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2024年06月01日

【貧困と秩序】ビタミンC足りてますか?聖書が女性を表に出さない理由


ビリギャル2度目の離婚
https://president.jp/articles/-/82210


聖書では、イエスの代わりに殺人鬼バラバに許しと自由を与える民衆の愚かさが描かれている。
リリちゃん事件もそうだが、女性がこのバラバに見えてくることがないだろうか。




Youtubeである女性の発信する内容によって「賢く」なる女性が増えるほど、社会は急速に変化を遂げていた。個人のニーズに応える応えるのは一見素晴らしい。だが、社会全体にそれを認めると、社会は「してほしい人」だらけのバラバラなものだ。

今、日本は「ハラスメント」大国だ。その原因の一つは、他者より「私」を優先する女性の大量社会進出ではないかと思う。
家庭の中で妻が「私だって尊重されてよい」と思うこと。それはどこの家庭でも起こる「妻として真っ当な」悩みだ。
だがそれは、妻になった女性が取り組まなければならない「女性の課題」であって、女性が社会において「家庭」を築き、運営していく上で解決していかなければならない「妻」としての最初の「人として真っ当な」ハードルかもしれない。


こういうと女性を馬鹿にしているように聞こえるかもしれないが、昔はこれをお嫁に行く娘に託す「母からの知恵」として、代々継承していくいわば「国の宝」であった。

「女性は表に出てはいけない。」
これは、現代ではただの男尊女卑の言葉に聞こえるかもしれないが、この「四苦八苦」が常の世の中において、大切なものは世俗から遠ざけておくのは、昔から当たり前の知恵。

「昔は」を連呼すると「今は令和」と笑われるかもしれないが、昔の良き習慣を世俗から隔離し守っていくのは、仏教やキリスト教ではむしろ「知恵」として教えられている。

家庭の中での女性の愚かさの代表である、「それはハラスメント。」それを「察せよ」と態度に表すことが、今や社会で当たり前のムードになりつつある。しかし、それが逆に「男性へのハラスメント」になっていることは誰も口にしてはいけないのはおかしくないだろうか。

「私の不機嫌の理由を察せよ」。今風に言えばこれは「フキハラ」である。
不幸にも、情報発信を加速させる特性をもつインターネットの発展がこの「フキハラ」を社会構造に持ち込み、「自己中心的が正当化された社会」への変化に拍車をかけているように思える。

女性が自分たちの考えをネット上で自由に発言できるようになり、またネット上での発言力、拡散力が個人の収入と結びついてから昨今のこと。そう言った発言力、拡散力の高い女性、またそういったYoutubeを見て賢くなった気がした女性たちは、自分たちが正しいことをしていると思い込んでいる。だがそれは、かつて自分たちが男性に対して「それはおかしい!」と叫んでいたことだ。

元々社会は構造的に「子ども > 女性 > 男性」の順で守られるような秩序になっている。
立場的に一番弱いのは実は「男性」だ。

一方、社会的責任の重さはこれと逆順であるから、最も口に気を付けて、自分より全体の利益を優先させなければならないのも「男性」である。
そして、社会はこの男性で「表」を成している。社会のルールは、このような理由でその多くが「男性を処罰する前提」のものが多い。

ところで、女性は男性に比べるとこれまで社会の「裏側」に隠されてきたと言えるだろう。それゆえに、女性の行動を縛る厳罰が下るルールといういものは、実はそれほど多くはない。

男性が体であるなら、女性はビタミンCである。体の健康を維持するためには多くの秩序ある生活が必要だが、ビタミンCを取り過ぎるな!というルールはない。ビタミンCは不足すれば体に不調をきたすが、多い分には体が自動的に余剰分を外に排出する仕組みを持っているので、変に代謝に人間が外から手を加えたりしない限りは体に影響はないためである。

男女が裁判になれば大抵、男性が負ける。それはルールに女性を罰する規定がないからだ。「社会はこうあるべき」とは、「男性はこうあるべき」と同義語に近い。ゆえに、女性や子どもに自由を与えないのは「社会全体に対してはリスク回避として当然」の配慮であったと言える。

にもかかわらず、ここにきて社会は女性や子供に多くの自由を与えざるを得なくなった。
離婚が恥ずべきことではなく、個人の権利として認知されるようになったのはつい最近のことであるが、それを公にしたのは女性たちである。もはや今の女性はビタミンCではなくなってきていて、それはまるで「ホルモン」のようである。ホルモンは、男性ホルモンが多ければ体は男性化し、女性ホルモンが多ければ体は女性化するというふうに、体全体に対する影響度はビタミンCとは段違いである。法律でもその使用に制限があるように、本来、ホルモンであれば、社会としてもその使い方をよくよく検討して規制を設けなければならない。

日本国憲法が結婚を前提にルール付けされているのは国の繁栄のためであり、家庭を作り子を産み、育て、それをもって次の時代に国の将来を託していくことは私たちの責任である。が、それを今や女性は「嫌だ」と言って拒否している。

自分たちが安全に安心して子育てできる「仕組み」や「サポート」がなければ「できない」。だからそれができるように社会は「察せよ」。「私たちは既に、できることは自分たちでやっている」から。

これは、全体を管理監督する上では最もやりずらい、頭を悩ませる態度である。体で言えば、ホルモンの暴走は体を病気にさせる。

「私たちは既に、できることは自分たちでやっている」
これは、家庭であれば許された態度であろう。なぜなら管理者は夫だけであり、夫は家庭の中で最も立場が低いからである。夫が自立するとは「妻や子どものいう事をまずは黙って聞く」。そして「自由にさせ」かつ「危険から守る」ことである。これは「社会」が夫に対して突きつけている社会的責任という「命令」である。

だが、そのような「命令」の束縛の無い妻や子どもが「自由にやったら」どうなるか。
そもそも幸福になる権利は認めていても、行動をしばるルールが彼らにはない。だから、言えば大抵訴えは通ってしまう。それで離婚してお金だけ手にして「自立した」生活と宣言する「自由」も比較的早く受け入れられてしまった。

そこで問いたい。
「経済的に一人で生活して生きていけるから夫もいらないし、可愛い子どもさえいればOK。何でも私の自由になるのが本当の正しい社会の在り方なの。私を見て!みんなもできるはずよ!」これが本当に女性の自立だろうか。

男性であれば、思いが生じてもこのように思いに対して問いを立てる。これは仏教でもキリスト教でも変わらない。規範があるから問いが生まれる。問いがあるから思いの暴走を避けることができる。これは男性が帝王学等で女性から離れて学ぶ知恵の一つである。真の宝とはこのように外部からは遮断して隠しておき、その維持・管理の性質上、ほとんど表には出さない。

社会には自分以外に、自分より能力の低い者もいれば能力の高い者もいる。それらとも調和して上手くやっていくには「駆け込み寺のような存在」が必要だ。(お寺ではなく「家庭」と男性はそれを呼んでいたけれど。)
海のように広く、大きな包容力。それを持ってして社会の最小単位である家庭を「『表』の社会に対して『裏』で正しく切り盛りできる巧みさ」。それがそう遠くない過去の「女性の自立」の姿だった。

現在も社会の表は建前と不正だらけ。
でも、すれでも捨てたものではないなぁと思えるのは、社会というコインの裏にはきちんと女性たちが人としての正しさ、優しさ、忍耐強さなどの「正論」の土台を守っていてくれていたからだと私は今でも思っている。

表に出ているから偉いわけではない。裏側でも表側でもフィールドはどちらでもいい。大切なことは「そのような社会を前提として、さて今日、どう生きるか。」だ。それを教えてくれたのは女性たちだった。

自分の役割をきちんと果たす「責任感」「誠実さ」「人としての愛」。力もないのに、弱いはずなのに「責任感」「誠実さ」「人としての愛」。それらを今日どう社会の中で楽しんで実践していくか。それを自分たちより必死に考えている女性は男性から見ては特に尊敬の的だった。

一歩家庭の外に出れば、社会の表では「そんなものは建前だ」「空気を読め!わがままいうな!」と潰されてしまってしまう。空気を読んで、規範に従うのが「表」の秩序だ。
秩序にももちろん、その1つ1つに意味がある。1つの秩序はそれに関するある過ちが過去にあって、それを正すためにできるものだから、むやみに変更しようとしてはいけない。
でも逆に、
「個人がどう正しくあるか」は「個人的な事」で、それを「表」である社会に強要してはいけないが、でもそれは「表」を維持する個人にとってはとても大切なものなので、むしろ「裏側で」きちんと維持・管理すべき「国の宝」であったんだろうなぁとも思う。

ところが今は、その宝の蓋がパンドラの箱が開いたが如くに、社会の表に中身が吹き出てきて、しかも重箱の隅をつつくが如く「あれはハラスメント」「これはハラスメント」と駄目出しをして、グループ同士で影口を言い合い、気に入らないものを「気に入らない空気」を出して「排除しようとする」。

「正論」を「正論ぽくいうな!」というのは女性が言い出したことだ。
正論は正論だが、人間はそれほど正論ぽく正しく行動はできないので、それを押し付ければかつて女性が男性にされていたときと同じように「非常に愚かなだ」と相手にも思われて当然だし、それを一番理解し気を付けていたのも女性であったはずではなかったか。

しかもこれらをインターネットに乗せて当たり前のように社会に発信し、大量に進出したがゆえに「女性としてではなく」それが「社会として」それに皆がお金を払ってしまっている。

例えばYouTubeで「私はあなたを幸せにするあなたのパーツではない」系との発言を聞いたことがきっかけで、恋愛や結婚をより困難な課題にした人は少なくないだろう。公共のメディアでそのような発言を平然と言ってしまうような女性たちは、自分以外の人のために自己を少し譲って人に対して善い事をしたときに出てくる良質な心の喜び、嬉しさ、幸せの芽を、「人としては極めて真っ当な悩み」を悩む女性たちから自分の口が刈り取り、またそのような「人が心の正しい成長過程で通過する」人として真っ当な悩みの芽を枯らして回っていることに気づかない。

彼女たは、男性なら大抵誰もが理解している一般常識「この世が一切皆苦であること」を「現代の女性が『皆』」学んでいないことを浮き彫りにさせる。昨今、男女関係を問題にするときには男性女性と分けて発信する人がほとんどだが、例えば日本の同胞という意味では男性も女性も社会や家庭という共同体を営む「パーツである」という立場は変わらない。

パーツである以上、その共同体の中で個人がその共同体の運営理念から外れた意志を持ったり、個人が各々の希望を勝手に述べてはならないし、むしろ同胞の中で長く続く慣習にはまず従う姿勢で臨むべきであるというのは「真っ当な人としての考え」であろう。

だが、現代の女性はまず「自分」を大切にする。共同体より、仕事より、自分を一番にする。安易に例外を認めてはならないというのは聖書の知恵であるが、女性のそのような「自分」という軽口によって、今まで共同体として機能してきたものが、ここにきて次々と崩壊している。

聖書でも、「女性は忍耐強く慎ましくあれ」と警告を発していた。
女性たちの多くはそれを男尊女卑だと否定したが、これはかつて聖書時代には女性たちが先頭に立って家庭で子どもに教えていた内容だ。これらは「タルムード」と呼ばれ、大人の男たちも時にはその学びに同席していた。今のように大っぴらに社会の表で発信しなくても、「このような女性の社会的重要な役割のために」女性たちの社会的地位はけして低くなかった。「慎ましく」あれとは差別用語ではなく、むしろその影響力が大きいため自制せよという意味である。

実際、聖書時代に書かれた律法集であるタルムードの中での女性の尊厳は非常に高いものだ。そこへ来て、「よく学びもせずに」男性社会を否定した現代の女性の責任は大きい。

パソコンのセキュリティーで一般ユーザーのアカウントに多くの権利を与えていないのは、パソコン全体の環境とアプリ間の秩序、そしてアドミニスターという重要な特権を、一般ユーザーの使用環境から守るためだ。

同様に男性社会であっても真っ当な社会では、女性の立場が表で男性より低くても、決して彼らは男性より女性の立場を下に見ているのではない。その共同体の中で「特別に大切に扱う」が故に、あえてそこに責任や権利を与えずに、むしろ有力者と結婚して家庭に入ってもらい「社会の表側から隠しておく」場合がほとんどだ。それは世俗に影響されてしまわないためであり、天皇の家系が一般社会から隔離されて古来の文化のままの生活をし続けているのと同じ理由である。

同じ理由で、社会の中で女性の立場や品位を彼女たち自身のために守るためには、一般社会に出す前に「軽口をやめよと教育する」よりも、「発言する権利を最初から与えない」ことの方が最善の場合がある。

シングル化と共に孤立する女性の多くは、他の女性の発言を鵜呑みにして軽口と軽率な行動に出て、それを繰り返した結果であることが多いという。家庭に入っていくことの方が実は一人の女性としては幸せなことが多い。

男性を上手く手駒に使って共感をあおるのは何も政治家だけではない。女性の本当の敵は、男性ではなく女性なのだ。

ネット環境が発達した現代では、女性も他の女性の発言で、上は高い目標を見上げて、下は男性との関係で男性を見下す、といった性悪になり、実際は個人での幸せから遠のかされていく女性が増えていないか。

元々社会にそのための秩序がないだけに、男性の発言とは違い、女性の発言の影響力にはフィルターがない。その場に女性が多く、「(男性は基本この手の話題に発言することは許されないので)多くが良い」と「その時に判断それば」そのまま実現へと通過してしまう。

女性は気にしていないが、男性がこれまで諦めなければならなかったもの、あるいは努力の果てにようやく得るものを、現代の女性は、(特に経験も浅いはずの若い女性が)いとも簡単に社会の中で得ているようにメディアに映っている。しかも、しれらは女性が自分たちだけで(男抜きで)実現させているだけに、これまでの男性の無念が蓄積している社会の「表」舞台に出すには非常によくないものであることは明白だ。

「誰もが自由」というメッセージは言葉尻素敵だが、結果として社会構造を壊す毒となってその悪しき「性」が循環し、今は良くてもいずれは前より一層、男女の意識的格差すらも広げ、実社会ではなお一層、仕事も家庭も持続しづらい社会の温床となっていくように思える。(あるいは男性が堕落し女性化して、女性の価値観だけの社会へ変貌していくだろうか。)

彼女たちも含めて女性を本当の意味で救うには、嫌がるだろうけれど彼女たちが今持っている発言する権利を取り消し、活躍中の女性は全て「牢」に入れて、まだ影響が少ない女性には再び、社会進出より家庭で穏やかに暮らしていた方が良いと思う方向へ戻していった方がいいかもしれない。

社会は今も昔も構造的に「子ども > 女性 > 男性」の順に立場が強い。それは家庭においても同じである。

一般的に、立場の弱いものは自分が不当な扱いを受けたとき、より弱いと思われる側へその怒りをぶつける傾向にある。夫が家事に参加しないのは、妻が夫を不当に扱うからである。不当に扱われた夫は「男」としてその怒りを「子ども」や「女」にぶつける。これは私の「祖母の知恵」である。

家庭を知らない知恵のない女性が増えただけで、今も昔も、家庭で女性に自分らしさより家族、とりわけ「子どもより夫」を優先する「『より弱い立場の者』に対する女性らしさ」が欠落していなければ、女性が家庭で「子どもを夫より大切にしたい等の自分らしさ」を「夫から」大切にされるのは変わらないのではないか。

つまるところ、ホルモン化した要素を元のビタミンCに戻すことはできないので、暴走したホルモンは不活化するか一旦取り去って、新しいビタミンCをいれるしかないのではないかということだ。

なんだかそれは、もう起こらないと神が約束したはずの「ノアの箱舟」を思い起こさせる。
女性が今、男性が犯した過ちを再び全く気にせずむしろ「正しいと信じて」しているようで、私は恐ろしい。

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