2020年11月27日
陸奥蝦夷の首領・阿弖流為と征夷大将軍坂上田村麻呂、古代日本人と自然との関わり
陸奥蝦夷の首領・阿弖流為と征夷大将軍坂上田村麻呂、古代日本人と自然との関わり
阿弖流為を語る際には、その最期を招いた人物として坂上田村麻呂を抜きには出来ない。東北には、この坂上田村麻呂が創建した神社が数多くある。
坂上田村麻呂は758年に坂上苅田麻呂の次男または三男として誕生。(※坂上田村麻呂の具体的な誕生日は不明です)
801年、坂上田村麻呂は4万の軍勢と5人の軍艦、32人の軍曹を率いて平安京から蝦夷(えぞ)最大の根拠地、胆沢(岩手県)に出征します。ちなみに蝦夷(えぞ)とは日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称。
(※蝦夷の読み方は「えぞ」以外にも次の2つで呼ばれることがあります。「えみし」「えびす」)
そして坂上田村麻呂は胆沢攻略に成功し、従三位・近衛中将に任じられる。
802年には胆沢に胆沢城を築き鎮守府をここに移したとされる。それと同時に坂上田村麻呂が降伏した蝦夷の首領2人を都に連れていく。蝦夷の首領二人とは、阿弖流為と盤具公母礼だよなぁ、と。
坂上田村麻呂は蝦夷の首領2人を処刑することを最後まで反対し、嘆願したと言われているが、これに懐疑的な意見も実はある。結局、蝦夷の首領2人は処刑される。そして、「怨霊」ないし「御霊」と化して祟りをなした悪路王が誕生することになる。朝廷側は祟り鎮めのために、リアルな頭形つまり生首の木像がつくらせ、これを祀ったという。
祟ったということは、大和の側がよほど汚い手を使ったか、あるいは奸計にはめて殺害した可能性をうかがわせるだろう。そもそも、うしろめたいから鎮魂するのである。
『アテルイ〜はるかなる母神の大地に生きた男(ひと)〜』愚安亭遊佐・又重勝彦著 自然食通信社に寄れば、文字を必要としなかったアテルイ達エミシの残した記録はない。しかし、記録されなかったアテルイ達の生きた残照は、現代にも見ることができる。盆や正月に帰ってくる先祖の霊魂の話は、仏教では説明がつかない。正月のしめ縄も、現代の神道では説明がつかない。お供えもそうだという。
文字を持たなかった我々の先祖は、記録がないために、その後好き勝手な伝説を語られている。この「悪路王」も、「むかし、陸奥一帯を支配し、大和朝廷の東北支配に対抗した「蝦夷」の大王のことである。悪路という用字にも明らかなように、そうとう手強い大王だったようで、朝廷が派遣した軍隊と互角以上にわたりあった。いや、しばしば朝廷軍に強烈なパンチを食らわせた。そこで坂上田村麻呂が悪路王を退治し、蝦夷たちを大和に帰順させたという話になる。」と、あらまたひろし(作家)さんは語る。
先祖の霊魂の話は、仏教より、アイヌ民族の死生観で説明したほうがしっくりくるという。
お供えはとぐろを巻いた蛇、しめ縄は、交合する蛇。蛇の姿に神を見た信仰がなくては、説明がつかない。他の生き物をきちんと観察することで、人間を超える力の存在を見つけられた人々だけが持ちえた信仰。世界共通と思えるほど、蛇に対する信仰が広がっていた時代があった。その後、蛇は殺されていく。その時期が、文明の始まりに重なっている。蛇の脱皮は、死と再生に見えた。
また、諏訪の御柱、青森のねぶた祭、岩手の鬼剣舞、鹿踊り、等々、何を持ち出して説明すればよいのだろう。
「アテルイ」という芝居のシナリオに、蝦夷の暮らしと叫びが見事に再現されていると思う。
『あたしたちは、ここに、あたしの母の母の母の、さらに遥かな母のときから、幾百幾千の夏の季節と冬の季節を経巡り、ここで暮らしてきた。
ここはあたしたちの大地。ヒタカミ。
いや、あたしたちだけじゃない。天地の狭間に生きる、すべての生き物の命を尊び、敬い、木の恵み、大地の恵みに、感謝と祈りを忘れないものにとっては、誰のものでもある大地。』
『それが、あたしの母の母の母の母の母のある日、あの人たちがここへやってきた。
そして、いきなり宣言した。
「ここは肥えて広くて、金も取れれば鉄も取れる。たいした、いいとこだから、ここを、おれたちによこせ」
だから、戸惑いながら答えた。
「あんたたちもここに住みたいでしょう? ヤマトから来たんでしょ。いままでも、ヤマトから来た人で、ここに住んでる人がいるよ。あたしたちは、住みたいって言うのに駄目とは言えないでしょう。ここは誰のものでもないのだから」
次に、あの人たちが来た時、手に斧と、鍬と、鋤を持ってきた。しかも、大勢で。
そして、みんなで木を切り出した。大地を掘り返し始めた。
それを見て、あたしの母の母の母の母の母の人たちは青ざめ、必死になって叫んだ。
「あんたたち、なにするの。そういうことしちゃ、だめなんだよ、木に許しをもらった? 大地がいいって言った? 祈りは済んだ?」
そしたら、あの人たちは、斧や鎌や鋤を振りかざした。
後ずさりしながら、あたしの母の母の母の母の母の人たちは叫んだ。
「木が痛いと叫び声をあげてるのが、あんたたちに聞こえないの。大地が嫌だと言ってるのが、あんたたちに聞こえないの」
「だめだよ、木、切れば、だめだ。祈りも、感謝もなく、ただ、切るなんて、だめだ。そういうことすれば、生き物たち、生きていけなくなる。生き物たち、生きていけなくなれば、人間も生きていけなくなる。そんな罰当たりのこと、しちゃあ、だめ。やめてください、お願いします。やめてけろ、やめてけろって、やめてけろ、やめてけろ、やめろ、やめてけろ」
みんな必死になって叫んだ。』
征夷とか討伐とかっていうのは、中央政府側からの言葉であって、こちら側からすると侵略だ。
狩猟採集民(縄文人)と、農耕民(弥生人)はそもそもまったく別のヒトビトだ。狩猟採集民は農耕民に比べて心優しい人たちだったとも言われる。何故なら、彼らは土地に拘泥しないから、土地を確保するために攻めに行く必要もない。だから阿弖流為たちの戦いは、そもそも専守防衛だけの戦いだったのだと。
アイヌに魂送りの祭のイヨマンテが残っているように、あらゆる生きている命を奪って生きているがために、命への感謝の祭を忘れなかった人たちが東北の縄文人だったと思う。
『岩手県市町村地域史シリーズ24 紫波町の歴史』岩手県文化財愛護協会編 川村迪雄著に寄ると、
『奈良時代末期から平安時代初期の志波地方は、胆沢地方とならんで、北上川中流域の蝦夷社会の中心をなしていた。そして大墓公阿弖流為(おおはかのきみあてるい)とか磐具公母礼(いわぐのきみもれ)、あるいは胆沢公志波阿奴志己(いさわのきみしわのあぬしこ)などの指導者を中心に、連合体としての強大な勢力が組織化されるようになっていた。
『続日本記』によれば、宝亀(ほうき)五年(774)以降たびたび征夷作戦が展開されている。宝亀七年(776)の志波村の蝦夷の反乱では、出羽の国府軍が敗北し、翌八年十二月にも志波村の蝦夷が出羽に出撃して、国府軍を破った。
このころの記録には、“志波村”の記事がたびたび出ていて、志波地方の蝦夷の勢力は組織的に強化されていて、優秀な指導者がいたことがうかがわれる。』
阿弖流為を語る際には、その最期を招いた人物として坂上田村麻呂を抜きには出来ない。東北には、この坂上田村麻呂が創建した神社が数多くある。
坂上田村麻呂は758年に坂上苅田麻呂の次男または三男として誕生。(※坂上田村麻呂の具体的な誕生日は不明です)
801年、坂上田村麻呂は4万の軍勢と5人の軍艦、32人の軍曹を率いて平安京から蝦夷(えぞ)最大の根拠地、胆沢(岩手県)に出征します。ちなみに蝦夷(えぞ)とは日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称。
(※蝦夷の読み方は「えぞ」以外にも次の2つで呼ばれることがあります。「えみし」「えびす」)
そして坂上田村麻呂は胆沢攻略に成功し、従三位・近衛中将に任じられる。
802年には胆沢に胆沢城を築き鎮守府をここに移したとされる。それと同時に坂上田村麻呂が降伏した蝦夷の首領2人を都に連れていく。蝦夷の首領二人とは、阿弖流為と盤具公母礼だよなぁ、と。
坂上田村麻呂は蝦夷の首領2人を処刑することを最後まで反対し、嘆願したと言われているが、これに懐疑的な意見も実はある。結局、蝦夷の首領2人は処刑される。そして、「怨霊」ないし「御霊」と化して祟りをなした悪路王が誕生することになる。朝廷側は祟り鎮めのために、リアルな頭形つまり生首の木像がつくらせ、これを祀ったという。
祟ったということは、大和の側がよほど汚い手を使ったか、あるいは奸計にはめて殺害した可能性をうかがわせるだろう。そもそも、うしろめたいから鎮魂するのである。
『アテルイ〜はるかなる母神の大地に生きた男(ひと)〜』愚安亭遊佐・又重勝彦著 自然食通信社に寄れば、文字を必要としなかったアテルイ達エミシの残した記録はない。しかし、記録されなかったアテルイ達の生きた残照は、現代にも見ることができる。盆や正月に帰ってくる先祖の霊魂の話は、仏教では説明がつかない。正月のしめ縄も、現代の神道では説明がつかない。お供えもそうだという。
文字を持たなかった我々の先祖は、記録がないために、その後好き勝手な伝説を語られている。この「悪路王」も、「むかし、陸奥一帯を支配し、大和朝廷の東北支配に対抗した「蝦夷」の大王のことである。悪路という用字にも明らかなように、そうとう手強い大王だったようで、朝廷が派遣した軍隊と互角以上にわたりあった。いや、しばしば朝廷軍に強烈なパンチを食らわせた。そこで坂上田村麻呂が悪路王を退治し、蝦夷たちを大和に帰順させたという話になる。」と、あらまたひろし(作家)さんは語る。
先祖の霊魂の話は、仏教より、アイヌ民族の死生観で説明したほうがしっくりくるという。
お供えはとぐろを巻いた蛇、しめ縄は、交合する蛇。蛇の姿に神を見た信仰がなくては、説明がつかない。他の生き物をきちんと観察することで、人間を超える力の存在を見つけられた人々だけが持ちえた信仰。世界共通と思えるほど、蛇に対する信仰が広がっていた時代があった。その後、蛇は殺されていく。その時期が、文明の始まりに重なっている。蛇の脱皮は、死と再生に見えた。
また、諏訪の御柱、青森のねぶた祭、岩手の鬼剣舞、鹿踊り、等々、何を持ち出して説明すればよいのだろう。
「アテルイ」という芝居のシナリオに、蝦夷の暮らしと叫びが見事に再現されていると思う。
『あたしたちは、ここに、あたしの母の母の母の、さらに遥かな母のときから、幾百幾千の夏の季節と冬の季節を経巡り、ここで暮らしてきた。
ここはあたしたちの大地。ヒタカミ。
いや、あたしたちだけじゃない。天地の狭間に生きる、すべての生き物の命を尊び、敬い、木の恵み、大地の恵みに、感謝と祈りを忘れないものにとっては、誰のものでもある大地。』
『それが、あたしの母の母の母の母の母のある日、あの人たちがここへやってきた。
そして、いきなり宣言した。
「ここは肥えて広くて、金も取れれば鉄も取れる。たいした、いいとこだから、ここを、おれたちによこせ」
だから、戸惑いながら答えた。
「あんたたちもここに住みたいでしょう? ヤマトから来たんでしょ。いままでも、ヤマトから来た人で、ここに住んでる人がいるよ。あたしたちは、住みたいって言うのに駄目とは言えないでしょう。ここは誰のものでもないのだから」
次に、あの人たちが来た時、手に斧と、鍬と、鋤を持ってきた。しかも、大勢で。
そして、みんなで木を切り出した。大地を掘り返し始めた。
それを見て、あたしの母の母の母の母の母の人たちは青ざめ、必死になって叫んだ。
「あんたたち、なにするの。そういうことしちゃ、だめなんだよ、木に許しをもらった? 大地がいいって言った? 祈りは済んだ?」
そしたら、あの人たちは、斧や鎌や鋤を振りかざした。
後ずさりしながら、あたしの母の母の母の母の母の人たちは叫んだ。
「木が痛いと叫び声をあげてるのが、あんたたちに聞こえないの。大地が嫌だと言ってるのが、あんたたちに聞こえないの」
「だめだよ、木、切れば、だめだ。祈りも、感謝もなく、ただ、切るなんて、だめだ。そういうことすれば、生き物たち、生きていけなくなる。生き物たち、生きていけなくなれば、人間も生きていけなくなる。そんな罰当たりのこと、しちゃあ、だめ。やめてください、お願いします。やめてけろ、やめてけろって、やめてけろ、やめてけろ、やめろ、やめてけろ」
みんな必死になって叫んだ。』
征夷とか討伐とかっていうのは、中央政府側からの言葉であって、こちら側からすると侵略だ。
狩猟採集民(縄文人)と、農耕民(弥生人)はそもそもまったく別のヒトビトだ。狩猟採集民は農耕民に比べて心優しい人たちだったとも言われる。何故なら、彼らは土地に拘泥しないから、土地を確保するために攻めに行く必要もない。だから阿弖流為たちの戦いは、そもそも専守防衛だけの戦いだったのだと。
アイヌに魂送りの祭のイヨマンテが残っているように、あらゆる生きている命を奪って生きているがために、命への感謝の祭を忘れなかった人たちが東北の縄文人だったと思う。
『岩手県市町村地域史シリーズ24 紫波町の歴史』岩手県文化財愛護協会編 川村迪雄著に寄ると、
『奈良時代末期から平安時代初期の志波地方は、胆沢地方とならんで、北上川中流域の蝦夷社会の中心をなしていた。そして大墓公阿弖流為(おおはかのきみあてるい)とか磐具公母礼(いわぐのきみもれ)、あるいは胆沢公志波阿奴志己(いさわのきみしわのあぬしこ)などの指導者を中心に、連合体としての強大な勢力が組織化されるようになっていた。
『続日本記』によれば、宝亀(ほうき)五年(774)以降たびたび征夷作戦が展開されている。宝亀七年(776)の志波村の蝦夷の反乱では、出羽の国府軍が敗北し、翌八年十二月にも志波村の蝦夷が出羽に出撃して、国府軍を破った。
このころの記録には、“志波村”の記事がたびたび出ていて、志波地方の蝦夷の勢力は組織的に強化されていて、優秀な指導者がいたことがうかがわれる。』
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