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2015年09月14日

「主にすがる」事と黄な粉もちとの関係

久方ぶりのブログ投稿となる。ちょっと遅めの夏休みを主とともに過ごすという本当に祝福された時間を得ることができた。今日はその中で示された学びを忘れないように記しておこうと思う。

突然話がそれるが、黄な粉餅を作るときには、餅に黄な粉をしっかりとつけないとおいしい黄な粉餅にはならない。そういうこともあり、餅は黄な粉のたっぷり入った容器に入れ、その中でしっかりと餅を回し、餅に黄な粉を押し付け、最後に餅をしっかりはたいて余分な黄な粉を落として黄な粉餅は完成する。

餅を取り出す時に餅をしっかりはたくのは、餅にしっかりついていない黄な粉を振るい落とすためである。そうしないと、結局そういう黄な粉は運ぶ際に落ち、あちこちを汚すだけでなく、黄な粉がもったいないからである。

主と人との関係を考えるとき、このような黄な粉餅の作り方に、主に縋る(すがる)ことの意味が隠されていることに気が付く。ここでは、主は餅、黄な粉は人である。

人の中に主が来られると、ある者は主を避け、近寄らない。また、ある者は主に固くすがり、より頼む。また、ある者はそのように主に固くすがり、より頼んでいる人にすがるのもいれば、主抜きで人同士互いにすがりあい、頼りあう者もいる。

黄な粉ははかない存在で、風の吹くままどこにでも飛ばされる。それをある黄な粉は「自由」であると考えている。しかし、黄な粉の最終目標(つまり、餅を彩る調味粉として餅と共に食されること)を考えるとき、はたしてその「自由」はどのように役立つのか。風の吹くまま、気の向くまま、あちらこちらに吹き飛ばされ、とどのつまりは掃除機に吸い込まれて焼却炉行きか、ばい菌にたかられながらじわじわと滅びゆくか、まあ、そういったところが落ちである。

人がその本来の存在目的を見誤り、「自己実現」に邁進し、気まま勝手にその「自由」を満喫するならば、とどのつまりは似たようなものになる。このはかない、せいぜい長生きしても120年程度の生涯で、たとえ運よく素晴らしい人生を歩み、さまざまな事業を成し遂げ、人々からの賞賛を得られても、または大変な富と地位を築き上げても、死んでしまえばあとは何も残らない。そのような栄誉も、称賛も、富も地位も、すべてが無に帰するのではないか。

その様なむなしいものを追い求めることについては、また別の機会に詳述することとして、本題に戻そう。

主に「すがる」、または「依り頼む」と日本語で言うと、どうも「自分の力の限り縋り付く」といったニュアンスがあるのは否めない。そのことは辞書にも「頼みとしてしっかりとつかまる。しがみつく。」(大辞林)と説明されていることからもわかる。

その様に言われている箇所がここである。

あなた方の神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主に縋らなければならない(申命記13章4節)

ところが、この「縋る」という言葉には、聖書の原典であるヘブライ語が一つの言葉に複数の意味を持つ性質から、(たとえば、「ルアフ」というヘブライ語が、「霊」という意味を持つと同時に「風」という意味を持つように)ここでの「縋る」という言葉にも、「縋る、しがみ付く」という語意以外にも、「(粘っこいものに)くっつく、引っ付く」という意味合いも持つ。それはつまり、ここでいう餅にきな粉が引っ付くというような感覚に似ている。

さて、ここで問題になるのが、もし、日本語でいう「しがみ付く」といった感覚だけで前述の申命記に出てくる「より頼む」、「縋る」という言葉を理解してしまうと、「もし私の力が尽き果てた時、私はどうなるのか」という問題に直面することになる。何かの映画のワンシーンではないが、がけっぷちで手を伸ばして、ロープににしがみついているといった場面を想像してみてほしい。もし救助される側が力尽きた時、その人がロープに固くしがみついている手はどうなるのか?というような状況である。まあ、力尽きればもう縋る力もなくなるわけで、ロープを握ることができなくなり転落することになるのは目に見えている。

さて、イェシュアの「救い」とは、このような「自力でしがみ付かなければならない」ようなものなのだろうか。

イェシュアはこう述べている。
私の羊は私の声を聞き分けます。また、私は彼らを知っています。そして彼らは私についてきます。
私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。私に彼らをお与えになった父は、全てに勝って偉大です。誰も私の父の御手から彼らを奪い去ることはできません。私と父とは一つです。(ヨハネによる福音書10章27〜30節)


人が本当に心から神を愛し、主に縋り、主に従い通したいと望むのであれば、救いの御子イェシュアも天の父なる神も、(イェシュアと父は一つなので)決してその様な人を諦めず、如何なる力も、事象も、物事も、彼らの手からその人を奪い去ることはできない。と断言しているのである。だからこそ、パウロはこう断言しているのだ。

私はこう確信しています。死も、命も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イェシュア・ハ・メシア(キリスト・イエス)にある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章38〜39節)

餅にしっかりとくっついたきな粉をきれいに剥がすことが非常に困難な様に、どのような権力者が、如何なる脅しを使っても、または悪魔がどのような誘惑を駆使しても、神にしがみ付くキリスト者を神から引きはがすことは不可能なのである。

ところがである。
では、きな粉を押し付けた後、その餅がきなこの入った器の上ではたかれる時、落ちてくるきな粉は一体何なんだろうか。神は、信仰から離れる者がいないようにするのではなかったのか?などと屁理屈をこねる輩もいるかもしれない。

しかし、その現象もよく見てみるとどういう事であろうか。餅がはたかれる時に落ちてくるきな粉は、「餅についたきな粉」ではなく、「単に『餅についたきな粉』にくっついていただけのきな粉」なのである。言い換えれば、イェシュアに、また天の父にしっかりとくっついた者ではなく、「単に『そのように固く信仰を保っている人』と一緒にいる者」だという事である。そのような者が信仰から離れ、「私は前には教会に通ってたんだけど、やっぱりキリストの神は私を救えなかった」と触れ回る事で、イェシュアが与える本当の救いの力を「頼りないもの」と他の人に思わせるような事になるのである。しかし、実はこのような御仁は本当の意味で、自分の罪深さを悟り、そのような自分を悔いて、それが自力では決してどうにもならない事を自覚しているにもかかわらず、それでも諦めずに神と共に義のうちに歩みたいと心の底から望み、自らの命を賭してイェシュアの贖いに依り頼む事をしなかった方々なのである。パウロはテモテにあてた手紙でこう述べている。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは嘘つきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が作られた物です。神が作られたものはみな良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神の言葉と祈りとによって、清められるからです。(テモテへの第1の手紙4章1〜5節)

このように、「信仰から離れる者」が出てくるのは、「嘘つきどもの偽善によるもの」であるとパウロははっきり述べている。これは、コロサイにいる信者にあてた手紙でもさらに細かに説明されている。

あなた方は罪によって、また肉の割礼が無くて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなた方を、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を許し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責めたてている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けにされました。
神は、キリストにおいて、全ての支配と権威の武装を解除してさらし者とし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、誰にもあなた方を批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
あなた方は、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、褒美をだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに固く結びつくことをしません。このかしらが基になり、体全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
もしあなた方が、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「縋るな。味わうな。触るな。」というような定めに縛られるのですか
そのような物は全て、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです
そのような物は、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいまま(恣)な欲望に対しては、何の効き目もないのです。(コロサイ人への手紙2章13〜23節)

「きな粉がはたかれる」というのは、餅にきちんとくっついていないきな粉を振るい落とすイベントである。それはつまり、イェシュアを「主」であると口で言っている「信者」に対する信仰の試練であり、全てかしらであるイェシュアに固く結びつくことをせず、人の定めた儀式であったり、礼拝であったり、賛美であったり、断食や瞑想といった苦行であったり、といった、一見敬虔なように見える様な事に気を取られ、本当に求めるべきものを求めずにその形だけを追い求めることに明け暮れている偽善者を振るい落とすイベントなのである。

本当にイェシュアを愛しているのであれば、イェシュアが命じるように「人を赦す」、「敵を愛する」、「迫害する者のために祈る」、「貧しい者を支援する」事を「喜び勇んで」行うはずである。しかし、それはもはや人間業ではない。人が、その命令を「自らの力」で行っているだけでは、その様に余裕があってその人の力だけでできる間は良いが、そのような力が失せた時に、本当に心から喜んでそれを行い続けることができるのであろうか。はっきり言おう。無理だ。しかし、信仰を固く保ち、主に全力でより頼み、自分の考えに頼らずただひたすら主の言いつけを愚直に守る者には、主が決して「人の力」ではできないような「良い業」を行うことができるように備えてくださるのだ。

なぜそう言えるのか。それはこう書かれているからだ。
あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにイェシュア・ハ・マシア(キリスト・イエス)にあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章10節)

だから、聖書に書かれている「ああしなさい、こうしなさい」や「あれをするな、これをするな」といった戒めは、我々自身の力で行えるような代物では決してないのである。却って、それを自分の力で行おうとすると、必ず壁にぶち当たるようにできている。なぜか。それは、神を差し置いて、「誰も誇ることがないため」なのだ。

その代わり、主は、そのような善なる神の行いを心から喜び、へりくだってそれに従いたいと思う人には、そのような良い行いができるようにしてくださるのだ。

「主に縋る」というのは、決して自らの力だけで主にしがみ付くことではない。それは、無力ではあるが義を喜び、善を行いたいと心から願う我々の手を主が掴み、導いて下さる事に喜びつつ「全力で従う」という事なのである。力強い神は、そのような者の手をしっかりと握ってくださり、もしも自分の力が尽き果てても、決してその手を放すことはないのである。神は善を行いたいと心から願うあなたを決して見捨てず、かえってそれができるように力を与えてくれるのだ。だから、安心して縋ることができるのである。
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