない性行為をされたとして、 警察に告訴。 準強姦(ごうかん)容疑で捜査されたが、 嫌疑不十分で不起訴処分となった。 今年5月に検察審査会に 不服の申し立てをしたが、 9月に「不起訴相当」の議決が出た。 この際、男性は 「一連の経過で 犯罪行為を認定されたことは一度もなく、 今回でこの案件は完全に終結した。 一部報道などで名誉が著しく傷つけられ、 法的措置も検討している」とコメントした。 会見で伊藤さんは、 警察が 「よくあることで捜査するのは難しい」 となかなか 被害届を出させてくれなかった ことなどをあげ、 「警察にも検察にもたくさんの ブラックボックスがあることがわかった」。 「日本では7月に改正刑法が施行されたが、 強制性交罪も、 被害者が抵抗できないほどの 暴行・脅迫を受けたと証明できないと 罪に問えないことは変わらない。 3年後の見直しでさらなる議論が必要だ」 と述べた。 また、今年5月に会見したことに触れ 「公にしてからバッシングを受けて、 前のように生活できなくなった。 しかし、 隠れなければならないのは被害者ではない。 話すことで良い方向に変えていきたい。 特定の誰かやシステムを非難するだけでは変わらない」と話した。(河原理子) ■伊藤詩織さん会見、一問一答の抜粋 Q(イタリアの放送局) アメリカでもイタリアでも世界中で、レイプは問題になっている。日本で、他の女性から、連帯の言葉や今の状況を変えようというサポートの言葉はあったか。 A(伊藤詩織さん) 日本では女性の弁護士からたくさん連絡があったが、組織・団体からはなかったと思う。イギリスの団体から連絡をもらい会いに行き、話す機会はあった。 Q(フランスの新聞) この件について日本の女性と話したとき、シンパシーがあまりないことに驚いた。女性のなかで連帯の気持ちがないことは問題と考えるか。また、国会でも議論されるべきだと思うか。 A この件について、女性からもバッシングやネガティブなコメントを受けた。この社会で生きる女性はある意味で忍耐強いものを持っており、これしかないと思ってしまっているのではないか。ジェンダー平等についてスウェーデンで取材したら、警察でも女性が30%を占めていた。日本社会では女性の地位が違う。機会があれば、違う意見を持っている女性と話して、どういう背景があるのか聞いてみたい。  二つ目の質問については、当時の警視庁刑事部長に(取材を試みているが)答えをもらえていないし、ブラックボックスがたくさんあるので、国会でも議論してもらえればと思う。 Q(イギリス 新聞) レイプ被害を公にして社会を変えようとする強さはどこから来るのか。また、日本のジャーナリズムはアクセスジャーナリズムで、人々の苦悩や葛藤をすくいあげる力が少ないのではないかと思うが、どう考えるか。 A 私は自分のことを強いとは一切思っていない。警察に行くときから迷った。だが、自分のなかで真実にフタをしてしまったら、真実を伝えるジャーナリストとして働けない。これを個人的なことだとは考えなかった。自分が経験したことに偽りはなく、受けた傷は真実。これがもし妹に起きたら……。自分が話さなかったために同じことが起きたら、とても苦しい。  2点目については、同じことを考えてきた。なかなか聞き取れない声をくみ取れなかったことは残念だ。報道の自由度ランキングでも日本は70位以下だ。
ことの内容を踏まえれば 当然言葉を慎重に選ばなくてはならない。 真偽については あえて触れないが 一般論を言えば この件を 社会全体に訴えたければ 選挙期間中を避けたほうが よかったのではないか。 選挙期間中に 広告が出るのは かえって マイナスだったのではないか。 「李下に冠を正さず」 を重んじる日本人は多い。 そして 李下に冠を正すことだけでも 非難を受ける対象になることを考えると 時期を外した方が 信頼性を高めたと思う。
posted by sachi at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事
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