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2017年01月31日

イスラエル エラットそしてシナイ半島

ヤンとの別れ
エラットに到着、イスラエルの最後の街。紅海に面した小さなリゾートですがちゃんと空港もあります。飛行機の飛んでる下を自転車で走り街に入りました。
 
  ヨーロッパのリビエラ、コートダズ−ル、コスタブラバ、コスタブランカの様には垢抜けてませんが心ワクワクする明るい所。砂浜に沿ってホテルが有り、砂浜には淡水のシャワーも。砂漠地帯をずっとチャリンコ漕いで走って来た為か文明に戻った気分です。
 

 確か昼過ぎに着いてその日は休憩、4人で海辺のレストランで海鮮料理などを。海は最高に美しい、その後色々な海を見てますが紅海の美しさは違います。国境の向こう側もヨルダンが終わりサウジアラビアが始まります。

 夕方エジプト国境付近まで行き浜辺に寝床を確保。そして久振りの文明圏、私はムズムズして夜繰り出すしかありません。そうですみんなでバーにビールを飲みに行ったのです。

と言っても、みんな1週間位砂漠の自転車生活で酒は飲んでません。40度以上の気温の中毎日100キロ走行で身体は疲れてます。北のティべリアとかで5杯は軽く飲める大ジョッキーも2杯が限度、直ぐ眠くなりました。

でもバーには色々な国の旅人や冒険者、ジープで砂漠を走ってる人間など様々。
 
 我々は自転車にまたがり寝床へと。浜から少し奥に野宿したのでエジプト国境の有刺鉄線に沿って山側に自転車で上ります。真っ暗ですし、ほろ酔いで良く道も見えません。しかし夜の道を又全速で走っていた私は全力で自転車ごと有刺鉄線に突っ込みました。

勿論みんな心配して駆け寄って来ました。体半分エジプト側に入ってるのでエジプトの国境警備の人達も近づいて来ました。私は痛さでみんなに「お前等あっち行け、俺は大丈夫だ、ほっといてくれ。」と子供がスッ転んだ時みたいに叫んだのです。大きな笑いモンです。 

 翌日は国境越えてついにエジプトへ。イスラエルのネゲイブ砂漠もタフな砂漠ですが、気のせいかシナイ半島はもっとタフで完全鉱物世界。体に吹き付ける風は熱風、気温50度。砂漠の1本道両側は小高い丘、標識からヘブライ語は消えてアラブ語と英語。ジミーカーターの時代に彼が仲介でイスラエルが占領していた土地をエジプトに返したのでした。
 

シナイ半島に入る前にエラットで少しアラクやウオッカを買いました。それはシナイ半島では入手は困難な為、べドウイン達と物々交換が出来るからです。彼らは結構質の良いマリワナと交換してくれます。
 

もう時間は有りません、砂漠を走り抜けるだけです。べドウインの経営のヴィラにも泊まりました。そこにはべドウインと結婚してるのか、彼女なのか知りませんがドイツ人女がバーレストランを仕切っていて、かなり意地悪でした。

値段は1泊1エジプトポンド、かなり安めで久振り屋根の有る寝床。

ヴィラやレストランとか言っても日本の海の家をもっと小さくしてベニヤ板にワラの屋根の様な物で、床はやはり砂漠と同じく砂でその上に寝袋で寝ます。砂や砂利の上は結構寝心地はいい物です。
 
 シナイ半島に来てモーゼの十戒のシナイ山に登らぬのは勿体無い。時間が無いのでラファイエルがエジプト人の運転手と交渉して、バスの屋根にチャリを積み登山口まで。


自転車預けて荷物背負い歩きでシナイ山を頂上まで。そしてその日は山頂で野宿。勿論朝食のピタや牛乳を持って。山頂では気温はかなり下がり涼しく最高です。

下山は膝に負担の掛からぬ様にと。まだ長い道のりチャリ漕がなければなりません。預けておいたチャリに乗りシナイ半島最南端へ。
 

そこからヤンはルクソール、カイロ、アレキサンドリアなどに向かって1人旅、私達3人は又イスラエルの我が家キブツ・ゲシャーに引き返すのです。
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高校の直ぐ後日本脱出。ヨーロッパ中心に放浪10年。帰国後外国語(英語、フランス語)を仕事の会社設立。13年後再び北京へ気功修業。6年滞在。会社は今も原宿に存在。
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