2016年05月07日
爆撃、銃撃、籠城、山頂を奪い合い、毎日「星条旗」倒して「日の丸」を立てた……硫黄島の真実、生還した通信兵の証言
日米戦史の中でも最も苛烈な戦いのひとつとして現代まで語り継がれる硫黄島の戦い。日米合わせて計約5万人が死傷。日本兵約2万人のうち96%の兵士が戦死したこの戦いをテーマに、ハリウッドの重鎮、クリント・イーストウッド監督は2本の映画を製作している。
当初は米軍側の視点から描く「父親たちの星条旗」(2006年公開)のみを考えていたが、その準備中、日本側の視点から描く「硫黄島からの手紙」(同)の映画化を決意した。イーストウッド監督は、日米双方の視点から描かなければ伝えられないものがこの戦いにはある−と考えたからだ。
すり鉢山争奪…孤島の日米決戦 双方の視点から
すり鉢山山頂に星条旗を掲げた米兵士たちは帰国後、米国民にとって英雄として迎えられるが、彼らにとって、その“栄光”は苦痛でしかなかったことが「父親−」では描かれる。
一方、星条旗が立てられる様子を地下壕から双眼鏡で確認し、「ここからが本当の戦争だ」と覚悟する栗林忠道中将ら、地下壕を使ってゲリラ戦を展開する日本兵側の視点から「硫黄島−」は描かれる…。
「星条旗が立てられた翌日、山を見ると日本兵の手で日の丸の旗が立てられていました。しかし、その日のうちに星条旗に変えられていました。が、翌日、山を見ると、また日の丸の旗に変わっていたんです…」
絶望的ともいえるこの戦場から生還した元通信兵、秋草鶴次さん(87)は地下壕の中から、すり鉢山の激しい争奪戦をつぶさに見ていた。
「遠くで、うごめく兵士たちの姿はまるでアリのようでした」。そして絶望の淵で、こんな考えが頭をよぎったという。「遅かれ、早かれ、みんな死んでしまうのだろうに頑張っているなあ…」と。
昭和20(1945)年2月19日、米海兵隊、米海軍は硫黄島への上陸を開始する。
この米軍の上陸直前、秋草さんは不思議な光景を目撃していた。「米軍機が上空から何か“白いもの”を撒(ま)いてきたんです。何だろうとよく見たら、殺虫剤のDDTだったんです」
5日で終結のはずが…
上陸に際し、日本軍から激しい攻撃を受けると覚悟していた米軍は、あっさりと上陸に成功。23日、米兵はすり鉢山山頂に星条旗を立てる。ここまでは、当初、「5日で陥落できる」と目論んでいた米軍の筋書き通りの展開だった。
だが、ここから日米戦史上、最も過酷で凄惨な戦闘のひとつとして語り継がれることになる死闘が始まるのだ。
地下壕に潜む秋草さんたち通信兵にとっては、なおさら辛い戦いだったという。「長い無線を使えないんです。電波を発信すれば敵に場所を探知されてしまいますから」
戦おうにも戦えない。そんな消耗戦のような状況に秋草さんは耐えなければならなかった。
米軍による攻撃は夜中も休みなく続いたという。「地下壕は暑くて苦しいので、辺りが暗くなる夜に我々は外へ出るのですが、米軍はそれを狙い、地下壕から外へ出たとたん、銃撃してくるのです。真夜中も常に米軍による照明弾が上がっていました」
食料、弾薬、医薬品などの救援物資も届かなかったという。「島に病院はあるにはあったのですが名ばかりで、各隊が持っている包帯や薬などが無くなればそれきりです。補充がないのですから」
島で待った特攻機の最期
戦闘が続く中、ある日、秋草さんは「日本本土から特攻機8機が硫黄島へ向けて出撃」という無線を傍受する。
しかし途中、「4機が引き返し、3機が行方不明…」という無線を聞く。夜になってようやく島にたどり着いた1機は、米艦隊のサーチライトを浴び、激しい艦砲射撃で被弾。秋草さんは、日の丸の半分が焼け落ちた機体が海面に墜落し、水柱を上げる光景を見て、こう思ったという。
「硫黄島へ向けて出撃した時点で、もう日本へ生きては帰れないことを、あの機体の搭乗員は覚悟していたのです。私があの日見た水柱、あれは人柱だったのです」
米軍が「5日で陥落する」と想定した硫黄島の戦いは、日本軍の粘りで37日間続いた。
産経WEST抜粋
当初は米軍側の視点から描く「父親たちの星条旗」(2006年公開)のみを考えていたが、その準備中、日本側の視点から描く「硫黄島からの手紙」(同)の映画化を決意した。イーストウッド監督は、日米双方の視点から描かなければ伝えられないものがこの戦いにはある−と考えたからだ。
すり鉢山争奪…孤島の日米決戦 双方の視点から
すり鉢山山頂に星条旗を掲げた米兵士たちは帰国後、米国民にとって英雄として迎えられるが、彼らにとって、その“栄光”は苦痛でしかなかったことが「父親−」では描かれる。
一方、星条旗が立てられる様子を地下壕から双眼鏡で確認し、「ここからが本当の戦争だ」と覚悟する栗林忠道中将ら、地下壕を使ってゲリラ戦を展開する日本兵側の視点から「硫黄島−」は描かれる…。
「星条旗が立てられた翌日、山を見ると日本兵の手で日の丸の旗が立てられていました。しかし、その日のうちに星条旗に変えられていました。が、翌日、山を見ると、また日の丸の旗に変わっていたんです…」
絶望的ともいえるこの戦場から生還した元通信兵、秋草鶴次さん(87)は地下壕の中から、すり鉢山の激しい争奪戦をつぶさに見ていた。
「遠くで、うごめく兵士たちの姿はまるでアリのようでした」。そして絶望の淵で、こんな考えが頭をよぎったという。「遅かれ、早かれ、みんな死んでしまうのだろうに頑張っているなあ…」と。
昭和20(1945)年2月19日、米海兵隊、米海軍は硫黄島への上陸を開始する。
この米軍の上陸直前、秋草さんは不思議な光景を目撃していた。「米軍機が上空から何か“白いもの”を撒(ま)いてきたんです。何だろうとよく見たら、殺虫剤のDDTだったんです」
5日で終結のはずが…
上陸に際し、日本軍から激しい攻撃を受けると覚悟していた米軍は、あっさりと上陸に成功。23日、米兵はすり鉢山山頂に星条旗を立てる。ここまでは、当初、「5日で陥落できる」と目論んでいた米軍の筋書き通りの展開だった。
だが、ここから日米戦史上、最も過酷で凄惨な戦闘のひとつとして語り継がれることになる死闘が始まるのだ。
地下壕に潜む秋草さんたち通信兵にとっては、なおさら辛い戦いだったという。「長い無線を使えないんです。電波を発信すれば敵に場所を探知されてしまいますから」
戦おうにも戦えない。そんな消耗戦のような状況に秋草さんは耐えなければならなかった。
米軍による攻撃は夜中も休みなく続いたという。「地下壕は暑くて苦しいので、辺りが暗くなる夜に我々は外へ出るのですが、米軍はそれを狙い、地下壕から外へ出たとたん、銃撃してくるのです。真夜中も常に米軍による照明弾が上がっていました」
食料、弾薬、医薬品などの救援物資も届かなかったという。「島に病院はあるにはあったのですが名ばかりで、各隊が持っている包帯や薬などが無くなればそれきりです。補充がないのですから」
島で待った特攻機の最期
戦闘が続く中、ある日、秋草さんは「日本本土から特攻機8機が硫黄島へ向けて出撃」という無線を傍受する。
しかし途中、「4機が引き返し、3機が行方不明…」という無線を聞く。夜になってようやく島にたどり着いた1機は、米艦隊のサーチライトを浴び、激しい艦砲射撃で被弾。秋草さんは、日の丸の半分が焼け落ちた機体が海面に墜落し、水柱を上げる光景を見て、こう思ったという。
「硫黄島へ向けて出撃した時点で、もう日本へ生きては帰れないことを、あの機体の搭乗員は覚悟していたのです。私があの日見た水柱、あれは人柱だったのです」
米軍が「5日で陥落する」と想定した硫黄島の戦いは、日本軍の粘りで37日間続いた。
産経WEST抜粋
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