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今年、サプライズで当日に見せてドヤ顔する予定だったのだが、当方、承認欲求デカイデカイおばげなため、フライングで見て見てしてしまい、お二方とも、ニコ静に上げる許可をいただいてからそれぞれ誕生日当日に作品を上げている。
(ブログでの紹介が遅れてしまって申し訳ない…、)
今回は、どうして自分がよそのこを描く(書く)のか、そんなエッセイを書いてみようと思う。
※長いので追記にしています
「それでもよそのこを描こうと思うってお話」
自分は、創作をやっていると逃れられない、承認欲求というものが大嫌いだった。
承認欲求それ自体を否定しているのではない。
これまで、何度も何度も、承認欲求に負けて相手を傷付けて離れてを繰り返してきた、そんな自分にほとほと嫌気が差しているからである。
そして、それは尚も続いている。自分でも呆れるのだけれど。
それでも自分は、自分の世界観を持っていたり、何の気なしに描き始めたキャラクターにどんどん設定が加わって命が膨らんでいくのを見るのが好きで、その好きを伝えるために、よそのこを描き続けたいと思っている。
創作をやっていると、承認欲求というやつは必ず顔を出す。
それは誰しもそうで、それを上手く利用することで作品を作り続けられるタイプと、承認欲求に呑まれて筆を折るタイプの二つに大別される。
創作界隈に長くいると、大好きな作品を描く(書く)人がだいたい後者であることが多く、そうやって筆を折ったり、筆は折らないまでも界隈から消えていったりを何度も見てきた。
見てきただけじゃない。
お互いが承認欲求を拗らせて、それでぶつかり合っていくつもの人間関係を潰してきた。
承認欲求は麻薬に似ている。麻薬を摂取したことはないけれど、聞く限り、承認欲求は麻薬に似ている。
それは人によっては即効性の薬にもなるだろうが、大抵の場合、遅効性の毒だ。
その毒は体外に排出されず、積もり積もって、自分も大切な人も傷付けていく。壊していく。そして壊れたら、もう、戻らないのだ。
承認欲求が満たされているうちはハイになって創作を続けられるけれど、麻薬と一緒でそれはどんどん量を求めるようになる。
その量が一気に増えるわけもなく、満たされない承認欲求は今まで積もり積もったものも含めて膨大になり、相手も自分も傷付けきるまで止まらなくなるのだ。
今思えば、承認欲求の麻薬に呑まれていたのは自分だけじゃないし、お互いが傷付け合っていたのであって、自分だけが相手を傷付けたわけでも、向こうから傷付けられたばっかりでもないのだが、その時はそれが解らないもので、それで傷だらけになったらもう縁を切るしかない。
(傷付け合うくらいなら縁を切るしかない、と、思い込んでいた)
そうやって数々の人間関係を潰してきた自分だけれど、それでもよそのこを描き(書き)続けるのは、それが自分にできる一番の愛情表現だと思っているからだ。
下手の横好きだと言われようが、自分は絵を描けるし、文章も書ける。描きたいとも思えるし、書きたいと思える。そしてそれが何より楽しい。
相手が創作をするから創作で応えたいというのもある。
けれどそう思うのは、自分が、相手のことを考えながら描く(書く)ことが、何より楽しいからだ。それはハッキリと断言できる。
創作を発表し続けていると、どうしても反応や数に囚われてしまう。
もっと見てほしい。
頑張ったのに反応が少ない。
そうして流行りのものに嫉妬して、人気者を僻んで、自分はダメだと思い込んで、あまつさえ自分の作品を好きだと言ってくれた人の言葉も否定する。
それは、「創作を発表し続ける」限り仕方のないことだと思っていて、それは頭の何処かで割り切っている。
割り切っているというよりは、自分は承認欲求の形が、数にないから、そうやって数に溺れて疲弊していくタイプの承認欲求とは相容れないのかもしれない。
だが、自分でも自覚しているけれど、数を求めて疲弊するタイプより、特定の誰かを喜ばせたい、その人の反応がほしい、そういうタイプの方が質が悪い。
特定の誰かのために何かをすることは、好みや傾向を分析してからするだけに、それに対しての反応が自分の妄想と違うと病みやすい。
個人的には、大切な人のことを考えながら創作している時間が楽しいので、反応が少し違っても、次こそはってなるので、そういう時は承認欲求が上手く作用しているとも言える。
そうやって、「喜んでほしい」だけで突っ走れたらいいのだけど、その人への想いが強くなればなるほど、「どうして喜んでくれないんだ」に変わっていくのだ。
本当に、質が悪い。
そうやって、自分の承認欲求の形が質が悪いと理解していても尚、毎回同じことを繰り返してしまうので、承認欲求が嫌いになっても仕方なのないことなのだ。
(数に囚われる承認欲求も、拗らせてその人自身を傷付けながら創作を辞めたり垢を消してしまったりを見過ぎてしまって、そのタイプの承認欲求も嫌いは嫌いなのだけれど)
自分は何度も創作の承認欲求を拗らせて人間関係を潰してきたのだけど、それでも創作を辞めることができなかったし、何度も絶望し続けてきたけれど、その度に自分を救ってきたのは、結局は自分が頭の中で作り出してきた世界観だった。
その世界観を創作として形にすることが、病んでいると難しいときもある。
それでもいろんなキャラクターは頭の中で生き続けていて、いろんな世界が今日も進んでいく。
生きていると現実がどうしようもなく詰みしか見えない時があって、何もかも壊してしまいたくなったり、何もかも捨ててしまいたくなったり、要らないものでも手に入れて心を満たそうとしたり、自分自身で制御できない衝動が襲いかかってくる。
そういう時、それらの衝動から目を逸らすことができたのも、物語に変換して逃避することができたからだと思う。
創作を楽しんでいると、逃避の手段に自分の中でキャラクターや物語をツールとして使うことに、それは本当に自分の世界を愛せているのかと不安にもなる。
それでも、その時不安になったとしても、そうやって一度現実から逃げる世界があったお蔭で、まだ生きて、創作を続けられているのも、事実なのだ。
中の人は、創作をし過ぎて、それなりに自分の中に創作観を持っている。
何度、何人、創作でぶつかっても、それはもう、変えられないものになってしまった。
創作は、自分や、大切な人を、楽しませるためにやっているんだよ。
他人がどうであるかは関係ないのだ。
自分は、自分の世界観も、人様が作ってくれた世界観も、どうしようもなく愛おしい。
嗜好がそれぞれ違うので、全ての人の創作が好きになれるわけでもないし、仲がいい人だからと言って自分の創作を押し付けてそれが受け入れられるとは限らない。
けれど、それでも、素敵な創作をしてくれて、その世界観に癒されたり、その世界観を愛おしいと思えたなら、それに対する愛情表現をしたくなってしまうのだ。
作者本人が何の気なしに描いた(書いた)ものであっても、それが誰かの心に届いて、自分の心に届いて、感情を揺さぶれることがある。
キャラクターや世界観は、その人が最初に創作として形にしないと、無のままだ。
それを、その人が一度でも描いてくれたからこそ、「唯一無二のよそのこ」が産まれるのだ。
だから、どういう向き合い方をしていたとしても、「うちのこ」を「産み出した」事実に自信を持ってほしい。
アニメや一般化してプロが産み出した大多数に指示される作品も、流行り廃りで話題に上ることが少なくなって忘れ去られてしまったように見えることがある。
覚えておかなければならないのは、「うちのこ」も「よそのこ」も、常に話題に出し続けなけば「愛されなくなった」わけではないのだ。
彼等はふとした瞬間に頭の中にひょっこりと現れて、おーいと手を振ってくれている。
一度愛した「うちのこ」や「よそのこ」は、ふとした瞬間にそうやって、届いた人の頭の中で、生きているのだ。
話題に上らなくなったから、忘れ去られて、悲しい。
そういう一時的なことにしか目がいかなくて、自分も悲しんでいた時期があった。
けれど、話題にしないからと言って、そのキャラクターや世界観を愛した事実は消えないし、ふとした時に懐かしく、ふとした時にまた手を取ってくれる、そんな存在なのだ。
そんな存在を、創作者は、産み出しているのだ。
それってめちゃくちゃすごくね?
自分がそうやって産み出していると、創作するのが当たり前になりすぎて、それがすごいことという意識がなくなったりする。
けれど、他の人の産み出したキャラクターや世界観に感情を揺さぶられる度(それがどのような感情であったとしてもその感情を揺さぶられたということは)、産み出すというのは、とてつもなくすごいことなのだ、と、感じるのである。
創作を続けていると、自分より上手い人や、万人受けするものを産み出せる人や、プロモーションが上手かったりプロモーションに金を掛けたりできる人や、いろんなタイプの「上の人達」ばかりで自己肯定感が萎んでいくこともある。
自分がそうだから、他人がそうであるかは分からない。
けれど、たった一度でも、自分の作品を描いて(書いて)もらえたということは、その時、その人の心を揺さぶることができたということなのだ。
自分も描いてもらえた時はただただめちゃくちゃ嬉しくて、単純に嬉しくて、はしゃいではしゃいで、ただただただ嬉しいしかなかった。
自分はいろんな人を創作拗らせて傷付けてきたから、離れてしまった後その人達が自分が贈った創作をその人達がどう思っているのか知る由もない。
知る由もけれど、少なくとも自分は、その人達に描いて(書いて)もらった全てがいつまでも愛おしいし、ふとした瞬間に嬉しかったことを思い出せるから、その気持ちを大切にしたいと思う。
創作だけじゃなくて、現実に疲れた時とか、ふと心の空白が目について離れない時とか、そういう時に、自分の産み出した子達が誰かの心に残って生き続けているんだということを思い出してほしい。
それを伝えたくて、拙いなりに絵を描いて、文章を書いて、よそのこへの愛を、残していっているつもりだ。
それが届いてるといいな、と、思う。
(まぁ、単純に可愛いから自分でも描きたいというのもあるし、それが一番の理由なのは、それはそうなのだが)
自分は文字書きなので、本当は文章でそれを伝えられたらいいのだろうけど、ふと心の空白が目について離れない時、思い出すのはいつも文字から浮かんだ情景ではなく、描いてくれた絵画表象なので、そういうきっかけとしては、やっぱり絵の方が印象に残るのではないか、と、絵に描いている。
(大事なことなので何度でも言うが、単純に可愛いから自分でも描きたい、というのが一番の理由なのだが)
頭の中で勝手に動いている物語やキャラクターを創作として形に残す理由は、それこそ創作者の数だけあると思う。
けれど、根幹には、そのキャラクターや世界観への愛があると信じている。
その愛情表現の仕方は人それぞれで、他人の愛情表現が自分に合わないこともあるかもしれない。
そういう時こそ、だから自分は自分なりの愛情表現をするんだ、くらいの意気込みで、自分の世界観に自信を持ってほしい。
大きく認知されれば嬉しい、それは当たり前に喜んでいいことなのだけど、その数だけに囚われないで、一人でも、誰かの心を揺さぶれた、その事実は、大切にできたらな、と、思う。
自分が好きになれる世界観を産み出してくれる全ての人も、自分自身も。
可愛いから自分も描きたい!
それが伝わるだけで十分なのだけど、そんな想いも込められてるんだよ、それだけ素敵なものをあなた達は残してるんだよ、そう言いたくて。
創作が楽しくて楽しくて、愛おしい、さまにゃんこでした。
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