筆者の息子が幼稚園に通っていた25,6年前のことでした。
「手つなぎゴール」だったかどうかは記憶にないのですが、
とにかく順位をつけず、みんなと同じにゴールするという光景に
とても違和感を感じたものでした。
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■平等という名の不平等
うちの子は足が遅かったので、そういう足の遅い子への配慮だろうとは思いましたが、
逆に足の速い子だったらどうだろうと思ったのです。
その子は自分の得意の「かけっこ」で、他の子よりも速く走れるという
自己表現・自己実現の場を大人が奪っているのではないかと思ったのです。
みんなが平等にって、それは不平等じゃないのかと思った次第です。
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■学校群制度も平等?
皆さんは「学校群制度」というのをご存知でしょうか。
学校群制度(がっこうぐんせいど)とは入試実施方法の一つである。いくつかの学校で「群れ」を作り、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける方法である。各自治体の公立高校全日制普通科のみが対象であり、専門学科や国立、私立高校は対象にならなかった。ウィキペディア(Wikipedia)より引用
特に東京都、千葉県、愛知県、岐阜県、三重県、福井県において高校入試で学校間の格差をなくすために用いられた。
学区内に数個の学校群を設定し「単独選抜」と同様に学校群を志願者に選択させた点が、狭義の「総合選抜」と異なる。共通点は、中学区制度かそれに近い形式を採ることである。
学校群内各校の学力格差を無くし均質化を実現したことでは成果を挙げたが、学区内の学校群間で入試難易度の格差が新たに発生した。
原則として本人の希望にかかわりなく合格者を学校群内各校に振り分ける仕組みであるため(ただし、千葉県のみは一定割合の成績上位者の志望を考慮する仕組みを組み込んでいた)、受験生の選択の自由は大きく制約され、この観点からの否定的な評価が多い。
2004年までにすべて廃止された。
私が首都圏で学習塾に携わっていた1976〜81年は、まさに都立高校がこの制度でした。
なぜこの制度が出来たかというと、各高校の格差を無くすためという理由のようでしたが、
(受験戦争の過熱から「日比谷潰し」と呼ばれた、当時東大合格者数でダントツ日比谷高)
結局は各群の格差が出来て、かつ行きたい高校に割り当てられなかった生徒は不貞腐れる、
経済的にゆとりのある家庭は都立じゃなくて私立を目指す、そんなことになってしまい、
都立高校は個性を失い、各高校は可もなく不可もないものになってしまったという顛末です。
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■萩生田大臣の身の丈発言はというと
発言の後、萩生田大臣は国会で「エールのつもりだった」と釈明していました。
たぶん、あの発言に悪気はなかったのかもしれません。
萩生田大臣の「教育格差」とは、本人の志や努力によって乗り越えられる程度のものだ、
という認識があったのではないでしょうか。
その意味で彼の発言に、内心では同意した人もいたかもしれません。
「格差はあっても、努力で乗り越えればいい。自分はそうしてきた」と。
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■そもそも大学入試に共通なテストが必要か? それも平等?
このブログで何度も触れてきましたが、そもそも大学入試に共通なテストが必要なんでしょうか?
大学入学共通テスト、英語民間試験見送り、萩生田文部科学相
「入試地獄」を緩和するという目的で導入・・・あれ?
そうですよね。学校群制度と同じような趣旨ですよね。
でも、それがうまくいかなかったのは歴史が物語ってますよね。
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■個性の尊重は大学にも
数学が得意な子もいれば走るのが得意な子もいる。
それぞれの特質を認めてやることこそ「個性の尊重」ではないでしょうか?
すべての授業を英語でという英語教育に特化している大学もあれば、
プログラミングのスペシャリストを育てる大学・学部、
オリンピック選手を育てる大学などなど
それぞれの大学・学部によって個性があるはずです。
それを一つの共通テストで行う必要はあるのでしょうか?
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■平等という名の不平等を無くし、大学で個別試験を
それぞれの大学で一次試験から始めるとなると、各大学の先生方の負担がかなり増すことは当然です。
しかし、受験生ファーストを考えるならば、自分が学びたいという大学・学部にチャレンジすることはとても大事なことではないでしょうか。
現状では、共通テストの結果で、その数値を基に二次試験を受ける大学を選ぶ、
しかもそれは受験産業の莫大な費用がかかるデータを基に...
こんな制度でいいのでしょうか?
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