必ずお読みください!
忙しかったことも確かにあるが、何しろこの時期はネタに乏しい時期である。だからなかなかブログを更新することができなかったが、ようやくひと段落ついたこのタイミングで久々に更新である。
更新していない間もできる限り山には通っていた。まだ春の気配は遠いが、それでもおそらくあと1週間もすれば春を告げる山菜が顔を出すことだろう。そのときにはまたブログを更新しようと思う。
ブログを更新しない間もまあ木の実を摘んだりキクラゲを採ったりして山のリスのような暮らしを相変わらず送っている。
↑いろんなきのこが生える木の裏に生えた古いキクラゲ
↓その表側で雨をたっぷり吸い込んで丸々と太ったキクラゲ
↓同じ木のコケ中キクラゲ 今季はヌメリスギタケ&モドキが出たがエノキが出なかったなぁ・・・
でも今回は山の幸情報がテーマではない。それ系は完全なネタ切れである。そこで今回は久々となる「山の恐怖シリーズ」を再開する。
山ではいろいろなことが起こる。動物たちの凄惨な死に様を何度も目の当たりにしてきたし、時に自らの生命の危険を――それが動物によるものであれ動物以外の物理的なものであれ――本能的に察知したことも数知れず経験した。
そもそも私のように野生の山菜やきのこを口にする人間は、常に生命を脅かす危険と隣り合わせだ。トリカブトだってタマゴテングタケだって滑落だってイノシシだって、遭遇したからには「いちころ」である。
だからおそらく山に入らない人の多くにくらべて「恐怖」という感覚にとらわれる機会は多く、そういう感覚を察知する専用のインターフェースはそれなりに優秀なのだと思う。
山菜やきのこをとるのは、そういうインターフェースの精度を高めるためでも磨くためでもない。単なる道楽だ。でも意識とは裏腹に、好むと好まざるとにかかわらず、そいった未知なる感覚はどんどん鋭くなっていっているような気がすることも確かだ。
なあーんてことをほざいたりすると、いかにも私がこの世のものとも思えぬ魑魅魍魎との遭遇を日常とする稀有な人間であるかのように聞こえるかもしれないが、そんなことはまったくない。あなたと同じ「ただのおっさん」である。
これまで鹿が死んでたーとか鳥がいっぱいいたーとかクマのうんこだーとかいろいろな恐怖に触れてきたが、そのいずれもが極めて「現実的な恐怖」であった。見た瞬間、あるいは目の前の状況をちょっとだけ考察した結果、すぐに状況説明が可能になる種類の恐怖だったと思う。
まあ人が入らない山の中に好んで入るのだから、そういうことが起こるのはごく当たり前のことなのだと解釈している。それはある意味「慣れ」であり、またある意味では危険回避の感覚の鈍化でもある。
ところが、恐怖というほどのインパクトある感覚ではないものの、なにか奇異な、あとになっていくら考えても説明がつかないような「違和感」といった種類の感覚を察知することも、山の中ではけっこうある。そんな話をいくつかしていきたいと思う。
でもそんなことをいうと、いわゆる「おばけ」の話なんじゃないかと思う読者もいるだろう。はじめに断っておくが、そういう話とはまた別モノである(と信じる)。そもそも私は死んだ人間や動物が再びこの世に現れるといったオカルティックな話は原則信じない人間である。要は「頭がカタイ人間」なのだ。
それどころか信じる、信じないという言いぐさがそもそもキライである。もちろんそういうワケわからんものを信じる人も信じない人も否定はしない。ただ、自分の中では「ありえない」という自信というか、妙に確立した解釈に慣れてしまっているので、信じるとか信じないとか、そういう次元では「不思議なこと」をとらえないのだ。
「信じる」という人はもちろんそういうものを信じているのだと思うが、「信じない」と公表する人だって、そういうものを一旦は受け入れてあれこれ吟味した結果の公表なのだ。私は受け入れることさえしないので、信じてもいなければ信じていなくもないという煮え切らない考え方の持ち主である。要は「わからん、知らん」というスタンスなのだ。
そういうものを信じているわけでも信じていないわけでも受け入れているわけでもない。しかし「は?」というようなことは実際に起るからこの世はおもしろい。いや、あれはもしかしたら「あの世」のことなのか?まあそのへんのところがよくわからないのだ。
山で起こったそういう不思議なことは次回改めて紹介するとして、私がなぜそういうものを否定的に解釈するのかを簡単に説明しておこう。頭の悪さはこれでもかというくらい自覚しているから、頭ごなしに否定するのも好きではない。否定する以上はそれなりの根拠が必要なのだと思っている。
私がそういう妙なものを否定する理由は、「裸のおばけ」を見たという経験者の絶対数が少なすぎるからである。もし死んだ人間や動物が再びこの世に現れるのであるなら、それは必ず「裸」でなければならない。
そういうものにまったく疑いの目も向けず妄信する人にこの話をすると、半ば驚き、半ば憐みをたたえ、ものすごくバカな人間を見るような三白眼で私を見るからいつも悲しく惨めな気分になる。そういう目でこれを読んでいる読者は今すぐやめるべきだ、その目つきを。
で、裸の話。だいたいおばけってやつは、髪の長い白い服を着た若い女だとか、赤いワンピースを着た色白の若い女だとか、全身から血を流した兵士の男だとか、そんな話が多すぎやしないか?また死んだじーちゃんやばーちゃんが出てきたという話だって、きっと着衣のおばけなのだろう。これが納得いかない。
全身から血を流した全裸の男だったとしたら、そいつが兵士であることなんて絶対にわからない。私なら「全身から血を流すような不運に見舞われた変態男」と解釈するだろう。だから「兵士」と解釈する以上、彼は迷彩服のようなものをわざわざ身に着けて、体験者の目前に登場したはずだ。やっぱりどう考えてもおかしい。
おばけ(幽霊?)とは何か。私は興味がないから詳しくは知らないが、結局のところ「死んじゃった人(や動物)」の再現という解釈でほぼ間違いないだろう。では聞くが、人が死んだときにはその人が着ていた服も一緒に死んでるんですか?そして一緒におばけになるんですか?という拭われることがないギモンがいつだって浮上するのだ。
人が死んでおばけとして再現されたならわかりますよ。でもね、死んだのはあくまでも「人」なのだから、出てくるなら裸で出てこい!という気分なのだ。もちろん全身から血を流した兵士の男やじーさんやばーさんはお断りである。そんなもん全裸だろうと半裸だろうと、絶対出てきてもらっては困る。
ただ長い髪の若い女や赤いワンピースの若い女であれば、まあ私も鬼ではない、受け入れるスペースがココロに多少なりとも残っているとは思う。
以前ね、そういうことにものすごくお詳しい知人にこの話をぶつけたことがあったんですよ。その知人はものすごくおもしろいことを言っていましたね。
なんでも、人にしろ動物にしろ「物」にしろ、すべてのものにはエネルギーがあって、実体が滅びたとしてもそのエネルギーはこの世にとどまり、それが見る者の波長によって見えることがある・・・んですって。なんのこっちゃ。
エネルギーって・・・じゃあ、おばけのエネルギーって何ジュールなんですか?
訊きましたよ、わたしゃ。そしたらね、その方は言うんです。また「例の目つき」で。
あなたね、そういうことじゃないのよ。そういうこの世の常識にとらわれてはいけない。死んだ人が着ていた服にもちゃんとエネルギーがあるの。だからそのエネルギーをあなたは見ている。わかる?
わからない。まったくわからない。完全な脱力状態&ハニワ顔である。じゃあぼくが見た妙なものが着ていた服のエネルギーは何ジュールなんですか?とはもう訊かなかった。
そんな理由で、私は「そういうもの」を否定的な側に立って考えなければならなくなってしまったのだ。といいつつも、実際に説明がつかない出来事はあった。山の中で。まあ意外にも「山の外」でも昔はけっこうあったんだけどね。
また機会を見ながら、山の中限定で「説明がつかない出来事」に触れていきたいと思う。
2019年02月21日
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