「的を得る」の議論、
ついに決着したのですね。
そういった議論があったということは
以前から知っていたのですが、
決着していたというのは、
最近になって知りました。
的は射るものなんだから、
「的を得る」は間違い、
という理屈では、
そもそも「的を得る」などという、
言い間違いは起こりえないではないか。
そんな考えを持ち、
自分なりに調べたことがあります。
そこで知った言葉が
「正鵠を得る」でした。
昔から存在する
「正鵠を得る」という言葉が転じて、
「的を得る」という言葉になったんだな!
と、
そこまでは調べたのですが、
それ以上を調べる気力も熱意も
私には足りなかったため、
この話題からは、しばらく離れていました。
ところが、つい最近、
「的を射る」という言葉が
使われている場面に遭遇したので、
復習のつもりで、
これらの慣用句を、
再び検索にかけてみました。
そして、私は、
とある記事に辿り着きました。
「的を得る」と「的を射る」
これらの表現について、
多大な研究をされた方々には、
その日本語に対する情熱に頭が下がる思いです。
非常に有益な、素晴らしい活動だったと思います。
その記事を読んでいなければ、
今後も私は「正鵠を得る」という、
うろ覚えの知識だけで、
不毛な揚げ足の取り合いをしていたでしょう。
ともあれ、「的を得る」の議論は、
ひとまずは収まったということですね。
といっても、
「的を得る」と「的を射る」
どちらが正しいのか、
あるいは
どちらかが間違っている、
そういう話ではなく、
あくまで、
「的を得る」という言葉が
間違った表現ではない、
ということが認められたということでしょうか。
ここからは、意味の無い、
もしもの話になりますが、
全ての日本人が
「的を得る」という言葉を、
誤用であると認識したとしたら、
「的を得る」という言葉の歴史がどうあれ、
「的を得る」は誤用ということになるのでしょうか。
元々、
正しい表現だったはずの言葉が、
後々、
誤用となってしまう、
そんなことも起こりうるのでしょうか。
「的を得る」が誤用かどうかは無しにしても、
「的を射る」という表現が
主流となることを阻止してしまうことが、
本当に正しい事なのでしょうか。
的は射るものだから「的を射る」が正しいという理屈、
確かに、
実際、分かりやすく覚えやすいものです。
ならば、
このまま分かりやすく覚えやすい言葉が
主流となることも、
日本語にとってはメリットとなるのではないかと、
そんな風に考えてしまうこともできるのです。
世の中は、
グローバル化が進み、
違う国の人間同士が、
同じ言語を用いて
会話をする機会が増えていく中で、
言語というものは、分かりやすく、
そして覚えやすいものになっていくべきではないか、
そんな考えも無いわけではありませんね。
とは言え、
長年、使ってきた言葉には
愛着が湧くものです。
そう簡単に割り切れるものではないですよね。
それが、
「的を得る」にせよ、
「的を射る」にせよ。
何にせよ「的を得る」は正しい言葉だったという事でした。
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