この作家の、赤から始まる作品にハマった時代がある。あまりに読み込んでいたので、自分が書く文体が似てくるという現象に出会った。
今、真似をできるだろうか?
「 僕は、中学生の時に(といっても定かでない記憶では中学3年生の時だったと思うのだけれど)アマチュア無線というものを始めた。つまり、なんというか友達と教室で、国家試験(当時は国試と呼んでいたんだけど)を受ける? と かなりの距離で(ということは、教室の中では、結構な大声でなんだけど)話したかけた時に、その友人が(彼は、まつ毛が長くて超音痴な友達だった)「受けようかぁ」と答えたことが、そもそもの始まりだったんだ。 僕はさっさと出願書類を揃えたんだけど(何事もおっとりの友人は締め切りギリギリに提出したような記憶があるようなないような)、当時は、書店というのかな(現在ならリアル店舗とあえて分類するんだと思んだけど、古い映画で店番、つまり会計係兼見張り係兼本の整理係だ、もっとやってたのかもしれない)、つまり書店で出願書類を売っていたと思うんだ。
」
この作品の出だしあたりに、僕の記憶ではこんなことが書いてあった。
「
僕は つねずね思うんだが、電話機というものは、母親の膝の上に置いてあるんじゃないかと思う。なぜって、電話をかけるといつも最初に出るのは母親だからだ。
」
カラーテレビが、一家に一台から一部屋に一台に増殖したように、電話は今や個人の電話番号である。(だから家電(注:いえでん)とわざわざ区別するらしい、これは家の有線電話という意味合い以外に、その家の誰が受話器を取るかわからないロシアンルーレットという意味合いを持っている言葉ではないかと、僕はひそかに疑っている)
つまりだ、由美に電話したいのに門番のような母親を経由するという手続きを踏まないと話をさせてもらえない。下手に、父親が「 うちの娘になんの用事があるんだ 」と出てきたら、引き下がるしかないくらい怖いものだった(仕方ないことだけど21世紀生まれの携帯時代の人たちには通用しない話で、個人が全面的に前に出てきてしまった現在では、暴挙だということになるんだろうけれど)。
この本の中に、「 脅かしっこ 」という話が出てきます。
意味は、いろいろトリビアな(当該の本の時代には、なかった言葉)知識を仕入れてきて、友達に 「 おお〜 」とか「 へ〜 」と言わせるという知識遊び。
遊びにしておくのは、もったいないくらい色々な知識が出てくるんですが、時代が百科事典を一家に一式の時代なので。どうしてもそうなる。
知的興味は、面白いことに他人様の相談事を解決しようと 検索しているとどんどん増える。 古い諺では、「情けは人の為ならず」である。
( これも誤解されている可能性が高い諺なのだが、私の友達ならば間違っていないことを信じておく )
検索エンジンの使い方を学んだわけじゃない。検索語の括りとか、引き算程度しか覚えていない。 が、論文なら、法律なら、税金なら、と ターゲットを絞ってそれらのサイトに行く程度には学習済みである。
何を言いたかったかというと。
小学校からでも良いが・・ 私個人的には、中学で記憶した知識でかなり長い間生きてきた。ところがである。この10年くらいで伸びた私の知識は、それを凌駕する。
ネットワークというもを使わない、あるいはある程度でも使いこなせないと、人生レベルで幸福度は違ってくるんじゃないだろうか?
さて 赤ずきんの話は、どんなバージョンをご存知だろうか? 最初の本の最後の方で、「ぼく」はそれを選ぶシーンがある。 古い童話は、かなり残酷である。
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