禅の名僧に学びましょう。
なぜなら、
禅は、悟りを開くための示唆を与えてくれるからです。
『悟り』について、
『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』(著者 横田南嶺 致知出版社)
の中に、こう書いてあります。
「十六歳の頃、
仏光国師は師匠から『無』の一字を公案として与えられました。
『無とはなんであるか答えよ』
というわけです。
仏光国師はそれまで相当よく学んできていましたから、
一年ぐらい坐禅をすれば答えが見つかるものだろうと思っていました。
ところが、
一年たっても手掛かりは全くつかめませんでした。
そこでさらにもう一年坐禅をしますが全くわからない。
そのようにして三年が過ぎ、
四年が過ぎ、
五年が過ぎていきます。
その間、
坐禅堂から一歩も外に出たことはなかったといいます。
結局、
十六歳から二十二歳まで足かけ六年、
仏光国師は
『無とは何か』
と求め続けていくのです。
これが仏光国師という方のまず一番に注目すべきところです。
十六歳から二十二歳までというと、
普通の人であれば青春真っ只中で、
やりたいことがいろいろあるものです。
けれどもその間、
仏光国師は師匠のもとで、
もっぱら
『無とはなんであるか』
と考え続け、
坐禅堂に籠っていたのです。
我々も『無』の一字を公案として与えて同じような修行をやります。
しかし、
五年も六年もそのひとつの問題をやるというのは、
よほどの気力がないと続きません。
これが仏光国師の大きな力になっていきました。
何しろ坐禅をしていて、
ふっと気がついたら一昼夜が過ぎていたというぐらい坐禅に集中していくのです。
我々でも坐禅をしていたら一時間が過ぎていたというのならありますが、
気がついたら一昼夜が過ぎていた、
その間ずっと坐ったままだったというのは大変なことです。
その結果、
仏光国師は
『答えはまだ見えないけれども、もう何を見ても無になっていった』
『天も地も皆無字一枚になっていく』
というような境地に至りました。
(中略)
二十二歳のある晩、
いつものように夕方から坐っていると坐禅堂にかかっている板を木槌で打つ音が聞こえました。
この板は開板といって、
夜が明けるとそれを知らせるために修行僧が木槌で打つのです。
このとき開板が叩かれる音を聞いて、
仏光国師は忽然として悟りました。
仏光国師はそれをひとつの偈(詩のこと)に表しています。
一槌に打破す精霊窟
突出す那吒の鉄面皮
両耳聾の如く口唖の如し
等閑に触著すれば火星飛ぶ
(板を叩く槌の音ですべての迷いが打破された。
本来の自己がそのままそこに姿を現した。
何も聞こえず何も言えないとしても、
うっかり私に触ろうものなら火花が散るぞ)
精霊は『しょうりょう』と読むと『死者の魂』という意味になります。
ここでは『せいれい』と読みます。
これはいろいろな草や木に宿る霊を意味しますが、
禅の世界では『煩悩や妄想の塊』を表す言葉として使います。
つまり、
朝、板を叩くカーンという音で、
今まで煩悩や妄想の巣窟のようになっていたものがすべて打破された。
そして那吒というのは那吒太子という仏法の守護神ですが、
ここでは本来の自己を譬えています。
今までの迷いの闇が一瞬のうちに晴れて、
本来の自己が姿を現したというのです。
その本来の自己とは、
ひたすら坐禅に打ち込んでいますから何も聞こえないし何も言葉にできないけれども、
『うっかり手を触れようものなら火花が散るぞ』
というぐらい生き生きとした力のあるものだ、と。
坐ったままで何も聞こえず何も言えないという中にそんな素晴らしい力が生きている、
と言っているのです。
これが仏光国師が悟りを開いたときの偈です。」(19頁〜22頁)
無とは、
『無我』
のことです。
無我とは、
『空』
のことです。
空とは、
『宇宙全体を創り出している根源的な知性』
のことです。
すなわち、
『宇宙意識』
です。
無になる(無我の境地)とは、
『宇宙意識と一体化すること』
です。
雑念・妄念を捨て去り、
頭を空っぽにすれば、
『空』
と繋がります。
頭を空っぽにする練習をしましょう。
無念・無想・無我・無心が、
理想の境地です。
『禅』は、
幸福について、
どう考えているのでしょうか?
同書に、こう書いてあります。
「仏光国師の坐禅のいちばん根本にあったのは、
無がわかったと自分だけが悟って満足するというものではなかったというのです。
宮沢賢治が
『世界全体が幸せにならないうちには個人の幸せはありえない』
というようなことを言っていたと思いますが、
仏光国師も世界全体が悟りを開かないうちには自分の悟りはありえないと考えていたのでしょう。
また、
そこまで視野が広がっていくというのが本当の無という意味だろうと思います。
無というのは無限ですから、
決して自分だけがどうこうという問題ではないのです。
それゆえに、
老いた母を見ると世話しなければいけないと、
ひとまず修行を置いて一緒に暮らす。
国が困っているのを見ると、
自分の身を投げ出してもなんとかしようとする。
若き執権・時宗公が悩んでいるのを見ると、
なんとか支えてあげなければいけないと思う。
『無とは慈悲心である』
という言葉がありますが、
そういう慈悲心に目覚めたのです。
そして、
常に慈悲心を持って生きるというのが、
仏光国師にとっての生きる意味になっていくのです。
そうなってから仏光国師には、
おそらく自分自身の問題で煩い悩むようなことはほとんどなくなって、
望まれるままに身を捧げていったのではないかと思います。
そして最後は、
異国の日本にひとすくいの灰を添えるだけだという、
このどこまでも謙虚な姿勢は素晴らしいと思います。」(42頁〜43頁)
慈悲の『慈』とは、
いつくしむ心、
衆生に楽を与えること(与楽)です。
慈悲の『悲』とは、
苦を除くこと(抜苦)です。
慈悲心を持って生きましょう。
自分さえ幸せになればいい、
というものではありません。
全人類が幸せになることが、
Creatorの意図です。
汝は神なり 愛と光なり
汝は救世主なり
世界中の一人ひとりが救世主
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