2011年04月11日
「がんばろう日本」ではなく
僕は、「がんばろう、一人ひとり」と言いたい。
つらいのは、日本でなく、被災者・遺族の一人ひとり。
助けが必要なのは、日本でなく、被災者・遺族の一人ひとり。
立ち直るのは、日本でなく、一人ひとり。
日本に限らず、どこの社会も、結局は一人ひとりの集まりで、
一人ひとりが違う考えを持ち、違う状況に置かれ、違う要望を持っている。
一人ひとりと、ほかの一人ひとりが出会い、支えあっている。
だけど、なぜか、日本というか世間というか、得体の知れない集団に、一人ひとりが置き換えられてしまう。
一人ひとりに配慮することは何とかできるけど、得体の知れない世間に配慮しようとすると、どうしても引っ込み思案になるし、それはただの同調圧力になって、何のための配慮だかもわからなくなって、一人ひとりのためにならなくなってしまう。
それに、世間は想像の産物だから、想像からはみ出てしまう人は配慮の対象外になってしまうし。
そりゃあ現実には、日本全部の一人ひとりと向き合うのは無理だから、
集団として捉えることも必要だけど、
「一人ひとり」を出発点として、考え、行動したいと思う。
つらいのは、日本でなく、被災者・遺族の一人ひとり。
助けが必要なのは、日本でなく、被災者・遺族の一人ひとり。
立ち直るのは、日本でなく、一人ひとり。
日本に限らず、どこの社会も、結局は一人ひとりの集まりで、
一人ひとりが違う考えを持ち、違う状況に置かれ、違う要望を持っている。
一人ひとりと、ほかの一人ひとりが出会い、支えあっている。
だけど、なぜか、日本というか世間というか、得体の知れない集団に、一人ひとりが置き換えられてしまう。
一人ひとりに配慮することは何とかできるけど、得体の知れない世間に配慮しようとすると、どうしても引っ込み思案になるし、それはただの同調圧力になって、何のための配慮だかもわからなくなって、一人ひとりのためにならなくなってしまう。
それに、世間は想像の産物だから、想像からはみ出てしまう人は配慮の対象外になってしまうし。
そりゃあ現実には、日本全部の一人ひとりと向き合うのは無理だから、
集団として捉えることも必要だけど、
「一人ひとり」を出発点として、考え、行動したいと思う。