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2021年01月31日

青春の恋

 友人の友人で、学校に通っている内、自己紹介などしなくても何となく知り合いになっていたのが前川さんだ。前にも書いたが、前川さんはテニス部に所属しており、明るく勝ち気で、割り合い物事に積極的な生徒だった。

 織戸さんにフラれ、バスケ部も辞め、赤面症にもなり、勉強もやる気がしなかった俺に、学校で一番刺激になっていたのは、女子の存在だった。高校生だから、俺も十代だが周りにいる同級生達も皆十代である。女子もみんな、当然ピチピチのギャルである。
 窓際の様になっていた俺も、出席すれば必ずそんな女の子達を見る事になる。
 毎日にくすぶり続けていた俺は、何となく、その魅力に惹かれていた。

 2年生のある日、廊下を歩いていると、前から女の子が走って来た。前川さんである。何となく目をあげると、制服の上からもわかる、彼女のとてもふくよかなバストが目に入って来た。

 その時、胸の辺りがキュー、っとつまる様な気がした。そして、何とも言え無い甘酸っぱい衝動が、俺の身体を貫いた。若さ故のとても新鮮な感覚だった。

 その日を境に、俺は廊下で前川さんを見かけると、その視線を探る様になっていた。そして彼女も、少し微笑みながら俺と目を合わせてくる。廊下で俺が感じた衝動に、彼女も気付いていたのだ。そして、答えてくれている……

 俺達は廊下で会うたび、すれ違うたび、常に目を合わせた。確かめる様に視線を探りあった。そして微笑みあった。

 学校に通っていて、その時は気持ちがほぐれた。だが、俺の高校生活は相変わらず暗いものだった。勉強は全然わからなかったし、自分はダメな人間だ、と思い込んでいる節がどうしてもあり、俺はいつも、いつも、イライラしていた。学校は俺にとって、やはり苦痛でしかなかったのだ。

3年生のある日、俺は廊下を小走りに通っていた。前川さんが目に入って来た。こっちを見て、いつもの様に微笑んでいる。だが、俺は苛立ちから、「フンッ!!」とその視線をさけてしまい、走り去ってしまった。その時、自分でもマズイ!!と思った。でも苛立ちは、抑えようが無かった。

 翌日、前川さんは、頭の両サイドの髪の毛をめちゃめちゃに短く切って登校して来た。廊下で会った時、俺は彼女と目をあわせようとした。だが、彼女は一気に走り去ってしまった。

 その次の日だっただろうか?それとも次の次の日だっただろうか?俺は廊下で立っている前川さんを見つけた。彼女は俺に気付き、ゆっくりこちらを見た。憔悴しきった感じに思えた。
だが俺は、笑顔を見せる事なく、教室の内に入ってしまったのだ……

 今考えると、彼女は俺にはもったいない位、魅力的な女性だった。2年生の文化祭の時には、彼女のクラスの出し物である演劇で、ヒロイン迄、演じた事もあったのである。

 俺は後悔した。彼女を傷つけてしまった事も、彼女とちゃんと付き合おうとしなかった事も。しかし、全てはもう、過ぎてしまったのだ。

 今、このブログを書いていて、それでも俺は苦しい。自分が、どうしても許せない。この胸の傷は、たぶん一生癒やせまい。

前川さんの思い出は、俺の十字架である。

俺が、一生、背負って行くものである。













2021年01月27日

織戸さんと同窓会。

 織戸雅子さんは、俺が生まれて初めて、口頭で告白した女性である。
 俺は高校入学後、一番初めはバスケット部に入部した。その後で、マネージャーとして入部してきたのが、彼女である。

 何故バスケット部を辞めてしまったのか、それは、部員の同級生、Sに騙され、噓を通されたからである。
 Sにデタラメな指示を受け、試合があるから、と言われて行った場所がそうで無く、それでSの顔を見たくなくて辞めたのだ。そして、辞めて行く癖に、マネージャーの織戸さんに、ちゃっかり告白までしたのである。

 今考えると、もっと粘ってSを辞めさせる位、うまくなれば良かったんじゃ無いか?とか、色々思うのだが、とにかくあの頃、俺はなげやりになっていたのだ。世の中の全てが灰色に見えていた。とにかく、どうでもよかった。甘えてもいたと思う。

 織戸さんは「ゴメン」と言った。当然の返事だった。
 しかし、その頃から俺の遡行は、益々だらしなく、いい加減になって行く……

勉強では、同級生からどんどん離されていった。親も含めて、誰も何もしてくれなかった。

 検見川を中退して、1年程経った頃だろうか?我が家に同窓会のお知らせが届いた。実行委員に「永田君」「織戸さん」とあった。それを見て、申し込む事を決めた。

どうしてだったかは忘れてしまったが、申し込んで何日かしたら、織戸さんから電話があった。その時俺は、「美術部の男子で、出席する人間はいるか?」と聞いてみた。彼女は「知らない」と、繰り返し答えていた。

俺は同窓会に、金を払ったのに出席しなかった。











2021年01月24日

人生の、本当の後悔。

 前のブログで、俺はまるで「周り中、学校中が俺の敵でどうしようも無かったんです」と言わんばかりに書いてしまったが、実際はそんな事も無い。

 2年生の終わりに近付いたある日、同級生だった鎌田君が話しかけて来て、「会食をやるんで君も来ないか?」と誘って来た。そして、2年の時の同級生、男子ばかり、三瓶君、林君、大久保君、鎌田君、西君、の5人と俺とで、6人で、夜の町で食事をしたのだ。

 それは事実上、「俺を励ます会」だった。

食事は話しも弾み、楽しかった。あの時期、あんなに楽しい時間を、同級生達と過ごせるとは、正直、思いもよらなかった。

又、前にも書いた前川さんと奥村さんの二人と、同時に恋人の様になりかけたのも、この頃だった。
前川さんはテニス部に所属していて、とても健康的なスタイルの持主だったし、奥村さんはその頃美術部に入部してきて、やはり美しい生徒だった。

1年生、2年生、とずーっとビリが続き、2年生の時には、赤面症を発症していた俺は、周囲の人達の気持ちに、余り敏感に気付けていなかった。だが、馬鹿にしたり、笑ったりしていた一方で、

「コイツは、どうしてこんなに無為に、青春をやり過ごしているんだろう?」

と、同情している一面があったことは、確実に事実の様だ。
 先生方なども、多分中には「あんな生徒は退学にすべきだ!!」と、腹を立てていたかも知れないのに、それでも、可能な限り粘り強く付き合って下さっていた。

 俺の青春時代は、確かに失敗だった。だがそれは、現実の厳しさから目をそらし、逃げ続けた俺自身にも明らかに責任がある。
 俺は自分のこの若さが、永遠に続く様に思い込み、周囲の協力を得られかけていたのに、俺自身の人生を、愚かにも自分から投げ出してしまったのである。











2021年01月23日

ハンディキャップを持った二人。

 俺が検見川の美術部に所属していた時、美術部には、身体にハンディキャップのある生徒が、二人いた。左手にハンディのある隻腕の1年上の横山先輩と、足の発達が不十分で歩行にハンディのある、同級生の福西君である。

横山先輩は、福西君より辛そうだった。その事について福西君は「それは後天的にそうなったからかも知れないな。俺は生まれた時からそういうもんだ、と思ってるから。」と言っていた。

 横山先輩もそうだが、福西君もくさらずによく学校に通い続けたと思う。俺が彼らに関わったのは、検見川にいる間だけだったが、ただ、ただ、「頑張っているね。」と、そう言ってあげたい気がする。










2021年01月16日

それは彼女が欲しかったから。

 前回のブログで、俺は印象に残っている3人の女子の名前を挙げた。彼女ら3人は、魅力的だっただけで無く、俺といい雰囲気を割り合い共有出来たからだ。

だが、よくよく思い出してみると、コアなファン、と言うか、高校生の時、長く関わり続けた女子生徒の中には、俺がその気にさえなれば、肉体関係を結ぶ事もいとわずに、ついて来てくれたんじゃないか?と思う人達もいたのだ。

 事実、俺は1年生の時も、2年生の時も、文化祭の「ミスター検見川」のクラス代表に選ばれている。学年でビリの、俺がである。

 こんな事を書くと「自慢している」と思われてしまうかも知れないが、俺は、小学生の時は児童会長、中学生の時も生徒副会長を務めていた。中2の中間テストで成績が急上昇し、テストの順位がいっぺんに70番以上もあがり、学年で9位になった。
 当時、「検見川高校」どころか、千葉県下で最高の「県立千葉高校」にも進学出来るかも知れない、と噂されていたのである。

 だがその後、みるみる成績が落ち、「検見川高校」に引っ掛かる事になる。検見川と縁が切れる頃には、近所のおばさん達が「どうしてあんな子になっちゃったんだろうねぇ!」と苛立ちながら噂をしているのを耳にした事もある。

 「学校の模範」「優等生」そんな風に思われていた俺は、ほんの2、3年の内に、「スケベで女ったらしの不良」と言う、全く不名誉なレッテルを貼られる事になってしまう……。

 ……どうしてそんな風になってしまったのだろう?色々考えたが、その答えとして一番有力なのがやはり「女子生徒への興味」である。
女の子と仲良くなりたい!彼女が欲しい!そう思えば思う程、周囲の大人達が、同級生達が、逆らうのである。

 今でもよく覚えている。中学の時の担任の女の先生が、「3年生が、君達2年生の女子にモーションをかけて来ている!」と朝の挨拶でそれが悪い事の様に、とても怒っていた事を。そんな事を言っているくせに、彼女自身は、妊娠をきっかけに何かの具合で手術をし、学校を長期休養する事になってしまう。

又、検見川の当時の生活指導の先生はとても厳しい人で、体罰などを生徒に容赦無く与えていた。彼が非常によく反応する事の一つが、女子を意識して髪型等を決めてくる、男子生徒への激しい叱責なのである。そして男子生徒も、俺が彼女を欲しがっている事等を感じ取ると、体育の柔道の時間等に、異常な程の敵意をにじませて来るのである。

 俺は自分が何故ここ迄苦しんでいるのか、よくわからなかった。毎日、学校に行くのが怖くなって来て、益々助けを求め、そして女に、欲望に逃げた。誰かが助けてくれると思っていた。だが、一部の女子生徒を除いて、みんな俺を軽蔑し、そして密かに馬鹿にして、喜んでいた……。

賢い女は、惚れた男をヤル気にさせる。
そうやって、自分も一緒に幸せになるのである。その時、女は手段を選ばない。それは女の持つ、知恵だったり、色気だったり、財力だったりする。
信仰を持ってからの俺と、恋に落ちそうになった女はそうだった。

Mさんは、中年になり、こんなに落ちぶれている俺をも虜にする、強力無比な女としての魅力を、今、俺に見せつけているのである。













俺の関わった女達。

 俺は、Mさんを慕っている。「Mさん」とは、2018年に人に紹介された女性であり、俺が個人的にもその能力を高く評価している女性である。しかし、彼女は俺を非常に嫌っており、それで名を伏せ、Mさん、と呼んでいる訳だ。

今は、俺は彼女に対する憧れだけで生きている様なものだが、青春時代にも、俺は女性に対して非常に興味があった。

検見川高校には、当時様々な魅力ある女性がいたが、俺の記憶に特に残っている女子生徒は、3人いる。

織戸さん、前川さん、奥村さん、この3人である。

この内、織戸さんにはハッキリ、フラレてしまったが、この織戸さんにもフラレた後のドラマが多少あり、それを活かしていれば付き合えたかも知れない、そんな風に、俺は散々後悔したものである。

 「後悔した」と書いた通り、俺は折角巡って来たチャンスを活かせなかった。良い雰囲気になりかけたのに、彼女達と仲良くなる事すら、十分に出来無かった。

本当に、俺の青春時代は、「完全に失敗だった」
、と言えるだろう。

20代も、女友達は出来た。ハッキリ「付き合ってみないか?」と言われた事もある。だが、俺は断わってしまった。
理由は、「タイプじゃ無いから」である。

 真面目と言うか、頑固と言うか、自分でも、そんなに頑なに考える事も、無かったんじゃ無いか?とは思うのだが、俺はひたすら恋人が現れるのを、修行僧の様に我慢しながら待ち続け、とうとう我慢が出来無くなって、30歳の時に、栄町のソープランドに行く事になる。

10回前後通っただろうか?金を払って女を買っても、あんまり面白く無いんで、パッタリ、行かなくなってしまった。

本当の出合いが巡って来るのは、本当に自分でも不思議なのだが、信仰を持ち始めてからだ。
 これを読んでいるアナタは、「そんなの、嘘だよー。」と、思うだろうか?だが、俺には、そうとしか思え無いのである。
 そしてその結果、自分の人生の最後の女性として、俺はMさんを好意の対象として決め、憧れているのである。

だから、今迄女性ときちんと付き合って来なかったのは、Mさんと出合う為だったのではないか、と俺は考えている。

そんな事が、人生に本当に起こるんだろうか?自分でも、とても、とても、不思議に思う。









2021年01月11日

文集。

高校2年の時、修学旅行があった。当時、投げやりな生活を送っていた俺は、何のときめきも無く、ただ流れに任せて参加した。

旅行から帰った後、旅行の感想文を書いて提出してくれ、と頼まれた。参加した全員が、少しづつ文章を提出し、文集を作ろうと言うのだ。
それが、俺にも頼まれる事になった。

当時、俺は不満だった。学校に来ている生徒全てに、と言うより、人生その物に劣等感を感じていた。
自分がバカにされ、ダメな人間だ、と決めつけられているのも、何となくわかっていた。
 先生方がいくら補習をしてフォローしてくれても、自分でも、自分はダメな人間だ、とおもわざるを得なかった。
 
 だからこの文集の話が来た時、自分の不満を、ありったけの見栄を込めて、ぶちまけてやろう、と思った。そして皆が、友人達の事や楽しく食事をした思い出を語っている中で、こんな文章を書いて提出した。

「大仏と三十三間堂が心に残った。機械も無い時代にあの大きさと迫力である。当時はあの前で大勢の僧侶達が念仏を唱えたのだろうか。どんな苦しみもたたきつぶしてしまうような、あの仏像たちの前で。
正直な事を言えば僕は恐ろしかったのである。その前に立つとのみこまれてしまいそうで、何世紀も前にあんなものを作り上げてしまう当時の人々の社会思想が、これ程までにも抑圧されて、作る衝動につき動かされた人間達の苦しく激しい情念がただ恐かったのだ。」

文章が集められ、文集が出来上がった後、俺自身にも周囲の反応は、少しだが確実にあった。

今迄、頭っから馬鹿にしていた奴が、「木村、俺お前の文章読んだよ。」と、割り合い好感を持って接してきたりした。
 しかし、運動部で成績も良く、女子からも人気のあった様な奴は、「かつのぶぅ、……あんまり偉そうな顔してると、許さねぇぞ。」と言ってきたり、チンピラみたいな不満な視線を、足を止めて向けてくる奴もいた。

しかし、俺にとって、一番以外だった事は、この文章により仏様の功徳が少し受けられたらしい、と言う事だ。
それは、京都出身の芸人、島田紳助氏が、「18から24、この間に何かやらんと、人間てもう駄目やね。」とテレビで言っているのを聞けた、と言う事に現れている、と俺は勝手に思っている。









2021年01月10日

久保君

今迄書いてきた様に、俺の高校生活が乱れていた理由の一つは、まず人間関係にあった。先生方も、それを気付いていて、色々気を使っていたのだが、先生方が特に気にしていた、三年の時の人間関係で、久保君程、問題になっていた人物は無かった。

久保君はいつもいつも、「こいつ、こんなにおかしな奴なんだぜ。」と言って、笑いの対象にし、その場を盛り上げようとする。そして盛り上ってないと、みんなが笑っていないと、とても不安になってきてしまう。だから益々ひとをバカにして、周りを笑わせ盛り上げようとする、と言う、割り合い、悪循環のある性格の持主だった。

「検見川の異端児」と呼ばれ、周囲に適応できず、いつも座を白けさせてさまう感じだった、当時の俺が、彼のえじきにならないはずが無かった。

久保君は、ニコニコ笑顔で話しかけて来るが、いつも、いつも、俺がちょっとでもおかしな所を見せると、クラス中に聞こえる様に、大声でそれを非難した。
そして、笑うのである。

だが、俺も負けてはいなかった。俺は俺で、「俺は優れている。」と、常に見栄をはった。そして思いついた答えを言葉にし、優越感に浸ろうとした。

それでも、俺にとって、基本学校生活は苦痛だった。楽しいと思える事は、何も無かった。久保君にバカにされ笑われるのも、辛かった。
 俺にとって、久保君と同じクラスになった事は不幸な事だったが、彼にとっても、俺と同じクラスになった事は、不幸な事だった様だ。

ある時久保君は、我慢出来無い、といった感じで、こう呟いた。

「……腹がたって、しょうがねぇや!」

今、考えると、言葉も無い。ただ、ただ、申し訳無かった、その一言である。

検見川高校を離れてからも、長い間、俺は久保君を内心、恨んでいた。彼のあの性格が、どうしても許せなかった。笑われた事が、悔しかった。

俺の姉は高校の時、小池さんと言う名前の男性と付き合っていたのだが、別れてしまった。結婚する気は無かったのか?とある時たずねると姉は、
「無かったね。」と答え、そして「小池と結婚すると、小池恵子になる。コイケケイコ、上から読んでも下から読んでも、コイケケイコ。」といった。

ハッ、と思い、俺は考えた。

「久保。」「ボク。」……、。

そして更に俺は思い出し始めた。中学生の時、所属していた陸上部で、久保と言う部員とケンカをし、彼が登校拒否に陥ってしまった事を。これはまさに、自業自得なのでは無いか?!
全ては、自分の罪が発端?
それとも、運命のイタズラか?


久保君、俺はアナタに迷惑をかけてしまった事を悔やんでいます。
申し訳ありませんでした。









2021年01月08日

パンクロックと、知子氏。

多分、人生で一番苦しかった高二の文化祭の時、俺は友人達がバンドでロックをやるから、聞きに来てくれ、と誘われた。それは80年代後半に、一部で非常に流行ったパンクロックのバンドだった。

いわゆるハードロックである。

気が弱く、腰が引け気味で学校生活を送っていた俺は、余り乗り気では無かった。

「あんなの、音楽じゃねぇよ。」

そんな風に言う同級生も、いた。
 パンクロックは、人のダークな気持ち、どちらかと言うと、汚い感情の爆発を表現している音楽である。「つまんねぇなぁ。」そう思いながら、見に行った。

 バンドは昼間に演奏したが、視聴覚室をカーテンを締め切って、真っ暗にし、演奏者だけにライトを当てて演奏した。

 初めは穏やかに始まった。だが、2曲目、ボーカルがドアから飛び出してきて、暴れるように歌いだした。そしてギターとベースが突然速弾きを始め、ドラムも取り憑かれたように、爆音を響かせ演奏が始まりだした。みんな、狂ったように演奏している。それに合わせ部屋にいた連中は、怒声をあげ、暴れるように音楽に乗り出した。

ダーティーなイメージ。不道徳な音楽。しかしそこにいた奴は、みんな夢中だった。
 高校生活の中で、海の底に沈んでいた様な俺の気持ちの、欲望の根源を荒々しく煽りたてる様な、その音楽は、逆に俺にとっては「どうしても生きろ!!」と強く訴えかけている様に思えた。
 俺は叫びたくなる様な衝動を抑えながら、目を見張って演奏を聞いていた。

そのバンドでベースを弾いていた、稲葉さんと、3年の時クラスが一緒になった。

彼女には、いい噂は無かった。複数の男子と付き合っている、成績が悪い、先生方から目をつけられている、等……。3年になっても気が引け気味で学校に通っていた俺は正直、「嫌だなぁ。」と思っていた。

しかし、俺は忘れていなかった。文化祭の時、あの魂を煽りたてられる様な演奏を聞いた事を。稲葉さんは嫌いだったが、ある時、俺は教室で他のクラスメイトが聞いているのも構わずにこう、口走ってしまった。

「……ぁあ、ああ、やりたいなぁ。俺、高校入ったら、絶対音楽やろう、って、思ってたのになァ…」

みんな、新鮮に驚いていた様だった。最低の落第生で、学校のお荷物みたいな俺が、青春の夢を語っているからだ!
稲葉さんも聞いていた様だった。

 その次のテストの時、稲葉さんの成績は、グンと上がった様だ。

「知子が勉強してるー、って言われた」

ちゃんとしなきゃ駄目だ!ちゃんとして欲しい!そんな自覚と、母性の様な感情が、彼女の中に芽生えたのだろう。

だが俺は、3年の2学期は、もう殆ど学校に足を向ける事は無かった。

この間、TBSのサワコの朝と言う番組に、原田知世が出ていた。「時をかける少女」が上映された頃、我々も、彼女と同世代だった。
大林宣彦監督は、「こんな育ちのいいお嬢さんが、芸能界で汚れていってはこまる。」と言ってたそうだ。50代なのに、今もとても若く見える。
俺は、
「知世と、知子。何か似てるなぁ。」
と、一人考えていた。











2021年01月07日

矢口さん。

俺は検見川高校で生徒会役員だった、矢口君と小西さんも、忘れる事が出来無い。

矢口君は生徒会の会長になり、小西さんも、生徒会の役員を頑張って務めていた。
この内、小西さんとは2年生の時、クラスが一緒になった。小西さんは、周りの生徒達がふざけたり、チャカしたりする時も、生徒会の活動の事を地味に皆に進め、自身もそうする様に努力していた様だ。

 部活に恋愛に、皆が青春を謳歌したい時期に、何故皆をまとめ、学校の地味な活動を進めるような、言ってみれば面倒な役をあえて買って出たのか、俺は少し不思議だった。

学校の行事の関係で、俺は小西さんと話しをする機会があった。そして、どうして生徒会の役員になったのか、聞いてみる事が出来た。すると、彼女はこう答えた。

「生活指導の先生とか、何人かの先生達に、囲まれてやるように言われたから、断われなくて……」

彼女は自分から役員に立候補した訳では無い。先生方に、殆ど無理矢理、やる様にいわれていたのだ。しかし先生達も、デタラメに選んでいるのでは無い。やれる、と判断した生徒を役員に選んでいた様なのだ。

 それ以来、俺は小西さんを、一目置いて見ていたが、小西さんは違った様だ。酷い赤面対人恐怖症に悩んでいた俺だったが、全然勉強をしようとせず、いつまでもだらしない俺を、彼女は非難の対象としていた。慣れ合う事も無かった。

生徒会長の矢口君もそうだった。俺は勝手に仲良くなった気分でいて、「よう、矢口!」なんて、気軽に話しかけてはいたが、彼は同情はしてくれても、決っして赦してはくれていなかった様である。
俺は、小西さんの話を聞いて以来、生徒会長を務める矢口君を、心の何処かで気に留めていた。
だから、彼が卒業アルバムで少し女子を意識していると思える写真を見た時、少なからず、違和感を覚えた。

俺を教会に誘ってくれた人は、平原さんと言う人だが、この人に誘われて俺が最初に行った教会は、船橋のプロテスタント系の教会であり、そこで初めて話しをした方が、矢口愛子さん、と言う方だった。彼女の旦那さんは会社で社長を務めており、俺に、うちの会社に来ないか?と迄言ってくれた。お二人とも、立派な方である。
 初めて教会に行った俺が、彼女の笑顔にどれ程癒され、勇気付けられたか、わからない位である。

 俺はそんな知り合いがいて、とても鼻が高く、矢口さんからは、今年も年賀はがきが届いている。

一生をかけて付き合って行こうと思う、大切な友人達なのです。









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