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2015年04月01日
藤井誠堂 一行書 無事是貴人
売切れ御免
藤井誠堂 一行書 無事是貴人
紙本 肉筆
藤井誠堂
大徳寺管長 大徳寺515世
藤井誠堂(誡堂宗省:かいどうそういく)京都大徳寺 三玄院
◆大徳寺515世。昭和59年(1984)寂、86才
臨斎正宗
藤井誠堂 一行書 無事是貴人
紙本 肉筆
藤井誠堂
大徳寺管長 大徳寺515世
藤井誠堂(誡堂宗省:かいどうそういく)京都大徳寺 三玄院
◆大徳寺515世。昭和59年(1984)寂、86才
臨斎正宗
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2015年03月31日
仇英 中国 彩色山水
彩色山水 中国
絹本肉筆 真贋不明
仇 英
仇英、字は実父、号は十洲。本籍は江蘇太倉(現在の江蘇省太倉市)ですが、後に蘇州へ転居しました。画業を生業とした仇英は、身分は低いものの天賦の才に恵まれ、幼い頃から蘇州の著名な画家周臣(1450頃−1535)に師事して絵画を学び、文徴明や唐寅などの影響も受け、その作品は蘇州の文人たちに賞賛されました。
仇英は当時の収蔵家、例えば周鳳来(1523−1555)や陳官(1557年以降没)、項元汴(1525−1590)などと交流がありました。臨模に優れていたこともあり、こうした収蔵家たちの引き立てを受け、画家として大きく視野を広げることができたのです。江南の収蔵家たちが所蔵する宋元代の画作を学び、臨模する機会に恵まれたことから、仇英の画技はますます磨かれ、独自の画風が確立されました。人物や山水、花卉など、どの題材を描いても冴え渡る画技による巧みな表現が見られます。また、仇英の画風は単に精緻精巧なだけでなく、文人らしい細やかで風雅な気韻も感じられます。周臣の死後、仇英への評価はますます高まり、その後20年もの間、江南で名声を博し、一時代を築きました。
絹本肉筆 真贋不明
仇 英
仇英、字は実父、号は十洲。本籍は江蘇太倉(現在の江蘇省太倉市)ですが、後に蘇州へ転居しました。画業を生業とした仇英は、身分は低いものの天賦の才に恵まれ、幼い頃から蘇州の著名な画家周臣(1450頃−1535)に師事して絵画を学び、文徴明や唐寅などの影響も受け、その作品は蘇州の文人たちに賞賛されました。
仇英は当時の収蔵家、例えば周鳳来(1523−1555)や陳官(1557年以降没)、項元汴(1525−1590)などと交流がありました。臨模に優れていたこともあり、こうした収蔵家たちの引き立てを受け、画家として大きく視野を広げることができたのです。江南の収蔵家たちが所蔵する宋元代の画作を学び、臨模する機会に恵まれたことから、仇英の画技はますます磨かれ、独自の画風が確立されました。人物や山水、花卉など、どの題材を描いても冴え渡る画技による巧みな表現が見られます。また、仇英の画風は単に精緻精巧なだけでなく、文人らしい細やかで風雅な気韻も感じられます。周臣の死後、仇英への評価はますます高まり、その後20年もの間、江南で名声を博し、一時代を築きました。
2015年03月30日
岸駒筆 山水画
岸駒筆 山水画 (真贋不明)
紙本肉筆 色絵 日本画
佐伯岸駒(佐伯岸矩)
1749 ( 寛延2 )〜 1838 ( 天保9 )
本名:佐伯、昌明、駒、岸 幼名:矩、蘭斎
字:賁然
号:同巧舘、華陽、可観堂、箪斎、虎頭館、鳩巣、他
越中または加賀の出身ではないかとされているが正確な出身地は不明。京都高倉二条住。
師系も定まった師には就いてなく、岸派の祖とされている。
濃彩を用いた写実風の画風で南画の山水、人物などを製作していたが次第に虎の画をよく描くようになり、名手となる。
また、有栖川家や御所、公家などによく仕え御用絵師として活躍、従五位、越前守を拝領しており、代々岸派繁栄の基盤となった。
性名を音読して「がんく」(岸矩のち岸駒)と通称される。
代表作に牡丹に孔雀図・波鶴図屏風・双鹿図・松下闘虎図屏風。
〔主な作品所蔵館〕
京都国立博物館/静岡県立美術館/敦賀市立博物館/大和文華館/富士美術館など
〔印 名〕
「白駒」 「岸駒」 「蘭斎」 「蘭斎圖畫」 「同功館」 「鳩巣樓」 「岸矩峰印」 「萬物景天?住」 「岸駒賁然」 「矩圖清明」 「可観岸駒」 「雅樂助章」 など
注)>「同功館」の印は、号として子「岸岱」も同印を使用しているので注意が必要。また、大正〜昭和期にかけて大量の写しが出回ったので本家との見分けが必要となる。
〔市場評価〕★★〔年鑑評価額〕500万
紙本肉筆 色絵 日本画
佐伯岸駒(佐伯岸矩)
1749 ( 寛延2 )〜 1838 ( 天保9 )
本名:佐伯、昌明、駒、岸 幼名:矩、蘭斎
字:賁然
号:同巧舘、華陽、可観堂、箪斎、虎頭館、鳩巣、他
越中または加賀の出身ではないかとされているが正確な出身地は不明。京都高倉二条住。
師系も定まった師には就いてなく、岸派の祖とされている。
濃彩を用いた写実風の画風で南画の山水、人物などを製作していたが次第に虎の画をよく描くようになり、名手となる。
また、有栖川家や御所、公家などによく仕え御用絵師として活躍、従五位、越前守を拝領しており、代々岸派繁栄の基盤となった。
性名を音読して「がんく」(岸矩のち岸駒)と通称される。
代表作に牡丹に孔雀図・波鶴図屏風・双鹿図・松下闘虎図屏風。
〔主な作品所蔵館〕
京都国立博物館/静岡県立美術館/敦賀市立博物館/大和文華館/富士美術館など
〔印 名〕
「白駒」 「岸駒」 「蘭斎」 「蘭斎圖畫」 「同功館」 「鳩巣樓」 「岸矩峰印」 「萬物景天?住」 「岸駒賁然」 「矩圖清明」 「可観岸駒」 「雅樂助章」 など
注)>「同功館」の印は、号として子「岸岱」も同印を使用しているので注意が必要。また、大正〜昭和期にかけて大量の写しが出回ったので本家との見分けが必要となる。
〔市場評価〕★★〔年鑑評価額〕500万