新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2024年03月08日
【考察】介護保険制度の狭間で…
「金の亡者」として(笑)夜勤に励んでいますが、今日の夜勤はいつもより疲れた。
今、利用者に一人だけ、ずっと落ち着かない人がいます。
数分おきに職員を呼ぶ、数分おきに大声を出す、意味不明なことを話すなど、周囲の利用者にも影響が出ています。
人いじり傾向が強いその言動から、私は所謂、認知症ではなく、精神疾患+もともとの性格だと考えて接しています。
夜間こそ、管理者に頼み込んで「ベンゾジアゼピン系抗不安薬」などを処方してもらい、眠っていますが、
日中や眠るまでの時間が大変で、職員の中にはノイローゼになっている人も…。
近い将来、退所の方向で考えていますが、介護保険制度の欠陥が解消されれば、この方の調整は容易です。
その欠陥とは、「介護医療院および介護老人保健施設では、薬剤の処方も利用料金に含まれる」ということです。
このことによって、管理者側はできるだけ処方薬を減らします。
処方薬が減れば減るほど、法人の持ち出しも減るからです。
どこの施設でも運営が厳しい昨今。
当然の対応だと納得するしかありません。
現状の法制度おいて、現実的に可能な解決策の選択支としては、介護老人福祉施設入所、認知症対応型共同生活介護(グループホーム)入所などになるかと思います。
介護老人福祉施設や認知症対応型共同生活介護では、本人の可処分所得が許し、施設や家族の送迎が可能であれば、病院にかかり放題です。
そして、処方薬の処方も容易です。
これらのことから、タイトルの介護保険制度の狭間で悩んでいる同業者は多いのではないでしょうか。
介護「医療」や介護老人「保健」と、医療に強い施設と思われがちなことも、関係者の悩みのタネかと思います。
特に私の勤務する地域では、残念ながら「在宅復帰」というカードは難しく、上記の二択で進めていこうと考えています。
本人や家族等の了承があれば、いったんは精神科への入院を挟んだ方が、引き取り先の施設の迷惑にならないのではないでしょうか。
などと、明けに寄った温泉施設の露天風呂で、雪見風呂をしながら考えていました。
今、利用者に一人だけ、ずっと落ち着かない人がいます。
数分おきに職員を呼ぶ、数分おきに大声を出す、意味不明なことを話すなど、周囲の利用者にも影響が出ています。
人いじり傾向が強いその言動から、私は所謂、認知症ではなく、精神疾患+もともとの性格だと考えて接しています。
夜間こそ、管理者に頼み込んで「ベンゾジアゼピン系抗不安薬」などを処方してもらい、眠っていますが、
日中や眠るまでの時間が大変で、職員の中にはノイローゼになっている人も…。
近い将来、退所の方向で考えていますが、介護保険制度の欠陥が解消されれば、この方の調整は容易です。
その欠陥とは、「介護医療院および介護老人保健施設では、薬剤の処方も利用料金に含まれる」ということです。
このことによって、管理者側はできるだけ処方薬を減らします。
処方薬が減れば減るほど、法人の持ち出しも減るからです。
どこの施設でも運営が厳しい昨今。
当然の対応だと納得するしかありません。
現状の法制度おいて、現実的に可能な解決策の選択支としては、介護老人福祉施設入所、認知症対応型共同生活介護(グループホーム)入所などになるかと思います。
介護老人福祉施設や認知症対応型共同生活介護では、本人の可処分所得が許し、施設や家族の送迎が可能であれば、病院にかかり放題です。
そして、処方薬の処方も容易です。
これらのことから、タイトルの介護保険制度の狭間で悩んでいる同業者は多いのではないでしょうか。
介護「医療」や介護老人「保健」と、医療に強い施設と思われがちなことも、関係者の悩みのタネかと思います。
特に私の勤務する地域では、残念ながら「在宅復帰」というカードは難しく、上記の二択で進めていこうと考えています。
本人や家族等の了承があれば、いったんは精神科への入院を挟んだ方が、引き取り先の施設の迷惑にならないのではないでしょうか。
などと、明けに寄った温泉施設の露天風呂で、雪見風呂をしながら考えていました。
【ごあいさつ】家族などを…
今日は私の家族歴や現在についてご紹介します。
相変わらず暇な内容ですが、よろしくお願いいたします。
私は2人きょうだいの長男。
婚活中の弟がいます。
妻と3人の子どもがおり、育児をしています。
母親は健在ですが、父親は昨年、悪性新生物で亡くなりました。
この時には医療機関と家族の連携をサポートし、父は介護保険申請をためらっていたので、無理やり(笑)環境を整え、自宅で過ごす時間をつくれました。
私が丁度、1つめの就労先にいた頃、祖母は亡くなりました。
私が「雑魚」過ぎて、オムツ交換くらいいや、何もできなかったを今でも後悔しています。
また、家庭では10年くらい、要介護4〜要介護5で推移していた祖父を、母親の副介護者として在宅介護しておりました。
祖父のことは旅行に連れていくこともでき、自宅で介護をすることができました。
特に海と温泉、富士山と温泉に連れて行ったのが印象に残っています。
もちろん入浴介助はしましたよ。
しかし、第2子が生まれた際、子どもの夜泣きと認知症の大声に参ったため、入所してもらい数年前に亡くなっています。
また、親族もどんどん高齢化しており、近しい親族の相談にのっている毎日です。
最近では、子どもの幼稚園や学校つながりでの相談も増えてきました。
ヤングケアラーやダブルケアの問題を肌で感じています。
地域包括支援センター時代に吸収した、多世代・多問題への対応、培ったネットワークが活かされています。
【ごあいさつ】経歴などを…A
病院を辞めることを決断し、求人を探すことやや半年。
今のように便利な「転職エージェント」や「退職サービス」はまれな時代でした。
毎日のようにウェブサイトを検索し、毎週のようにハローワークへ通う日々。
そんな中、大学時代にその設立に少しだけ関わっていた、介護老人福祉施設(50床)の生活相談員の職を見つけました。
「ラッキー」ということで、飛びついたのは言うまでもありません。
そこでは、特別養護老人ホーム本体だけでなく、短期入所や通所介護も任され、当時はかなり活躍している気分(笑)で働いていました。
納涼祭の実行委員長としてイベントを取りしきり、別の機会には利用者の外出、レクリエーションなどの手伝いも行い充実した日々でした。
周囲から「できる」と思われていた生活相談員がいたため、出世とは無縁でしたが、行政の役なども任されて楽しかった時期です。
夜勤をやっていた頃よりは月給が下がりましたが、ワークライフバランスや責任の重さなど、ある意味この時が一番、良かったように思います。
しかし、入職してから数年後、介護職員の退職が相次ぎ、介護職員兼生活相談員の辞令が…。
その後は地獄の日々でした。
とあるユニットへ配属されて、毎日の入浴介助を行い、いつの間にか短期入所は閉鎖。
ますます生活相談員の仕事がなくなり、より介護職員としての比重が重くなりました。
今思うと、上の方々からは介護職員と思われていたのかもしれません。
そんな中、施設長、事務長、介護支援専門員から、「夜勤をやりなさい。ここに来る前はやってたんだから」と言われてしまいます。
当時のライフステージ(スタイル)では、夜勤ができなかった私には承服できないものでした。
ある意味死刑宣告です。
家族と施設の間に挟まれ、悩んでいた時期。
タイミング良く、行政の役をしていた時に知り合った、外部の介護支援専門員さんからお声かけがありました。
「うちの法人の相談員に空きが出るからおいで」と言ってくださり、そちらにお世話になることにしました。
そして、地域型の地域包括支援センターへ何の予備知識もないまま(笑)、配属になったのです。
温室のような特別養護老人ホームに長年、勤めていた「ただの」社会福祉士にとっては、かなりシビアな現場でした。
その後は、一念発起しスポンジが水を吸収するかように、様々なことを教わり、様々な知識や社会福祉援助技術を習得できました。
高齢者虐待や権利擁護、書類作成など目まぐるしく働いていましたが、忙しく大変だったけど、仕事は充実していました。
この頃には前職より基本給も上がり、ワークライフバランスなんて関係ない仕事でしたが、夜勤をしていた頃よりも生活は楽になりました。
数年後、行政の役をやっていた頃のつてで、現在の職場からお話を頂き、とある医療法人の介護医療院でタイトルのとおり様々な仕事を任されています。
相談員としてのアセスメント、待機調査、契約締結、その他書類作成、介護職員として入所者への処遇(夜勤も!)、介護支援専門員のゴーストライター(笑)などを毎日やっています。
今年度の介護支援専門員実務研修受講試験で合格したため、ゴーストライターの称号はそろそろ返上しますが、専従というわけにはいかないような気がします。
ただ、私は長く働こうと考えていること、加算や手当などから、現在の給与はお察しください。
ぶっちゃけ病院勤務の時から、総支給額は倍近くになりました。
「時の流れに身をまかせ」が似合う転職劇ですが、こんな「おじさん」がブログを書いていきます。
これまでの転職はタイミングが良かったこと、人とのつながりがあったことが奏功してきました。
今の仕事に飽きたら、「転職エージェント」なども検討したいです。
読者の皆さんには、各法人で得た知識やノウハウもお伝えできればと考えています。
どうそよろしくお願いいたします。
【ごあいさつ】経歴などを…@
今日はこのブログをどんな人間が書いているのか、そのことをお伝えします。
私の概要として、ようは福祉関係の仕事が長い、ただの「おっさん」です。
私は某地方の福祉大学を卒業しています。
学生の間は、遊びやバイト三昧で、卒業と同時に取得できるはずの「社会福祉士」に落ちました。
サークルを立ち上げ、様々なイベントを行っていました。
資金が潤沢なときには「散歩」と称して、近県の温泉へふらっと泊りにいくなど、かなり自由な時代を過ごしました。
バイトは、大手のコンビニエンスストアでの夜勤や、地元の寿司店、作業服大手のあの会社、深夜の床清掃などでやっていました。
バイト台が底を付くと、友人宅に転がり込んだり、車中泊をするなど「住所不定」な毎日でした。
卒業後、「1年後には支援相談員だ」と騙されて(笑)、地域では老舗の介護老人保健施設(認知症棟60名・一般棟40名)へ「介護職員」として就職しました。
今思うと、諸先輩方のやたらにスパルタな指導から、介護技術の基本や認知症への対応の基礎を習得したんだななんて考えてしまいます。
数年、介護職員を続けた後、トラブルに巻き込まれて施設の「洗濯係」を命じられ、「やってらんねえよ」とのことで退職しました。
その後は、地域の定点病院(当時100床以上)にある急性期や療養病棟で、「看護助手」として働きました。
そこでも数年間、夜勤も含む勤務をこなしていました。
医療機関ということで、気軽にタバコを吸えないのが最も辛いことでした(笑)が、ここでは医療的な知識だけでなく、介護技術も向上したように振り返ります。
多くの病棟では介護老人福祉施設(所謂、特別養護老人ホーム)や介護老人保健施設などと異なり、「オムツ代」や「おしりふき」、「ティッシュ」などは患者もちです。
そのため、少しでも「無駄に使わないようにしよう」と考え、自分の介護を毎日のように工夫していました。
家族からは「使いすぎ」などと罵られることも多く、良い経験になったと思います。
二次救急の指定病院でもあったことから、緊急時の対応なども習得できました。
感染症の対策についても、委員をやらされたこともあり、基本だけでなくその上を学び、新型コロナウイルスが蔓延っていた時期にも助けられました。
しかし、ここでも(笑)、同僚からのいじめというトラブルに見舞われ、退職に追い込まれました。
やたらと強い女性の准看護師で、今では街で会えば談笑しますが、当時は相当、苦しめられた記憶があります。
この病院は夜勤手当が10,000円/1晩と比較的、高価で前職から収入アップできた私にとっては断腸の思いでした。
不幸中の幸いは、病院勤務の間に「社会福祉士」に「3度目の正直」で合格できました。
次回へ続きます。
私の概要として、ようは福祉関係の仕事が長い、ただの「おっさん」です。
私は某地方の福祉大学を卒業しています。
学生の間は、遊びやバイト三昧で、卒業と同時に取得できるはずの「社会福祉士」に落ちました。
サークルを立ち上げ、様々なイベントを行っていました。
資金が潤沢なときには「散歩」と称して、近県の温泉へふらっと泊りにいくなど、かなり自由な時代を過ごしました。
バイトは、大手のコンビニエンスストアでの夜勤や、地元の寿司店、作業服大手のあの会社、深夜の床清掃などでやっていました。
バイト台が底を付くと、友人宅に転がり込んだり、車中泊をするなど「住所不定」な毎日でした。
卒業後、「1年後には支援相談員だ」と騙されて(笑)、地域では老舗の介護老人保健施設(認知症棟60名・一般棟40名)へ「介護職員」として就職しました。
今思うと、諸先輩方のやたらにスパルタな指導から、介護技術の基本や認知症への対応の基礎を習得したんだななんて考えてしまいます。
数年、介護職員を続けた後、トラブルに巻き込まれて施設の「洗濯係」を命じられ、「やってらんねえよ」とのことで退職しました。
その後は、地域の定点病院(当時100床以上)にある急性期や療養病棟で、「看護助手」として働きました。
そこでも数年間、夜勤も含む勤務をこなしていました。
医療機関ということで、気軽にタバコを吸えないのが最も辛いことでした(笑)が、ここでは医療的な知識だけでなく、介護技術も向上したように振り返ります。
多くの病棟では介護老人福祉施設(所謂、特別養護老人ホーム)や介護老人保健施設などと異なり、「オムツ代」や「おしりふき」、「ティッシュ」などは患者もちです。
そのため、少しでも「無駄に使わないようにしよう」と考え、自分の介護を毎日のように工夫していました。
家族からは「使いすぎ」などと罵られることも多く、良い経験になったと思います。
二次救急の指定病院でもあったことから、緊急時の対応なども習得できました。
感染症の対策についても、委員をやらされたこともあり、基本だけでなくその上を学び、新型コロナウイルスが蔓延っていた時期にも助けられました。
しかし、ここでも(笑)、同僚からのいじめというトラブルに見舞われ、退職に追い込まれました。
やたらと強い女性の准看護師で、今では街で会えば談笑しますが、当時は相当、苦しめられた記憶があります。
この病院は夜勤手当が10,000円/1晩と比較的、高価で前職から収入アップできた私にとっては断腸の思いでした。
不幸中の幸いは、病院勤務の間に「社会福祉士」に「3度目の正直」で合格できました。
次回へ続きます。