セリは順調。今まさに「旬」という感じである。やっぱりセリはこのくらいのサイズが一番うまい。
これまでも↑くらいのサイズのセリを毎日のように収穫していた。それは「いい季節になってきたなー」と書いた日以来のこと。でも、その数自体は決して多くなかった。セリの赤ちゃんばかりだったのだ。だから、ちょうどよいサイズは1日分ずつ収穫していた。しかしこのくらいのベストサイズの株がどんどん増えてきているのが毎日うれしい。赤ちゃんが育ったんですね。今まさに「一番いいとき」なのだと思う。
↑これまでの3倍くらい収穫。おそらく3日分くらいある。とはいえサイズ的には小さいので、収穫に2時間もかかってしまった。
田んぼというわけではない。なんなんだろうね、あそこは。よくわからんのだが、やたらジメジメとしただだっ広い土地がある。私の土地ではない。他人様の土地。だから例によってセリ泥棒である。私の家の周りには山の塊が多い。塊が多いというのもおかしな言いぐさか。塊がある、が正しいのかな。塊はあるけれど、上の画像のセリを収穫したのは塊とは別の方向にある山ひとつを越えたところにある湿地。
取り忘れたイボのような山だから、人が入っている姿を一度も目にしたことはない。いかにも目的がなさそうな山なのだ。だからもちろんその麓の湿地に立ち入っているのも私くらいのものだとは思う。
一面に広がるセリの赤ん坊を見つめ、ちょっとノッポの飛び出したセリ(上の画像のサイズの)をつまんでつまんで、だいたい1時間くらいしてからかなぁ・・・やおら山のほうでゴソゴソと音がしはじめた。そのあとの1時間は終始、そのゴソゴソ音が断続していた。
クマやイノシシには会ったことがない。でもクマやイノシシなどのいわゆる「猛獣」の音ではないだろうという想像はついた。おそらくカモシカだったんじゃないかな。ポツンとそこに置かれたような山ではあるけれど、野生獣の気配は確かにあった。だから「カモシカだろうし、こっちには来ねえだろうな」と思いなおしてセリ摘みに専念した。
ふと思った。この山、人の気配がまったくない山である。さっき書いたとおり。でもどういう理由かは知らないが、いわれがわからない「祠」がすごく多い山という印象があるのだ。実際私は年末その祠のいくつかにお礼参りをした。酒ではなく、1円玉を備えた。
ふつう山道ってこうやってつくるか?というくらい直線的な山道に沿って、4つの祠をすでに確認している。もしかしたら、道がない到達不能ポイント的な場所にもまだまだ祠があるのかもしれないな・・・そんなことを考えていたのだ。
いや、だからといってあのゴソゴソ音が祠と関係しているとは思わない。あれはどう考えてもカモシカ的な何かだろう。カモシカと祠の間に何らかの関係があるはずもない。そういえば・・・思い出した。
「塊」のほうの山の話だ。いつもヒラタケやキクラゲやタマゴタケをとらせてもらっているなじみ深い山。こちらは「廃道」なので、道の幅としては、車1台なら余裕を持って通ることができるサイズである。
セリ摘みで超えた山のように平穏な山道ではない。廃道のほうは本格的な山岳道路である。ときおり何を勘違いしたのか、チャリで入り込んだけっこうな歳と思しきおっさんが、すれ違う私に「ああ、キツイ・・・死ぬかと思った」とこぼして立ち去ることもある、それくらい急勾配のアップダウンが連続する山道である。
そんな道だから、民家などまったくない。私が学生時代はまだ廃道ではなかったのだが、あの道を通る車はほぼなく、当時から民家はなかった。というか、いくら建築技術が進化した現代でも、あそこに家を建てるのは物理的に無理があるだろう。無理ではなくても、あんなところに家を建てるメリットは、ふつうない。
そもそも廃道の入り口に続く林道の入り口にポツンと1軒民家があるだけで、そこから上はひたすら崖伝いの道である。その林道の道中に、以前お話した雌鹿の亡骸があった。まあ何にしても、私が毎日のように歩き親しんでいるその先の廃道は、何かと曰くが語られるエリアでも実はある。
まあそういう過酷な環境だから、ハイカーや本物の競輪選手以外に入り込む者はない廃道である。であるにもかかわらず、どういう事情かはわからんけれど、超小ぶりの「鳥居」がしつらえられている箇所が1か所だけあるのだ。
どう考えても人間が通過できるサイズの鳥居ではない。大型犬でも無理といったサイズ感である。しかも、崖伝いの、その鳥居をくぐろうものなら崖から滑落するに決まっている方向に鳥居入り口があるのだ・・・
まあこのあたりは山岳信仰が盛んな山もあるのだが、私が入る山でそんな話は聞いたことがない。たまに耳にするのは「おばけ」関連のウワサばかりである。おばけと山岳信仰とは共通点がありそうで、まったく逆方向を向いているようでもある。
問題はこの鳥居。私は鳥居の役割や意味合いなど、イマイチ理解していない。いやウソ。イマイチどころかまったく理解していないのだ。でも神様的な何かを示すモノであることはなんとなくわかる。伏見稲荷なんて、ものすごく神様っぽい気がするのは、おそらく気のせいではないだろう。
気になるじゃないですか。家も人もいない、野生動物しかいないような山の中である。いてもせいぜいおばけくらいのものだ。そんな山の中に、どうして鳥居が必要なのか。考えれば考えるほど、私にとっては不思議な存在だった。
では、いったいその鳥居がどんな鳥居であるか、みなさんにもご覧いただきたい。こちらである・・・
と、そんなふうに説明することができれば、この話にもある程度の信憑性が生まれると思う。それなら明日にでもその鳥居の写真を撮ってくればいいのに・・・そう思うだろう。しかし私はそう思わない。というのも――
このブログを始めるはるか昔。といってもおそらく3〜4年前のことだったと思う。今になってあの鳥居が不思議だと思うようになったわけでは決してない。はじめてその鳥居に気づいたときから、なんでこんなところに鳥居がある?とは思っていた。
その鳥居、ほんとうに不思議なのだ。特に深い意味があったわけではない。当時は競馬以外のブログを書いてもいなかったし、特に写真を撮る必要はなかったのだが、数年前から気になる野草や山菜、きのこなどはことあるごと、写真に収めてはいた。当然そんな不思議な鳥居もヘタクソなカメラマンの被写体として十分な資格を有する程度に不思議だった。
私はその鳥居をファインダー(というかディスプレイ)に収め、スマホのシャッターを切った。ところが・・・
どういうわけかシャッターを切ることができないのだ。そもそも手ごたえのないスマホのボタンの感触が、私はどうにも好きになれないのだが、しかしシャッターを切るカシャっという音がしない気持ちの悪さは、得体のしれないものを踏んでしまった後味の悪さに通じるものがあった。
あれ?と思い、もう一度ボタンを押す。つまりスマホのシャッターを切ったのだ。それでも同じ。カシャ、の音がない。ディスプレイには相変わらず赤い鳥居が鎮座していた。そのときは特に深く考えず、あれー、どうしたのかな・・・と思いながら何度もスマホのボタンを押し続けた。それでも、どうしてもシャッターが切れなかったのである。
スマホを再起動してもダメ。電源を落としてSIMカードを一度抜いて、もう一度挿入してからスマホを起動してもダメ。あれあれあれ???スマホが壊れたか?そう思い、鳥居と反対側の絶壁に咲くフキノトーをファインダーに収めてシャッターを切ると・・・カシャ!
あ。撮れた。もう一度鳥居ともフキノトーとも関係ない花を目標にシャッターを切ると、カシャ・・・あれ、直ったか?そう思って再び鳥居にレンズを向け、シャッターを切ろうとする。でもね、やっぱり鳥居だけはシャッターが切れないのだ。
みなさん。この出来事をどう解釈しますか?まあ私は、これは何か不吉なことだとかおばけだか神様がどうだとか、そういうこととは関係のない「スマホカメラの不具合とそれが起こるタイミングの偶然」と解釈しましたよ。
だからもう何回かボタンを押しましたよ。でもね、やっぱりシャッターがどうしても切れない。鳥居だけは。そこで考えました。事情はよくわからんけれど、もうこれ以上無理に鳥居を写そうとしないほうがいいんだろうな、きっと、と。それ以来、鳥居の写真は撮らないことにしている。その鳥居は今もある。昨年の台風にも負けなかった。
説明がつかないからそれが即おばけだとかなんだとかに直結することはないと思う。でも、事情はどうあれ、説明がつかないことってやっぱり起こるんですよねー。ほんとうに不思議。
この山ではこういう不思議な出来事がほかにもけっこうある。実は昨日セリ摘みに行くために超えた小山でも、不思議なことが起こった。
そういうお話を、また少しずつしていこうと思う。
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