飾りのない「質実剛健」的な描写でした
最近、知りましたが肥後の刀工だったんですね
そして…
玉名の博物館で4振?6月末まで展示されているそうです。
5月20日から展示されていたんですね
6月末までなのに6/22〜6/25まで臨時休館…
どぎゃんなっとるとですかぁ…
同田貫(どうたぬき)は九州肥後国菊池の同田貫(地名)を本拠地に、永禄頃から活躍した
肥後刀工の一群。 延寿派の末流とされる。
銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切り、また個銘(刀工の名)もある。
中では加藤清正から一字を授かったという切銘の正国(九州肥後同田貫藤原正国、または上野介)が
一番しられ、もともと同田貫は清正の抱えであった、とも伝えられる。
装飾を全くと言っていいほど加えない、あまりにも質素な造りをしているが故に作柄の出来、見処
(鑑賞価値)に乏しい作刀が多いことから、著名(後述)で高価なわりに現代の刀剣界において評価の
低い刀工群であり、いわゆる剛刀と呼ばれる類の刀である。
明治19年(1886年)11月10日、東京府麹町区紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸に明治天皇の行幸があり、
弓術、鉢試し、席画、能楽、狂言が催された。 その中の鉢試しを後に「天覧兜割り」と言う。
その「天覧兜割り」で榊原鍵吉(直心影流)が日本刀の同田貫で鉢試しをした。
榊原は同田貫を用いて明珍作の十二間筋の兜を切り口3寸5分、深さ5分斬り込みを入れた。
天覧兜割りは、榊原の剣豪としての名声を高めた。そして、同田貫の強度を物語る逸話として知られる。
「胴田貫」の由来は、田んぼに死体を横たえて胴を切ると、胴を貫(ぬ)けて下の田んぼまで切り裂いて
いくところから」というのは時代小説や時代劇が創作したフィクションであり、「胴田貫」と称する刀工は、
いかなる刀剣入門書、販売書、解説書、専門書、研究書にも名が載らない。
【このカテゴリーの最新記事】