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2024年06月16日
【ショートコント】結婚、育児。そもそも全てが初めからワンマンのワンオペだったら。
そもそも結婚も、子育ても、全部最初から夫抜きで自分が妄想したワンオペレーションで走っていなかっただろうか。
(1)ワンオペ育児からの解放を目指して
「夫が単身赴任していた時は、ワンオペ育児で全く原稿は進まず〜だったが、今は好調だ。」
ある記事で、こんな内容の記事を見た。
「ワンオペ育児」とは、女性が作り出した言葉だ。
ワンオペ、すなわちワンオペレーションという言葉には、「私一人だけでしなければならなかった」という
苦しかったという想いが含まれている。
この言葉を聞くと女性たちは皆こぞって共感し、その甲斐あって、今や男性も昔よりずっと会社での仕事より
家での育児や家事に時間をかけるようになった。
それでもまだまだ男女平等には程遠いとして、「これが平等?」と女性たちの声の高まりの止む気配はない。
(2)じわじわと広がる「弱者男性」いじめ
ワンオペ育児から解放されたとする女性たちの状態は、大きく次の2つがあるようにうかがえる。
1つ目は、夫が前よりも家事、育児に参加して妻である女性を目で見える形でサポートしている状態。
2つ目は、シングルマザーとなった女性が社会的コミュニティーと協力して子育てと仕事を両立していく状態。
この2つに共通しているのは「役に立たない夫」像だ。
「家事、育児を女性に押し付けて、自分は好き勝手している酷い夫に嫌気がさす」というのがワンオペ被害を訴える女性の主訴である。
この主訴を改善すべく既に社会がその構造を変えてまで改善しようとしている一方で、この改善活動が進むにつれて、労働現場における人不足が深刻化したり、「弱者男性」と名付けられた「男性いじめ」が深刻化したりと、主訴に取り組んで改善しているにもかかわらず、社会が良くなっていないように見えるのはなぜだろうか。
それはまるで、昔から言われていた女性社会の悪い面が、家庭や女性同士の友人関係から居場所を社会全体に移しただけのようだとも見えはしないだろうか。
(3)募り続けてきた女性たちの不安と切なさ
ワンオペ育児の改善とは、具体的には女性が目で見てわかるように男性が家事、育児に対して貢献を示していることを指す。
一方で、この改善提案について無視されている事象を1つ挙げるとするならば、男性の仕事は今も昔も、家庭において常にワンオペではなかっただろうか、ということだ。
「家にいなくても、お金さえ家に持ってくればいいのよ」とは、ワンオペ育児被害が社会問題になる以前から現在になっても女性が集まる場所でよく出てくるテーマだ。
「自分たちはずっと役に立たないこの夫からの精神的苦痛に耐えてきた」とはよく聞かれる。しかし、男性は自分の仕事のことを家で愚痴る、あるいは「お前はいいよな」と毒を吐くかもしれないが、女性に自分の仕事を手伝えとは言わないのではないかと思う。
こういうと「女だから出来ないとでも?」と怒られるかもしれない。
でも、実際、男性が職場で何気なく日常的に背負っている社会的責任への重圧を女性は職場で意識的に避けてはいないだろうか。
育児休業を男性が取ったり、残業時間をなくして定時上がりを推奨したりするようになった現代の「社会的正義」を彷彿とさせるこの改革は表向きは良き習慣として社会に浸透しつつあるが、その改革の成果の犠牲となった多すぎる業務の処理や難解な仕事の問題解決は、未だに男性が専業しているといえる。
そして、その状況に対して女性たちは問題にしていない。無視するならまだしも、問題にしないで「常識」のままにしているのではないだろうか。
これまで家庭では「役に立たなかった」男性の企業戦士たちは、それまでの日本社会の豊かさを長い年月をかけて積み重ねてコツコツと築いてきた。それこそ、家庭を忘れるほど没頭して仕事をしてきたゆえに今の社会の発展があることは、否定してはならないと思う。
恋愛経験の少ない私でもわかる。
女性は自分の事を常に気にかけていて欲しいのだ。
それなのに女性である自分の声が何度言っても届かないほどに男性が仕事に対して愛情を注ぎ「家庭を忘れるほど没頭」することが、女性にとっては耐え難かったのだろう。
(4)男性の仕事の無慈悲さ
その気持ちには申し訳ないと思う。
だが一方で、それは女性が男性に対して理解を示すところではないかとも思うのが正直なところだ。
男性の仕事をしてみて見えてきた通り、男性の仕事の量や質は、男性一人のキャパを余裕で超えてくるのが常である。それは「弱者男性」であっても同じことだ。
そのような重圧に対して男性は、愛を持って他を忘れるほど集中することでしか対処できない。一人の力など取るに足らないから、時には何十人もの男性が家庭を顧みず愛を持ってして集中し、1つのプロジェクトを成功させてきた。その結果が、現在も日本に、そして一人一人の家庭、しいては愛する妻と子どもに束の間の豊かさをかろうじて届け続けている。
その無慈悲さは、結果が全てで、失敗すれば社会的損失と共に責めを負い、失業あるいは命すら投げ出しても埋め合わせされないほど過酷と無常を極める。
その過酷さは、一緒に仕事をしていても、その無慈悲さを「ハラスメント」として避け、時には社会に訴えてでも回避しようとしていることから女性たちも肌で感じているに違いない。
(4)理解し合う対象から外される「オジ」たち
このように女性のワンオペ育児の辛さは社会的にあらわになりつつあって改善に向かっているが、男性のワンオペ仕事は未だにそれが男性の専業であるかのように扱われているのが実情ではないか。
「オジ」と称して女性に嫌われる「弱者男性」こそ、社会の中でワンオペ仕事をずっと忍耐してコツコツと成果を積み上げ、女性たちに還元してきた功労者と言っても良いだろう。
そして忘れてはならないのはその「オジ」こと弱きオジサンたちが、弱いくせに「女性は弱い」と信じて不器用なやり方で守ってきている現実だ。
「オジ」たちは『女性たちに嫌われ気持ち悪がられながら』も含めて、その「オジ」としての社会的役割を粛々と今日も果たしている。
時には誰からも「迷惑だ」と呟かれながら電車のホームからダイブすることもある。女性は仕事に命まで賭けないが、男性はその性ゆえに容易に心の針を振り切って仕事に命を捧げてしまうときがある。
令和になってそれを利用して富を搾取している女性たちの実態が明らかになった。極端な例では、仕事は正社員を避け、パパ活なるものを第一の生業としている者もあるらしい。
女性たちはどこまでも平等の成立を認めず自分たちの主張を発信し続ける一方で、「オジ」たちはかつて女性たちが男性に対してぶつけた不満を因果応報のように浴びせられている。それはまるでワンオペ育児の仕返しのようだ。だがそこにはワンオペになった原因について女性である自分は全くの潔白であるかのようにシラを切るズルさが見えはしないか。
(5)相手を見ずに「自分の中の理想の結婚相手と結婚する」間違い
ワンオペ育児から「ワンオペ」だけを取り出すと、その意味は「私だけ」というものだと冒頭で述べた。
一方で、「女性から見て」という見た目の視点をあえて取り除いて家庭の運営を見たとき、その運営のための資金や安全は、家にいない夫がその最低限を保証しているからこそ、その「主訴」は成り立つと言えないだろうか。
「夫とはこうあるものでしょ?」という妻の気持ちには、目の前の夫を見ずに夫を非難する、妻の妄想がそこにはないだろうか。
男性が仕事を自分より愛しているように見えるがゆえに、女性は怒りを燃やし、独立および男性との戦いの火ぶたを切ったということを前述した。その悪化の背景には、夫への理解を示すことを拒否する妻の嫉妬にも似た姿勢がないかという指摘も、おそれながら加えさせてもらった。
婚活へ行くと女性たちは皆、自分の理想とする結婚相手が現れるのを待っている。そして「この人となら幸せになれそう」という男性が現れたらその男性を結婚する。
「この人となら」および「幸せになれそう」は、妻が夫に対して不満を持ち離婚さえ決断し得る「夫の罪」の根拠だが、そもそもの夫の人格や人間性を女性が自身の妄想で包んで理想の結婚生活を夫に結婚前から強制させていないかは罪に問われないのだろうか。
結婚後、夫が妻の思惑と違った動きをすると非難され「公的裁き」の対象にさえされる。だが、その非難が最初に夫に及んだ時、妻は夫の全てを理解していると妄想している、あるいは「この人の考えていることがわからない」と自分の心傷に浸るのに精いっぱいで、夫を理解する努力を放棄していないか。
実は妻が避難するごとに、夫から「俺はお前の妄想の相手でない」とのシグナルが出ていなかっただろうか。自分は察しろという空気を出していながら、自分は察する努力を放棄していないだろうか。
夫がそれを言うと、現在はハラスメントになってしまう。だから実際に伝えようとするときには暴力になってしまうのが夫側の主張だとしたら、令和の結婚は夫側の主張を完全に無視したものになっている。
(6)歯止めの効かなくなった「いじめ社会」をけん引する女性たち
かつて女性が夫からされて嫌だと思ったことを改善しようとして社会改革に乗り出したものが、単に夫への報復と嫌がらせになっていて、夫は今や元夫ではなく、「弱者男性」しいては男性全体にまでその「いじめ」の対象が及んでいないだろうか。
確かに女性に辛くていたことを気づかなかったことに誤りはあろう。しかし、キャバ嬢がめった刺しにされた事件がメディアで公開されたことで、女性の怒りの凄まじいさは男性に届いたはずだ。
世の夫たちは今や自分のキャリアを捨てて、家事や育児を優先させはじめた。
一方、世の子どものいる母たちはこぞってキャリアを優先させ、自分たちの幸せを競い合うようにSNSに投稿している。
女性の立場がまだ弱かった頃は、男性は少しの事でも社会的にハラスメントに対する制裁の対象になっていた。だが、女性の立場が向上しても、未だに男性に対するハラスメントに係る制裁は弱まる気配はない。それどころか、「弱者男性」として嘲笑の的にされているではないか。離婚さえ「男性の罪」ゆえに女性の経済的自立の基盤として正当化されつつあるという。これはやりすぎである。
(7)弱い者でしか知り得ない、巧みな知恵と慈悲の真理
昔の女性の立場は弱かった。だがだからこそ、女性の正論には人としての道に対して力があった。
社会的な地位も低かった。だから小さな優しさが大きな称賛に価した。
弱いことが、更に主張しないことが、女性の懐を海のようだとその広さ、深さ、大きさを際立たせた。
女性の批判は夫ではなく、夫から愛情を奪う社会の仕事に向けられるべきだったかもしれない。
男性は愛する者を責められない。仕事に駆られて愛情の矛先を家庭や妻から奪われたとき、男性は妻か自分を責めるしかなくなるが、その多くは妻を責めることは出来ず、結果として自分を責める。この際の問題は、男性が自分を責める際、女性のように自分を大事にしようとする心理は一切働かず、責められるならと徹底的に責められるまで本来そこまで落ちる必要のないところまで自らを追い込もうとすることだ。切腹文化である。
男性の強さとも言える最も恐ろしいことは、その命すら天秤に乗せてしまえることだ。
女性とは違い、男性は一瞬にして極限まで自分の価値を最小にできる。
この弱さ、脆さを知っていたかつての賢女たちは、夫が本気でヤケを起こす手前でいじめるのをやめて折れたのだが、皮肉な事に、それが夫たちには自分の弱さ、脆さを最も痛感させられる瞬間、自責と回復の転換点となっていた。
弱いはずの女性に気を遣わせるほど弱くなった夫を救い上げるものは何か。
その手はまるで子供の手のように小さく、力なく脱力し、しかも地に手をついたので砂で汚れている。
落ちるところまで落ちた男を救うもの。
それはいつの時代も、もともとあえて低いところに降りて生活を続け、低地での生活の知恵と低地ゆえに届く慈悲を知り尽くしている女性の巧みな導きではないかと私は思う。
(8)社会の誤った運用の担い手とならぬよう
令和を生きる若い女性たちは、もともとの生活のベース、自分の価値や社会的地位が引き上げられているがゆえに、低地で生きる知恵を持ち合わせていないかもしれない。
また、「願えば叶い、言えば意見が通る」時代に生きているがゆえに、生き方に巧みさが育たない。
守られているがゆえに、メンタルが物凄く弱く、他人に対しては驚くほど非情な気がする。
結婚生活は自然の営みであるので、諸行無常だ。
仕事はもっと無常である。
現代の結婚困難と離婚率の高さは、この傾向のせいかもしれない。
加えて団結より自立を選ぶため、種類は豊富だが1つ1つの種は行き場を失い絶滅し易いのではないか。
自分たちで変えた社会だが、その運用の多様性のゆえにパラメーターはかつてよりはるかに多種多様だ。
家庭内の不和ではもはや終わらない雰囲気がある現代社会に対し、変更は簡単だったが、その運用を果たして間違えずにやっていけるのだろうか。